一人になった廊下で、学郎は胸に手を当てた。
異物は、まだ身体の内側を静かに巡っている。
鵺から受け継いだ力。意志を向ければ、確かな重みとなって脈打ち、身体を駆け巡る。すでに自身の一端として機能し始めていた。
それ以上に、内側で存在感を増しているものがあった。
鵺の言葉だ。
人間は、万華鏡。
それぞれが異なる色を持ち、異なるかたちで世界を映し出す。同じ人間など一人もおらず、互いに違うからこそ、そこには無数の可能性が生まれる。
それが彼女の語った言葉だ。
(平和だ)
学郎は足を止め、窓の外へ目を向ける。
生徒たちはそれぞれの場所で笑い、悩み、未来を模索しながら過ごしている。
誰一人として同じではない人生があり、それぞれの切実な願いがある。その願いを守ることこそが自分の役目なのだと、疑わなかった。だが鵺の言葉を知った今、一つの問いが胸を突く。
(俺は本当に、彼らの願いを守っているのか?)
自分が正しいと信じる未来を守るために、他者の意志を置き去りにしてはいないだろうか。
正義は、炎に似ていた。
脅威を焼き尽くし、害意を排除するための激しい炎。だが炎は強すぎれば、守るべきものまで焼き払ってしまう。
『自分は正しいことをしている。誰かを守るためなら、犠牲は仕方がない』
その思考の果てにある危険を、彼はどこかで知っていた。
目的のために手段を選ばぬ冷徹さは、一歩間違えれば彼が打ち倒してきた幻妖たちの論理と紙一重だ。
相手を理解することと、行為を無条件に許すことは違う。だが、理由を知ろうとすらしない正義は、ただの暴力へ成り下がる。
学郎は拳をそっと握りしめた。彼は、鵺を信頼し始めている。彼女の思考に耳を傾け、その切ないほどの祈りに価値を見出している。
それでも、それでも!
もし彼女が誰かを傷つける害意へと変貌するなら。
もし彼女の存在が、守るべき人々を脅かすというのなら。
学郎は容赦なく彼女を止めるだろう。必要ならば、その手で排除する。その決断だけは揺らがない。
前だけを見て、障害を踏み潰しながら進む。それが己の強さだと信じてきた。だがそれは同時に、立ち止まって苦悩することからの逃げた可能性はあった。
「……少しは、考え方を変えるべきなのかもしれないな」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、静かな廊下に淡く溶けて消えた。
学郎は再び歩き出した。
前へ進むのをやめるつもりはない。正義を捨てる気もない。ただその炎が何を照らし、何を見落としているのか。それだけは考えていこうと思った。