この結婚を偽装と言うならそれでいい 作:七転@社会人ラブコメ
辺りが暗くなり始めた現在時刻は19時少し前。
肌にまとわりつく湿気が季節を主張している。端的に言って、暑い。
そんな不快指数マックスなビジネス街を汗ひとつかかずに踊るのは鳴宮ひな、今日もご機嫌な戦友だ。
「それで藍野くん、提案があるんだけれど」
「まるで今まで別の話をしてた感出すのやめてくれ、ついさっき偶然会ったばっかりだろ」
そう、家に帰ろうと会社のドアをくぐったところで彼女に捕まったのだ。
「捕獲〜!」とか言ってたし、俺は獲物か何かなのかもしれない。
「偶然?妻が夫に会うのは必然でしょうよ」
「おーっとその話はここまでだ。周り見てみろ、ここ会社の最寄り駅付近。俺お前夫婦じゃない。たまたまお互いが新婚なだけ。」
「突然カタコトになるのやめて、おもしろいから」
くつくつと喉を鳴らして彼女は笑う。
誰かの生命力を吸って輝くビルの光でさえ、彼女からすれば舞台上のスポットライトに変わるらしい。
「今度のコンペ、ほんとに自由形式らしいじゃない」
食堂で花巻と会ってから数日後、彼女の言っていた「コンペ」の意味が明らかとなった。
総務課から役員案件として撒かれたチャット、書かれていたのは突発的な企画コンペの開催案内だった。
メインテーマは我が社新製品のPR。予算、方法は問わないときた。
こういった案件は大体広報課か企画課が担うが、なんと今回はどの部署の職員でも参加できるとのこと。さらにグループでの応募も可と、中々に斬新なシステムだ。
「あれな〜企画課のみんなは気合入ってるだろうな、自分たちのテリトリーなわけだし」
彼らにもプライドがある。
ぽっと出の営業や総務の人間に、こと企画案のプレゼンという戦場では負けられないのだ。
それが自分以外の全社員を相手取ることになったとしても。
逆に俺たち事務方からすれば挑戦権を得たとも言える。
事務系の中にも企画課に配属を希望している社員が少なくないと聞く。花形だし、何より仕事の成果がダイレクトに感じられるしな。
そんな隠れ企画マンたちをあぶりだして、あわよくば次の人事異動で希望の部署に嵌めてやろうって寸法だろう。
「あなたはなにか出すの?」
彼女は一歩前に足を踏み出すと、こちらを振り返って言った。
鳴宮の言いたいことが今は手に取るようにわかる。言外に「帰ってこい」と。
「いーや、俺はいいかな。あれ中間決算期付近だろ」
「そうだけど……」
「お前はなにか出すのか?連戦連勝の女王様」
「誰が女王様よ人聞きの悪い」
「まぁでも事実だからなぁ」
鳴宮の勢いは止まることを知らない。
一人でいくつものプロジェクトを抱えながらも、日々新しい企画をどんどん作り上げていく。
実際、距離的にも業務的にも遠い経理課ですらその噂を聞くのだから、広報や営業といった比較的近い部署では大盛り上がりだろう。
「別に私は私のやりたい仕事をしてるだけ」
「みんながみんな、それをできるわけじゃないんだよ」
それが才能だとは微塵も思わないが。
話は終わりとばかりに、俺はエスカレーターへと足をかける。
「むぅ」
一段分の差を埋めるように、鳴宮はこちらに体を寄せた。
服の裾を掴まれて視線を向ければ、思った以上に近い顔。
長いまつ毛にぷるんと揺れる唇、真剣な眼差しに目が釘付けになる。
「近いな」
彼女を遠ざけることはしない。
慣れ……いや、これは諦めだな。
「歩み寄ってるの」
「夫婦だから?」
「んふ、よくわかってるじゃない」
終わりを迎えたエスカレーターから下りる。
俺と鳴宮の距離は変わらない。変わったのは、後ろにいた彼女が隣にいることだけ。
「じゃあ私の考えてることがわかる旦那様、返事を聞かせてもらえるかしら」
いつもこうだ。結局鳴宮のペースになる。
彼女の提案、つまり二人で一緒にコンペに出そうという誘いに乗るか否か。
返事なんてとっくに決まっていて。
不意に思う。鳴宮とほとんど顔を合わせないここ数年間なんて嘘だったんじゃないかって。
だって結婚してから日々の密度が違う。
「私、あなたのそういうところ、本当にいいと思うのよ。突然思い切った決断をあっさりしちゃうところとか」
俺の顔を見て彼女が嬉しそうに笑う。
表情で返事がわかるとか変態かよ。俺のこと好きすぎだろ……いや、好きじゃないんだろうけど。理由がないからな。
「しっかり悩んでるって」
「そうなの?この結婚だってすぐ決めてくれたじゃない」
「酔ってたからな」
逃げの返事をしてしまう。
鳴宮が困ってそうだったからとか、自分にも都合が良かったからとか、多分それが本当の理由じゃないんだろう。
心のどこかで絡まった糸みたいに渦巻いた気持ちが何かはわからなくて、というより直視したくなくて。
電車のドアが開くまで数秒。
「今はそういうことにしておきましょうか」
「助かるよ」
「なんてったって私は空気の読めるいい奥さんなので!」
胸を張った彼女に見惚れている暇もなく、電車がホームに滑り込んだ。
鉄の箱に身体をねじ込みながら思う。
ただでさえ忙しいのに、さらに仕事を増やすつもりか俺は。
「楽しみね、藍野くん。昔みたいで」
顔を見るだけで何を考えているかわかる鳴宮のことだ、きっとバレているんだろう。
企画課時代と同じように、彼女と二人で仕事ができることを、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ俺が楽しみにしていることが。
「ノーコメントで」
小さく呟いた言葉は、それでも彼女の耳に届いたらしい。
その証拠に、さっきまで服の裾を掴んでいた鳴宮の手が腕へと伸びていた。