前向きな夜島学郎   作:あばなたらたやた

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三話:邂逅③

 

 教室の扉に手をかけた瞬間、扉の向こうから漏れる重い空気が、俺の肌を刺した。

 そこだけ時間がねじ曲がり、淀んだ空気がゆっくりと流れ出しているようだった。俺は一瞬、息を止めた。

 

 昼休みの終わりに近づく廊下の静けさが、急に遠いものに感じられる。扉をゆっくりと押し開けた瞬間、視界に飛び込んできた光景は、悪意の残滓が凝縮された、腐敗した悪夢の断片だった。

 

 パンツ一枚の膳野忍八が、床の上でへたり込んでいた。おかっぱ頭が血に塗れ、丸メガネのレンズがひび割れて歪んでいる。

 

 鼻血が顎から胸元まで、赤黒い筋を幾筋も引いていた。特徴的なその姿は、普段の彼をそのまま、ただ無残に剥き出しにしただけのように見えた。

 

 制服の上着はどこかに飛ばされ、シャツは引き裂かれ、細い体が無防備に晒されている。

 

 教室の空気は淀み、机や椅子が倒れ、誰かの叫び声の残響がまだ耳の奥にこびりついている。床には血の染みが広がり、窓ガラスが一部砕け、陽光が不吉に斜めに差し込んでいた。

 

 埃と血の匂いが混じり合い、肺の奥まで重く沈み込む。

 

 多分、やったのは、彼を囲む三人の男子生徒。他者を数で威圧して虐げる、卑劣漢達。俺は一瞬でそれを悟った。奴らの視線が、獲物を前にした獣のように濁り、歪んだ笑みが浮かんでいる。

 

 人間の、もっとも醜い「色」が、そこに凝縮されていた。

 鵺さんが語った万華鏡の、ねじくれた一片。善い者も悪い者も、正しい者も誤った者も——だが今、この瞬間、俺の胸に湧いたのは、ただの冷静な分析などではなかった。生々しく、熱く、煮えたぎるような感情の塊。

 

 許せない。怒りが、腹の底からゆっくりと這い上がってくる。だが、優先するべきは、膳野くんだ。もしかしたら鼻が折れている可能性もある。内出血が脳に達しているかもしれない。

 

 一刻も早く、保健室へ。

 俺は迷わず、彼の傍に近寄り、膝をついた。力の譲渡を受けた体が、わずかに反応する。

 

 黒いエネルギーの予感が、指先に疼く。鵺さんの力と俺の力が、混じり合い始めている。この状況で、それを使うべきか? いや、まだだ。まずは。

 

「大丈夫? 保健室行こう」

 

 声は自然に出た。だが内心では、嵐が吹き荒れていた。膳野くんの傷だらけの体を見下ろしながら、俺は彼の心を深く推測した。

 

 弱い。自分でもそれを認めているはずだ。なのに、なぜここまで耐えている? ただの被害者として、諦めているわけではない。

 

 彼の目には、まだ小さな火が灯っている。卑劣漢達の視線が、俺に向けられた瞬間、空気がさらに重くなった。

 

「おーい、何割って入ってきてんだ。殴るぞ、お前」

 

 ……。俺は無言で睨み返した。怒りは確かにあった。奴らを、力で叩き潰したいという衝動が、胸の底で渦巻く。

 

 だが、鵺さんの忠告が脳裏をよぎる。過信は危険。全力は控えろ。混じり合った力に、俺はまだ慣れていない。まして、こんなところで暴走すれば、教室中の無辜の者たちを巻き込む。

 

 俺は正義の味方になりたいわけじゃない。ただ——悪の敵として、幻妖のような存在を滅殺する。

 それだけだ。

 

 人間の愚かさすら、鵺さんが愛した「人の叫び」の一部なのだから。奴らの「色」は、確かに醜い。だが、それでも人間の叫びの一つ。

 

 俺はそれを、ただの憎悪で塗り潰したくはない。

 

「行こう、膳野くん」

 

 俺は彼の肩に手を置き、優しく促した。膳野くんは、血まみれの顔を上げ、弱々しく首を振った。

 

「構うな、巻き込まれるぞ」

 

 その言葉に、俺の胸が締め付けられた。変わってるな、と思ったのは彼の方か。いや、俺自身も。

 こんな状況で、他人を気遣う彼の精神を、俺は深く分析した。

 

 弱いことを自覚しながら、それでも「自分でパシリを断った」結果がこれだという。卑劣漢の暴力に屈せず、己の意志を貫いた。

 

 その輝きは、鵺さんの言う「人間の色」そのものだった。誰も同じ人間はいない。それぞれが、全身全霊で叫ぶ。

 

 膳野くんは、今まさに、それを体現している。俺の心の中で、熱いものが込み上げる。

 

 これは、ただの同情ではない。

 敬意だ。

 

「俺が関わりたいんだ。君を助けることはできないかもしれないが、君の味方であることはできる」

 

 言葉を口にしながら、俺は自分の心を覗き込んだ。なぜ、こんなに強く思うのか? 鵺さんの影響か。

 彼女の「人が好き」という祈りが、俺の内側に染み込んでいる。力の混じり合いが、俺の価値観まで変え始めているのか?

 

 それとも、元々俺の中にあった、ただの人間らしい弱さか。推測は、怒りをさらに煽る。

 

「変わってるな……危ねぇ!!」

 

 膳野くんの叫びで、俺は背後を振り向いた。殴りかかってきた卑劣漢の一人の拳を、咄嗟にガードする。

 骨が軋む感触。だが、痛みなど感じない。力の残滓が、俺の体を微かに守っていた。

 

「俺は大丈夫だ。俺が自分でパシリを断ってこうなっている。お前は関係ない」

 

 膳野くんの声は、震えていた。だが、そこに諦めはない。俺は首を振った。心の中で、強く。

 

「嫌だ。俺は膳野くんみたいな人を見過ごすような人間には、なりたくないから」

 

 本心だ。見過ごせば、俺は鵺さんの祈りを、裏切ることになる。人間の万華鏡を、ただの汚泥として捨てるようなものだ。

 

「くそ、俺は弱いぞ。負けるぞ。だが一矢報いるか」

 

 傷だらけの膳野くんが、立ち上がった。戦う姿勢を整えるその姿に、俺は驚愕した。弱いのも事実。負けるのも事実だろう。だが、それでも——巻き込まれてきた俺のために、戦おうとする精神の発露。輝いていた。俺の胸に、再び熱いものが込み上げる。

 

 これは、ただの同情ではない。敬意だ。今の数分で、何度も敬意を抱くことになる。鵺さんが愛する「全身全霊の叫び」の、純粋な一欠片。

 

 その時だった。

 

「ん、なんだこの音」

 

 膳野くんが呟いた直後——ギギギギガ、という異音が、教室に響き渡った。空気が歪み、人の心より産まれ落ち、成長する幻妖の気配が、教室全体を圧迫した。

 

 成長したそれが融合し、レベル2、レベル3へと至る存在強度。

 俺は即座に悟った。人型だが、あまりにも巨大だった。シャープなスタイルとは正反対に、廊下で身動きが取れなくなる太った赤子のような幻妖をお供として連れている。

 

 レベル3。しかも2体。空気が重く淀み、幻妖の体躯から溢れる負の感情が、教室の壁を震わせる。

 

 太った赤子の幻妖は、ぶよぶよとした肉塊のような体を揺らし、廊下を塞ぐほどに膨張していた。もう一体のシャープな幻妖は、刃のような四肢を鋭く伸ばし、獲物を狙う影のように静止している。

 

「レベル3。しかも2体」

 

 俺の声は、低く漏れた。膳野くんが息を呑む。

 

「な、んだこりゃあ」

 

 幻妖は、派手に破壊の嵐を撒き散らした。赤子の幻妖が巨体を振り回すたび、机が粉砕され、椅子が吹き飛び、窓ガラスが爆散した。

 

 シャープな幻妖の刃が空を切り、教室の壁に深い傷を刻む。その中に、卑劣漢の一人が巻き込まれ、腕を切り飛ばされていた。

 

 血が飛び散り、悲鳴が上がる。無辜の人々が、ただの標的として傷つく。怒りが、俺の内側で爆発した。

 湧き上がる怒り。

 怒りはエネルギーとなる。全ての障害を粉砕するエネルギーだ。それ故に人は怒りを正義だと錯覚する。

 

「怒りとは正義の発露。しかし俺は全てを破壊する悪の敵」

 

 怒りを正義だと信じる気持ちは、あらゆる敵を薙ぎ払うだろう。しかし俺は、正義の味方になりたいわけではない。ただ悪の敵として、無辜の人々を害する幻妖を滅殺する。

 

「排除する」

 

 それが、俺だ。鵺さんの祈りに応える、唯一の方法。シャープな幻妖が、三人のうち一人の卑劣漢に刃を振り上げる。

 このままでは死ぬ。膳野くんが、咄嗟にドロップキックを放ち、卑劣漢を吹き飛ばした。

 

 幻妖の攻撃を躱させる。だが、その代償は大きかった。膳野くんの体が無防備に晒される。

 

「膳野くん!! ナイスだ!!」

 

 無防備になった彼を、俺は守った。力を解放する。鵺さんからもらった力が、俺の体を黒いエネルギーで覆う。軽鎧装備の騎士のような格好に、変貌する。

 

 混じり合った力の感触が、心地よい。彼女の優しさが、俺の怒りを研ぎ澄ます。黒い鎧が体を包み、腰に剣が顕現する。

 

「何ができる、どの程度の力ならば問題ない? わからない。けど、やるしかない」

 

 教室は怪我人だらけ。あの幻妖たちのせいで、何の罪も咎もない人々が傷ついた。許せない。この怒りを、ただの破壊に変えない。制御して、加速させる。

 

「使えるのは……腰の剣か」

 

 黒い騎士に変身した俺は、腰に付帯していた剣を抜き放った。黒い雷霆が剣身を走り、教室の空気を引き裂くような響きを立てる。まず、太った赤子の幻妖に狙いを定めた。

 

 あの巨体が、再び廊下を塞ぎ、赤子のような無垢を装った悪意を振りまいている。俺は一歩踏み込み、剣を振り上げた。

 

 黒い閃光が、雷のように落ちる。剣が幻妖の肉塊に深く食い込み、黒いエネルギーが内部で爆発した。

 幻妖の体が痙攣し、ぶよぶよとした脂肪が溶けるように崩れていく。だが、レベル3の強度は侮れない。

 

 赤子の幻妖が咆哮を上げ、巨大な腕を横薙ぎに振るってきた。

 俺は剣を盾のように構え、衝撃を受け止めた。黒い鎧が軋み、体が数メートル後退する。床に足跡が深く刻まれる。痛みはない。だが、混じり合った力の消費が、胸の内で警告を発する。

 

 鵺さんの忠告が蘇る。過信するな。全力は控えろ。俺は歯を食いしばり、剣を回転させながら反撃した。

 

 二撃目。三撃目。黒い雷霆が連続で幻妖の体を抉り、ついにその巨体が崩壊した。赤子の幻妖は、断末魔の叫びを上げながら、黒い粒子となって消滅した。

 

「次」

 

 俺は息を整え、シャープな幻妖と真正面から向かい合う。奴の刃が、銀色の残光を残して迫る。

 

 俺は剣を構え、迎え撃った。金属同士の衝突ではない——黒いエネルギーと幻妖の負の刃が、火花を散らして激突する。

 

 教室の空気が震動し、残った机が倒れる。幻妖の動きは素早い。俺の横をすり抜け、背後から刃を繰り出してくる。俺は体を捻り、ギリギリで回避。黒い鎧の肩口が浅く斬られ、エネルギーがわずかに散逸する。

 

 痛みは感じないが、力の混じり合いが俺の集中を試す。鵺さんの力は、俺を強くする。だが、同時に俺の人間性を、優しさを、試している気がする。

 この怒りを、ただの破壊衝動に堕とさないために。

 

「ぐっ」

 

 幻妖が連続攻撃を仕掛けてくる。刃の連撃が、嵐のように俺を襲う。俺は剣を舞わせ、すべてを受け流す。

 

 カウンターで一撃を入れ、幻妖の胴体を斬り裂く。黒い雷が傷口から侵食し、幻妖の動きを鈍らせる。だが、奴はまだ倒れない。廊下を跳躍し、俺の頭上から急降下。俺は剣を突き上げ、幻妖の腹を貫いた。

 

「消え、ろォオ!!」

 

 黒いエネルギーが爆発的に広がり、幻妖の体を内側から引き裂く。シャープなシルエットが、歪み、崩れ、ついに黒い粒子となって霧散した。

 

 戦闘の余波で、教室は静まり返っていた。怪我人だらけの空間に、俺の黒い鎧がゆっくりと解除されていく。力の消費が、体を重くする。だが、膳野くんは無事だ。卑劣漢達も、生きてはいる。

 

 幻妖の脅威は、消えた。

 

 俺は剣を収め、胸の内で鵺さんに語りかけた。ありがとうございます。貴方の力は、今、俺の「全身全霊の叫び」を支えてくれている。

 

 人間の色を、守るために。膳野くんの輝きを、失わせないために。この怒りを、ただの暴力に終わらせない。

 混じり合った力は、俺を変えていく。

 教室の残骸の中で、俺の息だけが、静かに響いていた。春の午後の光が、砕けた窓ガラスから淡く差し込み、長い影を床に落としていた。

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