『距離感バグってる年下に懐かれたら、いつの間にか好きになっていた話』 作:かみりあ
朝、目が覚めた瞬間に、みかは少しだけ眉を寄せた。
眠りが浅かったわけではない。むしろ、ここ最近にしてはよく眠れた方だと思う。夜更かしもしていないし、途中で起きることもなかった。それなのに、目を開けた直後に感じたのは、言葉にしづらい妙な空白だった。
視界には、見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む光も、外を走る車の音も、全部いつも通りだ。
なのに、何かが足りない。
「……なにこれ」
小さく呟く。
寝起きの頭でも分かるくらい、その違和感ははっきりしていた。ただ、それが何なのかが分からない。何かを忘れているような感覚にも近いが、思い出そうとしても特に抜け落ちている記憶はない。
ベッドの上で上半身を起こし、数秒だけぼんやりと考える。
そして、思い当たる。
「……ああ」
昨日だ。
昨日、一日中なぎさと一緒にいた。
それだけだ。
それだけのはずなのに、その“それだけ”が思った以上に大きく残っている。
顔を洗いに洗面所へ向かいながら、みかは小さく息を吐いた。冷たい水が肌に触れて、少しだけ頭がはっきりする。鏡に映る自分は、いつもと同じだ。特別に何かが変わったわけではない。
なのに、内側だけが少しだけ違う。
キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。お湯を注ぐと、ゆっくりと香りが広がる。その匂いを吸い込むと、ようやく体が朝に追いついてくる。
カップを持ってリビングへ戻り、ソファに腰を下ろす。
そこで、無意識の動きに気づいた。
少しだけ、横に寄っている。
ほんのわずかだ。誰かが座るには中途半端なくらいのスペース。それでも、“誰かが隣にいる前提”の座り方になっている。
「……いやいや」
思わず苦笑する。
昨日の余韻を引きずるにしても、さすがに分かりやすすぎる。
だが、その位置を詰め直そうとしても、妙に落ち着かない。結局そのまま、少しだけ空いた場所を残した状態で座り続けることになる。
コーヒーを一口飲む。
味はいつもと同じだ。
でも、どこか物足りない。
「……重症じゃない?」
自分で言って、少しだけ笑う。
別に会えなくなったわけじゃない。昨日別れたばかりだし、また会う約束もしている。それなのに、こうして一人でいる時間が妙に長く感じる。
みかはテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。
画面を開く。
特に通知は増えていない。
それでも、指は自然にトーク画面へ向かっていた。
上にあるのは、いつもの名前。
筋肉ゴリラ
その名前を見ただけで、少しだけ口元が緩むのが分かる。
トーク履歴を開く。
そこに残っているのは、別れたあとの短いやり取りだけだった。
【姫みか】:じゃあね
【筋肉ゴリラ】:では、また
それだけ。
あまりにも短い。
けれど、その二行を見た瞬間、昨日の時間がそのまま頭の中に広がる。
服を選んでいたときの、妙に真面目な視線。
雑貨屋で、どうでもいい話をしながら笑っていた時間。
カフェで隣に座ったまま、当たり前みたいに続いていた会話。
近い距離に、途中から何も言わなくなった自分。
チャットには何も残っていないのに、記憶だけがやけに鮮明だ。
「……だめだな、これ」
スマホを見たまま、ため息混じりに笑う。
完全に引きずっている。
しかも、悪い意味ではなく。
だから余計に困る。
画面を閉じる。
でも、手はそのままスマホを離さなかった。
少しだけ迷う。
何も用事はない。
ないのに、連絡したくなる。
その感覚が、思った以上に強い。
「……いや、さすがに早いでしょ」
自分に言い聞かせる。
昨日会ったばかりだ。
しかも、結構な時間一緒にいた。
ここでまたすぐ連絡するのは、どう考えても距離の詰め方がおかしい。
分かっている。
分かっているのに、指はもう一度画面を開こうとしている。
「うわ……」
思わず声が出た。
完全に自覚してしまった。
これは、だいぶまずい。
そのタイミングで、スマホが震えた。
みかは反射的に画面を見る。
送り主を確認して、数秒だけ固まった。
筋肉ゴリラ
思わず笑ってしまう。
「タイミング、良すぎない?」
ほんの少し前まで、自分が連絡しようか迷っていた相手から、ほぼ同時にメッセージが来る。
こんなの、都合が良すぎる。
【筋肉ゴリラ】:おはようございます
【筋肉ゴリラ】:今日はかなり良い天気ですね
その文面が、いつも通りで。
でも、だからこそ安心する。
みかは少しだけ肩の力を抜いて、返信を打った。
【姫みか】:おはよ
【姫みか】:ほんとだね、晴れてる
すぐに既読がつく。
その速さに、思わず笑う。
【筋肉ゴリラ】:外ですか
【姫みか】:まだ家
【筋肉ゴリラ】:そうでしたか
【筋肉ゴリラ】:少し意外です
「またそれ」
みかは画面を見ながら笑う。
【姫みか】:なんで
【筋肉ゴリラ】:今日は、どこか出かけていそうな気がしていました
【姫みか】:そんなアクティブなイメージある?
【筋肉ゴリラ】:昨日の印象です
その一言に、みかは一瞬だけ動きを止めた。
昨日の印象。
それをそのまま持ってきて、今の自分に重ねる。
それが妙に自然で、少しだけ心に残る。
【姫みか】:それ昨日だけでしょ
【筋肉ゴリラ】:そうかもしれません
【筋肉ゴリラ】:ですが、楽しかったので印象が強いです
また、そういうことを言う。
みかはソファの背に体を預けながら、小さく息を吐いた。
「ほんと、ずるいな」
声に出してから、少しだけ笑う。
でも、その“ずるい”に本気の拒否感はない。
むしろ逆だ。
少しだけ、嬉しい。
【姫みか】:ねえ
【筋肉ゴリラ】:呼ばれました
【姫みか】:その返し好きだね
【筋肉ゴリラ】:気に入っていますので
テンポが、昨日と同じだ。
顔が見えなくても分かる。
このやり取りの空気を、もう知っている。
【姫みか】:今日ってさ
【筋肉ゴリラ】:ええ
【姫みか】:暇?
打ってから、みかは少しだけ呼吸を止めた。
早い。
でも、もういいかとも思っている。
既読がつく。
返事は、ほとんど間を置かずに来た。
【筋肉ゴリラ】:かなり暇です
【筋肉ゴリラ】:みかさんはどうされますか
みかはその文を見て、軽く笑う。
やっぱり、この子はこういう返しをする。
【姫みか】:今カフェ行こうか迷ってた
【筋肉ゴリラ】:では、一緒に行きますか
その一文に、みかは少しだけ目を細めた。
自然すぎる。
誘い方も、受け方も、全部が軽いのにちゃんと意味がある。
だから、断る理由が見つからない。
【姫みか】:来る?
【筋肉ゴリラ】:喜んで
その言い方が、また楽しそうで。
みかはスマホを持ったまま、ソファの上で少しだけ笑った。
「……もういいや」
負けた気がする。
でも、それでいい気もする。
午後、みかは再び外に出ていた。
待ち合わせ場所に向かいながら、自分でも少しだけ不思議に思う。
昨日、あれだけ一緒にいたのに、今日また会うことにほとんど抵抗がない。それどころか、むしろ自然だと感じている。
それが一番おかしい。
駅前の広場に着くと、なぎさはすぐに見つかった。
やっぱり小さい。
でも、やっぱりすぐ分かる。
こちらに気づいたなぎさが、ぱっと表情を明るくした。
「こんにちは、みかさん」
「こんにちは」
自然に返す。
距離が詰まる。
昨日と同じ位置に収まる。
それが、もう当たり前みたいになっている。
「また会えましたね」
なぎさが嬉しそうに言う。
「まあね」
「かなり嬉しいです」
「それ毎回言うね」
「毎回そう思っていますので」
笑いながら返される。
みかもつられて笑う。
その瞬間、朝から感じていた妙な空白が、きれいに埋まった気がした。
理由は分かっている。
隣にいるからだ。
「……なぎさ」
「何でしょう」
「今日さ」
「ええ」
「なんか、落ち着くんだけど」
ぽろっと出た言葉に、自分で少しだけ驚く。
でも、引っ込める前に、なぎさが柔らかく笑った。
「私もです」
その返事は、あまりにも自然だった。
「昨日の続きのような感覚があります」
「それ」
みかは少しだけ目を細める。
「それが一番おかしいって思ってたとこ」
「そうでしょうか」
「普通じゃないでしょ」
「ですが」
なぎさが、ほんの少しだけ楽しそうに言う。
「かなり良い状態だと思っています」
「評価するな」
「良いものは良いので」
みかは思わず笑ってしまった。
やっぱり、この子といると笑ってしまう。
それが、もう一番の答えだった。