朝
夜島学郎は自転車のペダルを漕ぎながら、その澄んだ街を眺めていた。
昨日の戦いが嘘のような平穏な光景だったが、戦いの記憶は、今も学郎の肉体に重く刻まれている。
校門をくぐった瞬間、学郎はある変化を感じ取った。昨日まで校内を覆っていた、あの粘つくような不穏な気配が消えているのだ。
「あれ?」
机に傷はなく、割れたはずの窓ガラスも無事。何より、幻妖の襲撃を受けて傷ついたクラスメイトたちが、全員無傷で席に着き、穏やかに談笑していた。
(昨日の出来事は、本当にあったのだろうか……)
ほんの一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。
己の記憶も痛みも確固たるものだ。しかし、目の前の現実があまりにも平穏なので、昨日の戦いが白昼夢のように思えてしまう。
思考を切り替えるために学郎は小さく息を吐いた。過ぎたことに囚われるのは、足に重りをつけるのと同じだ。
過去がどうあれ、それを糧にし、前へ進み、敵を殺す。
「おっす、夜島」
思考を切り裂いたのは、聞き慣れた明るい声だった。振り返ると、膳野が、笑いながら近づいてきた。
「お前のおかげで、例の厄介な奴らに絡まれなくなったよ。昨日、なんかあったみたいだけど……まあ、ありがとな」
誰かを助けたのは、そうしたかったからだ。己の意志で戦い、その結果を引き受けた。そこに他者からの見返りや感情を受け取る余地など無いはずだった。
「いや、俺は自分のしたいことをしただけだから。気にしないで」
「そうか? ま、なんかあったら俺にも話してくれよ。大した力にはなれないかもしれないけど、味方にはなるからさ」
膳野は肩をすくめて笑うと、「またな」と手を挙げて自分の席へと戻っていく。
(俺が、受け取っちゃ駄目なものだ)
人を守る決意はできても、守られた側から向けられるまっすぐな感情をどう受け止めればいいのか?
膳野からの素朴な感謝と、鵺からの労い。
轢殺してきた者達を糧として前へ進む、という己の気持ち。死んでいくのはいつも弱いものだ。しかし弱いから死んでいい理由にはならない。
あらゆる犠牲を出しながら数々の戦果を上げた。学郎が生きているのは、全力で生きた者達のおかげに過ぎない。
だからこそ、挫けない、諦めない、前を見て進む。もし止まれば今での犠牲が無駄になってしまうのだから。
(止まらない、曲がらない、折れない、挫けない。それだ。俺はゴミ屑だ。幻妖を殺す存在。正義の味方ではなく悪の敵)
昼休みのチャイムが鳴り響いた。
学郎は席を立ち、校舎の角を曲がったところに、鵺が立っていた。
黒髪を肩に流し、白いブラウスにチェックのスカートという制服姿で壁にもたれかかっている。
なんでそんなに溶け込んでいるんだよ
「やぁ、学郎」
「こんにちは、鵺さん。……その制服、どうしたんですか」
「似合っているだろう?」
「似合っているかどうかを聞いたわけじゃないんですが」
「細かいことを気にする男はモテないぞ、学郎」
軽口を叩く鵺に、学郎は小さく息を吐いた。
「……学校の修復、鵺さんがやったんですか?」
「いいや。陰陽師の仕事さ。君が知らなかっただけで、ずっと存在していたのさ。幻妖を討つ者がいれば、被害を修復し、誰にも知られずに日常を維持する者たちがね」
壊すことと、維持すること。
学郎が向き合ってきたのは常に前者だった。目の前の脅威を倒す。敵を斬る。だが、日常を維持する仕事には明確な敵も勝利の瞬間もない。
平穏を守るための地道な忍耐が必要となる。
「すごい人たちですね。俺みたいに壊すことしかできない人間と違って……」
学郎のつぶやきに、鵺は目を少し丸くし、静かに目を細めた。
「学郎。君は自分を『壊すことしかできない』と思っているのかい?」
「実際そうですから。俺ができるのは幻妖を殺すだけ。尊敬されるべきは『いつも』を守り続ける人々です」
明確な境界線。
それが学郎の戦う上での規律だった。しかし鵺は、その境界線をさ解きほぐすように問いかける。
「誰かを『守る』ことと、『救う』ことは同じだと思うかい?」
「……え?」
「例えば君が敵を倒して誰かを守ったとする。けれど、その人の中に残った『襲われた恐怖まで消せたわけじゃない。……さて、君はその人を『救った』と言えるのかな?」
責める色のない、穏やかな声。
学郎は視線を落とした。
「……俺には分かりません。でも、自分にできないことまで背負おうとしたら、結局何も守れなくなる。俺はできることをやるしかないんです」
万能であろうとせず、己の限界の中で最善を尽くす。それこそが学郎の切実な責任感だった。だからこそ鵺も否定はしない。
「そうだね。けれど学郎、自分にできないことがあると認めることと、『自分には関係がない』と切り捨てることは、まったく別の話なんだよ」
学郎が顔を上げる。
「君が敵を倒した後、その人が何に苦しんでいるのかを知ることはできる。話を聞くことだってできる。できないからといって、最初から手を伸ばさない理由にはならないんじゃないかな。殺すだけしかできないなら、守るために殺した後に、救えるように言葉を尽くせば良い」
鵺は笑って言う。
「幻妖を排除するのと、誰かの気持ちに寄り添うことは両立できるよって話さ」
「……難しいですね」
「そうだろうね、でも、だから人間は美しいんだ」
鵺はくすくすと笑う。重い問いを投げかけながら、答えを急かさない。彼女のその軽やかさが、学郎には救いでもあった。
「連続戦闘は危険だからね、今日は安息日だ。……さ、一緒に教室へ戻ろうか」
「……なんですか?」
「青春を謳歌する若人を間近で見られないなんて、私にとっては酷い拷問だぜ?」
「絶対に見つからないでくださいよ。目立ちますから」
「努力する!」
「絶対に見つかる人の言い方だ……」
二人は並んで廊下を歩く。