雄叫びで空気が震える。
湿った空気を吹き飛ばすような咆哮。
大きく振るわれた腕の一振りで、岩山が砕け散る。
夜闇の中、月光に照らされ鋭く光る赤い瞳。
──あのちっぽけな悟空が、これになるんだから。
何度見ても、やっぱり大猿化っていいなあ。
飛び退いて拳をかわしながら、血が沸々と湧き立つのを感じる。
憧れの姿。
今ならわたしも空を見上げれば同じ姿になれる。薬もまだ残ってる。
比べるまでもなく、大猿化した悟空はわたしの何倍も大きい。
このまま戦うのは少々手間だし、それならこちらも大猿化すればいい。
大猿化は戦闘力が跳ね上がるし、同じ条件ならば、そんな時間をかけずに勝てると思う。
「……それで、いいのか?」
歯を食いしばりながら、四肢に力を巡らせる。
この星に来た日。
負けたのは、大猿のわたしじゃない。
変身して勝ったところで、それはリベンジにはなり得ない。
爪先で地面を掴み、振り下ろされる拳の隙間を縫うように潜り込む。
腹に拳を叩き込む。
鈍い衝撃が腕を駆け上がった。だが、大猿の巨体はかすかに震えるだけ。
「くっそ、全然動かない!」
普通に攻撃するんじゃダメだ。
一点集中で、隙を狙わなければ。
「ウォォオオ……!!」
苛立ったような唸り声と共に、太い尻尾が地を薙ぐ。
跳んで避けたところに、追い打ちで振るわれた腕が空を切った。
一撃一撃は正直、そこまで速くない。
振り切った腕を戻すまでには隙がある。理性がないぶん、動きも単純で読みやすい。
だが、大猿の腕も尻尾も、ただ振るだけで周囲をまとめて薙ぎ払ってしまう。
そしてその巨体は、周りにあるものなどまるで気にしていない。
「あっ、ばか!!それわたしのポッド……あーー!!」
ただでさえ壊れかけていたポッドが、真後ろで轟音と共にひしゃげて水たまりに突っ込んだ。
どうせ役に立つことはもうないとはいえ、複雑な気持ちで思わず肩を落とす。
もう、こんなこだわりは捨てて大猿化しちゃおうか。
そんな考えが頭をよぎった、その時。
「悟空?!月を見たんかっ」
木々の隙間から、驚愕したような、聞き覚えのある声が響く。
目を凝らせば、ちょうど、大猿の足が向かう先にじいさんの姿があった。
避けようと身動ぎ、ずるりとぬかるみに足を取られる老人が嫌にはっきり見える。
「──じいさん!!」
考えるより先に地を蹴っていた。
大猿の足が大きな影を作り、じいさんめがけて降りていく。
重なるか否かというところで膨れ上がる気を足一本に集中させ、体重もパワーも全て載せて、大猿の膝に蹴り込んだ。
「ど、けぇッ!!」
大木を押すような感触が、脛から全身に突き抜けた。足の骨がかすかに軋む。
だが、狙い通りわずかに体勢は崩れた。振り下ろされかけていた足が、じいさんの頭上を素通りし、代わりに真横の林を丸ごと潰す。
「し、死んだかと思った……なにやってんのじいさん!!」
肩で息をしながら、ズン、と地を揺らして大猿が足を着ける音を背に聞く。
じいさんが、ふう、と息をついてこちらを見た。
「すまんな。助かった」
「助かったじゃない!!あんなの避けれただろ、呑気にするなよ。殺されかけてたじゃん!」
「いや、近頃、たまにうまく力が入らんことがあってのう……それに悟空には殺す気はなかろうよ。あれは、ただわからんだけじゃ」
「同じだよ、当たったら潰れるんだから!くそ、せっかくリベンジしてたのに。邪魔しないでよ」
顔に飛んだ泥を拭って悟空に向き直る。
勘弁して欲しい。こんなんじゃ気が散ってまともに戦えやしない。
「……観戦するならもっと邪魔にならないところにして」
「ふふ……ああ、そうじゃな。くれぐれも、無理はするでないぞ」
飛び立つ間際に背後へと言い残せば、場違いな程に穏やかな声が返ってきた。
こ、このおとぼけジジイ……本当にわかってるのか?怪しいところだ。
◇◇◇
水たまりに映る月が、地響きと共に掻き消える。
それからどれくらい拳を交わしただろうか。
幾度も拳を弾かれ、大猿の攻撃を避け、服ももうボロボロだ。大振りだから避けやすいのがまだ幸いだが……さすがに体力にも限界がある。
それは、わたしだけじゃなく、相手も。
「そろそろ、終わらせなきゃな」
数秒前まで体があった位置を巨大な拳が押し通る。
身をひねって避けた先で、大猿の足が勢いよく振り上がった。
しかし、はじめに比べれば速度もパワーもガタ落ちだ。
本能のまま暴れ続けているだけの体は、燃費が悪い。気をコントロールしているこっちより、ずっと。
「はは。知ってた!」
目前に迫る大猿の膝を蹴り、その力を利用してぐんっと真上へ飛ぶ。
ここだ!これでやれないなら、今のわたしに勝ち目はない。
気を腕へ、拳へと集中させる。
ただ殴るんじゃ意味がない。
狙うのは、無防備な大猿の顎の骨。
「これで──おやすみ、だッ!!」
まっすぐ、かち上げるように拳をぶち込む。
衝撃は、骨を伝って大猿の頭の奥まで。
「ウグッ……?!」
くぐもった声を最後に大猿の赤い目が光を失い、ぐらりと傾く。
そのまま、大地を揺らして仰向けに倒れる巨体。
木々をなぎ倒しながら横たわった毛むくじゃらの体が、みるみるうちに縮んでいく。
……地響きが収まった後には、顎が少し赤くなった小さな体が一つ、地面に転がっているだけだった。
すう、と穏やかな寝息が聞こえる。
「──やった」
漏れ出た声は、掠れていた。
思ったより疲れていたようで、膝から力が抜けて、そのまま土の上に倒れ込む。
勝った。大猿に、生身で!変身することなく!
震える拳を握りしめ、空に突き上げる。
指先まで痺れて、動かすたび全身が悲鳴を上げた。
見上げた空は、光が滲んで紺色が薄まってきている。
夜明けだ。
「じいさん!!」
「なんじゃ?まったく、散々暴れて傷だらけになりおって……」
「わたしの勝ち、だよね?」
差し込む日の光に照らされて、じいさんがポカンと惚ける顔が見える。
「だから、朝食は山盛りの包子でよろしく!」
「は?……まさか、今から仕込めっちゅうんか?!老骨に鞭打つわい」
「ははは!冗談冗談、夕飯でいいって」
「今日なのは変わらんのか!!まったく……仕方ないのう」
じいさんがため息をつき、眠ったままの悟空を抱え上げ、肩を叩いている。
しばらく寝かせるかと思ったが、どうも違うらしい。
「起こすの?一応気は全部込めなかったし、たぶん大丈夫だと思うけど……」
「意識を失っとるからのう。ほれ、悟空。大丈夫か」
「んん……あさめしか?オラ、はらへった」
寝ぼけた様子の悟空が目を擦る。
この星に来た時から変わらない。相変わらず、あんな暴れ回ったとは思えない呑気な顔だ。
顔や顎をよく確認して、じいさんが一つ頷く。
「ふむ。少し早いが軽い朝飯にして、その後昼まで寝たらいいじゃろ。あれだけ動き回ったんじゃ。よく休むんじゃぞ」
こくりと悟空と共に頷く。
さすがに夜通し戦っていたので、少し疲れた。
「夕飯には食べ切れんほど包子を作ってやろう……メイズ。起きたら包むのは手伝ってくれるか?」
「仕方ないな。ま、わたしは大した怪我もないしね。包子のためだし少しくらいはやるよ」
「おらも、くうからやる……」
じいさんの腕の中でぼんやりと悟空がつぶやく。
呆れた顔でじいさんが口を開いた。
「……お主ら、ふたりして食い意地張っとるのう」
「はぁ?!わたしは勝者の権利であって食い意地なんかじゃない!!」
「そうかそうか、お主はそういうやつじゃったな」
「なにその生暖かい目……?!だから違うって!!」
「ほれほれ、そう騒ぐでない。寝不足の頭に響くじゃろうが」
「こ、こんのジジイ……!!」
小鳥の囀りが響き始める。
……いつもと変わらぬ、朝が来る。