「ふむ、30℃前後の温泉か。これは
じっくり浸かるのにいいな」
山道を散々走ったあとの湯は格別だった。
よい温泉を見つけた、と湯上がりに腰に手を当て
ブライアンはコーヒー牛乳を一気飲みすると、
満足気に微笑んだ。
あのブライアンが珍しくとてもにこやかである。
三人は本来の目的地であった温泉地に来ると
日帰りでも部屋の利用ができる
宿泊施設で休むことにしたのであるが─。
「よかったなトレーナー、
ここは打ち身にも良いらしいぞ」
「……それはありがたい……」
「タマモクロスもいい湯を教えてくれたな」
「……恐悦至極にございますぅ………」
(……どうしよう、ガチギレだよあれ……)
(……ブライアンてああいう風にキレるんや)
(うん……)
夫婦がこっそりと会話をしているのを
ブライアンの耳はきっちり拾っていた。
「何か言ったか?」
そう、三冠ウマ娘はブチギレていた。
「…さて」
美しい緑で彩られた窓の外の景色を
眺めていたブライアンは
ゆっくりと背後を振り返る。
落ち着いた和室の畳の上に
トレーナー夫妻が座布団も
敷かずに正座していた。
2人も一応湯上がりだというのに
なぜか冷え冷えな雰囲気だ。
彼女は人里に戻る道すがら
段々とこの夫婦に腹が立ってきていた。
山道を延々と走らされたのはともかく、
クマに襲撃されるところだったのである。
「まったく、今日はえらい目にあった。
なぜ私がこんなことに
巻き込まれねばならんのだ」
「いや、ウチは一人でも…」
タマモクロスとしては女子旅など
断ってくれてもよかったのである。
「……ほう、確かにな。私は断る権利はあった。
しかし誘った側の責任というものはないのか?」
「おっしゃる通りです……」
─理論詰めしてくるとこお姉ちゃんに似てるなあ。
などとトレーナーは密かに思う。
姉であるビワハヤヒデと違い
欲求と直感のみで行動しているように見えて
案外とブライアンも理論派であるのが
「同業者」となって分かった。
「ウチの不徳の致すところで…」
「ふん」
─あー、前から思ってたけどこの2人の声って
お米作り上手そうな声だよなぁ─
などと夫は現実逃避するも
ナリタブライアンの標的になれば
逃げ場などないのは彼が一番よく知っている。
「おい、タマモクロス」
「はいっ」
その低い声にタマモクロスは縮こまらせていた
背筋をピンと正した。
「なぜ旦那に黙って病院に行った?」
「心配させたくなかったし……
なんとかごまかして行こうかと……」
「ほう、心配かけられんほど
アンタは信用がないようだぞトレーナー」
「面目ない……」
「!…そういうことちゃうわ!!」
海色の視線がブライアンの金色の眼光を見返した。
「ではなぜ夫婦間の大事な話を
こいつに話さんのだ?貴様はいつもそうだ。
ズケズケ無神経に物を言うのかと思えば
肝心なことは一人で抱え込み、
そのクセそのせいで癇癪を起こしたり
体調不良になったり
飯が食えんようになったりなどしおって
周りに迷惑をかけているのが分からんか?
今日もいきなり突っ走って崖から落ちた上、
混乱して危うく大惨事になるところだったな?
貴様のストーカー……いや
トレーナーがいたからいいものの」
「ひぃっ……ごめんなさいぃ……」
─あれ、ブライアン今俺のこと
ストーカーって言った……?
多少引っかかるものがあったが夫は口にしなかった。
タマモクロスは耳がすっかり垂れてしまっている。
再び小さく縮こまってしまった
妻の背を撫でながら夫はフォローに入ることにした。
「……ブライアンもそんなに一杯
喋ることあるんだね……。
……あの、もうちょっとこうなんというか
手心というか……」
「トレーナー、アンタもアンタだ。
普段は嫁に胸焼けするような
愛情表現はするくせに嫁が一人
悩んでいることには気づいてやれんとは。
貴様本当に妻が大事なのか?」
「…大事に決まってるじゃないか」
「その大事な嫁が物事抱え込む悪癖があるのは
アンタが一番わかってるだろう。
それが一向に改善できずじまいなのもアンタだが」
「返す言葉もない……」
痛いところを突かれて夫は項垂れる。
「いや、今回はホンマにウチが悪かったんや…
2人とも、ごめんな……」
「いやいや、そもそも
俺がちゃんと気を使っていれば…」
「ふん、庇い合う気があるならまだマシか。
幸いと今日はこの部屋は当日でも素泊まりなら
泊まれるそうだ。泊まっていくといい」
「「はい???」」
夫婦が揃って素っ頓狂な声を上げた。
「…ま、待ってよブライアン、明日は仕事…」
「アンタらの仕事ぐらい片付けといてやる。
小宮山の方にも連絡をつけたら即了承していた」
「………手回し早いね………」
「二度と私をくだらんことに巻き込まんように
一晩じっくり話し合え、このバカ夫婦め」
ブライアンは自分の荷物を手に取って
部屋を出ていこうとする。
「いやいや、ブライアン、やっぱりさすがに……」
「巻き込まれて一番迷惑を被ったのは私だが????
その私からの発案受け入れられないのか???」
呼び止めたトレーナーをギロリと睨んだ。
「うう……」
「堪忍やでぇ……」
夫婦ともども、ぐうの音もでない。
「ふん、反省する気があるなら
大人しく一泊しろ。私は帰る。
部屋代は払っておいてやる」
「ちょっと待ってブライアン、
そこまでしてもらうのは……」
「これはアンタの嫁への誕生日プレゼントだ。
遅ればせながら祝ってやれ」
「……ええの?」
「返品は受け付けん。見送りはいらんぞ。
時間の無駄だ」
ああそれから、
とブライアンは部屋から出る間際
振り返らずにつけ足した。
「こんな揉め事なしでまた
女子旅をしようじゃないか、
タマモクロス」
「……おう!」
タマモクロスはやっと笑顔を見せた。
なんだかんだで、ナリタブライアンは
旅路はそれなりに楽しかったようである。