「おい、早く逃げろ!!」
ケガさえしていないのなら彼女たちウマ娘は
クマより早く走れる。
「………あ……………」
だがブライアンの呼びかけも虚しく、
タマモクロスはそのまま地面に膝をついた。
完全に竦んでしまっている。
「チッ…」
─そういえば…。
トレーナーから聞いたことがある。
「俺がどうしても、
タマに過保護になってしまうのはね…」
タマモクロスはレース中の事故のトラウマで、
突発的に過度の緊張襲われると
竦んで動けなくなったり
錯乱状態になったりすることがあるからだという。
タマモクロスはその特性が顕著ではあるが
こういったトラウマによる事例は
他のウマ娘でもある。
「その強さと同じくらいの脆さがあるのが
君たちウマ娘なんだよ」
彼がサブトレーナーとなった
ナリタブライアンに最初に教えたことだった。
「く、来るなぁっ……」
タマモクロスは泣き声のような
悲鳴のような声を上げる。
転倒したうえに視界を狭まれ自分より
大きなものが立ちはだかる状況。
─あのときと一緒や、あのときと─
「………うわああああああああ!!!!」
「おい、そっちへ行くな!!そっちは……」
タマモクロスが立ち上がり駆け出したのを見て
ブライアンがホッとしたのもつかの間、
タマモが駆け出したのは更なる急斜面の方だった。
転げ落ちれば木や岩にぶつかってただでは済むまい。
ブライアンがタマモクロスのそばに
走り出そうとした刹那、斜面の下から
もうひとつの黒い影が弾丸の如き速度で
タマモクロスの元に向かっていくと
彼女が木に激突する前に受け止めた。
「…遅いぞトレーナー!!」
ブライアンはもうひとつの黒い影に
声をかけたあと、ふと思いなおす。
─いや、人としては速いのか。
「来るな、来るなぁ!!!」
「………っ……大丈夫。大丈夫だから。
タマ、落ち着いて……」
錯乱状態になり腕の中で尚も
もがくタマモクロスを宥める。
「…??…………トレー…ナー……??」
「……ああ…思い出しちゃったか……」
彼女の海色の目はあの事故の時と同じく
恐怖のため虚ろになっている。
「もう大丈夫だよ、タマ」
緊張の糸が切れたのか、限界に達したのか
タマモクロスはくたりと意識を失った。
「ああああああああ!!!!!」
夫婦のいる方にクマが突進してきた。
クマの声は人の叫び声にも近いと言うが
それは赤子の泣き声のようにも聞こえる。
「■■■■■■■─!!!■■■■■■■──!!!!」
それに応ずるようにトレーナーが咆哮する。
─どっちが獣かわからん。
ブライアンは双方の雄叫びを聞きながら
そんな感想を抱いた。
威嚇にひるんだクマの脇をトレーナーは
タマモクロスを抱えたまま
駆け抜け、ブライアンのいる地点まで登ってきた。
「……大丈夫か、トレーナー」
彼はタマモクロスを庇って、
背中から木にぶつかっている。
「鍛え方が違うさ。まあ痣程度だよ。
……それよりブライアン、タマを頼んだ」
ブライアンにタマモクロスの小さな体躯を預け
軽々と再び崖下に駆け下りていく。
「…やっぱりもうアイツがレース走ったほうが
いいんじゃないか?
ゴール前にアンタを立たせておけば
本気で走るだろうよ」
意識のない彼女に、ブライアンは軽口を叩いた。
─それにしてもアイツ、まさか
クマにとどめを刺しに行ったのか?
まだ、崖下にはクマがいるはずだ。
なにしろ、嫁を害する存在には
とことん容赦がない男である。
今度は牛の鳴き声のようなクマの咆哮が響く。
続いて赤ん坊のような声。
しばらくすると崖下の藪を分けて
クマが2頭、山の奥に走り去って行くのが見えた。
大きい方の1頭は先程襲い掛かってきた
クマだろうが、その後ろにもう1頭、
小さいクマが足を引きずりながら
ちょこちょことついて行った。
間を置かず、藪を僅かに騒がせながら
トレーナーはブライアンたちがいる場所に
飛ぶように再び戻ってきた。
「…あれは、親子か」
「多分ね。下にあった古井戸に
子グマが落ちてたんだ。
赤ん坊みたいな声したでしょ?
あれは親を呼ぶ子グマの声なんだよ」
すっかり自然に戻ってはいるが
昔はこの辺りにも民家があったようだ。
よくよく見れば獣道と化した道脇に
石垣や家の土台のような、人の営みの痕跡がある。
近くに子グマがいるために母グマは
あのように気が立っていたのだろう。
子グマが何日そうしていたかは不明だが
彼が地上に戻したときは
すでに随分と衰弱していた。
「…足の怪我もある。あの子グマは
もう生き延びられはしないだろう」
彼は力なく首を振った。
「…だが井戸の底で1頭で死んでいくよりはマシだ。
母グマとてそばにいられた方がよかろう」
ブライアンは親子が消えた森の方を見ながら言った。
母親に見守られながらあの子グマは
永久の眠りにつくのだろう。
「昨今のクマ被害を考えたら
本来ならば手を出すべきでは
なかったんだろうけどね。
……でも井戸を掘ったのは人間だ」
「そうだな、それに偶然とはいえ
あの親クマがタマモを受け止めてくれた」
「……そうなんだね」
彼はゴーグルを外した。
榛色の瞳がわずかに揺らめいている。
「…さて、嫁が正気に戻る前に
アンタもいなくなった方がいいぞ。
ついて来たら離婚と言われただろう?」
タマモクロスがあれだけ錯乱状態だったなら
なんとか夫がいたことも誤魔化せるだろう。
タマモクロスを抱えて下山するなど
ブライアンにとって造作もない。
「そうはいかないよ。ブライアン、
君だって怖かったんでしょう」
そう言われて初めて、ブライアンは
自分の脚が震えていることに気がついた。