屋上への扉を通ると、そこは部室のような一室があった。
「私は封印されていてね、この部屋から出られないんだよ」
学郎はその説明を思考の片隅に留め、机の向かいへ腰を下ろした。
鵺が取り出したのは、卓上のカードゲームだった。緊迫した状況に似つかわしくない遊戯に首を傾げつつも、学郎は拒まなかった。
乾いたカードの音が響く。
「つまり……貴方は最上位の幻妖で、この学校に封印されている。身動きが取れない一方、集まってくる雑魚の処理が追いつかないため、俺に協力を求めている。……この認識で合っていますか?」
事実だけを整列し、確認する。
人の善意も悪意も、まずは構造へ分解し、意図の確認するのはコミュニケーションを計る大切なことだから。
「うん、完璧! 君の力を借りたいんだ。さっきのを見たけど、すごい力だ」
鵺は手放しに明るく頷いた。頼もしい助っ人を見つけ、心から喜んでいるような顔だ
「分かりました。引き受けます」
「……え?」
「具体的に何をすればいいですか?」
迷いのない即答。鵺はカードを叩く手を止め、目を丸くした。
「おや、即決なのは嬉しいけど、何も聞かずに受けるのは不用心すぎないかい? 私は幻妖なんだ。 君たち人間にとっては討伐対象だし、私が嘘をついてるかもしれない。依頼が人間にとって正しいことだという保証だって、ない」
「はい」
「……どうして即決するのかな。リスクがあるのに」
「裏切られたら、その時点で貴方を始末します。俺は元々一人で戦ってきたので、協力が得られなくても問題ありません。ですが協力があれば、その分救える人が増える。なら、利用できるものは利用すべきです」
一息つき、淡々と続ける。
「誰かを守ることに、相手の力や種族は関係ありません。強いから守るのではない。守る必要があるから守るんです。できるならやる。できないなら、できるようになるまで自分を鍛える。それだけです」
高潔な美徳と、狂気的な独善。
誰かを救うことに見返りも条件も求めず、大義のために己を無制限に消費していく思想。
鵺は笑顔を崩さないまま、瞳の奥に深い真剣さを宿らせて目の前の人間を見つめた。
「確かに凄い覚悟だ。でも君は基礎的な『才能』という意味ではほぼゼロに近い。これは知っているね?」
「そうなんですか?」
「おっと、普通なら落ち込んだり反論するんだけどなー。じゃあ君は自分の能力をどう考えてるいるんだい? さっき幻妖を吹き飛ばした力だってそう。私を殺すために溜めているエネルギーだって……何をどうすれば、そこまでの出力が出るのかな」
「気合いと根性です」
「……は?」
「気合いと根性で幻妖を殺し尽くし、技術と精神と肉体を鍛え上げた結果です」
落ちてくる沈黙。
鵺は口を開きかけ、そのまま言葉を失った。学郎に冗談の色はない。自分が踏み越えてきた地獄を、客観的事実として述べている。
「本当に? 気合いと根性かあ……」
やがて、鵺は小さく吹き出した。そこには嘲笑ではなく、狂気じみた努力を重ねてきた少年への、深い感嘆が混ざっていた。
才能が足りないなら時間を削ればいい。
肉体が耐えられないなら破綻するまで鍛えればいい。
それでも足りないなら、壊れかけのまま戦えばいい。
極限まで研ぎ澄まされ狂気の王道。だからこそ、決定的な欠落があった。
『自分自身の価値』
彼にとって己の肉体は、命ではなく誰かを守るための道具に過ぎない。
「精神力をエネルギーへ変えるのは肉体への負担が大きいよ」
「今の戦闘法は効率が悪い。より長く戦うための代替手段があるなら、ぜひ学びたいです」
手段を使い潰すことと、大切にすることの違いを、彼はまだ知らない。
鵺は目元を柔らかく細め、諭すような声で言った。
「頑張ったんだね」
「……はい?」
「君はずっと頑張ってきたとわかる。才能がないと言われても、身体が悲鳴を上げても……誰かを守るために、自分にできることを積み重ねてきた」
鵺は穏やかに微笑んだ。
「みんなを守ってくれて、ありがとう」
ありがとう。たったそれだけの言葉が、学郎の胸奥を激しく揺さぶった。息が詰まり、心拍が跳ね上がる。学郎は思わず視線を泳がせた。
これまでも感謝されたことはあった。
だが、この動揺は何だ?
感謝されようと罵られようとやるべきことは変わらない。それが自分の信念だったはずだ。だが、鵺の言葉が認めたのは、学郎の戦果ではなく彼自身の苦闘だった。
何人救ったかでも、どれだけ強いかでもない。
ただ「頑張った」のだと。
正義も、理想も、自らを縛る責務も、かつて一度として彼にそんな言葉をかけはしなかった。
彼が知っていたのは前へ進む方法だけで、労われることなど一度たりとも無かった。
「……意外です」
「何が?」
「自分が……こんな言葉で動揺するとは思いませんでした」
学郎は己の手を見つめた。拳を握り、悪意を打ち砕き、血に塗れてきた手。だが温もりを受け取る方法を、その手は知らない。
鵺は答えを急かさず、静かに次のカードを卓に置いた。