「そういう感じか」
屋上へ続く古びた鉄扉に手をかけた瞬間、夜島学郎の背筋を小さな違和感が駆け上がった。
そこだけ空気が重く澱んでいて、正常な現実から取り残されたかのようだった。
学郎は一度、静かに息を吐き出すと、迷いなく扉を押し開けた。
瞬間、黒い影の濁流が、溢れ出した。
人間の輪郭を歪めたもの、あるいは形を保つことすら拒む奇形達が、一斉に殺到する。
「多いな」
幻妖とは人間の感情から生じる害意の具現。
通常の人間には視認すらできないが、害意そのものであるがゆえに、レベルが上がると実体を伴い、人を襲い始める。
学郎は静かに半歩下がり、地を蹴った。
「排除する」
声に恐怖はない。
精神力を物理エネルギーへ転用する。本来は不可視である人間の心を、現実で使えるエネルギーへと変換する。
無才の王が編み出した独自の戦闘技術。
気持ちがエネルギーに変換され、爆発的に広がり、押し寄せる幻妖の群れを一瞬で薙ぎ払う。
耳障りな悲鳴とともに、悪意が消える。
(なぜこの強さの幻妖がここに?)
戦闘は終わった。少なくとも、外から見ればその通りだろう。しかし学郎の内側では、別の破壊が始まっていた。
筋肉が悲鳴を上げ、骨の奥に鈍い痛みが走る。精神を望んだエネルギーに変える行為は、肉体にとって著しく不自然だ。
心が命じる絶大な威力に、器である身体が耐えきれていない。使用する精神が強ければ強いほど、肉体は崩壊へ近づく。
心は進めと命じ、身体はやめろと痛みを訴える。その両者の激突、その痛み苦痛を強い意志でねじ伏せていた。
壊れるなら、壊れるまで戦えばいい。
彼が導き出した答えは、いつだって単純で酷だった。
「すごいね」
不意に、声が響いた。
幻妖の消え去った屋上の片隅に、一人の女性が立っていた。風に揺れる黒髪だ。親しみやすい笑みを浮かべている。
その存在感はどこか現実から浮いている。
美しい女性だ。だが少年には即座に理解できた。
彼女もまた、幻妖なのだ。
「ごめんね。いつも見回りをして雑魚は掃除してるんだけど……怪我はないかい? 大丈夫?」
年下の弟を案じるような、柔らかい声音。
そこには敵意も威圧もない。目の前の少年を純粋に心配する感情だけが、あまりにも自然に滲み出ていた。
だからこそ、である。
学郎は即座に間合いを取った。
敵意がないことと、無害であることは同義ではない。善意は欺瞞の仮面になり得るし、親切は支配の入り口にもなる。
目の前の相手が優しく微笑んでいるという事実だけで、警戒を解く理由にはならなかった。
「……大丈夫です。貴方は、幻妖ですね?」
「うん、その通り。私は鵺。六十年前からここにいるよ」
その答えと同時に、少年の思考は殺意へと切り替わった。
精神がエネルギーへ変化され始める。彼女を消滅させるための威力が、静かに充填されていく。
六十年前から封印されている存在ならば、人間にとって計り知れない脅威である可能性が高い。危険なら、ただちに排除する。
そこに迷いはない。
彼にとっての正義とは、長考の末に選び取る理念ではなく、害を為すものを即座に取り除くという無機質な処理だった。
それは光というより、闇を焼き尽くすためだけに燃える炎に近い。そして炎は、自らが何を燃やしているのかを問わない。
それでも鵺は、向けられた殺意を優しく受け止めるように微笑みを絶やさなかった。
「良ければ、少し話をしないかい? 部屋に入ってほしいんだ。私は封印されていて、ここから出られないから」
「……怪しいですね」
「うん、そう思うのも無理はないよ。他の人にはここも私の姿も見えないし、信じてもらえる保証もない。でも、君には見えているし、力もある。もしかしたら君が、私の最後の希望かもしれないんだ」
希望。
その言葉を噛み噛き咀嚼した。誰かに期待することは易く、誰かを希望と呼ぶことも易い。だが、期待が裏切られたときの責任を誰が負うのか。
もしここで期待を裏切られたら、学校の人々に危害が加わる可能性が高い、と判断した。
(敵なら倒す。罠なら突破する。裏切るならその瞬間に殺せばいい)
話を聞くことと、排除することは両立する。数秒の静寂の後、少年は警戒を解かぬまま微かに頷いた。
「分かりました。よろしくお願いします」
鵺の顔に、安堵の笑みが広がる。学郎はその笑みを見つめながら、いつでも絶命させる一撃の引き金を引けるよう、胸の奥で静かに殺意を研ぎ澄ませていた。