「どうした、息子。随分切なそうな顔をしている」
「そう、でしょうか」
幼馴染であった少女に抱き締められた後、少年は呆然としたまま帰宅した。
また明日、そう告げられたごく普通の挨拶すら、どうしてか頭の中心に居座ったままで追い遣ることができなかった。
「……彼女に、抱き締められました」
「そうか」
「何処にも行かなくていいと、言われました」
「そうか」
酷く機械的で無感情な返事。今に至るまで気にも留めなかったそれに、少年は奇妙な不快感を覚えた。投げたボールが初めて返ってこなかったような。あるいは、父親との間に何か見えない壁が突然出来てしまったような、そんな感覚。
今の今まで感じたことがなかったそれの正体を、少年は掴めない。
だから、ひたすらに伝えようと言葉を選ぶ。
「俺は、きっと彼女を不幸にします」
「絆を尊ぶ者にとって、私達は悪夢そのものだろうな。関わらない方がきっと幸福だ」
忘れられる者。繋がることのできない家系。独りでも生きていけてしまう存在。
誰かと共に在ることを、そして誰かと誰かが繋がっていくことを重んじる人間と関われば、自分が一切傷つかないまま相手だけを不幸にする。
少年は「寂しい」という感情を感じ取れなかった。どうして独りで居ることが苦痛なのかをまったく理解できない。
だから簡単に他者から距離を取り、容易に縁を断とうとした。仮に自らの裡に起こった感情で傷つこうと、自分が輪から切り離されること自体を苦しいとは微塵も思わなかったから、
父親も至った応えは同じだった。
遺伝する呪い、忘却をもたらす待ち針。それによって家族を忘れても、最愛の妻を忘れても、愛する我が子の名前を覚えられなくなっても、悲しみを覚えない。
厳密に言えば、彼はその事を悲しいとも辛いとも感じられる。だが、それ以上に
「俺たちは、忘れられることで誰かを幸福にする存在です」
「そうだな。そして、そうであるのならそもそも誰かに記憶されるような存在になるべきではない」
相手が本当に大切であるのなら、相手から忘れられる程度の存在であるべきだ――――それが彼ら親子の下した結論。
だが、その上で。
彼らが血の繋がった親子であることは、その結論に対する何よりの反論だった。
「それでも、一緒に居たいと……思いました。俺が、俺のせいで、不幸になるのだとしても……彼女を幸せにしたいと、初めて願いました」
結論と矛盾した感情、破綻する理論。自分と関われば不幸になると断言したのに、自分が隣に居ることで幸福にしたいと答えを押しのける。
あの日の少女が愛する誰かを連れて自身の目の前に現れれば、少年は安堵出来たはずだった。自分が忘れ去られることで、誰かを幸福にできるのだと立証できる。少なくとも少年の中ではその理屈は筋が通っている。
だが、少年の中にあったのは「そんな相手など居てほしくない」という真逆の情動だった。荒れ狂うほどの感情を理解不能という烙印を押して封じ込め、辿り着いた先で待っていた少女の姿を見て、その背後に立つ二人の大人を見て、そして
挙句、それすらもあるべきではない感情だと無意識に押し込めて踏み躙った。
故に今、少年はもはや自分が何を考えているのか分からない。どうして誰かの幸福を願っているのに、その幸福の形に文句を付けたくなるのかまるで理解できていない。
だから、少年は父親に問いかけた。
「父さんは、母さんに同じ感情を抱きましたか」
「…………ああ。抱いたとも」
全てを受け入れてしまう受容性。永遠に中身の満ちない底抜けの器。誰がどうなろうと受け止めて、ああそうかと飲み込めてしまうはずの心は、しかし。
「私以外の誰かが彼女の傍で笑っていることを、
たった一つ。それだけは、男が決して飲み込めない感情だった。
名前も、顔も、声も。何一つ思い出せない。何を言ったのか、何を与えて与えられたのか、いったいどれだけの事を経験したのか、
そうして押し流された空白の中で、ただその感情だけが息をしている。
だからこそ、男は血の繋がった息子を大切にした。
文字通りの忘れ形見、全てを忘れても尚残ったものを守り抜こうと必死になった。
そうして今、父親となった男は、愛する我が子にそれを伝える。
「息子。全てを忘れ去っても尚、胸に残る温度がある。お前にも宿った、小さな小さな炎の温度だ」
「……熱くて、苦しくて……眩しいです」
「自分の居た場所が暗くて寒い場所だったのだと自覚させてしまう、あまりにも残酷な暖かさだろう。お前はきっと、その熱を知りたくなかったと思う日が来る。自分自身の知りえなかった醜さすら白日の下に晒されて、苦悩する時が必ず訪れる」
「……なら、こんなもの、忘れた方が良い」
「いいや、できない。それは忘れられないものだ、息子。その熱さを、眩しさを。その正体を忘れたとしても、それを経験したこと自体は決して忘れられない」
きっと、これから少年はその炎の扱いに苦心するだろう。自分を傷つけ、相手を傷つけ、不幸を生むかもしれない。
それでも、父親として男はその情動を肯定する。それは在っていいものだと、傷つける可能性だけを憂いて排さなくてもいいのだと。
「息子。それが、
「――――分かりません」
心臓を握り潰さんとばかりに自分の襟元を掴んで、少年は吐き捨てるようにそう告げる。
だっておかしい、狂っている。
「前提が壊れている。他人を不幸にする、不幸を願うような感情に何の意味があるんですか」
「意味などないよ、息子。最初から在るものに意味を見出すのは、それこそ意味のない行いだ」
「なら、俺にはどうして
「前提が違っていたのだろうな。お前の中にも寂しさはちゃんと存在していた。ただ、それがもたらす痛みがお前にはあまりにも小さすぎて、周囲と同じようには感じ取れなかっただけだ」
「……こんなにも辛いものを、あの子は感じていたというんですか」
「そうだ。お前が
ずきずき、じくじくと胸を突き刺して抉り続けるようなその痛みに、少年はもう耐えられない。彼女から忘れられればそれでいいと心の底から本気で思っていたはずなのに、かつての日と同じように決心しようとすれば、その場で蹲ってしまいそうになるほどの激痛に襲われる。
何という事をしたのだろうと、あまりにも遅い後悔が少年を蝕んでいく。
どれほど残酷な事をしたのだと、過去の己を殴り殺したいほどの怒りに囚われる。
どうすればいいのか、どうしてあの日に教えてくれなかったのかと荒れ狂う呪詛のままに父親に問おうとして、少年は自分を見下ろしていたあまりにも冷たい視線に射抜かれた。
「私がお前にこれを言わなかったのはな、息子。お前が自覚しない限り、何を語ろうと決して響かないからだ。実体験があるからこそ言える。お前も私も、経験したこともないものに対して理解を及ぼすことが出来ない。これは宿業の類だ。取り戻せないことを理解してようやく身に刻む余地が出来る、それが私達だ」
訥々と語る姿はやはり機械的だ。だが、そこには紛れもない父親としての理解がある。
自分にあまりにもよく似ているからこそ、男は自身の息子の行いに対して先んじて手を打つようなことをしなかった。
理解できないことを理解できないまま語られても、絶対に納得しないから。自分自身を恨み憎むほどの後悔を経験しない限り、他者の言葉を真っ直ぐには聞き入れないから。
己の行いを振り返って深い傷を負って、ようやく自分の過ちに気付くから。あまりにも鈍感に過ぎる血筋を誰よりも理解するからこそ、父親として男は容赦をしない。
「息子。お前が今するべきことは何だ」
「……あの子を、傷つける、前に――――」
「
自分自身を忘れ去るように。こんなにも醜い生き物を覚えていなくてもいいように。
身に覚えのある感情を発露しながら忘却の待ち針を掴んだ息子の手を、父親は遮った。
「息子。お前のそれは、もはや誰かの幸福を願う行いではない。最も楽な方向へ逃げようとする怠慢に他ならない」
「なら、どうしろと……!」
「向き合うんだ。誰かに覚えられてしまった自分自身と」
不思議な力に酔うなと、父親は息子を咎める。何もかもをリセットすればそれでおしまい、そんな楽な道に逃げることを、男は許せなかった。
「忘れられる程度の存在でなくてはならなかったモノが、誰かにとって忘れたくないものになった時。其れがしなくてはならないのは、誰かに記憶されてしまった自分を顧みることだ」
何一つ思い出せずとも、ただ胸に刻まれた後悔だけが男の言葉を後押しする。
忘れられることで幸せにするのではなく、
「あまり周囲を舐めるなよ、息子。お前が想う少女は、お前よりもずっとずっと強い。お前がするべきことは、
「…………今更、謝ったところで」
「今更だろうが何だろうが、時効など存在しない。お前は彼女からいったい何を受けた?」
「……頬を、思いっきり、叩かれました。とても、怒っていて……泣いていました」
「それに対して、その時お前は何を思った」
「何も、思えませんでした」
「では、今、お前は何を思う」
痛覚を凌駕する胸の痛みと心の軋みの中で思い出す、頬のひりつき。あの時は単なる電気信号でしかなかったそれに、少年は万感の想いを馳せて、言葉を絞り出す。
「――――酷い事をしてしまった」
「ならばそれを面と向かって口にするんだ。遅い早いではない。許されるか否かでもない。それは飲み込んではいけない言葉だから、ちゃんとぶつけるんだ」
寂しさを理解すれば、次に浮かぶのはとても子供じみた情動。
嫌われたくない、機嫌を損ねたくない。だから何も言わない、
全てを忘れ去ってしまった人間だからこそ、父親はそれを引き留める。忘れてはいけないと手を掴んであらん限りの力で抵抗する。
「忘却に縋るな。思い出に直面するんだ」
「……」
「お前が向き合わなくてはいけない相手は、誰だ」
誰かを愛しなさい。誰かを幸せにできる人になりなさい――――では、そのためには一体どうするべきなのか。幼い子供に言い聞かせるような言葉のその先を、父親は息子に問う。
「彼女に、伝えたいことが出来ました」
「そうか」
「……でも、怖いです」
「何が怖い、息子」
「…………嫌われたく、ないです」
記憶は無い。思い出せもしない。けれど、それでも感じた想いだけは胸に残っている。だからこそ、男は息子が発露したあまりにも脆く弱い本音に共感する。
「言っただろう。それが寂しさだと」
「知らなければ、良かったですね」
「たとえお前が彼女と出会っていなかったとしても、いつか必ず思い知っていたさ。お前は俺によく似ているから」
何かを決意したかのように顔を上げた息子を見て、父親は笑う。それまでの貼り付いたような笑顔でも、貫くような冷たい視線でもなく、心からの安堵を以て微笑みを浮かべる。
行ってきなさい。そう告げた途端、父親の元から息子は離れていった。
男の血縁が持っている忘却の力。それ自体が先なのか、それとも遺伝する孤独への耐性が先であったのかは卵が先か鶏が先かというループする命題の如く、最早証明できないものである。
だが。しかし。
少なくとも今、それを問う意味は限りなく失われた。
――――この子は、私のように……また、独りになってしまうんだろうな
――――貴方がそうだったように、私達の子供もきっと、誰かを恋しいと思えるわ
声を思い出せなくても、その言葉だけは男の裡でまだ熱を灯している。
だから、重荷を下ろしたような気疲れした顔で、男は再び笑った。
「私達の愛する息子は、ようやく誰かを恋しく思えたみたいだ」
孤独の中で生きていけるはずの存在が、孤独ではいられなくなること。
繋がる事の出来ない呪いを理解してなお、繋がりを握り締めようとすること。
いつかの日に、胸に灯った炎が誰かの胸に光をもたらすこと。
幸せにしたい誰かが男に居たからこそ息子が生まれ、そして息子の幸せを願ったように。
形がないからこそ、形を失っても忘れられないもの。それを、男は愛と名付ける。
「私がそうだったように。お前がそうではいけない理由など無いんだ、息子。お前は、お前が胸に描く誰かを、不平等に重んじて良いんだ」
◇
「それでよ。結局ピサはあいつのどういうところが好きになったんだ?」
「んえっ!?」
“また明日”。そう告げて別れたその日の夜、ヴィクトワールピサとその友人たちは自然と寮の談話室に集まって話の続きを始めた。
ルーラーシップに問いを投げ掛けられた瞬間こそ耳が跳ね起きるほどに驚いていたが、その言葉の意味を咀嚼すると彼女はすぐに冷静に考え込む。当初に語っていた「嫌い」という言葉を忘れてしまったかのようなその素振りは、見栄や意地の類と分かっていても苦笑してしまうような身の変わりようだった。
「トレーナーさんとその奥さん……当時は恋人同士でしたが、あの方達と歩みたいと思った時のような、それこそ契機のようなものはあまり無かったです。きっかけこそ鮮烈でしたが、そのあとは……」
決定的な瞬間というと彼女自身思い当たる節はない。
ある日関わろうと決めてから、いつでもそこに少年は居た。それがいつしか当たり前になって、隣に居てくれることを当然だと思うようになって。家族ではない、友人とも違う距離感は彼女の中に不思議な比重を持って存在するようになっていった。
それを言葉にするのなら、結局は陳腐な一言に集約される。
「もっとこの子と一緒にいたい、という思いが、少しずつ積み重なっていったんだと思います」
「ふふ、分かるなぁ。一緒にいてくれた人を好きになるって、結構小さな思い出の積み重ねなんだよね」
「居心地いいなーって感覚? 私は幼馴染いた訳じゃないけどさ、ハッキリ自覚すると急にこの人がいいなってなるんだよね」
各々が各々の相手を思い浮かべて微笑み、あるいはトランセンドのように覚えた既視感を僅かな輪郭として掴みながら飲み込む。
一方、ヴィクトワールピサは次の瞬間には耳を絞っていて。
「…………一度、裏切られましたけど」
「あっ」
「いや、まぁ……私ですら、正直あれは少々酷いとは思った」
「動機は……分からないでもないのが、余計にと言いますか……」
「鈍感とはちょっと違うよなぁ……クソボケってああいう事言うんだろうな」
気付いていない訳ではない。理解はできなくても尊重しようとはしていた。しかしその結果として此方の想像だにしない方向に挙動がぶっ飛んでいく。おまけにそうしようと思った内心自体は説明されれば理解可能なのがタチが悪い。少女達の意見は合致していた。
「でもさ、良かったじゃん。『君を幸せにするのは俺じゃないと嫌だった』なんてさ〜?」
「はうっ」
「こっちまでドキドキしちゃったよね〜! ちょっとやきもち入ってるのが余計にというか……!」
茶化すように笑うトランセンド、そういう話題に目が無いとばかりに食いつくブエナビスタ。
結局のところ、全ての行動は幼馴染となった少女を幸福にしたいがため。自分というイレギュラーを排せば、あとは彼女自身の力で幸せになれると信じたから。それが少年の行動原理だった。
だからこそ、発露したその嫉妬心は逆に彼女達には突き刺さるものであったようで。挙句にそれを感じた瞬間に起こした行動が「嫉妬で傷つけるよりも自分だけが苦しめばいい」という結論によるものとなれば、少々いけない感情をくすぐるには十分だったらしい。
「大胆な事しちゃったよね~? 公衆の面前で思いっきりハグだなんて」
「あうっ」
勢い余って、兎にも角にも引き留めようとした結果の熱烈な抱擁。その時点ではヴィクトワールピサも達成感で自分自身を誤魔化せていたのだが、時間が経てば経つほどその行いを意識してしまう。
数瞬前の手を繋いだだけで酷く動揺したことまで連鎖的に思い出してしまえば、もう彼女には自身の顔が熱で火照るのを止める術が無かった。
「そ、それなのですが」
「お?」
「さっきからずっと思い出してしまって……顔、を、見れなくなりそうで……!」
林檎のように真っ赤に染まってしまった頬を両手で包みながら、煩悩を振り払うように頭を振る。
その姿はまさしく恋する乙女そのもの。いじらしくも可愛らしい有様に湧き上がる僅かな羨望と嗜虐心は止めようもなく、同じように幼馴染を持つブエナビスタが意地悪な質問をするには十分な動機となった。
「で、さ。どうだった――――大好きな男の子とのハグ」
「み゛ゃっ!!?」
「猫みたいな声出たぞ」
「そこそこの時間抱きついていたな、そういえば」
「彼からのアプローチは軽く頭を撫でる程度でしたけれど……」
「いーや、あれはどうすればいいか分かんなかったやつだね」
ただでさえ上気していたヴィクトワールピサの顔は一瞬で文字通り沸騰したように真っ赤になる。
引き留めるためとはいえ、その後十分ほど抱き締め続けていたのは普通に言い逃れのしようがない。あろうことかちゃっかりと
「そ、その……あったかくて、体、大きくて、何だかいい匂いで……! つい、本当についですけど、意識的になんかじゃないですけど、ずっとこうしてたいって、思ってしまって……!」
しどろもどろになり、両手の指を絡めながらどうにか言い訳を絞り出そうとするが、しかしそれを人は自白と言う。
もはや首や耳まで真っ赤になってしまったヴィクトワールピサを囲むように――――あくまで周囲の迷惑にならないように抑えた声量で――――爆発する黄色い歓声。
「分かりますよ、ピサさん」
「フラッシュさん……」
「意中の殿方の匂いは隙を見つけて嗅ぎたくなるものです」
「フラッシュさん!?」
「そのうち離れるの我慢できなくなってシャツとか欲しくなるからね」
「おいちょっと待てブエナ、まさかお前の私物に混じってたシャツってむぐぐ」
「知己を窃盗で訴えたくはないのだが……」
「大丈夫、許可は取ったよ」
「ならば良いか。要らぬ心配だった」
「もっと大事なものがダメになった気がするんだけどなぁ……?」
主に尊厳とか。そう言いかけて、自分もトレーナーの上着を拝借していたと思い出しトランセンドは口を噤んだ。げに恐ろしきはウマ娘の鋭い五感である。好いた相手の匂いは下手な香水よりよほど強烈に意識させて余りあるものだった。
あれよあれよという間にもみくちゃにされていく金髪の少女。
その懐で、唐突にスマートフォンが着信を告げる。
「……ん? おいピサ、携帯鳴ってるぞ」
「あ、本当ですね……え?」
「一体誰、が……」
相手の名前が画面に表示された瞬間、彼女ら全員の時は止まる。
名前は読める。だが、
だが、
「……もしもし」
『……』
「……ぁ……聞こえて、ますか?」
無言の電話を訝しみ呼び掛けようとして、ヴィクトワールピサは言葉に詰まる。名前を思い出せないから、相手を呼ぶ方法が分からないのだ。
名前という最も単純な繋がりが最初から断たれていることに思い至って、ちくりと胸を刺す痛み。だが、それで戸惑うほど彼女はもう軟ではない。
「待ちます。貴方が言葉を探せるまで、このまま待ってますから」
『……』
「だから、たくさん悩んでください。貴方が考え抜いた言葉を、聞きたいんです」
冷静で、無感動。そんな表面上の態度に対し、内心では色々な事を考えていて、自分の情動を言葉にするのに酷く時間が掛かってしまう、ある意味で鈍感すぎる少年。
それを理解して、待たないという答えはヴィクトワールピサの中には一切なかった。
数秒、数十秒、一分、二分。
周囲の方が焦れてくるほどにあまりにも長い無音は、いつまで経っても途切れないまま。
そして、遂に。
『――――ごめん』
少年が考え抜いて選んだ言葉は、結局のところ、その3文字だった。
『明日を待つことが、できません』
また明日。その言葉すら凶器となって胸を抉りぬいてくる。朝が来るまでの時間すら耐えることが出来ない。
少年に友人は居ない。家族と言えるのはたった一人で、それ以外の繋がりなどヴィクトワールピサ以外に誰も居ないのだ。その事実を孤独の痛みと共に認識してしまったが故に、今や少年は自壊寸前だった。
『こんな痛みを、君に背負わせてしまって、ごめんなさい』
たった一度、ほんの一瞬の小さな灯。それがもたらした光と暖かさ。
知ってしまったが故に、見通してしまった暗闇と冷たさにもう耐えることが出来ない。
『俺は、君に、酷い事を……してしまった』
傍らに友が居て、同じ道を歩まんとする相方が居て、そうして踏破した3年間。独りでは到底無理だったと彼女がトレーナーへ語ったそれを知る由はなくとも、彼は身をもって理解してしまった。
繋がりを断とうとする事。最初から居なかったかのように振る舞うこと。トレセン学園への入学を期に彼女へともたらしたそれが、どれほど惨い仕打ちとなったのか。自分がどれだけ最低な事をしたのかを、言葉少なに懺悔する。
『だから、もう――――』
「はい、許します」
もう、これっきり。そう言ってこれまでの全てから背を向け、独りで背負おうとした少年を、ヴィクトワールピサは手放さなかった。それどころか「まさかまた何処かへ行こうとしたのか」と咎める。
「今、どこに居ますか」
『言えません』
「なら、探します。今からでも」
『……本当に、やるのでしょうね。君は』
「はい、だって……」
言葉を一度切って、深呼吸。
まだ恥ずかしいけれど、口にしない理由も無くなった。
「どれほど酷い事をされたって――――結局、貴方の事が好きなんですから」
『何故ですか』
「寂しくて仕方がなかったあの日。静かになってしまった、大好きな場所。それでも、そこに行けば必ず貴方が居ると思えたから」
『そんな程度のことで?』
「貴方にとってそうでも、私にとってはそうじゃなかったんです」
積み上げた思い出がある。長い長い空白の間も、決して忘れることなど出来なかった色彩がある。
木陰へ駆けていけば、いつだって一緒に居てくれた。それだけで、想いを寄せるには十分過ぎた。
「だから、敢えて言うのなら
『……良いのですか』
これ以上独りにならないでと、ヴィクトワールピサがそう言い切る前に発された、痛みを堪えるような声色はあまりにも悲痛だった。
咎められるよりも許される方が苦しいということを、少年は今に至るまで知りえなかった。安堵すらもが胸を締め付けてくるその感覚に翻弄される。
「はい。それでも消えてしまいたくなるくらい、貴方が自分自身を恨んでいるのなら。私が代わりに貴方を好きでいます。貴方が嫌う分、私がその何倍も好きだって言いますから。だから、もう独りになろうとしないで」
再びの無音。
言葉を待つ間に聞こえ始める、寮の窓を叩く水滴の音。
それは、少年の足元からも聞こえてきていた。
『……雨の音が、聞こえます』
「どういう意味か、聞いてもいいですか?」
『――――――――寂しい』
門限まで時間がなくとも、ヴィクトワールピサが走り出すには充分だった。
・少年
結局のところ、彼は痛みに鈍感で、遠回りなだけだった。
・ヴィクトワールピサ
ようやく、それを口にしてくれましたね。
・少年の父親
いきなさい。私も、行くべき場所が出来た。
・ステイゴールド
本当に似てるな、あの二人――――忘れられない旅になっただろ?
・少年の母親
覚えてるわ。忘れない。だから、今でも待ってる。
どうにか書きたいところまで書き上げられたので、ひとまずここまででしてよ。後の様子は読者の皆様の想像にお任せします。
前作に比べるとちょっと短いですけれど、此処まで読んでいただけて有難うございますわ!