それから、二人は再びボードゲームの盤を挟んで向かい合った。
「なるほど、これで俺の負け、と。理解したました。次は勝てる。次は勝ちます」
鵺の勝利。
「これで俺のカードが引けないから負け、と」
外の世界ではいつもの学校生活が営まれているのだろうが、生徒たちの声も足音も、ここまでは届かない。
この小さな部屋だけが、世界から切り離されたかのようだった。
「読み負けたか。なるほど、強い」
鵺はルールを教えるときこそ丁寧だったが、対局が始まると一切の手加減をしなかった。意図を読み合い、盤面を支配し、わずかな隙を突いて容赦なく勝利をもぎ取る。
そこには奇妙な誠実さがあった。
勝負における最大の敬意とは、相手に勝たせることではなく、その意志を真正面から受け止め、全力で応えることだだからだ。
学郎は盤上の駒を動かし数手後、あっさりと敗北した。
「……負けてくれてもいいのに」
「私は手を抜くことはあっても、わざと負けることはしないよ。それで大切な友人を失ったからね」
駒を伸ばそうとしていた少年の指が、ピタリと止まった。
『友人を失った』
その言葉は、盤上のどの駒よりも重く響いた。
鵺はいつもの穏やかな顔をしている。声に悲壮感はない。だが、その一瞬だけ瞳の奥に影が差した気がした。
長い時間を生きる者は、何を失うのか。
人間が時間に追われ、その一瞬に意味を見出すのに対し、人外にとっての時間は同じ意味を持たない。
人間が忘れていく記憶を、化け物たちは現在として抱え続けているのかもしれない。失ったもの二度と戻らないという事実だけが、人間であれ人外であれ、等しく心を抉る。
学郎は目の前の女性を見つめた。
彼女は人間の娯楽を愛している。コンビニの便利な道具も、ボードゲームも、人間が生み出した文化を宝物のように大切に扱っている。
その姿は、幻妖という脅威から想像するものとはあまりにもかけ離れていた。未来のために現在を犠牲にするのでも、過去のために現在を閉ざすのでもない。
ただ、いま、この瞬間を生きている。
「……本当に、容赦がありませんね」
「ふふっ。勝負は勝負だからね。君だって、幻妖を相手にする時は手加減しないだろう?」
「それは、そうですが」
「だったら同じことさ。相手が本気で挑んできているなら、こちらも本気で応える。それが対等ってものじゃないかな?」
「対等……」
今までは幻妖を排除すべき脅威としてしか見てこなかった。敵を全身全霊を尽くすことはあっても、対等に向き合うことなどなかった。
だが鵺は、人間を愛しながらも、相手を無条件に甘やかさず、一人の対等な意志として見つめている。彼女の優しさは、相手が自分の足で立つと信じるための肯定だった。
「……次は、勝ちます」
「うん、その意気だよ」
鵺が嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、勝敗を超えて、彼女がどう世界を見ているのかをもっと知りたくなった。
「さて、そろそろ力を譲渡しようか」
数局を終えたところで、鵺が盤上の駒を片付けながら言った。
「鵺さんパワー注入!」
あまりにも軽い掛け声だった。
これから自身の戦闘基盤を根底から変える力を受け取るというのに、本人の態度には微塵も緊張感がない。
力を渡すとは、ただ武器を貸すことに留まらない。
「拝領します」
「うん。じゃあ、始めるよ」
鵺の言葉と同時に、学郎の内側が変異した。胸の奥から腹の底へ、そして指先の神経の末端へと、確かな重みを持った何かが流れ込んでくる。
冷たくも熱くもない、別の誰かの気配。拒絶反応を起こすことなく、馴染んでいく。
意識を内側へ向ける。これまで彼が扱ってきた精神力は、意志を無理やり燃料に変え、肉体の限界を削り取ることでしか発揮できなかった。
力を使うことは自分を傷つけるという自傷の連鎖が前提だったのだ。しかし、流れ込んだ力は違った。無理に心を燃やす必要がない。そこにあるものを、ただそにあるものとして引き出せばいい。
(これが、力か)
境界線は曖昧だった。鵺の力でありながら、すでに学郎の意志に完璧に応えている。
「うん、うまく馴染んだみたいだね」
鵺が学郎の様子を確かめて微笑む。
「ただ、扱いには気をつけるように。力が強くなったからといって、消費エネルギーまで効率よくなるとは限らない。以前より強力な一撃が撃てる分、気づかないうちに自分の限界を超える危険があるよ」
「……過信は禁物、ということですね」
「そう。しばらくは身体の感覚を確かめることを優先するのをお勧めするかな」
「承知しました」
学郎は頷く。力の融合は、単なる機能の拡張に留まらない。彼女の持つ人間への感情や思想が、自分の内側に何らかの影響を及ぼすことはないのだろうか。
「ありがとう。素直でいい子だね、君は」
「そんなガラではありませんよ」
照れくささをごまかすように短く返すと、鵺は楽しそうに目を細めた。
「……一つ、聞いていいですか」
駒を完全に片付け終えたあと、少年はふと切り出した。
「どうしたの?」
「鵺さんは、どうして人間を守ろうと思うんですか? 人間の生み出す娯楽や文化を愛しているから、という理由だけではないはずです。人間は愚かで、利益のために他者を傷つけ、正義の裏で私利私欲を貪ることもある。その醜さまで知った上で、なお守りたいと思えるんですか?」
問いは簡潔だった。
創造物を愛することと、その創造主である人間そのものを愛することは同義ではないはずだ、と。
鵺は迷わなかった。
「もちろん、人の営みを見るのは大好きだよ。でも、それだけじゃない。私は、やっぱり人間が好きなんだ」
「好き、ですか」
「そう。同じ人間なんて一人もいない。それぞれが違う景色を見て、違う願いを抱いて、必死にもがいている。その違いがぶつかり合って傷つくこともあるけれど……だからこそ、人間は面白いし、尊いと思うんだ」
彼女は盤上の駒を一つ、指先で弾いた。
「自分とは違うから理解できないこともあるし、腹が立つこともある。でも、違うというだけでその存在自体を否定する必要はない。間違いを犯しても、悩み、変わろうとする。そういう矛盾を抱えたところも含めて、私は人間が好きなんだよ」
人間の醜さを知らないから愛せるのではない。知った上で、その可能性を閉ざさない。
「人間は万華鏡のように世界を在ることが美しい」
それは理想論でも免罪符でもなく、ただ泥臭い生の肯定だった。
「……祈るだけなら、自由ですね」
学郎はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「人の心や生き方を、他人が勝手に決めることはできない。貴方が人間を愛し、その可能性を願うとしても、それを他人に強制しない姿勢は……筋が通っていると思います」
「そう言ってくれると嬉しいな。君は私を、幻妖という枠組みではなく、一人の存在として見てくれた。それが、私にとってはすごく嬉しかったんだよ」
その言葉に、学郎は返答に詰まった。
特別な意図などなかった。ただ、目の前の相手の心を否定しないというだけのことが、彼女にとってはそれほど大きな意味を持っていたのか。
守ることに長けていても、他者の心に寄り添うことについては、自分はまだ何も知らなかったのではない、と学郎は思った。
「……そろそろ、時間です」
窓の外で、傾いた太陽が校舎の影を長く伸ばしている。昼休みの終わりを告げる予鈴が、どこか遠くで鳴り響いた。
「そうだね。今日は楽しかったよ」
鵺はいつもの明るい笑顔で手を振った。
少年は短く頷き、扉に向かう。扉を閉める直前、もう一度だけ振り返った。鵺は穏やかに微笑んだまま、そこに佇んでいた。
カチャン、と重い音がした。