提督が退役しました。これより年金生活に入ります 作:デモステネス
あと10分、あと5分とベッドでまどろむ。うん。起きたくない。いつにもまして起きたくない。支那の大人は言いました。春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つることを知る多少ぞ 窓の明るさと空気の湿り具合からいって夜中にちょっと降ったみたいだけど、風は吹いてなかったし、そもそも花壇作ってないから花の落ちようがないしね。
だいたい自分、退役してるのになんで現役時代と同じ朝6時起きの夜10時寝の生活を続けているのさ。柳は自問自答した。退役して仕事から解放されたからには好きな時間に起きて好きな時間に寝てもいいんじゃないだろうか。うん、そうだ。きっと、いやそうでなければおかしい。
昨日は対青葉防諜小物作るのに頑張りすぎた。納期も期限もあるわけでもなし、好きな時に仕掛けて好きな時に発動すればいいものを、ついノリと勢いで色々作ってしまった。YHWHの神だって7日目にはこれで良し、って言って休んだぞ。人間の自分はもっと短期間で休んだってバチ当たらん。
よし、今日は昼前まで寝てやる。そうと決めたら二度寝だ二度寝。
加古、半加古、大加古、複合加古、加古未来、加古完結、ぐう。
加古がフランス語動詞の格変化を唱えている姿を想像しながら、たちまち柳は寝入ってしまった。書いたとおり発音しないこともさることながら、格変化の多さに恐れを為して真っ先に第二外国語の選択から外したのである。苦手教科を体が受け付けない、というのは褒められたことではないが、何事も物は使いよう。そんなものだから、すぐそばで起床ラッパを吹かれるまで部屋に人が入ってくる気配など気付きようがなかった。
「司令官」
誰だ我が帰去来生活を邪魔する無粋な奴は。ラッパなんか吹いて。
「柳提督」
え!? この声は。なんでここに。いやしかし。でも間違えようがない。一気に頭に血が巡り覚醒する。弾かれるようにベッドから飛び出した。
「おはようございます」直立不動の姿勢を取り敬礼する。
「おはよう、ですか?」
「すいませんでした! 柳佐理、グラウンド走ってきます!」
「ちゃんと準備運動するんですよ。」
「アイアイ、マム!」
部屋に残された二人の艦娘は顔を見合わせて苦笑した。
「いつもこうなんですか、柳提督は。」
「こんなに遅いのは初めてだね。いつもは朝ごはん間に合うように起きてくるよ。」
「ごはんも食べないで寝こけていたんですか。」 やれやれとばかりに首を振る。「退役したとはいえだらけ過ぎですね。まあ、イレブンジズには丁度いいでしょう。」
柳提督の知り合いって、紅茶好きじゃなきゃいけない決まりでもあるのかなあ。最上は訝っていた。いくら英国生まれといったって、皆が皆紅茶お化けになるわけじゃあるまいし。その理屈でいえば神威さんはコーヒー欲しさに鞍手放しているはずなんだけど。
「御台所を借りますよ。どちらですか。」
さて講義室。アントノフの搭載カメラの画像に実艦のイメージを重ねた映像を流しながら昨日の対空演習の反省会が行われており、広報取材班三人が愕然としていた。咄嗟の判断としては最良と思った変針先が青葉の見越し位置そのもの。避けるつもりが着弾予定地点にまっしぐらに向かっていたからだ。
「見越し位置じゃない場所に操艦するか、対空砲火で敵機のコースをずらすか。撃墜できればそれに越したことはありませんが。」と、青葉。
昨日はメンタルモデルだけで対空手段がありませんから条件は厳しいですけど、と言い、皆が安堵の表情を浮かべたところで、でも吹雪さんはきちんと避けました、と突き放す。
「いやあ、吹雪さんと一緒にされても。」
「なぜ一緒にならないんですか。」
「だって吹雪さんは大本営の鳳翔さんの特別講座修了者ですぞ。」
「そういったら深海棲艦の艦載機が照準外してくれるんですか。」と、吹雪。
しまった。いつもの軍隊式教育法だ。初日と次の日くらいはお客さん扱いだが、三日目からいかに自分が何もできない木偶の坊かを新兵を思い知らせる奴だ。広報だからと思って浮ついていた。心の中で舌打ちをしたがもう遅い。
「漣学生、あなたは何ですか。」
「教官。私は、ドジでノロマな亀です。」
「じゃあスクール水着に着替えなさい。」
「えっ!」
「ドン亀なんでしょう。急速潜行して避けて御覧なさい。」
下手に言い訳すればこき下ろされ、流そうとすれば煽られる。親身の指導に内心げっそりしながら三人が受け答えをしていると扉が開き、流れるシナモンの香り。
「さ、皆さん。お茶の時間ですよ。」
白雪と見慣れない艦娘がワゴンを押して入ってきた。
「ども、ご無沙汰してます。」
「お久しぶりです。 司令官は?」
見慣れぬ艦娘に親しげに挨拶する青葉と吹雪に三人は前線が通過したことを悟った。どこの誰だか知らないけれど正義の人よありがとう。でも誰だっけ?
「柳提督ならお外を走ってくるって。ほら」
白雪ではない方の艦娘がグラウンドを指差した。柳がジョギングしている姿が見える。窓辺に近付き、窓を開けて叫んだ。
「お茶の時間ですよ。シャワーを浴びてらっしゃい!」
「柳佐理、グラウンド走ってきました!」
姿勢を正し、きちんと敬礼する。いやー、司令官のまともな敬礼は久々に見ますね。青葉はニヤニヤし、吹雪と白雪は目配せし合った。さすがは対柳決戦兵器。司令官が自発的に罰を受けています。
「よろしい。イレブンジスですよ。ドーナッツが揚げ立てです。」
「いただきます!」
朝食抜きでグラウンド走って体が水分と糖分を求めて訴えているのがよくわかる。いい歳をしたおっさんがドーナッツにがっつくのを常盤をはじめとした艦娘たちは微笑ましく見守った。
「それにしても御前。知らせていただければ迎えを出しましたものを。」
紅茶三杯目でようやく人心地のついたらしい。柳が茶目っ気たっぷりに話しかけた。
「おや。孫に会うのにいちいち伺いを立てなければならんようになったのかえ。」
常盤も調子を合わせる。「さすが勅任官ともなると違うものよの。」
「・・・勘弁してください。」
柳は頭を掻いた。かつての帝国海軍であれば最終階級中将の自分は勅任官になろうが、艦娘の提督が率いるのは多くても200人程度。数からいえば尉官相当で、陛下から辞令を授与されるなど畏れ多いにもほどがある。お偉方をお偉方とも思わない言動で定評のある柳だがそれなりの基準はある。
「で、今日はどうしたのさばばちゃん。」さっさと話題を変えることにした。
「青葉さんとやりあう、って聞きましたからね。立会いに来ましたよ。」
「たーっ」
「ぅひゃぁぁぁ・・・」
柳と青葉が同時に白雪を見、柳は嘆息し青葉はみるみる青ざめた。ウチの主計は段取りが良すぎる。
「孫?」と衣笠。
「ばばちゃん?」と秋雲。
「どゆことなの?」漣が尋ねた。
「うちの爺さんは常盤で終戦を迎えたんだ。」
「へーえ」
三人とも感心していた。艦娘の提督でうちの爺さんは○○に乗っていた、と戦艦空母の名を挙げる提督は一定数存在するが、補助艦艇の名を挙げる提督はまず聞いたことがない。まして常盤は日露戦争ならともかく、日華事変以降は機雷敷設艦である。
「常盤さんは、柳提督のおじいさんのこと憶えているの?」
「ええ。柳佐吉上等兵曹は、話のうまい人でしたよ。」
常盤は微笑んだ。「上のことからヘル談まで、芸風の広い人でね。当直の時なんかあの時の話をお願いします、ってよくねだられてましたね。」
「爺さんが乗ってた艦なんだから、私にとってもばばちゃんさ。
さてと。私が掃除するところを見たい、と言っていたね。」
柳に見つめられて秋雲は頷いた。
「吹雪教官、反省会は終わったのか。」
「さわり以上1コマ未満です。」
「やらなきゃならんことは済ませなきゃな。続きを頼む。終わったら昼だな。掃除は午後からにしよう。」
「はい、Headmaster」
「それまで『旅行』にしますか。例によって妖精さんが頑張ってくれたんですよ。工廠長も応援で来てくれてね。」
先ず柳が常盤と連れ立ち、おずおずと青葉が続く。最後に白雪がワゴンを押して部屋を出ていった。
「さ、続きをしますよ。」
笑顔の吹雪に三人は天気図を思い浮かべていた。温暖前線通過後は引き続き寒冷前線通過で、しかも強風着氷警報つきだった。
一旦事務室に寄ってトートバッグを持ち出し常盤と表に出た。短いながらもまともな滑走路を見て常盤が褒め、妖精さんが頑張ってくれました、と胸を張る。作ったのは深海棲艦側の妖精とその親玉で、こちらの妖精さんは誘導灯や吹き流しといった付属施設くらいしか作っていないのだが所属まで聞かれた訳ではない。祖母とも慕う相手に余計な悩みのネタを背負わせる必要はない。
「こちらへ」
滑走路横の防風堤に座った。残土の上に貝殻を敷き詰めたので遠目には薄汚れた白い、積み上げられた雪が溶け残っている雪捨て場のように見える。たっぷり海水を掛けてもらったので当分草刈はしなくて済むはずだ。
「今日は、風が騒がしいようですね。」
またうちの孫が何か言い出したわ。「何か、悪い物を運んできたんですか。」
「私の大事な物をさらっていこうとする風を止めなければなりません。
あれは私の執務室ですが。」
白いブラインドを下ろした窓を指差し、バッグから双眼鏡を取り出した。塗料を使い分けて反射を変えて描いた模様がよくみえる。ニヤリとして常盤に双眼鏡を渡した。
「何ですか、あれは。」
「灯台の地図記号とフランス王家の紋章のパターン柄ですが、邪な心を持つ者には別な物に見えるかもしれません。」
そう誤解するようにいささか縦長に引き延ばしてある。
「例えば全校で名前を知らない女子はいなかった弓道部長さんとか。」
「弓道部長?」
「私が退役した後、青葉は刺激を求めて情報部に転属したんです。」
「ああ。」常盤は頷いた。
「下手な実戦部隊より情報部の方が荒事多いですからね。私の手の内を良く知っていて、現役時代から不満分子なのを隠そうともしない実歴を買われたようです。
どこかその辺に望遠カメラと送信機のセットが仕掛けてあるはずです。探してもいいですけど、別なところに仕掛け直されるだけなんでやりませんが。」
「それでまた柳葉十番勝負。」常盤は呆れていた。「懲りないわ。」
「リアルで女にもてた、っていうから、凄いですねえ。うらやましいです。私なんかじゃ及びもつきません、ってヨイショしまくってたんですけどねえ。なんなんでしょう。」
常盤は噴き出した。情報部長が作戦課時代、どこぞの会議の際に艦娘に好かれているからって調子に乗るな的なことを嫌みたっぷりに言い、柳が真面目腐った顔で台詞の棒読みで返したのはあちこちで暫く語り草になったものである。
「大丈夫なのかしら、情報部。」
「深海棲艦相手に諜報も防諜もあったもんじゃないですし。」柳は肩をすくめた。
「元帥府あたりに一人くらいああいうのがいた方が面白い、って言ってるのがいるんじゃないかなあ、ホント。」
「そういうことなら」常盤は断言した。「十分におやりなさい。ただし、限定戦争で。」
青葉は、柳と常盤が外に出たのを確認すると踵を返した。ヤバイですヤバイです。常盤さんが来るなんて想定外です。他はともかく、アレは外すったって時間がないです。青葉はノリノリで仕掛けた昨晩の自分を殴りたい気分だった。かくなる上は上書きしてなんとか誤魔化さないと。
常盤 浅間型装甲巡洋艦2番艦
1898年進水、1945年除籍。六六艦隊計画で建造された巡洋艦。日露戦争、第一次世界大戦、日華事変、太平洋戦争に従軍。終戦間際に空襲で大破擱座。
平和時ならともかく、10年ごとに戦争があったこの時代で半世紀も運用された艦は世界的にも常盤位なもの。船として出来がよく、練度も高ければ強運でもあった。