屋上の出来事から一夜明けた朝、俺はいつものように自転車を漕いで学校へ向かった。
春の風がまだ少し冷たく、頰を撫でる感触が心地よい。
道沿いの桜の木はすでに花びらを散らし始め、地面に薄いピンクの絨毯を作っていた。昨日までの重い空気が嘘のように、街全体が穏やかな朝の光に包まれている。校門をくぐった瞬間、何かが違うと感じた。
空気が軽い。まるで夜のうちに誰かが大きなブラシで、街の隅々まで丁寧に掃除してくれたみたいに。足音がいつもより乾いて響き、遠くで聞こえる生徒たちの笑い声も、どこか澄んでいる。
教室に入ると、予想通り——いや、予想以上に何もかもが元通りになっていた。
机の表面は傷一つなく磨き上げられ、椅子はきちんと揃えられ、床も壁も、昨日幻妖の群れが暴れ回った痕跡などどこにも残っていない。
窓から差し込む朝の光が、教室全体を柔らかく照らしていて、何事もなかったかのような、静かな日常がそこにあった。傷ついていたクラスメイトたちも、みんな無傷で、いつもの席に座って談笑している。
誰一人として昨日の記憶を覚えていない様子で、誰かが冗談を言っては笑い声が上がる。俺は自分の席に鞄を置き、静かにその光景を観察した。
心のどこかで、昨日の激しい戦いが本当にあったのか、少しだけ疑う気持ちが芽生えていた。
幻妖の異臭、肉体が軋む痛み、精神力を無理やりエネルギーに変えるときの熱——すべてが遠い夢のように感じられる。
「おはよう、夜島」
聞き慣れた明るい声がして、振り返ると膳野くんがニコニコしながら近づいてきた。彼はいつものようにラフな制服姿で、肩を軽く叩いてくる。
「よ、夜島」
「おはよう、膳野君」
「お前のおかげで面倒な奴らに絡まれなくなったよ。昨日、なんかあったみたいだけど……まあ、ありがとう」
俺は軽く首を振った。言葉を選びながら、できるだけ自然に答える。
「いや、俺は自分のしたいことをしただけだから。特別なことじゃないよ」
「そうか。まぁ、なんかあったら俺にも話してくれ。役に立たないかもしれないけど、味方にはなるからな」
「ありがとう」
短いやり取りの後、膳野くんは自分の席に戻っていった。俺は窓の外に目をやりながら、胸の奥で小さく息を吐いた。誰かに感謝されるのは、確かに嬉しい。でも、なぜかいつも少しだけ居心地が悪い。
自分が受け取るべきではないものを、こっそり受け取ってしまったような気分になる。俺は過去を振り返らない主義だ。前へ、前へ、とただ進むだけ。
それが俺の「正しさ」であり、勝者の責務だと信じてきた。でも、こんな風に素直に「ありがとう」と言われると、心のどこかが少しざわつく。
午前中の授業は、いつも通り淡々と過ぎていった。黒板に書かれる文字、先生の声、ノートを取るペンの音——すべてが平凡で、どこか安心する。でも、俺の頭の片隅には、屋上の管理室で鵺さんと交わした会話が、静かに残っていた。
あの柔らかい笑みと、「頑張ったんだ。みんなを守ってくれて、ありがとう」という言葉が、時折胸の奥で小さく響く。昼休みになった。
俺は弁当を鞄にしまい、屋上にある鵺の封印部屋に向かおうと廊下を歩き始めた。足音が静かに響く。
廊下の窓からは、校庭で遊ぶ生徒たちの声が遠く聞こえてくる。春の陽射しが床に長く影を落としていて、なんだか少しだけノスタルジックな気分になる。すると、角を曲がったところで、彼女が立っていた。
黒髪を軽く肩に流し、学校の制服を着た鵺さんが、壁にもたれかかるようにして俺を待っていた。
白いブラウスにチェックのスカートが、意外なほど自然に彼女の体に馴染んでいる。茶色の瞳が柔らかく細められ、いつもの愉快なお姉さんらしい明るい笑みが浮かんでいる。
「やぁ、学郎」
明るい声が、静かな廊下に響く。
「こんにちは、鵺さん。学校の修復は鵺さんが?」
「いいや、違うよ。陰陽師の仕事だ」
「陰陽師? そんなものがあったんですか」
知らなかった。
強い幻妖が出現したら、俺は感覚で理解できるので、すぐにその場へ駆けつけて討滅してきた。でも、陰陽師という存在とは一度も会ったことがない。
影のように街を守っているらしい人たちがいるなんて、まるで別の世界の話のようだった。俺は壊すことしかできない人間だと思っていたから、平和を「維持」するという発想自体が新鮮に感じられた。
「すごい人たちですね。この街を守る為に頑張ってくれている。俺みたいに壊すことしかできない人間と違って、平和を維持できる陰陽師を尊敬します」
鵺さんは少し目を丸くした後、穏やかな声で言った。まるで本当の姉が弟を諭すような、優しい響きがあった。
「学郎……君も誰かを守ってきたんだよ。とはいえ連続で戦闘するのは危険だから、今日は休みだ。安息日だと思って休み給え」
「わかりました」
「一緒に教室に戻ろうか」
「なんで? 目立つでしょう」
「おいおい、青春を謳歌しようぜ若人よ。それを間近で見れないなんて酷い拷問だぜ」
俺は思わず小さくため息をついた。彼女の軽やかな口調に、つい引き込まれそうになる。
「絶対見つからないでくださいよ」
結局、俺たちは並んで教室へと戻ることになった。鵺さんは制服姿が妙に板についていて、本当にこの学校の生徒であるかのように自然に歩いている。
廊下を歩く彼女の横顔を見ながら、俺はふと思った——この人は六十年前からここにいるというのに、なぜこんなに生き生きとしているのだろう。
封印されているはずなのに、普通の女子高生のように笑うその姿が、なんだか不思議で、少しだけ心をざわつかせた。
教室の入り口に差し掛かった瞬間、膳野くんが猛烈な勢いで走ってきて、俺の両肩をがっしりと掴んだ。
「さっき一緒にいた女子誰だ!? めっっちゃ美人だったじゃん!!」
既にバレている……? 俺は一瞬言葉に詰まり、鵺さんのほうをちらりと見た。
彼女は悪戯っぽく微笑みながら、俺の肩越しに膳野くんに軽く手を振っていた。茶色の瞳が、楽しげに細められている。
その仕草が、長い間この学校に通っていたかのように自然だった。俺は内心で小さく苦笑した。
この出会いが、俺の日常にどんな波紋を広げていくのか、まだよくわからない。でも、少なくとも今日は、壊すことではなく、少しだけ守られる側に回ってみるのも悪くないのかもしれないと思った。
廊下の向こうから、昼休みの喧騒が穏やかに流れ込んでくる。俺はただ、静かにその音に耳を傾けながら、胸の奥で昨日の「ありがとう」の余韻を、そっと噛みしめていた。