白い新妻とその夫
結婚はハッピーエンドのゴールではない。
新たな生活、というレースに「ゲートイン」に過ぎない。
あらゆる困難やトラブルが待ち受けている。
タマモクロス自身、苦労して自分たち姉弟を
育てた両親を見ていればそれは痛いほどわかる。
幸いにして現在の生活は子供時代のような
貧困は無縁ではあるが。
──────が。
─ああ、今夜もあかんなあ。
─もう、ずっとずっと───
玄関の鍵が開く音がする。
「……おかえり」
「……ただいま。…寝てて良かったのに」
玄関のドアを、なるべく音を立てないように
静かに入ってきた夫はバツが悪そうに答えた。
時計は今、0時を過ぎた。
新入生が入るこの時期、トレーナーが
午前様になるのは珍しいことでもない。
飲み会ではない、仕事で、である。
それは彼女自身もレースを走っていた身ゆえ、
経験上そのことはわかってるので咎める気はない。
しかし、やはり心配ではある。
「そっちこそ、無理に帰って来なくてええのに」
「寂しいなあ。そんなことに言うなよぉ……。
……ああ、疲れたぁ……………」
そう言うと居間の椅子に崩れるように座った。
トレセン学園はトレーナー用のシャワー室もある。
そこで身ぎれいにしてトレーナー室で
椅子を並べて寝る、などということを
トレーナーたち、特に男性のトレーナーはよくやっている。
ひどいときは廊下で寝ていて─
─気絶に近い状況で─回収される者もいる。
幸いにして、彼女の夫が廊下で寝ていたことは今のところない。
「過労っ!!速やかに帰宅せよ!」
「自分のスケジュール管理や体調管理ができずして
ウマ娘の育成ができるはずないでしょう」
むしろ、トレセン学園の理事長や理事長代理側は
こういった労働状況を改善したいのである。
とはいえ、ウマ娘のこととなると
我をすっかり忘れるのがトレーナーという「生き物」だ。
「……樫本トレーナーだって人のこと言えませんよ。
無理してほしくないのに」
「………うっ」
「……私のトレーナーは…3日徹夜しても元気なの、なぜ…?」
「ミークのとこは化け物なんだよ…」
そんなやり取りが繰り返されるが
トレーナーの性をすぐにどうこうできるものではない。
無茶が黙認されている状況だ。
故に、学園側も仮眠室─ビジネスホテルくらいの個室
を用意することを真剣に検討し始めていたというが。
「トレーナー用シャワー室の拡充とトレーナー室に
簡易ベッドを配布したほうが現実的です」
樫本理事長代理のトレーナーとしての
経験を踏まえた意見が採用された。
どうせ仮眠室にも彼らは仕事を持ち込む。
だったらトレーナー室で寝られるようにした方が
効率はいいだろう。解決策になっているかどうかは別だが。
その他、夜食用の軽食の用意などもされたが
「これは無限に残業しやすくなってしまったのでは…?」
という状況である。
半ばトレセン学園に住んでるような状況の
トレーナーも現れ、学園上層部も頭を抱えている。
独身なら夫も住人と成り果てていただろうが
結婚後は夫は帰宅を心がけるようになっていた。
「ほら、とりあえず、風呂入ってさっぱりしてきいや。
ただでさえほっとくとアンタひげ濃くなるんやか、ら!」
中途半端に一部伸びた顎あたりの無精ひげを
容赦なく引き抜く。
「〜!!!!いってぇ…………!!」
「ドヤ街のおっさんみたくなっとるやんけ。
風呂冷めんうちに入ってき」
「あのね、これすごい痛いんだよ????」
「目ぇ覚めたやろ」
「ひどいよ、タマ……」
「ご飯の用意しといたるから」
涙目で顎のあたりをさすりながら、
夫は浴室にトボトボと向かっていった。
先に寝てていい、食事や風呂の支度もいらない、
そう夫に言われてはいる。
それでもやらずにいられないのだ。
なるべく胃に負担がかからないものにしようと、
うどんを用意していた。
彼女の故郷である関西風の金色の出汁である。
─あの人の地元なら味噌煮込みうどんやろか。
今度作り方調べてみよかなあ。
などと考えつつ、茹で上がったうどんを器に入れ、
温め直した出汁に沈め具材を乗せ終わったところで
夫が風呂から出てきた。
「ありがとう、いただきます」
「たんとお上がりやー」
そう言うと彼女は洗い場で調理に使った器具を洗い始める。
「せや、前も話したけど明日学園で例のメンツとな、
講師やんねん。講師っちゅーか、座談会ちゅうか。
時間合うなら昼一緒に食べへん?」
「…………………」
返事がない。
振り返ると一口か二口食べたところで夫はうとうとと
船をこいでいるではないか。
「食うてる途中で寝るて、子どもやあるまいし…。
ほら、寝るなら布団……あー、その前に歯は磨いてな」
「………·ん……ごめん…明日食べるから……」
半ば寝た状態で夫は答える。
「さすがにふやけてまうわ。これはうちの晩ごはんやなあ」
「………ごめんね………」
「手のかかるでっかい子どもやな、まったく」
立ち上がるのを手助けしつつその背をさすりながら
タマモクロスは苦笑した。
─────────────────
「〜っか〜!!惚気かい!」
学園のカフェテリアに威勢のいい江戸弁が響く。
生徒向けの座談会を大盛況に終えたあと、
「例のメンツ」ことイナリワン、オグリキャップ、
スーパークリークとともにタマモクロスは食事をとっていた。
夫には「女子会邪魔しちゃ悪い」と参加を遠慮された。
たしかにこのメンツで一人男性というのも気を使うだろう。
「白い稲妻が今じゃあすっかり白い新妻だな」
「誰がうまいこと言えと…。っって、惚気てるわけちゃうわ!!」イナリワンに押されつつもタマモクロスは反論する。
「心配なんや、あの人、丈夫な方ではあるけど」
「けどよ、トレーナーってそんなもんじゃあねえのかい?」
うちの坊だって、と言いかけてふとイナリワンは言葉を止める。
「……そうさなあ、当たり前と思っちゃいたが
引退してから見えてくることはあるわなあ」
トレーナーが自分を支えてくれているのは当たり前だった。
その当たり前の裏に彼らの苦労や努力があったことを、
彼女たちが知らなかったわけではない。
しかし、現役時代はレースのことに集中しており
客観的に状況を見る余裕はなかった。
「特に今は、おめえさんは一番近くでそれを見る立場に
なっちまったんだもんなあ」
「正直、こんなに苦労させてたんやなーって思うわ」
おそらく、彼が手がけた教え子のなかで最も
自分は手のかかった部類ではないか。
レース中の事故によるトラウマで
レース自体が恐怖となった時期も、
根気強くトレーナーは寄り添った。
─あのとき、見捨てられても仕方なかったのに。
その後、今度は食事を全く受け付けなくなってしまった
自分のためにまた彼は奔走した。
「…なんか思い出すとホンマ申し訳ないわ。
あの分の借りは返ししていかんとなあ」
「ダメですよ〜タマちゃん。それはトレーナーさんに失礼です」
紅茶のカップを静かに置くと、クリークがやんわりと否定する。
「………なんでや?」
「そりゃ、あの旦那とおめえさんはもう貸し借りなしだからよ」
イナリワンはそう言いながら
桜餅─タマモクロスからすると
餅ではなくクレープにしか見えないが─を
一口大にして口に運んだ。
気性と口調こそ荒いが、作法は上品だ。
「チャラっちゅーことか?」
「おうよ」
トレーナーとして、彼はタマモクロスを支え抜いた。
それに応えて彼女は勝利した。
「それであたしらとトレーナーの
貸し借りはチャラよぉ。なのに今更おめえさんが
そこをいつまでも借りに思ってちゃあよ。
嫁が自分に負い目持ってるなんて、
あの旦那も男が立たねえだろうがよ」
「……そっか」
そんならええけど、とため息をつく。
「しかし、あの人あんなにだらしない、ちゅーか、
弱っちいっちゅーか……寝起きも悪いし
しょっちゅうぼーっとしとるし…
……あんなやったかなあ?歳なんかな?」
タマモクロスと夫は歳は10以上離れている。
疲れてんのはわかるけど、あれで
独身のときどないしてたんやろ、と首をかしげる。
「…っか〜!!!!結局惚気じゃあねえか!!」
「どこがやねん!!!!」
「いいえ、惚気てますよ、タマちゃん」
スーパークリークがたおやかに微笑みながら
イナリワンの意見に同調する。
「そうだぞ、タマ」
今まで黙々と食事をしていたオグリキャップが口を開いた。
「オグリ…それ寸胴何個目や?」
オグリキャップの目の前には空の寸胴鍋。
「寸胴鍋3つ目だが」
「寸胴鍋単位でシチュー食うのおめえくらいだなあ…」
ようやく腹八分目、という顔で
オグリキャップがタマモクロスに問うた。
「私たちが現役のころ、トレーナーは私たちに
そんなところを一度でも見せてたか?」
タマモクロスと入れ替わりではあるが、
彼女もまた、一時期夫の教え子であった。
「……いや、ない、なあ」
いつだって背筋を伸ばし、笑顔を見せていた。
瞳は強い光を宿し、ウマ娘より
闘志をむき出しに見せることすらあった。
一方で疲れや泣き言といった弱い部分を
一度も見せたことは、なかった。
「あの旦那、今は家で甘えてんだろうよ、おめえさんによ」
「………そうなんかな」
「うむ、猫がおなかを見せてるようなものだな」
「その例えはどうなんでえ…。まあ、嫁として
どっしり構えて受け止めてやんなあ」
「……………嫁………嫁いうても……
あの人、うちのこと…」
ブツブツと、普段とは違う歯切れの悪いつぶやきを
タマモクロスは繰り返す。
家族として、彼がタマモクロスに弱いところを
見せてくれるようになったのはわかった。
──それだけや。
「お母ちゃーん」
「はあいママですよー」
突然聞こえた可愛らしい声にクリークが反応する。
「違う」「ちゃう」「違うな」
クリーク以外の三人がツッコミを入れた。
イナリワンによく似た、
白い羽飾りを右耳に着けた少女が駆け寄ってくる。
「しぐな!お父ちゃんはどうした?」
「いるよー」
しぐな、ことシグナスヒーローが指す先に
髪をきっちり整えたやや神経質そうな男性が立っていた。
「すみませんね、どうしても
お母さんたちのところに行くと聞かなくて」
檮原太郎。
イナリワンの元トレーナーである。
「お邪魔してすみません」
「とんでもないです〜」
クリークは微笑みながらもすでに
しぐなをロックオンしている。
「坊……こうなるから連れてくんなっつったろうよ」
低い声でイナリワンが自分の夫を詰める。
「申し訳ない……」
─子どもかあ。ええなあ。
スーパークリークほど露骨ではないが、
幼い弟妹の面倒を見てたきともあり、
タマモクロスも子供は好きだ。
───でも、うちは─
クリークと遊ぶしぐなの無邪気な声を聞きつつ、
檮原夫妻の仲睦まじい??姿を眺めていると
不意にタマモクロスの目から涙がこぼれた。
「どうした、タマ!?」
異変に気づいたオグリが席を立ち寄り添う。
「タマちゃん???」
「おう、なんでえどうしたってんでえ??」
「………なんもあらへん」
「なんでもないわけねえだろう、おめえさんが泣くなんざ」
泣き顔を隠すようにテーブルに突っ伏すが、
その肩は震え、か細く泣きじゃくる声が漏れる。
この様子は尋常ではない。
「ぼ…いや、太郎さん。ここは人の目があるからよ…」
「僕の部屋を使ってください。今は生徒はいませんので」
「恩に着る。………タマの旦那は呼べるかい?」
小さな声で、耳打ちする。
檮原はチラリと腕時計を見た。
「今日は………もうアンスイ始まってますね」
「アンスイ?」
「安全推進会議です。あの人は
校内警備責任者なので席は外せないかと」
「わかった」
──────────────
「それで、今は君のところに?」
「ええ」
「悪いね、うちのが」
会議を終えた直後、檮原に声をかけられ
事態を知らされるやいなや足早に彼は
妻のもとに向かった。
「どうしたんだ、一体…」
会議室から檮原のトレーナー室までは
大した距離ではないが、それすらももどかしかった。
「タマ!!」
部屋のドアを開けるやいなや妻に駆け寄る。
「………アンタ、どうしてここに?」
「檮原くん呼ばれて……どうしたの?何があったの?」
いつもはうるさいくらいしゃべる妻は
顔を赤くして俯くだけで何も言わない。
「………旦那のせいだろうがああああああ!!」
イナリワンが怒声を上げながら
今にも殴りかからん勢いで向かって来た。
「ええええええ!?俺のせい!?」
「イナリ、ちゃうねんて、うちが…」
タマモクロスはイナリと夫の間に割って入る。
「……うちがこんな……」
そういうとまた大粒の涙がその目から溢れる。
「旦那ぁ、アンタがここまで甲斐性なしたあ思わなかったぜ!」
イナリを抑えるクリークとオグリも
鬼の形相─由来はよくわからないが
シンデレラグレている、もしくは
シングレてるというらしい、
どす黒いオーラをまとった形相でこちらを睨んでる。
おまけにその奥にはさらに
彼にとってラスボスとも言うべき女性が
腕を組んで仁王立ちしていることに気づく。
「タマちゃんを、泣かせたんですか…?」
「………こみちゃん……帰ってたんだ……」
小宮山勝美である。
「………あの、タマ、俺、なんかしちゃった?」
心当たりは腐るほどある。
昨日だってせっかく作ってくれた
夕飯をほとんど手を付けなかった。
結婚したばかりだと言うのに
帰りは遅いし、ろくに話もできてなかった。
「ああ、色々やらかしてるね……ごめんね…」
ちゃうねん、と妻は小さな声で否定する。
「違うぞ、トレーナー」
オグリキャップが普段からは想像できないくらい
地を這うような低い声で言った。
「トレーナーが何もしてないからタマは泣いてるんだ」