『距離感バグってる年下に懐かれたら、いつの間にか好きになっていた話』 作:かみりあ
家に帰ってきて、ドアを閉めた瞬間に、みかはその場で小さく立ち止まった。
鍵をかける音が、思っていたより少し大きく響く。外の空気はそこで完全に切り離されたはずなのに、胸のあたりに残っている感覚だけが、まだ帰りきっていない。
静かだ。
自分の家なのだから当然なのに、その静けさが今日は少しだけ広く感じる。
靴を脱いで、バッグを肩から下ろして、いつものようにリビングへ入る。電気をつける。見慣れたソファ。見慣れたテーブル。昼に出たままの本と、飲みかけのペットボトル。いつも通りの景色だ。
でも、少し違う。
いや、違うのは景色じゃない。
そこを見ている自分の方だ。
「……だいぶ来てるな」
独り言が、そのまま部屋の中に落ちる。
なぎさの家から帰ってきたばかりだった。
ただ遊びに行っただけだ。そう言えばそうだし、嘘でもない。変なことをしたわけじゃない。特別な約束をしたわけでもない。ソファに並んで座って、飲み物をもらって、話をして、たまに笑って、また話をして、それだけだ。
それだけ、なのに。
みかはソファに腰を下ろして、そのまま背もたれにゆっくり体を預けた。少しだけ力を抜いたつもりなのに、気づくとまた、隣にわずかなスペースを空けている。
そこで自分の動きに気づいて、思わず苦笑した。
「またそれ?」
昨日も同じことをした。
一人で座っているのに、隣に人がいるみたいな位置を残してしまう。意味なんてないのに、体の方がそっちを“正しい”と覚えてしまっている。
つまり、そういうことだ。
今日、自分はなぎさの家にいた。
なぎさの部屋の空気を吸って、マグカップを受け取って、隣に座るのを当たり前みたいに受け入れて、その時間をちゃんと落ち着くと感じた。
そして今、その時間がなくなったことを、部屋の静けさの中でいちいち確認している。
「重いなぁ、私」
半分呆れたように笑う。
でも、その言葉に本気の拒否感はなかった。むしろ、苦笑しながら認めている感じに近い。
キッチンへ向かい、水を一杯飲む。喉が渇いていたわけでもないのに、何か動作をしたかった。コップを持ったままシンクにもたれ、ぼんやりと目の前を見る。
思い出す。
なぎさの家の玄関の静かさ。
綺麗に整った部屋。
外の音がすっと遠くなるような、落ち着いた空気。
そして、当然みたいに隣へ座った、小さな体。
あの距離は、もうほとんど違和感がなかった。
いや、違う。
違和感はあった。あったけれど、それを直したい側の違和感じゃなくて、むしろ“なんでこれがこんなに自然なんだろう”という種類のものだった。
それはたぶん、かなりまずい。
コップを置いて、スマートフォンを手に取る。迷ったというより、反射に近かった。指が勝手に動いて、トーク画面を開く。
上に出てくる名前を見ただけで、少しだけ口元が緩む。
筋肉ゴリラ
どう考えても、あの小さな女の子につく名前じゃない。なのに、今となってはそのちぐはぐさごと、妙にしっくり来ている。
履歴の一番下には、さっき別れたあとの短いやり取りが残っていた。
【姫みか】:じゃあ、今日はここで
【筋肉ゴリラ】:ええ。また連絡します
【姫みか】:そこはもう決定なんだ
【筋肉ゴリラ】:かなり
【姫みか】:ほんと好きだね、その言い回し
【筋肉ゴリラ】:気に入っていますので
【姫みか】:知ってる
そこまで見て、みかは小さく笑った。
会っているときもそうだけど、こうして文字だけでやり取りしていても、なぎさはちゃんとなぎさだ。言い方が少しずるくて、返し方がやたら軽くて、それなのにちゃんとこちらの気持ちの輪郭をなぞってくる。
だから、会っていない時間まで落ち着かない。
「……ほんとにさ」
呟きながらソファへ戻る。カップの代わりにスマホを持ったまま、もう一度座る。やっぱり少しだけ横が空く。
それを見て、もう笑うしかなかった。
この状態に名前をつけるのは、まだ少しだけ悔しい。
でも、つけずに済む段階も、たぶんもう過ぎている。
そこで、スマホが震えた。
みかは驚くより先に画面を開いていた。
【筋肉ゴリラ】:みかさん
【姫みか】:なに
ここまでは、ほとんど条件反射だ。
【筋肉ゴリラ】:今、かなり静かでしょうか
その一文を見た瞬間、みかはふっと息を吐いた。
「やっぱり分かるんだ」
あの人は、こういうところがある。
全部を当てるわけじゃない。未来を読むみたいなことをするわけでもない。けれど、相手が今どういう感じで座っているのか、何に少しだけ困っているのか、その輪郭だけをやけに自然に拾ってくる。
【姫みか】:静か
【姫みか】:しかも無駄に広い
【筋肉ゴリラ】:私も似たような感じです
【姫みか】:そっちも?
【筋肉ゴリラ】:ええ
【筋肉ゴリラ】:少し前まで、隣にみかさんがいたので
みかは数秒、スマホを見たまま止まった。
その言い方が、ひどく自然だったからだ。
変にロマンチックでもなく、気障でもなく、ただそこにあった事実をそのまま言っているだけなのに、その一文だけで胸の奥が少しだけほどける。
「それ、ずるいんだよなぁ……」
苦情みたいな独り言だったけれど、顔はたぶん笑っていた。
【姫みか】:そういう言い方ずるい
【筋肉ゴリラ】:よく言われます
【姫みか】:知ってる
【筋肉ゴリラ】:ですが、本当です
【姫みか】:そこも知ってる
会話が止まらない。
さっきまで一緒にいたのに、もう次の会話が自然に始まっている。おかしい。普通なら少しは間が空く。余韻を持ち帰る時間があってもいいはずだ。
それなのに、今の二人にとっては、こうして連絡を取ることまで“同じ流れの続き”になっている。
それが、たぶん一番まずい。
【姫みか】:ねえ
【筋肉ゴリラ】:呼ばれました
【姫みか】:その返し気に入りすぎでしょ
【筋肉ゴリラ】:使いやすいので
【姫みか】:もう便利って言わなくなったね
【筋肉ゴリラ】:注意されたので、少しだけ減らしています
みかはそこで声を出して笑ってしまった。
ちゃんと減らしている。
そういうところがまた、妙に律儀で、妙に可愛い。
可愛い。
今、自然にそう思った。
思った瞬間、みかは一度だけ目を閉じた。
「……あー」
とうとうそこまで来たか、という感じだった。
もちろん前からそういう印象がなかったわけじゃない。小さいとか、笑うと年相応に見えるとか、そういう意味で可愛いと思うことは何度もあった。
でも今のは違う。
そういう外側の感想じゃなくて、もっとその人そのものに対して、可愛いと思った。
会話の返し方も、ちゃんとこちらを見ているところも、余裕があるくせに感情を隠さないところも、全部込みで。
それはもう、かなり言い逃れが難しい。
【姫みか】:なぎさ
【筋肉ゴリラ】:何でしょう
【姫みか】:私、ちょっとやばいかも
送ってから、少しだけ息を止める。
自分で何を言っているのかは分かっている。でも、その言葉がどこまで伝わるかは分からない。
既読がつく。
返事は少しだけ間があった。
その“少しだけ”が、逆にきちんと読んでくれている感じがして、みかは画面を見たまま待つ。
【筋肉ゴリラ】:それは、どちらの意味でしょうか
みかは思わず小さく笑った。
曖昧なまま拾わない。ちゃんと確認する。そこが本当にずるい。
【姫みか】:そっちで確認するんだ
【筋肉ゴリラ】:大事な分岐かもしれませんので
【姫みか】:大げさ
【筋肉ゴリラ】:そうでもない気がしています
みかはスマホを持ったまま、背もたれに深く沈んだ。
ここでごまかすこともできる。いつものように、冗談っぽく流すこともできる。たぶん、少し前の自分ならそうしていた。
でも、今はもう、それをやる意味があまりない気がした。
なぎさはとっくに気づいている。
気づいた上で、焦らせず、でも逃がしもせず、ちゃんとこちらに選ばせるような距離で立っている。
そこまで分かっていて、まだごまかすのは、なんというか、負け方としても中途半端だ。
【姫みか】:会ってないと変な感じする
【姫みか】:会うと落ち着く
【姫みか】:それで、帰ると静かすぎる
【姫みか】:だいぶまずくない?
そこまで一気に送ってから、みかは顔を覆った。
「うわぁ……」
かなり直球だ。
でも、今の自分にはそれが一番正確だった。
既読は、すぐについた。
【筋肉ゴリラ】:かなりまずいですね
【姫みか】:笑ってるでしょ
【筋肉ゴリラ】:少しだけ
【筋肉ゴリラ】:ですが、私も同じです
【姫みか】:それがまた困るんだよ
【筋肉ゴリラ】:嬉しいのではなくて、ですか
【姫みか】:……両方
送ってから、みかはまた少しだけ黙った。
両方。
その言葉は、自分で思っていた以上にしっくりきた。
困る。
でも嬉しい。
嬉しいから困る。
困るのに、もうやめたいとは全然思っていない。
それってもう、かなり答えに近い。
【筋肉ゴリラ】:みかさん
【姫みか】:なに
【筋肉ゴリラ】:そこまで分かっていて、まだ認めないのは少しだけ意地が悪いと思います
【姫みか】:うわ
【姫みか】:言った
【筋肉ゴリラ】:言いました
【姫みか】:普通そこはもうちょっとぼかすでしょ
【筋肉ゴリラ】:ぼかす必要があまり感じられませんでしたので
みかはそこで、とうとうスマホを持ったまま天井を仰いだ。
もうだめだ。
この子はたぶん、最初から全部分かっている。
分かった上で楽しんでいる。
でも、意地悪なやり方じゃない。ちゃんとこっちを見て、ちゃんと選ばせて、そのうえで最後の一歩だけを軽く示してくる。
つまり。
「好きなんだよな……」
口に出した瞬間、自分の中で何かがすっと収まった。
そうか、と思う。
だからこんなに落ち着かないのか。
だから会うと落ち着くのか。
だから一緒にいる時間が妙に自然で、会っていない時間の方が変なのか。
全部、そこに繋がる。
みかはスマホを見下ろした。
【姫みか】:なぎさ
【筋肉ゴリラ】:ええ
【姫みか】:たぶん、好きなんだと思う
送る。
今度は迷わなかった。
既読がつくまでの数秒が、やけに長く感じる。
でも、返ってきた文は、思ったよりずっと落ち着いていた。
【筋肉ゴリラ】:たぶん、ではなくて、もうかなりそうだと思います
みかは、その返事を見てしばらく動けなかった。
嬉しい。
恥ずかしい。
悔しい。
でも、やっぱり少し笑ってしまう。
「ほんと、最後までそうなんだ……」
変に感動的にしない。
重くしすぎない。
でも、ちゃんと受け止める。
それが、すごくなぎさらしかった。
【姫みか】:そこはもうちょっとこう
【姫みか】:優しく言うとかあるでしょ
【筋肉ゴリラ】:では言い直します
【筋肉ゴリラ】:みかさんが、私を好きになってくださったなら、とても嬉しいです
みかは、その一文を見て、目を閉じた。
だめだ。
今度はこっちの方がずるい。
ちゃんと嬉しい。
ちゃんと、まっすぐだ。
さっきまで少しだけあった悔しさが、そこでふっとほどけていく。
【姫みか】:……うん
【姫みか】:それはもう、だいぶ
【筋肉ゴリラ】:知っていました
【姫みか】:やっぱりね
【筋肉ゴリラ】:かなり分かりやすかったので
【姫みか】:そこに戻すな
みかは声を出して笑った。
笑いながら、少しだけ目元が熱くなる。泣くほどじゃない。でも、何かがきちんと名前を持ったあとの安心感みたいなものが、じんわりと胸の中に広がっていた。
もうごまかさなくていい。
もう“なんか変”で止めなくていい。
好きだ。
ちゃんと、そういう意味で。
そこまで認めた瞬間、今までのいろいろな違和感が、全部きれいに一つに繋がった。
「……そっか」
小さく呟く。
その言葉は、今さらの確認みたいなものだった。
みかはソファの背に頭を預け、スマホを胸の上に置いた。部屋は相変わらず静かだ。でも、さっきまでとは少し違う静けさだった。
足りないものがあるんじゃない。
欲しいものが、もうはっきりしているだけだ。
それはたぶん、かなり大きな違いだった。
少しして、スマホがもう一度震えた。
【筋肉ゴリラ】:みかさん
【姫みか】:なに
【筋肉ゴリラ】:次に会うのが、前よりずっと楽しみです
みかは、その一文を見てゆっくり笑った。
【姫みか】:こっちも
【姫みか】:かなりね
送信してから、ほんの少しだけ悔しくなって、でもその悔しさすら今は楽しかった。
好きだと分かったあとでも、会話の温度は変わらない。
軽くて、ちゃんと刺さって、笑えて、でもちゃんと嬉しい。
それが、この二人らしいのかもしれない。
みかはスマホを置いて、ゆっくりと目を閉じた。
明日会いたい。
今すぐでもいい。
でも、次に会うまでの時間さえ、たぶんもう前とは違う。
待つことに意味があると知ってしまったからだ。
そして、それを教えたのがあの小さくて余裕のある女の子なのだと思うと、また少しだけ笑えてきた。
「……ほんと、なんなんだろ」
何度目か分からないその言葉に、今度はちゃんと答えがあった。
好きだからだ。
それだけで、十分だった。