夜半に、目が覚めた。
まだ少し身体は熱い。
隣で眠る夫を起こさぬようにそっと褥を抜け、
部屋についている露天風呂に向かった。
あまり水音を立てぬよう慎重にかけ湯を済ます。
従来の低い温度の湯船と、
加温された方の湯船があるが
火照りを冷ますのに低温の湯船に浸かる。
「……ふう」
思わずため息が出るほど冷たさが心地よい。
見上げれば、澄んだ空気のおかげで
満天に星々がさざめいているのが見える。
「あ、ここからは見えないんやったな、あの星」
夫のチームの名称の由来となった星は、
北半球からは見えない。
『どこにも行かんといて。ここにいて』
─あの人がチーム持ったときも
似たようなお願いをしたことあったな。
元々、夫はチームを持たない
フリーのトレーナーであった。
チームでウマ娘を育成するのではなく
個別指導という形で育成するのである。
その手法自体珍しくはない。
だが彼の場合は一人のウマ娘を育成し、
見届けるとまた学園から姿を消すのだ。
数週間、悪いときは数カ月は
連絡が取れないときもあり、
やっと帰ってきたと思えば
全身ボロボロだったり
行き倒れ寸前で発見されたり
ということがざらであった。
あとから聞いたところによれば
URA絡みの「秘匿業務」によるものもあるので
守秘義務もあるために多くは語れないという。
だが大半はそれに乗じた放浪であった。
まるであのステイゴールドのような
流離人ぶりである。
「直に縁はないが『繋げる存在』はある」
ステイゴールドはお気に入りの
クマの根付を手の中で転がしながら
彼について謎めいた言葉を残している。
いつの間にか姿を消し
いつの間にか帰ってくる。
そんなことを繰り返して何度目か。
タマモクロスの天皇賞・秋の数週間前、
大一番の前というのに
小宮山にトレーナー代行を託し、
また彼は消えた。
本番が近づいたある雨の日、
ずぶ濡れで憔悴しきった彼が学園に戻って来た。
今回と同じく、いつもの黄色い上着ではなく
黒いURA空挺部隊の制服姿だった。
打ちひしがれ、項垂れる姿は
今にも消えてしまいそうに見えた。
夫には伝えてないが個人的には妻は夫が
あの制服を纏う姿を見るのは少し苦手である。
この日の姿を思い出して胸が少し痛むのだ。
「お願いだから、もうどこへも行かんといて」
タマモクロスはこの願いは
きっと聞き入れられないと思っていた。
『ええ加減ここに腰落ち着けたらどうなん?』
『そのうちね』
いつも、そうはぐらかされていた。
それでもまた、言わずにはおれなかったのだ。
「……もうずっと、ここにいてほしい」
「わかった」
拍子抜けするほどあっさりと、彼はそれを了承した。
「チームの開業届出してくるわ」
打ちひしがれた顔で足を引きずりながら、
そのまま手続きをしに行こうとする。
その背中を慌ててタマモクロスは支えた。
その身体は冷え切っていた。
「いや、さすがにそんな急がんでも。
今日はもうあったかくして休んだらどうや?
なんぼなんでも風邪引くわ。
ケガ、しとるんちゃうか?」
彼のふらつく足は、それでも歩みを止めない。
「何があったんや?」
「………なにも。
……何もなかった。俺は…」
彼は首を弱々しく振った。
彼がなにについて語っているのかは
タマモクロスには分からなかったが、
傷ついていることは伝わってくる。
彼女はそれ以上は何も聞かなかった。
「……うん、付き合うからゆっくり行こ。な?」
「……ありがとう、タマ」
榛色の瞳がやっと、タマモクロスを見た。
いつも明るくて誰とでもすぐ
打ち解けられる陽気な男が
実はとんでもなく深い孤独と絶望を
抱えていたのをタマモクロスが知るのは
もっとずっと後のことだ。
「お邪魔するよー」
からり、と部屋から浴室に繋がる引き戸が開き
その夫が顔をのぞかせた。
「邪魔するんやったら帰ってー」
タマモクロスはお決まりの軽口で返す。
「いないからびっくりしちゃったよ」
自分も入る、と静かにかけ湯をして
妻のいる湯船に浸かってきた。
「まさかここまで搾り取られるとはね…」
そう言うと夫はわざとらしく
湯船の縁にもたれかかる。
「し、搾り取るて……」
妻は先程までの自身の様子を思い出すと
羞恥心から湯船に顔を半分沈めた。
フケの対策としては投薬の他に
「直接的」な方法がある。
「いやあ、不調に陥ったということは
つまりいつも通りだと足りなかっ…」
「ひゃああああああ」
奇声を発しながらタマモクロスは
ばしゃばしゃと夫に湯をかける。
「こら、夜中なんだからうるさくしないの」
「うううううう……」
以前の仕事柄、夫は気配に敏感である。
隣りにいるはずの妻がいなくなれば
すぐに気がつくはずが、
ここまでタイムラグがあったのは
疲労困憊であったのだろう。
今宵の褥ではいつもとは
夫婦の形勢は逆転していた。
「ここは星がよく見えるねえ。
街灯が少ないからかな」
妻からの攻撃で肩から上も
すっかりずぶ濡れにされつつも、
瞳に星の輝きを映しながら
夜空を見上げ微笑む横顔に
あの雨の日の痛々しさの影はまったくない。
「…なあ、覚えとる?
チーム立ち上げたとき。アンタが雨の中、
ずぶ濡れでボロ雑巾みたいなって
帰って来た日のこと」
「…あったねえ、そんなこと」
あの日までは何度引き止めても
いつの間にかふらりといなくなっていた。
「どうしてあんとき、
どこにも行かんと決めてくれたんや?」