それから、俺たちは再びボードゲームの盤を挟んで向かい合った。
昼の柔らかな光が窓から斜めに差し込み、盤上の駒に長い影を落としている。埃の粒子が光の筋の中でゆっくりと舞い、部屋の空気を少しだけ夢のように見せていた。
鵺さんはルールを丁寧に、しかし一切の手加減なく教えてくれた。彼女の指が駒を動かすたび、盤上の戦略がまるで人生の縮図のように思えてくる。
勝ち負けの先にあるもの、読み違えた瞬間の小さな後悔、そして相手の意図を静かに見抜くこと——すべてが、どこか遠い記憶の断片を呼び起こすようだった。
「負けてくれてもいいのに。少しは、俺を甘やかしてくれても」
俺がぼそりと零すと、彼女は静かに微笑んだ。その笑みには、ほんの一瞬、過去の影がちらりと見えた気がした。
柔らかい唇の端がわずかに上がるだけで、茶色の瞳の奥に沈む何か深いものが、かすかに揺れた。
「私は手を抜くことはあっても、わざと負けることはしないよ。それで大切な友人を失ったからね」
その一言で、俺の心臓がわずかに締め付けられた。
友人を失う。
人外である彼女が、どれだけの「大切なもの」をこれまで失ってきたのか、俺には想像もつかない。なのに、彼女は今、ここにいて、俺と盤を挟み、ただのボードゲームに集中している。
人間の遊びを、まるでそれが世界の全てであるかのように大切に扱っている。俺は彼女を、静かに分析した。
彼女は「今」を愛している。ボードゲームを、漫画を、コンビニの便利グッズを。多くの人外が未来や過去に囚われ、価値観を歪めてしまう中で、彼女だけが違う。
なぜだろう。
人外の気配さえなければ、ただの美人なお姉さんとしか見えない。いや、それ以上に、俺の胸をざわつかせる何かがある。
彼女の存在自体が、俺の内側の何かを優しく、しかし容赦なく揺さぶっているようだった。
「さて、そろそろ力を譲渡しよう。鵺パワー注入!」
彼女が明るく言った。声はいつものように軽やかだったが、その奥に静かな決意が感じられた。
「拝領します」「完了」力の譲渡が終わった瞬間、俺の内側で何かが、静かに、しかし決定的に変わった。
胸の奥、腹の底、指先の神経の末端まで、異物が巡る感覚が広がっていく。冷たくもなく、熱くもなく、ただ「在る」という重みだけが、皮膚の下でゆっくりと脈打っている。
自分の血が、別の誰かの血と混じり合ったような、奇妙な違和感。まるで血管のひとつひとつが、未知の回路に書き換えられたかのようだった。
意志を向ければ、即座に反応する。
思ったより簡単すぎて、かえって不気味だった。
これが、力か。鵺さんの力か。それとも、もう俺の力なのか。境界線など、曖昧に溶け始めている。
鵺さんは、穏やかな笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。いつものように優しく、しかし底知れぬ深さを持った瞳で。彼女の視線は、ただの好意ではない。
俺はそう分析する。そこには、長い時を生きてきた人外特有の、すべてを見透かしたような静けさがある。だが、それだけではない。
彼女の瞳の奥には、俺という存在を「守りたい」と願う、純粋な感情が揺れているように思えた。
なぜだ?
人外である彼女が、俺のような半端な人間に、そんなものを抱く理由は? 単なる義務か。
それとも、俺の中に何か「特別な色」を見出したからか。推測は尽きないが、答えは出ない。出るはずもない。
「うん、力は正常に渡すことができた。ガス欠が起きる場合は気を失ってしまうから、取り扱いに気をつけてね」
その言葉に、俺は小さく頷いた。胸の内で、言葉を反芻する。ガス欠。力の枯渇。自分の原初の力が残っていても、それでもか? 混じり合った力が、俺の器を食い潰す可能性は?
彼女の忠告は優しいが、同時に冷徹だ。まるで過去に同じ過ちを犯した誰かを、遠くから見守るような口調だった。
俺は彼女の過去を、勝手に想像した。きっと、力の制御に失敗した「大切な友人」がいたのだろう。
あのボードゲームでの一言が、脳裏に蘇る。手を抜くことはあっても、わざと負けることはしない——それで失った友。彼女は、甘やかすことで人を壊すことを、身をもって知っているのかもしれない。
俺を「いい子」と呼ぶその声は、優しさの裏側に、静かな警鐘を秘めている。
「わかりました。それは俺の本来の力が残っていても、ですか?」
鵺さんは、軽く肩をすくめた。予想通り、というように。
「その場合は大丈夫だろうけど、懸念点はある。力が馴染むと私の力と君の力が混じることになるから、性能が上がる反面、全体的に消費エネルギーは多くなる傾向にある」
過信は、死を招く。
俺はそれを、骨の髄まで知っている。戦場で、力に酔った者がどれだけ愚かしく散っていったかを。
だが今、俺の胸に生まれたのは、それ以上の不安だった。
混じり合う力。
鵺さんの本質が、俺の内側に染み込んでいく。彼女の「人好き」の感情まで、俺に感染するのか? それとも、俺の人間らしい弱さが、彼女の力を汚染するのか。
分析すればするほど、ぞっとする。俺はまだ、彼女のことを知らない。何も知らない。ただの推測の塊だ。
「過信は危険、だと」
「その通り。いきなりの変化だから、それに慣れるまでは全力で戦うことは控えたほうが良いと思うよ」
その忠告は、胸の奥に深く刻み込んだ。痛いほどに。
俺はまだ、子供だ。この力に、酔いそうになる自分が、怖い。鵺さんの視線が、優しすぎて、余計に。
彼女は俺を、ただの後輩として見ているのか? それとも、力の譲渡を通じて、俺を「自分の一部」として感じ始めているのか。そういった考えは俺の心を掻き乱す。
彼女の穏やかな表情の下に、どれだけの孤独が隠れているのだろう。人外として、永い時を生き、人の営みを愛しながら、それでも「人」にはなれない彼女。
俺は、彼女の瞳を盗み見ながら、そんなことを考えずにはいられなかった。
「その忠告、胸に刻みます」
「ありがとう。素直でいい子だね、君は」
——いい子、か。
俺は内心で苦笑した。こんな俺が、いい子だなどと。力を受け継いだ今、俺の内側はもう、ただの人間のそれではなくなっているのに。
彼女のその呼び方は、俺を安心させるためのものか。それとも、彼女自身の寂しさを埋めるための、ささやかな投影なのだろうか。
窓の外は、晴天だった。白い光が部屋を満たし、鵺さんの横顔を柔らかく照らしている。
俺は、盤上の駒を睨みながら、ふと口を開いた。心の奥底から、湧き上がる疑問を。
「鵺さんは、なぜ人を守ろうと思ったんですか? 娯楽が好きとか?」
彼女は、駒を指で軽く弾きながら、即座に答えた。
「もちろんそれはあるよ。人の営みや、娯楽は大好きだ。だけど私はやっぱり人が好きなんだよ」
人が、好き。
その言葉が、俺の胸に重く響いた。人はいっぱいいる。善い者、悪い者、正しい者、誤った者。
汚泥のように混じり合いながら、それでもそれぞれが「自分」として叫び続ける存在。俺は彼女の言葉を、深く分析した。同じ人間は誰もいない。
それぞれの色が混じり合う万華鏡。
彼女は、人間を「万華鏡」として愛する。だが、彼女自身は人外だ。
自分の「色」を持たない者として、人の多様な色に魅せられるのか? それとも、永い時の中で、彼女の色が薄れ、人の色に染まりたくなったのか。
推測は尽きない。彼女の愛は、純粋すぎて、逆に痛い。
「人が好き、ですか。人はいっぱいいます。善い人も、悪い人も、正しい人も、誤った人も。それを含めて?」
鵺さんは、ゆっくりと頷いた。その瞳は、万華鏡のように輝いていた。「うん。同じ人間は誰もいない。
それぞれの色が混じり合う万華鏡。俺はこうだ、私はこうだ、と全身全霊で叫ぶこと。それが人間なんだよ」
人間讃歌、か。
俺は内心で、その響きを噛み締めた。胸の内で、何かが熱くなる。力の残滓か、それともただの感情か。
幻妖である彼女が敵対者である人間を愛するのは、彼女自身が「人」になれないことを、知っているからだ。
鵺さんは、人を愛する。だがその愛は、決して対等ではないだろう。守る者と守られる者。
彼女はいつも、前者を選ぶ立場にいる。
彼女の人間讃歌は、彼女自身の「欠落」を埋めるための祈りなのか?
人外として生まれた彼女が、人間であることを「憧れ」として抱き続けているからこそ、あの瞳はあんなに優しいのかもしれない。
その見えない答えに俺は心を熱くする。俺はそう推測した。彼女の優しさは、諦念から生まれたものなのか? それとも、永遠の希望か。
「人間讃歌、ですか?」
「そうあってほしい、とは思うけど、そうあるべき、とは言わないよ。すべての人間が人間讃歌を謳い上げる傑物になれる可能性があると祈っているだけの話だ」
「祈るだけならば、自由ですね。人の心は自由であるべきで、信仰の自由は奪われるのは、辛いでしょう」
彼女は「そうあるべき」とは言わない。ただ「そうあってほしい」と祈るだけだ。その祈りの純粋さが、俺の心を揺さぶる。
彼女は人外としても、心の自由を、信仰の自由を、人間として尊重する。
——俺はそう思った瞬間、鵺さんの視線を感じた。優しい、慈しむような瞳。居心地が悪い。気恥ずかしい。
俺の内側を、すべて見透かされているような。彼女は俺の言葉を、ただの受け答えではなく、「人間らしい叫び」として受け止めたのだろうか。分析すればするほど、彼女の存在が、俺の胸に深く根を張っていく。
「何かありますか?」
俺が訊ねると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「立派だね。それに私を人間扱いしてくれたのも嬉しかったよ」
その言葉が、胸の奥に刺さった。嬉しかった、か。俺は、人外である彼女を、ただの「人間」として扱っただけだ。なのに、それが彼女にとって、そんなに価値があるとは。——俺の心が、ざわつく。
喜びと、罪悪感と、得体の知れない温かさが、混じり合う。力を受け継いだ今、俺は彼女の「一部」を抱えている。混じり合う力のように、俺の心も、彼女の存在に染まっていくようだ。
昼休みが終わる頃、光が少しずつ傾き始め、部屋の影が長く伸びていた。俺たちは盤を片付け、静かに立ち上がった。別れの瞬間、鵺さんはいつものように、軽く手を振った。
「またね!」
一人になった廊下で、俺は胸に手を当てた。異物が、まだ巡っている。力は、確かにここにある。だが、それ以上に、鵺さんの言葉が、俺の内側で静かに渦を巻いていた。
人は、万華鏡だ。
自分で自分の在り方を叫ぶ存在だ。
——俺も、そうありたい。いや、そうあらねばならない。この力を、ただの道具ではなく、自分の「在り方を証明する叫び」として支配する。鵺さん。
貴方の人への祈りは尊いものだ。しかし、その祈りを、誰が叶えてくれるというのか。人外の貴方が、人を愛し続けるその代償を、俺は知らない。知った時、俺は——俺たちは、どう想い、考えるのだろう。
分からないが、わかる事実もある。俺は鵺さんでも、悪を滅ぼす邪魔になるのではあれば、実力で排除する。
そうした前向きにしか進めず、目の前にあるものを踏み潰していく性格を、少し恥じる。
廊下の先で、俺の足音だけが、虚しく響いていた。
春の午後の光が、窓から淡く差し込み、長い影を俺の足元に落としていた。