プロセカの世界に転生したオタク、過去の俺がヒロインたちに重すぎるフラグを建てすぎていて平和な日常が戻ってこない件 作:雨風 時雨
『今日、合同委員会の仕事で遅くなるって言ってましたよね? ……もう、終わりましたか? 私、ずっと待ってるんですけど』
スマホの画面に表示された、小豆沢こはねからのメッセージ。
送信時刻は、今からきっちり30分前。つまり、俺がまふゆと奏の修羅場から逃げ出し、裏門を駆け抜けていたまさにその時間帯だ。
(待ってくれ。俺、今日の放課後は委員会の仕事があったのか……!?)
前世の記憶と現世の記憶が融合した反動で、直近のスケジュールの細かい部分がすっぽりと抜け落ちていた。
神山高校と宮益坂女子学園が合同で行っている、地域の音楽イベントの実行委員会。俺とこはねは同じ委員会に所属しており、今日は月に1度の定例会議と備品チェックの日だったはずだ。
そして、作業が長引くからと、こはねに「俺が最後までやっとくから、先にお帰り」と声をかけた記憶が、薄っすらと蘇ってきた。
(終わった。完全にすっぽかした……!)
普通の女子高生相手なら、「ごめん! 急用ができて先に帰っちゃった!」と平謝りすれば済む話かもしれない。
だが、相手は今の「激重バグ」を発症しているこはねだ。
もし彼女が、俺が戻ってくると信じて薄暗い会議室の前でずっと待ち続けているとしたら。そして、俺が他の女にかまけて自分を放置したと知ったら。
彼女の中で何かが弾け飛び、取り返しのつかないバッドエンドフラグが成立してしまう。
「クソッ、戻るしかない……!」
俺は弾かれたように踵を返し、来た道を全力疾走で引き返し始めた。
息が上がり、肺が悲鳴を上げるが、足を止めるわけにはいかない。
ミクの「依存を解け」という言葉が脳裏をよぎるが、物理的に放置して心を壊させるのは「自立」ではなくただの「破壊」だ。そんなことをすれば、俺自身の良心も耐えられない。
夜の神山高校は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
警備員に見つからないよう、裏門の柵をよじ登り、忍び込む。
月明かりだけが頼りの校舎内は、まるでホラーゲームのステージのように不気味だった。だが、今の俺にとって本当の恐怖は幽霊や怪談ではない。
階段を駆け上がり、特別棟の会議室へと向かう。
廊下の曲がり角を曲がった瞬間――俺は、ハッと息を呑んだ。
会議室の重厚なドアの前。
非常灯の緑色の光に照らされて、小柄な少女がポツンと膝を抱えて座り込んでいた。
宮益坂女子学園の制服。肩まで伸びた明るい茶色の髪。丸みを帯びたシルエットは、まるで主人の帰りを待ちわびる捨て犬のように小さく、ひどく儚げに見える。
「……こはね」
息を切らしながら俺が名前を呼ぶと、彼女の肩がビクッと跳ねた。
ゆっくりと顔を上げる。その大きな瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「……せん、ぱい」
震える声。こはねはフラフラと立ち上がると、俺の胸に飛び込んでくるようにして、その顔を制服に押し付けてきた。
ギュッと、背中に回された小さな腕に、驚くほどの力がこもっている。
「ごめん! 俺、急な用事が入って……連絡もせずに放ったらかして……」
「……嫌われちゃったのかと、思いました」
俺の謝罪を遮るように、こはねが絞り出すような声で呟いた。
胸元に、じわりと温かい涙が染みていくのが分かる。
「先輩、ずっと戻ってこないから……私、何か怒らせるようなこと言っちゃったのかなって。見捨てられちゃったのかなって、ずっと……」
「そんなわけないだろ。ごめんな、本当に」
俺は反射的に、彼女の背中に手を回して優しく撫でようとした――が、その手を空中でピタリと止めた。
(ダメだ。ここで甘やかしたら、また『依存のループ』に逆戻りだ)
前世の知識。小豆沢こはねは、もともと極度の引っ込み思案で、自分に自信がない少女だ。
そんな彼女が、ストリート音楽の聖地で白石杏と出会い、その圧倒的な歌声に魅了され、相棒として隣に立つために努力をする。それが、本来の彼女の美しい成長の軌跡である。
だが、現世の「無自覚だった俺」は、またしてもその尊い物語に土足で踏み込んで、特大の地雷を埋め込んでしまっていた。
数ヶ月前。杏の圧倒的な才能に囲まれ、完全に自信を喪失し、図書室の影で一人泣いていたこはね。
俺は、そんな彼女を見つけ、あろうことかこう言ってしまったのだ。
『俺は、白石杏の歌より、こはねの歌の方がずっと心に響くよ。……お前が自信を持てないなら、俺がお前の最初のファンになってやる。お前が歌う理由が分からないなら、俺のために歌え。俺が、ずっとお前の歌を聴き続けてやるから』
(だから過去の俺ェェェェ!!!!!)
思い出して、またしても舌を噛み切りそうになる。いくらなんでもタラシすぎる。
杏という「本来の相棒」を差し置いて、彼女の歌う理由を「俺」にすり替えてしまったのだ。
その結果、こはねは自信を取り戻した。だが、それは「杏の隣に立つため」ではなく、「先輩に自分の歌を聴かせるため」という、極めて歪んだモチベーションによるものだった。
俺がいないと歌えない。俺が褒めてくれないと、自分の存在価値がない。
小動物系という属性はそのままに、その実態は「俺の承認がなければ生存できない、純度100パーセントの依存型ヒロイン」へと変貌してしまっていた。
「……先輩、どこに行ってたんですか?」
俺の胸に顔を埋めたまま、こはねがポツリと問いかけた。
その声のトーンが、先ほどの涙声から、スッと一段階低くなった気がした。
俺とこはねは、同じ高校1年生だ。だが、俺が無自覚に大人びた態度で寄り添ってしまったが故に、未だに先輩呼びと敬語を貫かれている。
「え、いや、だから急用が……」
「急用って、誰とですか?」
「……え?」
こはねが、ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた瞳。だが、その瞳孔は薄暗い廊下の中で、蛇のように俺を射抜いていた。
「……先輩の制服から、香水の匂いがします。フローラル系の……私じゃない、誰かの匂い」
「っ!」
「それに、袖口。すごく強く引っ張られたみたいに、シワになってる……誰に、触られてたんですか?」
背筋が凍った。まふゆのシャンプーの匂い。そして、まふゆが俺を逃がすまいと強く握りしめていた袖のシワ。
まさか、こんな小動物のように怯えていた少女が、一瞬で浮気を疑う妻のような鋭い観察眼を発揮するとは。
「こはね、それは……」
「先輩は、私の歌をずっと聴いてくれるって言いましたよね。私のこと、一番見ててくれるって」
こはねの小さな両手が、俺の制服の胸ぐらをギュッと掴む。
「私、先輩のためならどんなに辛い練習だって我慢できる。先輩が褒めてくれるなら、杏ちゃんにだって負けないように歌う。……でも、先輩が私以外の誰かを見てるなら……私、もう声が出なくなっちゃうかもしれない」
「……ッ」
明確な、精神的脅迫だった。彼女は無自覚だ。ただ純粋に、俺を失うことへの恐怖から出た言葉なのだろう。
だが、それこそが彼女の「依存」の深さを物語っていた。
ここで「お前だけを見てるよ」と頭を撫でれば、この場は収まるだろう。だが、それは破滅の先延ばしに過ぎない。
俺は、深呼吸をして、震えるこはねの肩を両手でしっかりと掴んだ。
「こはね。よく聞いてくれ」
できるだけ冷たく、突き放すような声を作る。
「俺は、お前の所有物じゃない。俺には俺の生活があるし、他の奴と関わることだってある」
「……え?」
「お前が俺のために歌ってくれるのは嬉しい。でもな、お前が歌う本当の理由は、俺じゃダメなんだ。お前は……白石杏の隣に立つために、ストリートに出たはずだろう」
こはねの瞳が、限界まで見開かれた。
彼女の呼吸が浅くなり、顔から血の気が引いていくのが分かる。
「お前は、俺がいなくても歌える。自分のために、そして杏のために歌え。俺に寄りかかってるうちは、お前は本当に強いシンガーにはなれないんだよ」
――言った。ミクの教え通り、彼女の依存の根源を絶つための、強烈なショック療法。
俺の心臓は、罪悪感で今にも張り裂けそうだった。あんなに俺を慕ってくれている彼女に、こんな残酷な言葉を投げつけるなんて。
だが、これでこはねは気づくはずだ。俺の言葉がなくても、彼女の中には杏と共に歌いたいという「本当の炎」が眠っていることに。
静寂が、夜の廊下に降り下りた。
こはねは俯き、長い前髪で表情が見えない。彼女の小さな肩が、小刻みに震えている。
「……こはね?」
俺が恐る恐る声をかけた、その時だった。
「――ふざけんなよ、テメェ」
突然、廊下の奥の暗がりから、ドスの効いた低い声が響いた。
ビクッと肩を揺らす俺。闇の中から、ヒールの高い靴がカツン、カツンと足音を立てて近づいてくる。
街灯の光が差し込む場所に現れたのは、星を散りばめたようなジャケットを着崩し、長い髪を揺らす少女。
白石杏。こはねの相棒であり、俺がこはねを依存させてしまったが故に、最も割を食っている被害者。
彼女は、般若のような怒りの形相で、俺を睨みつけていた。
「あ、杏……!? なんでお前がここに……」
「こはねがいつまで経っても練習に来ないから、委員会の会議室まで探しに来たんだよ。そしたら、アンタがこはねを泣かせてる最低の現場に鉢合わせたってわけ」
杏はズンズンと大股で俺に近づき、俺がこはねの肩を掴んでいた手を、バチンッ! と力強く弾き飛ばした。
手が痺れる。本気の力だ。
「ちょっと、あんた何様!? こはねがどんだけアンタのことを……っ、毎日毎日『先輩に聴かせるんだ』って必死に練習してるのを知ってて、よくそんな残酷なこと言えるわね!!」
「違う! 俺はこはねのためを思って――」
「ためを思って!? 笑わせないでよ!」
杏が、俺の胸ぐらを力強く掴み上げた。
彼女の瞳には、燃え盛るような怒りと、そして……隠しきれない「嫉妬」のような色が渦巻いていた。
「こはねの歌の才能を引き出したのは私! こはねの隣にいるのは私のはずなのに……アンタが変に優しくするから、こはねの心はずっとアンタの方を向いてるんじゃない! 私の相棒をたぶらかしておいて、今更『自分のために歌え』だぁ!? どの口が言ってんのよ!!」
杏の叫びが、夜の校舎に木霊する。彼女の怒りは、まさに正論だった。
俺がこはねの精神的な核を奪ってしまったせいで、杏は「相棒の心が、常に別の男に向いている」という理不尽な状況でユニットを組まされているのだ。
だが、事態はさらに泥沼へ向かう。
俺と杏の間で縮こまっていたこはねが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、やはり光がなかった。彼女は、俺の胸ぐらを掴む杏の腕を、両手でギュッと掴み返した。
「……杏ちゃん。やめて」
普段の内気なこはねからは想像もつかないほど、低く、冷たい声。
杏がビクッと体を強張らせる。
「こはね……? だってこいつ、あんたに酷いことを……」
「先輩は、酷いことなんて言ってないよ」
こはねは、うわ言のように呟いた。
彼女の目は、完全に据わっていた。俺の放った突き放す言葉は、彼女の中で「都合よく」変換されてしまっていたのだ。
「先輩は、私を試してるんだよ。『本当に僕のために歌い続けられる覚悟があるのか』って。……私に厳しいことを言って、私をもっと強いシンガーに育てようとしてくれてるの」
「……は?」
「だから杏ちゃん。先輩に乱暴しないで。先輩は、私のプロデューサーなんだから……私の『すべて』なんだから」
こはねが、杏の手を強引に引き剥がし、再び俺の腕にすがりつく。
杏は、信じられないものを見るような目で、こはねと俺を交互に見た。
相棒の完全な「精神的敗北宣言」を聞かされ、杏の顔が怒りから絶望へと染まっていく。
「……こはね。あんた、本気で言ってんの?」
「うん。私、先輩のためなら何だってできる。……だから先輩、もう『いなくても歌える』なんて、悲しい嘘つかないでね?」
こはねが、俺を見上げてニコリと笑う。
その笑顔は天使のように可愛らしく、そして悪魔のように恐ろしかった。
(アカン。こはねの依存、逆に深まっちゃった……!!)
俺の自立支援プランは、ことごとく裏目に出ていた。
突き放せば突き放すほど、「彼からの愛のムチ」として吸収され、彼女たちの執着度はカンストを突破していく。
そして、最も恐ろしいのは目の前の白石杏だ。
相棒の心を完全に俺に奪われた彼女は、ギリギリと歯を食いしばり、俺を射殺さんばかりの目で睨みつけている。
「……いいわ。そこまでこはねが言うなら」
杏の声は、怒りを通り越して、どこか冷酷な響きを帯びていた。
「あんたがこはねの『すべて』だって言うなら……私が、あんたを叩き潰して、こはねの目を覚まさせてやる。……明日から、覚悟しとくのね」
杏は踵を返し、闇の中へと消えていった。
残されたのは、俺の腕にピッタリとくっついて離れない激重小動物と、相棒からの明確な「宣戦布告」。
夜の会議室前。俺の胃袋は限界を迎え、もはや立っているのすらやっとだった。
まふゆと奏の凍てつく修羅場に続き、ビビバスのユニット崩壊の危機。
バッドエンド回避RTAは、早くもゲームオーバーの足音を盛大に鳴らしながら、俺の平穏な日常を粉々に打ち砕いていくのだった。