『距離感バグってる年下に懐かれたら、いつの間にか好きになっていた話』 作:かみりあ
家に帰ってきたあとも、みかの中ではまだ今日が終わっていなかった。
玄関のドアを閉めて、靴を脱いで、いつも通り廊下を歩いてリビングに入る。たったそれだけの流れなのに、体のどこかがまだ外の空気を引きずっている。駅前の人の多さも、カフェの温度も、隣にいた小さな体の気配も、そのまま少しずつ薄くなりながら、完全には抜けていかない。
「……なんなんだろ」
独り言のつもりだったのに、やけに部屋の中に響いた。
誰もいない家は静かだ。もちろん普段だって同じはずなのに、今日に限っては、その静けさが少しだけ広く感じる。バッグをソファの横に置いて、そのまま気の抜けた動きで座る。背もたれに体を預けたところで、無意識に少しだけ横へずれた。
そこで、はっとする。
「いや、なんで」
隣に、スペースを空けるみたいな座り方になっていた。
自分でも意味が分からない。今この部屋には誰もいないし、別に誰かが来るわけでもない。それなのに、さっきまで隣に人がいた感覚だけが体に残っていて、自然にその位置を取ってしまった。
みかは眉を寄せたまま、ソファの上で少しだけ姿勢を直した。直したつもりだった。なのに、数秒後にはまた同じ位置に戻っている。
「……気持ち悪」
言葉はそうでも、そこに本気の嫌悪感はなかった。むしろ、困っているのは別の部分だ。
嫌じゃない。
それが一番厄介だった。
キッチンに向かいながら、今日のやり取りをなんとなく思い返す。イベント会場で初めて顔を合わせたときの、あの衝撃。想像よりずっと小さくて、それなのに妙に存在感があって、話し始めた瞬間に「この子だ」と分かった不思議な感覚。そこから先は、何かを考えるより会話のテンポに引っ張られるようにして、気づけばそのままずっと一緒にいた。
イベントを見て、服を見て、カフェで話して、そのあとも少し歩いて。
普通なら、どこかで一回立ち止まるはずなのに。
距離が近いとか、初対面だとか、年齢差があるとか、そういう“止まる理由”はいくらでもあるはずなのに、なぎさは全部を軽く飛び越えてきた。押しつけがましくないくせに、妙に自然な顔をして。それでいて、楽しそうに笑っていた。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、グラスに注ぐ。喉は乾いているのに、一口飲んでもあまり落ち着かない。
みかはそのままキッチンのカウンターに片肘をついて、少しだけ遠い目になった。
「いや、でも……」
思い返せば思い返すほど、変だ。
大人しいタイプかと思っていたら違った。静かな子ではあるのに、よく笑うし、ちゃんと遊ぶ。落ち着いているのに、会話は軽い。距離感が妙に近いくせに、嫌な近さじゃない。
しかも。
「……いちいち、ずるいんだよな」
ぽつりと出た言葉に、自分で少しだけ笑う。
“みかさんといると楽しいです”
“まだ帰りたくないので”
“この距離の方が自然です”
ああいうことを、変に溜めたりせず、そのまま言う。
言われた方がどう思うかを分かっていないわけでは、たぶんない。むしろ、分かっている気がする。分かっていて、でもわざとらしくなく、そのまま口にするから厄介なのだ。
みかはグラスを置いて、スマートフォンを手に取った。
画面は静かだった。
当然だ。別れたばかりなのだから、すぐに何か連絡が来る方がおかしい。そう分かっているのに、指はほとんど無意識にトーク画面を開いていた。
最後のやり取りは、別れ際の簡単なものだった。
【姫みか】:今日はありがと
【筋肉ゴリラ】:こちらこそ、ありがとうございました
【筋肉ゴリラ】:とても楽しかったです
その一文を、みかはしばらく見つめた。
「……こっちもだよ」
画面に向かって小さく言う。
もちろん、送ってはいない。
でも、そう思った。
いや、思っていたのはもっと前からだ。カフェに入ったあたりで、たぶんもう認めていた。楽しい。普通に。かなり。
それを自覚しているのに、なぜか今こうして改めて引っかかっているのは、その“楽しい”が思ったより大きいせいだ。
スマートフォンを持ったままソファへ戻る。さっきと同じように腰を下ろし、今度はあえて隣にスペースを空けないように座ろうとして、やっぱり少しだけ横へ寄った。
「だからなんでなんだって……」
もはや軽く笑うしかない。
そこで通知が鳴った。
指先が少しだけ早く動く。
【筋肉ゴリラ】:みかさん
【姫みか】:なに
【筋肉ゴリラ】:今、お忙しいですか
その文面を見た瞬間、みかは小さく目を細めた。
「絶対忙しくないの分かってて聞いてるでしょ」
独り言を挟みながらも、返事はすぐに打つ。
【姫みか】:忙しくない
【筋肉ゴリラ】:安心しました
【姫みか】:何
【筋肉ゴリラ】:確認なのですが
「確認」
やっぱり変な子だ。
でも、その言い方だけで少しだけ口元が緩んでしまう自分がいる。
【姫みか】:なにその丁寧な前振り
【筋肉ゴリラ】:大事なことかもしれませんので
【姫みか】:なにそれ怖い
【筋肉ゴリラ】:怖くはありません
【筋肉ゴリラ】:たぶん
【姫みか】:たぶん付けるな
画面越しなのに、ちゃんと会話のリズムがある。しかも、今日顔を見てからの方が、そのリズムが妙に具体的になっている気がした。文字しか見ていないのに、なぎさがどんな顔でこれを打っているのか、なんとなく想像できてしまう。
【筋肉ゴリラ】:今日は、楽しかったですか
みかは一瞬だけ指を止めた。
「……それ、確認するんだ」
わざわざ聞く?
いや、聞くのか。なぎさなら聞く。思ったことをそのまま口にするタイプなのだ。この場合、口じゃなくて文字だけど。
少しだけ迷ってから、みかは打ち込む。
【姫みか】:楽しかったよ
【筋肉ゴリラ】:それはよかったです
すぐに返ってくる。
【筋肉ゴリラ】:私だけではなかったようで安心しました
【姫みか】:そこ不安だったんだ
【筋肉ゴリラ】:少しだけ
【姫みか】:意外
【筋肉ゴリラ】:そうでしょうか
【姫みか】:もっと堂々としてると思ってた
【筋肉ゴリラ】:堂々とはしています
【筋肉ゴリラ】:でも、みかさんに関しては少しだけ別です
そこで、みかの指が止まる。
ほんの一瞬。
たぶん、一秒か二秒くらいのことだ。
なのに、その短い沈黙がやけに長く感じた。
「……だから、そういうとこだって」
小さく呟く。
なんなんだ、本当に。
こういうことを、変に気取らず、重くしすぎず、それでいてちゃんと残る温度で言ってくる。その絶妙さが、いちいち厄介だ。
【姫みか】:それ、だいぶずるいよ
【筋肉ゴリラ】:ずるいでしょうか
【姫みか】:かなり
【筋肉ゴリラ】:少し嬉しいです
【姫みか】:なんで
【筋肉ゴリラ】:ちゃんと刺さっているようなので
「認めるんだ……」
みかは思わず声に出して笑ってしまった。
会ってからのなぎさは、ゲームの中よりもっと分かりやすく楽しそうだった。余裕があって、落ち着いていて、それでも感情が薄いわけではない。むしろよく笑うし、面白がるし、その全部がちゃんと伝わってくる。
そして、その楽しさの中に、自分が含まれていることを隠さない。
そこが、妙に効く。
【姫みか】:ねえ
【筋肉ゴリラ】:呼ばれました
【姫みか】:その返し好きだね
【筋肉ゴリラ】:気に入っています
【姫みか】:知ってる
【姫みか】:今日さ
【筋肉ゴリラ】:ええ
【姫みか】:普通に会って、普通に出かけて、普通に別れたじゃん
【筋肉ゴリラ】:そうですね
【姫みか】:それが一番おかしくない?
送ってから、みかは少しだけ息を止めた。
何を言っているんだろうと思う。でも、気になってしまったのだから仕方ない。
返事は少しだけ間があった。
その間も、なぎさがちゃんと考えている感じがして、みかは画面を見ながら待った。
【筋肉ゴリラ】:少しだけ、おかしいと思います
【姫みか】:やっぱり
【筋肉ゴリラ】:ですが
【筋肉ゴリラ】:私は、あの流れがかなり好きです
【姫みか】:またその言い方
【筋肉ゴリラ】:嫌でしたか
【姫みか】:嫌じゃないのが困るんだって
打ち込んだあと、みかは一瞬だけ顔をしかめた。
「いや何言ってんの私」
そのまま送信取り消ししたくなる。でも、その前に既読がついてしまった。
終わった、と思う。
ところが。
【筋肉ゴリラ】:では、かなり順調ですね
みかは数秒、本気で言葉を失った。
「順調って何」
口に出してから、すぐに打つ。
【姫みか】:なにが
【筋肉ゴリラ】:みかさんが、私といることを嫌ではないと確認できましたので
その一文に、みかはスマホを持ったまま天井を仰いだ。
「……なんなんだろう、この子ほんとに」
困る。困るのに、笑ってしまう。
それがもうダメだ。
【姫みか】:なんかさ
【姫みか】:私ばっかり反応してない?
【筋肉ゴリラ】:楽しいですか
【姫みか】:質問で返すな
【筋肉ゴリラ】:かなり楽しいです
【姫みか】:それは知ってる
【筋肉ゴリラ】:みかさんも、笑っていました
【姫みか】:見てたんだ
【筋肉ゴリラ】:たくさん
そこまで言う?
みかはスマホを胸の上に置いて、しばらくソファの背に沈んだまま動かなかった。
見ていた。たくさん。
その言葉が、妙に残る。
たしかに、なぎさはよく見ていた。服を選んでいるときも、話しているときも、こっちの反応をちゃんと拾っていた。ただ、それが観察っぽくも、試している感じにもならないのは、たぶん本人が純粋に楽しんでいるからだ。
だから、余計に強い。
スマホがもう一度震える。
【筋肉ゴリラ】:みかさん
【姫みか】:なに
【筋肉ゴリラ】:次も会いませんか
【姫みか】:早くない?
【筋肉ゴリラ】:そうでしょうか
【筋肉ゴリラ】:今日、かなりうまくいったと思っています
【姫みか】:仕事の反省会みたいに言うのやめて
【筋肉ゴリラ】:では
【筋肉ゴリラ】:今日、かなり楽しかったので、もう一度会いたいです
【姫みか】:……言い直せるんだ
【筋肉ゴリラ】:努力しました
みかは、そこでとうとう声を出して笑った。
「ずるいなぁ……」
だいぶ本気で、そう思う。
断る理由は、別にない。
むしろ、会いたいと思っているのはこっちも同じだ。
だけど、それをこんなにあっさり言われると、なんだか自分だけが変に意識しているみたいで少し悔しい。
【姫みか】:じゃあ
【姫みか】:次も付き合ってよ
【筋肉ゴリラ】:もちろんです
【筋肉ゴリラ】:今度は、もう少し長くても大丈夫ですか
【姫みか】:長い前提なんだ
【筋肉ゴリラ】:短くする理由があまりありません
【姫みか】:その返しほんと好きだな
【筋肉ゴリラ】:ありがとうございます
【姫みか】:褒めてるかは微妙
【筋肉ゴリラ】:みかさんが言うのであれば、良い意味として受け取ります
会話が、止まらない。
スマホ越しなのに、距離が近い。
さっき別れたばかりなのに、もう次の約束をしている。
普通じゃない。
普通じゃないのに、そのこと自体が少しも嫌じゃない。
むしろ。
その“普通じゃなさ”に、妙な居心地の良さを感じている。
「……あー、もう」
みかはソファの背にもたれたまま、片手で顔を覆った。
笑っているのか、困っているのか、自分でもよく分からない。
ただひとつはっきりしているのは、今日会う前の自分にはもう戻れないだろうということだ。
ゲームの中で少し気になる相手だった。
それだけなら、いくらでも経験がある。
でも、顔を見て、声を聞いて、一緒に歩いて、隣に座って、その空気ごと好きになってしまうと、話は少し変わってくる。
たぶん、これは。
もう少しだけ面倒で、でも、もう少しだけ楽しいものだ。
【筋肉ゴリラ】:みかさん
【姫みか】:まだあるの
【筋肉ゴリラ】:あります
【姫みか】:なに
【筋肉ゴリラ】:今日は、ちゃんと寝てください
【姫みか】:急に保護者?
【筋肉ゴリラ】:次に会うとき、眠そうだと困りますので
【姫みか】:誰が困るの
【筋肉ゴリラ】:私です
その一言が、また静かに刺さる。
みかはスマホを見ながら、しばらく何も打てなかった。
困るのは、たぶん、こっちの方だ。
こんなふうに、まっすぐ言われるたびに、少しずつ自分の中の何かが形を変えていく。
まだ名前はつかない。
つけたくもない。
でも。
さっきまでの“違和感”とは、もう違う場所まで来ている。
【姫みか】:わかった
【姫みか】:今日はちゃんと寝る
【筋肉ゴリラ】:えらいです
【姫みか】:子ども扱い?
【筋肉ゴリラ】:少しだけ褒めています
【姫みか】:ちょっとムカつく
【筋肉ゴリラ】:ですが、笑っています
【姫みか】:見えてるわけじゃないでしょ
【筋肉ゴリラ】:なんとなく分かります
みかはその文を見て、ふっと息を吐いた。
たぶん、分かっているのだろう。
少なくとも、こっちが思っているよりずっと。
そう思うと、余計に悔しい。
でも。
それでも、会いたい。
また普通に隣を歩いて、同じ距離で話して、同じように笑いたいと思う。
そこまで来てしまっている。
「……これ、たぶんもう普通じゃないな」
小さく口にすると、部屋の静けさがその言葉だけをそのまま受け止めた。
みかはゆっくり立ち上がり、部屋の明かりを少し落とす。寝る準備をしながらも、スマホは手放せなかった。最後にもう一度だけ画面を見て、それからやっとベッドへ向かう。
横になって、天井を見る。
疲れているはずなのに、頭は妙に冴えていた。
今日のことを思い返す。会場で初めて見つけたときの驚き。横に並んだときの近さ。服を選んでいるときの視線。カフェで隣に座ったまま、普通に会話が続いていた時間。別れたあとの、今のやり取り。
全部が、一つの流れとして綺麗につながっている。
それが、少しだけ怖い。
でも、同じくらい。
次が楽しみだった。
みかはスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。
眠る直前まで、浮かんでいたのは、やっぱり楽しそうに笑う小さな横顔だった。