前向きな夜島学郎   作:あばなたらたやた

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一話:邂逅①

 

 屋上の古びた鉄製の扉に手をかけた瞬間、背筋に小さな違和感が這い上がった。風が冷たく頰を撫でる。

 

 お昼の空はまだ充分に青かったのに、学校の最上階だけが妙に重く淀んでいる気がした。

 

 まるでここだけ時間が少しずれているかのように。扉を押し開けたその刹那、黒い影のような幻妖が雪崩のように溢れ出してきた。無数の小さな体が蠢き、鋭い爪や牙が陽の光を鈍く反射させている。

 

 幻妖とは、人の世界に滞留する害意の具現だ。感情ゆえに普通の人には見えず、害意そのものだからこそ、人を傷つけることができる。

 

 空気が一瞬で腐り、鼻を突く異臭が肺の奥まで染み込んでくる。

 

「っ……」

 

 反射的に後ろへ飛び退きながら、俺は精神力を一気にエネルギーに転用した。目に見えない波動が爆発的に広がり、幻妖の群れをまとめて吹き飛ばす。

 

 影のような体が壁に激突し、悲鳴のような音を立てて消えていく。

 その瞬間、内側で何かが軋んだ。いつものことだ。肉体が、精神の暴走に耐えきれず、微かな悲鳴を上げている。

 

「すごい」

 

 幻妖の雪崩が完全に消え去った後、屋上の隅に一人の女性が静かに立っていた。

 黒髪が風に軽く揺れ、茶色の瞳が柔らかく俺を見つめている。

 

 整った顔立ちに、明るい笑みを浮かべた美人だった。白いブラウスとスカートという、まるで普通の人間のような服装。だが、俺にはわかる。

 彼女は幻妖だ。

 

「ごめんね。いつも見回りして、雑魚の幻妖は掃除しているんだけど……。怪我はない? 大丈夫?」

 

 彼女の声は優しく、どこかお姉さんらしい温かみがあった。俺は警戒を解かず、距離を保ったまま答えた。

 

「ええ、大丈夫です。貴方は……幻妖ですよね?」

「うん、その通り。私は鵺。六十年前からここにいるよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺の体は自然と戦闘態勢に入っていた。殺す用意を整える。心の中で殺意を研ぎ澄まし、目の前の女性を一瞬で消滅させるエネルギーを静かに充電していく。

 

 精神力が熱を帯び、いつでも爆発できる状態に整えた。彼女は敵の可能性が高い。排除すべき対象。

 

 俺の「正しさ」は、そう告げていた。だが、鵺は穏やかな表情のまま、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「良ければ話をしないかい? 部屋に入ってほしい。私は封印されているから、ここから出られないんだ」「怪しいですね」

「うん。ほかの人もここは見えない。君が最後の希望かもしれない。だからお願い」

 

 俺は頭の中で様々な可能性を瞬時に巡らせた。彼女が本当の敵か、罠か、それとも本当に助けを求めているのか。殺せる確信はある。だが、話を聞く価値はあるかもしれない。

 数秒の重い沈黙の後、俺は静かに頷いた。

 

「よろしくお願いします」

 

 鵺の顔に安堵の笑みが広がった。俺は彼女と共に屋上の小さな管理室のような部屋に入った。

 

 埃っぽい空気の中、古いソファと小さなテーブル。窓から差し込む陽が部屋を柔らかく、しかしどこか儚く照らしている。

 

 彼女は封印の影響で部屋の外に出られないらしい。俺は警戒を保ちつつ、テーブルに座った。

 

 彼女が簡単なカードゲームを取り出し、俺たちはそれをしながら会話を始めた。カードをめくる小さな音が、静かな部屋に響く。

 

「つまり貴方は幻妖のボスの一つであり、この学校に封印されている。だから雑魚を呼び寄せてしまう。みんなのために排除したいけど手が足りない。故に力を貸して欲しいということですか?」

 

 俺はカードを置きながら、彼女の言葉を整理して確認した。

 

「うん、その通りさ! 君の力が借りたい! 君は強いみたいだし!」

 

 鵺は明るく頷き、茶色の瞳を輝かせた。愉快なお姉さんらしい、軽やかな口調だ。

 

「わかりました。やります。具体的に何をすれば?」

「即決即断だね。何も聞かずに了承するのは無謀だよ?」

 

 彼女が少し驚いたように目を丸くする。俺は淡々と答えた。

 

「もし裏切れば即座に始末します。俺は貴方の力がなくても頑張って、幻妖を潰してきました。そもそも力の有無は関係なく、俺は誰かのために死力を尽くします」

 

 鵺はカードを手に持ったまま、じっと俺の顔を見つめた。明るい表情の奥に、わずかな真剣さが混じる。

 

「君は確かに素養はある。しかし最低限、ほぼゼロだ。だけど、幻妖を吹き飛ばした力。更に私を殺す為に充電しているエネルギー。そこまでの力を手にするのに、何をしたんだい?」

 

 俺は真っすぐ簡潔に言った。

 

「気合いと根性で幻妖を殺し尽くし、丁寧に丁寧に技術と精神と肉体を錬磨した結果です」

 

 鵺は一瞬、言葉を失った。絶句したまま俺を見つめ、ゆっくりと息を吐く。

 

「……ははっ。本当に? 気合いと根性か。それはなんとも」

 

 部屋に微かな笑い声が響いた。陽がさらに傾き、窓から差し込む光が彼女の黒髪を優しく照らす。

 

 俺は内心で警戒を緩めず、しかし彼女の言葉に少し興味を引かれていた。この出会いが、俺の戦いに新たな展開をもたらすのかもしれない。

 

 彼女は向かいの椅子に座り、黒髪を軽く耳にかける仕草をしながら、茶色の瞳を優しく細めている。柔らかい雰囲気がその表情から溢れていた。

 

「こちらとしても精神をエネルギーに転用するのは肉体の負荷が大きいので、代替可能な戦闘能力が手に入るのならばそれに越したことはありません」

 

 俺は淡々と、自分の戦い方の現実を口にした。言葉にしながら、改めて胸の奥で実感が湧いてくる。

 

 精神力を無理やりエネルギーに変換するたび、肉体は確実に限界を訴えてくる。筋肉が引きつり、頭の奥が重くなり、時には視界が揺らぐことさえある。

 

 それでも今まで、誰かを守るためにひたすら前へ進んできた。才能のない俺が、ここまで来られたのは、その精神力だけだった。鵺は少し目を丸くした後、穏やかな声で、まるで本当の姉のように言った。

 

「頑張ったんだ。みんなを守ってくれて、ありがとう」

 

 その一言が、俺の胸の奥に予想外の衝撃を与えた。……ありがとう?一瞬、息が止まるような感覚が走った。心臓が少し速く鼓動を打つ。理由は分からない。

 

 誰かに感謝される場面など、これまで何度も経験してきたはずだ。幻妖の群れを単身で撃破し、町の人々を守り、誰もが避けるような危険な行為をこなしてきた。

 

 時には「ありがとう」と言われたこともある。それなのに、なぜこの言葉がこんなに心を

 

 ざわつかせるのか。

 俺は無意識に視線を窓の外へ移した。陽が傾き、校舎の屋根や遠くの街並みが眩しく染まっていく。

 

 風が軽く窓を叩く音が、部屋の静けさを強調している。俺は自分の内側に深く意識を向けた。

 

 俺は……なぜ感謝されることに、こんなに動揺している?これまで俺は過去を振り返らないことを信条としてきた。

 

 前へ、前へ、とただ進むだけ。それが正しさであり、勝者の責務だと信じて疑わなかった。

 

 精神のあり方が「正しさ」というプラスに過剰に傾いた異常なまでの強度——それが俺という逸脱者の本質だ。

 

 「誰か」のため。俺が自分勝手に想定した不幸な存在のために、邪悪を滅ぼし尽くす。秩序やルールさえごり押しで薙ぎ倒して。でも今、この封印された幻妖の女性からかけられた素直な「ありがとう」が、俺の価値観のどこかを軽く突いている。

 

 彼女は敵のはずだ。幻妖の祖の一角で、六十年前からここにいる存在。なのに、その言葉には偽りのない温かみがあった。人間が好きだと言っていた彼女の性格が、こんな風に表れているのかもしれない。

 

 もしかすると、俺は「認められる」ことに慣れていないだけなのか? 血筋も才能も劣等だった俺が、気合いと根性だけでここまで来たことを、誰かに本気で労われることが……。

 

「……意外だ。知らなかった」

 

 動揺が胸の奥で渦を巻く。拳を軽く握りしめ、深く息を吸い込んだ。鵺は俺の沈黙を静かに見守っていたが、すぐに明るい笑顔に戻った。声が柔らかく響く。

 

「どうかしたかい? 急に黙っちゃって」

 

 俺は首を軽く振り、いつもの落ち着いた口調で答えた。

 

「……なんでもありません。ただ、少し考え事をしていただけです」

 

 彼女の言葉はまだ胸の奥に温かく残っている。彼女と関わることで俺の戦い方や精神の在り方に、どんな小さな変化をもたらすのか——今はまだ、はっきりとは分からなかった。ただ、俺は前を向く。

 

 壊れるまで、砕け散るまで、それが生き残った者の、生きるように守ってもらった者の責務だから。

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