「……あれ、今、タマの声がしなかった?」
トレーナーは酒精で重たくなった
頭を少しだけ上げる。
「…私には聞こえなかったが」
「気のせいか……」
そう言いつつまた突っ伏したデスクに
乱暴に2lペットボトルの水が置かれる。
「飲め」
「……ブライアン…頭に響くから
もう少し優しく置いて………」
「甘えるなトレーナー。二日酔いなど情けない」
酒屋の娘でもあるナリタブライアンは
酒癖について厳しいところがある。
ペットボトルから水を直飲みしつつ、
手元の書類に気だるげに目を通す。
「なんだそれは」
「…有事や災害の時の避難経路……
……へっくしょん!!!」
「花粉症か?」
彼は鼻をすすりながら首を振る。
「いや昨日の夜多摩川を遡上したもんだから
風邪かもなあ」
「川を遡上…?アンタは鮭か。鍛錬のつもりか」
「いや、酔いざまし」
「酔って泳ぐなどと愚の骨頂だぞ」
ブライアンは呆れ果てた。
当然だが危ないので決して真似をしてはいけない。
図面には詳細な学園の見取り図と
見慣れぬ通路が描かれている。
「これは?隠し通路か?」
「平時には解放してないからそうとも言えるね。
通常の出入口が使えなくても
学園の外に出られるようになってるんだ」
非常階段、非常口なども詳細に描かれていた。
「近いうちに確認のために
避難訓練したほうがいいかなあ」
「これもトレーナーの仕事なのか?」
「うーん、そういうわけでもないけど
俺は元々専門でやってたからねえ」
「ほう、アンタはただの戦闘民族だと思っていたぞ」
「それタマにも言われたな…
あのねブライアン、俺別に戦闘狂じゃないよ?
警備って腕っぷしだけじゃないし」
トレーナーは苦笑する。
「これは有事の際の避難誘導に関わる。
いかに迅速に、かつパニックを起こさせないか。
君たちが一旦パニックになって暴走すると
人間じゃ太刀打ちできないからね」
暴走してしまうと周囲の者はもちろん
ウマ娘自身も怪我をしてしまう。
「…タマもそれで怪我させちゃったし」
かつて模擬レース中に転倒事故に巻き込まれ
パニックになり暴走、やっと止めた時は
身体中傷と痣だらけになっていた。
その際に体だけでなく心にも
大きな傷を負ってしまったのだ。
─こいつ、先程から何かにつけて
タマモクロスの話題だな。
ナリタブライアンはそっと嘆息した。
「……タマモクロスなら今朝会ったぞ。
普段と変わらんように見え………
いや……違ったな」
「!?………ごほっ……タマ……
どうしちゃったの!?タマに何があったの!?」
水を飲みかけていたトレーナーは噎せた。
「髪をバッサリ、切っていた」
これくらいに、とブライアンは
肩のところに手を当てる。
本人はシャンプー代が安くつく、
などと笑ってはいたが。
「なんで!?失恋????誰に!?」
どの口が、と言いそうになったのを
飲み込むとブライアンは
そっぽを向きながら答えた。
「知るか、そもそも髪を切ったことと
失恋を結びつけるなど古い発想だぞ。
理由が知りたければ本人に聞いてこい」
「いやあ合わせる顔がないと言うか……
…でも謝るのも違うしねえ」
「それはそうだ。今回ばかりはアンタに非はない」
「いつもは俺が悪いみたいじゃない……」
『業務連絡
生徒会来賓対応の為
担当トレーナーは第一応接室へ』
駿川たづなのすました声で校内放送が入った。
「なんだ?妙な放送だな。来賓対応?
第一応接室だと?」
ブライアンもかつて生徒会に属していたが
そんな対応をしたことがない。
そもそも、第一応接室がどこかもわからない。
首を傾げていると、トレーナーが
ゆっくりと椅子から立ち上がった。
先程まで二日酔いでショボショボと
伏し目がちだった目が大きく見開かれている。
「……今の放送は符丁なんだよ。
デパートとかであるでしょ、
万引き犯や要注意人物が来た時
本人に分からないように従業員に伝える暗号。
色々あるから、あとで教えるね」
「…今のは、なんだったんだ?」
「『学園内に不審者侵入』」
トレーナーはペットボトルに
残った水を一気に飲み干し、鞭を手にすると
パシッと自分の頬を軽くはたいた。
その榛色の瞳に射抜くような光が宿る。
「ブライアンはここで待っていなさい」
「一人で行く気か?不審者1人や2人ごとき、
ウマ娘の力ならどうにでもなるだろう」
「力だけ、ならばね。でも君たちはどうしても
光や音に人より敏感で、かつ人より
パニックになりやすい特性がある。
君も自分の影に驚くことがあるように」
「……それは」
鞭をくるりと器用に回すと、肩に担ぐ。
「これは俺の仕事。俺の役目。
俺が出たらすぐこの部屋の施錠をするように。
誰が来ても開けなくていい」
現在のチームのメンバーならば部屋の
ロックキーの暗証番号を知っている。
「タマモクロスでもか?」
ブライアンは何故か、
やや意地悪を言ってみたくなった。
「もちろん」
トレーナーは躊躇うことなく即答する。
「この状況下ならば、
俺の最優先事項は君の安全だ」
「……ほう」
ナリタブライアンが
この男を評価する点は多々あるが、
中でも大きものが2つ、ある。
妥協しないこと。
情に厚い男ではあるが、
情に流されることがないこと。
「……あ、これ、預かっといて!」
扉から出ようとする刹那、
思い出したように振り返り、
何かをブライアンに投げてよこした。
「おっと。なんだ、一体」
ブライアンは簡単に受け止めたものの
手の中のそれを見て憮然とする。
「……おい、どういうつもりだ」
トレーナーバッジだ。
「あとで返して。
万が一、不審者がウマ娘だったら、
それあると手加減しちゃうからね」
トレーナーはいつも通り、左の口角を上げて笑う。
「ふっ……なるほどな。では、気をつけてな」
「うん、行ってくる」