――――2007年、8月。
蝉時雨が降りそそぎ、雲一つない青い空がどこまでも澄み渡る、そんな、あまりにも平和な夏の日。五条悟の、在りし日の一幕。
『いっくよー』
まだ呪術高専生徒であった家入硝子が、気の抜けた掛け声とともに右腕を掲げる。
その手に持つのは、先端部の出された何の変哲もないボールペン。特別な呪具でもなければ、何かしらの術式が込められているわけでもない。ただの筆記具だ。
横にいる夏油傑もこれまた一般的な、角の少し丸まった消しゴムを携えていた。
それら、二人が手にした文房具がほぼ同時に投擲される。
その先にいるのは、彼らの同期の五条悟。人に向けて投げているのにその速度はかなりのもので、ペンの方はご丁寧に先端を五条に向けている。
ボードの中心目掛けて飛ばされるダーツのような感覚で、そのペンは真っ直ぐに五条の顔面に突き刺さり――とはならず、文字通り目と鼻の先の距離で不自然に静止した。
――一方、夏油の投げた消しゴムはペンと異なり、五条の額にコツンとぶつかり、重力に従って落下する。
「うん、いけるね」
その落ちていく消しゴムを手でキャッチし、五条は満足げに頷く。
今しがた同期二人を付き合わせ、行っていた実験――己が術式「無下限呪術」による絶対不可侵、それが一段階レベルアップしたことを確信したためだ。
「げ、何今の」
「術式対象の自動選択か?」
術式効果によってペンと消しゴムともに止められると予想していた家入は、自身の持つ認識と噛み合わず、生じた無理解と不可解さに唇を曲げる。
一方、この時期既に特級術師に足を踏み入れていた夏油は、持ち前の呪術への洞察力ですぐに正答へと到達する。
「そ。今までマニュアルでやってたのをオートマにした。呪力の強弱だけじゃなく、質量・速度・形状からも物体の危険度を選別できる」
手に持った消しゴムをいじりながら、斜め上を見つめて頭の中の考えを整理し口に出す五条。彼の話す理論は、先の敗戦――現在の禪院真希と同様の呪力を持たぬ天与の暴君・伏黒甚爾の襲来の再発防止対策だ。
国を守護する結界の要である天元、その肉体のスペアとなる星漿体の少女、天内理子のボディーガードとして3日間の任務にあたっていた五条悟。
彼は四方八方から襲い来る刺客からの攻撃を通さぬため、「無下限呪術」によるニュートラルな防壁を72時間連続で発動させていた。
当時、五条はバリアの常時発動の術を会得しておらず、その維持には過剰な脳負担が発生していた。
故に安全と思われた高専結界に入ってから、休憩のため術式を解いてしまい、それによって結界を素通りできる甚爾の奇襲を許してしまったのだが――、
「これなら最小限のリソースで、無下限呪術を
前述の“術式対象の自動選択”。伏黒甚爾以来術式の練度をさらに向上したことで会得した、自身に迫る脅威の危険度を術式自身に選別させる術。
これにより脳の疲労が大幅に低減、それでも残る分は伏黒甚爾戦で覚醒した反転術式によってカバーする。
そうして確立した、絶対不可侵の常時発動――はっきり言おう。それは「無下限呪術」という術式が辿り着ける、ひとつの終着だ。
如何なる物理現象も、呪力も、術式も、この世に存在するあらゆる脅威を見定め、選り分け、届くより先に拒絶する。
世界と己の間に横たわる、永遠に等しい隔たり。それを常時、呼吸するように展開し続ける――こんなもの、一体あと何を足し、何を削り、何を変えれば成長したと言えるのか。
夏油達に披露した時点では毒物の選別などの課題も残っていたが、それさえ済んでしまえば五条悟は無敵だ。
故にその時から十年以上経ち、現代最強の術師として両面宿儺と死闘を繰り広げる今この瞬間に至るまで、この技術に変更された点は存在しない。
そう。変更された点は存在しない。日常的に術式を連続使用していることも、反転術式で脳の疲弊を回復するということも、一切変更されていない。
勿論それは呪力や毒性、対象の持つあらゆる危険度から脅威度を選別するという点も。
――すなわち、
五条悟は、変更していないのだ。
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「…………あれ?」
――その瞬間、五条悟は、自分が元居た場所とは全く異なる場所に存在していることに気づく。
その場には、先程まで存在していた筈の渋谷の街並みもなければ、崩壊した高層ビルも、砕けた道路も、焼け焦げた瓦礫もない。
そこは上下も左右も、遠近すらも判然としない。
ただ、白い――見渡す限り、どこまでも白い空間。
まるで生物や非生物、晴れ渡る青い空すらも不純物として世界から取り除かれたような空間。
文字通り、何もない――そんなことが起きる場所を、五条悟は知っている。
「……意識、か」
術師同士が戦っていると、稀に妙な現象が起こる。
相手の思考が、感情が、意識が、濁流のように自分に流れ込んでくる――あるいは、自分と相手の意識が「繋がる」とも表現できる現象。
五条は、それを呪力の性質による副作用だと考えている。
呪力とは人間の負の感情から生じる。故に術師同士が極限まで互いを意識し、呪力をぶつけあえば、その感情を媒介として両者に繋がりが生じることもあり得ない話ではない。
以前、呪術高専の転入生にして
だが、当時美胡は昏睡状態に陥っており、術師同士で戦うということなど出来ようはずもなかった。
それ故、試す価値のない仮説として、その時の五条は胸の内にしまっていたのだ。
今、自分が存在している白い空間は、この「繋がり現象」によるものであると五条悟は確信していた。
何故なら――、
「――呪言によって貴様の『無下限呪術』を解いた。そしてその瞬間、最大火力の『竃』を叩き込んだ」
この何もない白にもう一人存在する、四腕四眼の異形――両面宿儺が、五条に向けて淡々とそう告げているのだから。
「――――」
五条と宿儺。先程まで殺し合い、術式をぶつけ、肉体を破壊せんとしていた二人が、まるで戦いなど最初からなかったかのように向かい合う。
精神の結合により時間の流れの止まったこの空間では仕方のないことであると言えるが――不倶戴天の怨敵と戦いもせずに穏やかに話すこの状況、違和感を抱かぬ方がおかしい。
唇をひん曲げ、顔の筋肉という筋肉でしかめっ面を表現しながら、五条は宿儺に言葉を返した。
「……どうやって?」
首を捻りながら投げかけられた僅か五文字の疑問文、それは自分に致命傷を与えた「竃」なる呪術の正体についてではない。言うまでもなく己が絶対防御――「無下限呪術」をいかにして「呪言」で解いたか、その方法についてだ。
「僕の『無下限呪術』は脅威度の高い事象は全部弾く。それは呪いの乗った言葉だって例外じゃない」
術式も、呪力も、物理現象も、あまねく全てを選別し拒絶する絶対不可侵の術式。
である以上、宿儺が呪力を込めた言葉を操り、五条に呪いをかけようとしていたのなら、それは五条に届くことは無いはずである。
そのようなニュアンスを込めた五条の問い――それを受け、宿儺は口角を持ち上げる。
「――仕込みは、戦いが始まった瞬間から始まっていた」
「最初から?」
「当然だ」
質問に次ぐ質問をぶつける五条に対し、応対をする宿儺の声は妙に静かで平坦だ。
五条はその様子に、勝敗すらとうに手中に収めた王が、ただ事実だけを口にしているかのような温度を感じる。
「いくら貴様とはいえ、何の絡繰もなく術式を常時発動させているなどと思わん。脳への負担を減らすため、そこには必ず危険か安全かを選別する境界、あるいは閾値がある。――俺は、脅威度が低いものは『無下限呪術』を貫通するのではないかと考えた」
宿儺は四つ腕のうち一つを五条の眼前に差し出し、一本、二本、指折り数えながら自身の勝利条件を丁寧に解説する。
「故に、貴様との戦いが始まった直後から、俺はその境界へ呪言を叩き込み続けた」
「……なんて言葉を?」
「『閾値を下げろ』」
その言葉が発された瞬間、五条の眼が見開かれる。
現代最強の術師の混じり気のない驚愕の顔に何とも言えぬ小気味良さを感じ、意地の悪い宿儺の笑みがますます深まった。
「貴様が先程やったように――どれほど小声であろうと、言葉に呪いは乗せられる」
五条の脳裏に蘇る光景。
戦闘の最中、宿儺に悟られぬように極めて小さな声で呟いた「茈」の詠唱。
術式の威力の底上げのために僅かに唇を動かしていた自分――あれぞまさしく、呪いを込めた言葉に「声量」は関係ないということの証左。
であれば当然、呪いの言の葉の代表例である「呪言」でも同様のことが言える。
すなわち――、
「『呪言』がかけられたことに気づかず、いつの間にか術中に嵌っていることもあり得る。対象が聞こえぬほど小声で『呪言』を行使することでな」
「――――」
「俺があの戦いの最中、何をしていたか――『無下限呪術』を素通りする程度の弱い呪力を込め、『閾値を下げろ』の呪言を延々とかけ続けた。腹の口を使い、何度も、何度も、何度も、何度も――『術式を解け』の呪言が通るようになるまで」
閾値がどれほど下がったかまでは分からなかったから、最後の「術式を解け」が通るかは賭けだったがな、と、宿儺はそのような言葉で締めた。
つまるところ宿儺は、最初から五条を直接どうこうするつもりはなかった。
それよりもまず、もっと小さな干渉から始めたのだ。――いきなり術式を解けと命じるのではなく、術式が「危険だ」と判断する基準そのものを、少しずつ下げさせる。
気づかれないようにひたすら「呪言」を積み重ね――最終的に、本来なら絶対に弾かれるはずの呪言すら、無害なものとして通過させる。
「無論、細心の注意は払った。一度でも貴様の耳に明確に届けば、その瞬間終わりだからな。故に『閾値を下げろ』の呪言は、できる限り大きな音が生じた瞬間に紛れ込ませた」
例えば宿儺の「解」と五条の「赫」と「蒼」、二人の術式が激突して生まれる、空間を揺るがすほどの衝突音。
例えば宿儺が五条の手でコンクリートに叩きつけられた時の、瓦礫と爆発の発生で拡散する轟音。
戦場に音が溢れている瞬間を選び、宿儺は「呪言」を紛れ込ませていた。
「…………でも、僕の『六眼』は呪力を可視化する。呪いの乗った『呪言』なら、僕には色づいて見えたはずだ」
五条悟の人間離れした呪力効率、呪力精度。その絡繰は、己が有する「六眼」により、呪力を極めて明瞭に視認することにある。
呪力をサーモグラフィ画像の如く認識・解析することは効率の良い呪力運用に直結するのみならず、通常視認不可能な呪術を目に映すことすらも可能にしている。
「当然、織り込み済みだ。俺が「呪言」を行使する瞬間、一部は死角に入ることで誤魔化したが――どうしても正面で使わざるを得ない場合は、俺自身が呪力を撒き散らし、カモフラージュした」
「は……」
戦闘中、宿儺が放っていた膨大な呪力。
側にいる術師の呪力すら呑み込んでしまいかねないほど濃密なソレは、気配を隠す必要すらない宿儺の余裕の表れではない。
五条悟の視界を汚し、宿儺の本命――ごく僅かな呪力の込められた「呪言」を完全に覆うための煙幕だったのだ。
「…………そもそも、戦闘中に腹の口が動いているようには見えなかったけど?」
死角にいる時はともかく、正面戦闘の際にも使用していたにしては、腹の口に何かを喋る様子が無さ過ぎた。
仮に「呪言」を行使していたなら、宿儺の一挙手一投足を注視していた五条が気づかないはずが――、
「ああ、それは腹話術だ」
「……あ????」
「だから、腹話術だ。貴様を嵌めるため、この決闘までの一ヶ月で練習した」
表情を変えるでもなく平然と「呪言」を通すための秘策、そのあまりに予想外な最後のひと押しを述べる宿儺。
いや、確かにいかなる視点からも五条に「呪言」の使用を察知されることは許されないのは分かるが。それにしてもそんな、呪術の全く関わらない技術を必死で伸ばしていたなど。
「……呪いの王なんて言われる割に、やり口がせこいんだよなぁ。「無下限呪術」を解くためにコソコソ呪言使ったり、腹話術まで仕込んだり」
「だが、勝ったのは俺だ」
「――――」
一切揺るがぬ声で、迷いなく宿儺は断言する。
手段こそ姑息かもしれないが、宿儺の言葉は一部の隙もなく事実で、突き崩す余地のない真実だ。
その言葉を否定する野暮を五条は持ち合わせておらず、ただゆるゆると首を縦に振るしかできない。
「……あぁ、そうだな」
何よりも、結果が証明している。自分が気づけなかったことを。
これほど長い時間、これほど苛烈な戦いの中、宿儺が自分の術式の根幹を少しづつ侵食していることを。
「僕、間抜けだなぁ」
そうして、長々とした宿儺の解説を聞き終わった五条の唇から滑り落ちたのは、小さな小さな自嘲だった。
当然の言葉だ。「六眼」を持ち、「無下限呪術」を極め、現代最強と呼ばれた男が、塵芥も同然の「呪言」を見落としたせいで敗北に至ったのだから。
宿儺は二対の腕を組み、目を伏せた五条を静かに見つめる。
――そして、
「――否」
静かに言った。
「貴様は間抜けなどではない」
この白い空間に来て以来、意地の悪さか平坦さしか感じなかった宿儺の言葉に、初めて異なる感情が混じった。
嘲笑でも、侮蔑でも、まして憐憫でもないそれは――まさしく、純粋な、惜しみなき敬意だ。
「この俺にこれほどの綱渡りを強いた術師は、千年前から今に至るまで誰一人としていなかった」
領域勝負、肉弾戦、「呪言」、そして「竃」。
そのすべてを、わずかな誤差も許さず積み重ねなければ、勝利を掴むことなどあり得なかった。
「一手間違えれば、俺が死んでいた。貴様がいたからこそ、俺は最後まで考え、試し、勝利への道を探らねばならなかった」
白い空間に、ただ宿儺の声だけが響く。
それは、呪いの王と呼ばれた男が贈るが送るには、あまりにも真っ直ぐな賞賛で――、
「――天晴れだ、五条悟。生涯貴様を忘れることはないだろう」
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――戦いの果ての刹那に生じた精神の交錯が終焉を迎え、意識は現実に引き戻される。
「竃」の炎が雲を突き抜け、世界を焦がさんと荒れ狂い、それも消えた先に残るのは、その中心に存在していた両面宿儺当人と――、
「――まだ、息があるか」
「無下限呪術」を消され、己が呪力防御のみで「竃」を受ける羽目になった五条が、その息を辛うじて保っている姿に、宿儺は改めて関心する。
“閉じない領域”により粉塵化した物質の一斉着火による爆轟遷移、刹那の高温、衝撃波、減圧、超加圧――己が呪術の粋を極めた最終奥義ですら葬れなかった存在は、呪術全盛の平安の世ですら絶無であったというのに。
「だが――」
息があるとはいえ、それはもう虫の息、風前の灯だ。
全身を余すところなく火傷で覆われ、所々の皮膚に罅割れが生じて体液が漏出している。人間が死に至る火傷の面積、その閾値を大きく凌駕しているにもかかわらず
「――『沈め』」
宿儺は五条によって限界まで剥がされた魂を、裡に在るエリカの魂に「呪言」で干渉することで、改めて癒着し直す。
瞬間、再びその手に戻る呪力出力。戦いを経て雀の涙程度にまですり減っていた出力は、そのたった一言で大幅に戻ってしまっていた。
とはいえ、領域勝負で損傷した脳と、消費した呪力は戻らない。
先程までのような脳の
――それでも、目の前の五条悟を屠るには十分だ。
「“龍鱗” “反発” “番いの流星”――」
頽れた五条に向け紡がれる詠唱、それは己が「解」のそれだ。
本来なら威力の底上げすら必要なく首を飛ばせるだろう威力。けれど宿儺は五条に敬意を表し、今の最大の火力でもって五条の命脈を――、
「――おぉぉぉぉあぁぁぁぁーーーーっ!!!」
――瞬間、上空から飛来した虎杖悠仁の一撃が、致命の斬撃の顕現を阻んだ。
「無粋」
興が削がれたとでも言わんばかりに渋面を作り、宿儺が片腕で虎杖の拳を防ぐ。
途端、生じる眩暈――五条と同じ、魂の輪郭を打つ打撃だ。
その魂に響く一撃と、わずかに肉体から剥がれた魂に気を取られる間に、死に体の五条に近寄る影。
背の小さな少年と女装の男――瞬間移動の術式を持つ憂憂と、その補助役の星綺羅羅だ。
「悟ちゃんは!?」
「息はあります! 今すぐ治療班の元へ!!」
怒号のような声量で会話した直後、即座に二人は宿儺の眼前から消え失せる。
結局、五条にトドメを刺すことは出来なかった――が、まあいい。あれほどの負傷、ここから先の戦いに参加することは不可能だろう。
「小僧、貴様に何ができる」
打撃を受けた腕で虎杖の体を容易く弾き飛ばし、宿儺は忌々しい元器の少年を嘲弄する。
多少剥がれた魂は今「沈め」の呪言で元に戻した。虎杖の弱々しい拳で宿儺を剥がすなど不可能、無駄、無為の愚行でしかなく、それを証明するために宿儺は虎杖を一瞬で切り刻まんと手を伸ばし――、
「――やり直しだ」
――瞬間、日車寛見の領域が、宿儺と虎杖を巻き込みながら展開された。
宿儺の無下限突破の作戦は「脅威を弾くボーダーを呪言でひたすら下げる」でした。
呪言でどうやって五条を倒すか必死こいて考えましたが、皆さん分かったでしょうか。
もしよかったらコメントで教えてくれると嬉しいです。感想乞食なので。