教室の入り口に差し掛かったその瞬間、膳野くんがまるで何かに追い立てられるように猛烈な勢いで走ってきて、俺の両肩をがっしりと掴んだ。
指の力が意外に強くて、ちょっと驚いた。
「さっき一緒にいた女子、誰だよ? めっちゃ美人だったじゃん」
既にバレていたらしい。俺は一瞬、言葉に詰まった。頭の中でどう説明したものか、考えが少しだけ遅れた。
「あの人は姉なんだ」
「姉……? それにしては似てないけど」
「義理の姉、なんだ」
膳野くんは体をワナワナと震わせながら、わざとらしく息を溜めてから、声を低くした。
「美人な義理の姉なんて……えっち過ぎんだろ……!!」
次の瞬間、ぐぼばぁっ、という鈍い悲鳴を響かせて膳野くんは理不尽な現実に吹き飛ばされ、廊下の床の上を転がった。周りのクラスメイトたちが一斉に沸き立つ。
何かの合図でもあったかのように、教室の空気が一気に熱を帯びた。
「膳野! お前、そんなノリの良いやつだったのかよ!」
「テメェー夜島! ズリーぞ!!」
馬鹿馬鹿しいほどの盛り上がりだった。ワイワイと、どこか遠くで聞こえるような笑い声が教室の空気を満たしていく。
みんなが馬鹿な男子高校生らしい、馬鹿なことを言っては笑い、笑ってはまた何か新しい馬鹿なことを言い出す。
その様子が、ひどくおかしくて、どこか懐かしくて、そして何より平和で、なんとも大切にしたくなる景色だった。
俺はこういう日常を守りたくて、今日まで戦ってきたのだと思う。自然と、口元に笑みが浮かんでいた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。
そこへ、彼女が現れた。
鵺さんだった。俺のエネルギーを供給されたことで、分身として実体化できるようになったのを、さっそく利用して教室に姿を現したのだろう。
黒髪に茶色の瞳が、教室の蛍光灯の下で柔らかく光っていた。
「学郎、忘れ物だよ」
クラスメイトの一人が、声を上げた。
「あ、貴方は!?」
「新カードの詰め合わせの拡張パックだ!」
鵺さんは気安い、美人なお姉さんらしい笑顔でそう言った。昔からの知り合いのように自然に。
クラスメイトたちはさらに盛り上がる。ノリがいい人だ。でも、それが過ぎれば荒らしや混乱を生むかもしれない。ある程度、戒めなければならない。
そう思った矢先、チャイムが鳴った。いつもの、どこか無機質で平板な電子音が、教室に響き渡った。
先生がやってきた。しかし、その先生は明らかに異常だった。強烈な幻妖の気配が体に取り憑いていて、思考能力を失っているのが一目でわかった。
目が虚ろで、動きが少しぎこちない。
「チャイム鳴ったぞ。席につけ。チャイム鳴ったぞ。席につけ。チャイム鳴ったぞ。席につけ……」
同じ言葉を、まるでレコードの針が飛んでいるように繰り返す。膳野が小声でつぶやいた。
「なんか、おかしくないか?」
先生の目が、ギョロリと鵺の方に向いた。焦点が合っていないのに、なぜか彼女を捉えているような気がした。
「お前は、このクラスの生徒ではない! ダレェだてぇぇえは!!」
膳野くんが即座に叫んだ。
「なんかやべーぞ! 男連中は夜島のお姉さんを守れ!!」
「なんか分かんねーけど、やべーから手を貸すぜ!!」
クラスメイトたちが異常な先生を窓際へ押し留めようとした。しかし、それが悪手だった。
先生の異常な勢いに、膳野くんたちも本気で対抗してしまったのだ。つまり、窓の外へ落ちる。
体が浮く瞬間、誰かの悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
俺は小さく息を吐き、心を整える。そして静かに言葉を落とした。
「戦闘開始」
鵺さんから貰った力が顕現する。漆黒の鎧を身に纏い、落下中の先生のもとまで一気に辿り着いた。
風が耳元を切り裂くような感覚。地面が近づいてくる中で、先生に取り憑いていた幻妖を切り裂き、なんとか先生の体を地面でキャッチした。
腕にずしりとした重みが伝わってきた。しかし、戦いはそこで終わらなかった。幻妖は先生に取り憑いたまま、先生の生命エネルギーをゆっくりと、しかし確実に吸収し続けていた。
その姿は、本を持ったゴリラだった。分厚い本を片手に持ち、どこか威圧的なシルエット。
現実離れした光景なのに、なぜか妙に生々しく感じられた。
「チャイムが鳴った。席につけ」
瞬間、空から光の柱が落ちてきた。凄まじい重力の奔流。座れ、という命令をきっかけに、上から下へエネルギーとして振り注がれる力だった。
体が押しつぶされそうな圧力。
骨が軋むような感覚が一瞬、走った。
「座れ、座れ、座れ」
俺は静かに、しかしはっきりと言った。
「悪鬼、断つべし」
俺の精神が折れない限り、敗北というものは存在しない。首を折られても、心臓を奪われても、拷問されても、消滅しても、気合いと根性だけで現実を粉砕し、敵を滅ぼすために戦い続ける。
それが俺のやり方であり、俺の生き方だった。光を伴った重力の奔流を受けながら、俺は一気に加速した。
刃が幻妖を真っ二つに切り裂いた。切り裂かれた瞬間、何か黒いものが霧のように散っていった。
鵺さんが、穏やかな声で言った。少しだけ安堵したような響きがあった。
「流石だね、学郎」
「先生は無事ですか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「良かった」
俺は力を解除して教室にいるクラスメイトたちに向かって、できるだけ大きな声で叫んだ。
「先生は無事だ!!」
膳野くんの声が、すぐに返ってきた。少し興奮が残っているような、息の上がった調子で。
「うおお!! 夜島!! ナイスだ!! それはそれとして、いきなり消えて地面にいるの、どういう仕組みだよ!」
その後、俺は先生を保健室に運んだ。
先生はただ過労気味だったらしい。顔色は悪かったが、命に別状はないようだった。ベッドに横たわる先生の寝顔を見ながら、俺は少しだけ胸をなでおろした。
翌日、学校へ行くと、昨日の事件について誰も覚えていなかった。
教室はいつものように騒がしく、誰かが冗談を飛ばしては笑い、誰かがため息をつきながら宿題を写し合っている。
おそらく陰陽師の組織が事後処理をしたのだろう。人の記憶を操作したり、物理法則を超越できることが前提で成り立つ彼らの組織に、俺は強い危機感と、同時に頼もしさを感じずにはいられなかった。
あの組織が味方である限りはいいが、もし敵に回ったら……そんなことを、ふと考えてしまった。
窓の外では、いつものように桜の木が風に揺れていた。
花びらが一枚、ゆっくりと舞い落ちていくのを見ながら、俺は今日もまた、誰かのために前へ進むのだと思った。
過去を振り返らず、ただ前へ。壊れるまで、砕け散るまで。
それが、俺の責務だ。