『距離感バグってる年下に懐かれたら、いつの間にか好きになっていた話』 作:かみりあ
みかさんは、かなり分かりやすい人だと思う。
そう考えながら、なぎさは部屋の窓際に立っていた。午前の光はまだ柔らかく、レースのカーテンを通ると白く薄まって、部屋の中の輪郭をやさしく整えてくれる。机の上はきちんと片づいていて、昨夜のまま位置のずれていない本とペンが、几帳面なくらい静かにそこに並んでいた。
そういう整った景色の中に立っていても、今朝のなぎさの頭の中には、昨日の空気がまだ薄く残っている。
駅前のベンチに並んで座っていたときの距離。
隣にいることを、もうほとんど気にしなくなっていたみかさん。
そして、少しだけ視線を落としてから口にしたあの言葉。
『今日、なんか落ち着くんだけど』
あれは、かなり大きかった。
楽しい、ではなく。
気が合う、でもなく。
落ち着く、だった。
あの人はたぶん、自分で思っているよりずっと慎重だ。軽く笑って流すのは上手いし、ノリもいい。けれど、本当に自分の内側に入ってきた感覚については、ちゃんと一度立ち止まってから言葉を選ぶ。その慎重さがあるからこそ、「落ち着く」という表現はかなり重い。
隣にいる相手の存在が、もう違和感ではなく“前提”になり始めている。そういうことだ。
「かなり順調ですね」
小さく口に出すと、自分の声が思ったより少しだけ弾んでいた。なぎさはそれに気づいて、少しだけ笑う。
別に隠す必要はない。嬉しいものは嬉しいし、楽しいものは楽しい。そういう感情をわざわざ見えないところでまで押し込める理由は、特に思いつかなかった。
ベッドの上に置いたスマートフォンへ手を伸ばす。
画面を開くと、トークの一番下には、昨夜の短いやり取りが残っている。
【筋肉ゴリラ】:今日はありがとうございました
【姫みか】:こちらこそ
【筋肉ゴリラ】:かなり楽しかったです
【姫みか】:それはこっちも
そこまで長い会話ではない。けれど、短い文のあいだに、昨日の時間の余韻がちゃんと残っている気がした。
みかさんは、会っているときの方がずっと分かりやすい。でも、文字になったときは少しだけ素直になることがある。軽く冗談を挟んでいても、その奥にある本音が前より見えやすい。
昨日の最後もそうだった。
笑っていた。
困っていた。
でも、ちゃんと楽しんでいた。
その全部が、たぶんこちらと同じくらいの温度で残っている。
だからこそ、急がなくていい。
もう分かっているからだ。あの人の中で、こっちの存在はちゃんと“次があるもの”に変わっている。
「さて」
スマートフォンを机に置きながら、なぎさは小さく息を吐いた。
今日は会う予定がある。
昨日の別れ際、曖昧なようでいて、実質ほとんど次が決まっているような流れになっていた。みかさんはそのことを、あとからきっと少しだけ悔しがるだろう。でもその悔しさすら、今はたぶん楽しさの側にある。
クローゼットを開ける。
普段なら、気温と動きやすさだけで服はだいたい決まる。けれど今日は、そこにもう一つだけ基準があった。
みかさんと並んだとき、自然に見えるかどうか。
その基準があること自体、自分でも少し面白い。しかも、そう思っていることを否定する気がないあたり、今日の自分はかなり機嫌がいい。
「これだと少し真面目すぎますかね」
独り言を言いながら、一着戻す。
別のトップスを肩に当てて鏡を見る。
今度は悪くない。
頑張りすぎているようには見えない。けれど、何も考えていないわけでもない。ちょうどいい。たぶん、このくらいが一番自然だ。
髪を整えながら、なぎさはもう一度昨日のことを思い出した。
雑貨屋で、猫のマグカップを見て笑っていた顔。
カフェで、“普通に会ってるのが一番おかしい”と呟いた声。
ベンチで、少しだけ力を抜いたように“落ち着く”と言ったときの、視線の動き。
全部、かなり分かりやすい。
そして、その分かりやすさが、とても良い。
「今日は少しだけ、みかさんに決めてもらう時間を増やしましょうか」
鏡の中の自分に向かってそう言うと、口元が自然に緩んだ。
先回りしすぎると、あの人はちょっとだけ悔しがる。全部見透かされると、負けた気がするのだろう。けれど、少しだけ隙を見せると、ちゃんとそこへ入ってくる。世話を焼くほどではないけれど、“付き合ってあげる”くらいの顔をしながら、結局きれいに会話を拾ってくれる。
そういうところも、かなり好きだ。
家を出て、駅へ向かう道を歩く。昼の光は昨日より少し穏やかで、風も軽い。駅前へ近づくにつれて人の数が増えていくが、イベントの日ほどではない。いつもの休日の延長線上にある賑わいだ。
待ち合わせ場所に着くと、みかさんはすでにそこにいた。
前回よりも少しラフな服装で、でも手は抜いていない。立ち方はいつも通り少しだけ気だるげで、それなのに視線はちゃんと周囲を見ている。こちらに気づいた瞬間、わずかに表情が動いた。
嬉しい。
その反応が、かなり分かりやすかった。
「こんにちは、みかさん」
「こんにちは」
返ってきた声は、昨日より少しだけ軽い。そこに変な緊張がない。
「今日はかなり早いですね」
「そっちもでしょ」
「みかさんの方が先に着いている気がしていました」
「また見抜いてくる」
「当たりでしたか」
「……ちょっとだけ」
言いながら、みかさんが少しだけ視線を逸らす。その動きすら、かなり分かりやすい。
「それは良かったです」
「何が」
「私と同じでしたので」
そう言うと、みかさんは一瞬だけ言葉を止めて、それから困ったように笑った。
「ほんとにそういうの、さらっと言うよね」
「思ったので」
「それがずるいって言ってるの」
「よく言われます」
並んで歩き出す。
距離は自然に決まった。もうわざわざ調整しなくても、このくらいに収まる。人混みに押される必要もないのに、ちゃんと近い。それを今さら変える理由もない。
「今日はどうしますか」
なぎさが尋ねると、みかさんは少しだけ周囲を見回した。
「昨日、服とか雑貨とか見たじゃん」
「見ましたね。かなり楽しかったです」
「だから今日は、もうちょいゆるい感じでもいいかも」
「良いと思います。歩き回るより、少し落ち着いて話せる方が今日は合っていそうです」
「そういうのも分かるんだ」
「みかさんの顔を見ていると、だいたい」
「便利だねほんと」
「かなり」
「その使い方ずるいって」
みかさんが笑う。
そのまま、駅ビルの上にある大きな書店へ行くことにした。
店内に入ると、紙の匂いがやわらかく漂っていた。広いフロアに人がまばらに散っていて、誰も急いでいない空気がある。こういう場所だと、会話の速度まで自然にゆっくりになるから好きだ。
「本、読むんだっけ」
みかさんが平積みの新刊を眺めながら聞く。
「読みます。偏りはありますが」
「どう偏ってるの」
「妙に狭い分野の本と、軽い小説が混ざります」
「妙に狭い分野ってなに」
「最近は建築の断面図に少しだけハマりました」
みかさんがこちらを見て、数秒だけ黙る。
「……なんで」
「面白かったので」
「その理由で全部押し切るよね」
「かなり便利です」
「自分で言うな」
笑いながら、みかさんは料理本のコーナーへ足を止めた。鮮やかな写真が並ぶページをめくって、「これ絶対家では作らないやつだ」と呟く。その言い方があまりにも断定的で、なぎさは思わず声を立てて笑った。
「そんなに?」
「かなり断言するなと思いまして」
「だって作らないでしょ、見てるだけのやつ」
「それは分かります」
「共感も早いな」
「みかさんの言い分は、かなり筋が通っていますので」
「たまに褒め方が雑なんだよな」
それでも、みかさんは嬉しそうに笑っている。
棚のあいだをゆっくり歩きながら、なぎさは昨日より確かに空気が柔らかいことを感じていた。会話の入り方に無理がない。目が合ったとき、逸らすまでの時間が少し長くなっている。隣にいることを確認するみたいに、時々ふっとこちらを見る。その全部が、かなり良い変化だった。
「みかさん」
「なに」
「今日は昨日より、かなり落ち着いていますね」
「え、そう?」
「見ていて分かります」
「見られてるなぁ……」
「かなり」
「褒めてるってさっき言ったからね、それ」
「ありがとうございます」
「そういう会話じゃないんだけど」
みかさんは笑ってから、今度は文庫コーナーへ移動した。背表紙を見ながら、「これ絶対泣かせにきてる」「こっちは殺し合いそう」「このタイトルはもう不穏」と、勝手に寸評をつけていく。
そのテンポが面白くて、なぎさはつい何度も笑ってしまう。
「そんなに楽しい?」
みかさんが少しだけ頬を緩めながら聞く。
「かなり」
「知ってる」
「みかさんと本屋に来ると、予想以上にコメントが多いので」
「なにそれ」
「とても好きです」
さらっと言うと、みかさんの手が一瞬だけ止まった。
「……そういう言い方するよね」
「事実ですので」
「ほんと、ずるいんだよなぁ」
その“ずるい”には、もう最初みたいな警戒があまりない。困っているのは本当なのだろうが、その困り方がだいぶ柔らかくなっている。
書店を出たあとは、少しだけ歩いて、駅ビルの端にある休憩スペースに座った。大きな窓から外の景色が見えて、買い物帰りの人たちがゆっくり行き交っている。自販機で買った飲み物を手に、みかさんが小さく息を吐いた。
「こういう何でもない時間の方が変だな」
「変、でしょうか」
「うん。イベントとか、目的がある方がまだ分かるの」
みかさんはペットボトルのキャップを指で回しながら続ける。
「でも今日って、本屋見て、座って、話してるだけじゃん」
「かなり平和ですね」
「そう、それ」
「ですが、落ち着きます」
「……うん」
みかさんはそこで少しだけ視線を落とした。
「それが変なんだよ」
なぎさはその横顔を見ながら、小さく笑う。
もう分かっているのだろう。何でもない時間の方で居心地が良いと感じるなら、理由は外側ではなく相手そのものに寄っていく。その変化に、あの人はちゃんと気づき始めている。
「かなり良いことだと思います」
「また評価した」
「嬉しいので」
「……ほんと楽しそうだね」
「かなり」
「それも知ってる」
みかさんは笑ってから、少しだけ間を置いて、こちらを見た。
「なぎさってさ」
「何でしょう」
「最初から分かってたでしょ」
その問いには、ほとんど迷いがなかった。たぶん、ずっと聞きたかったのだろう。
「何をでしょう」
「こうなるの」
かなり核心に近い聞き方だ。
なぎさは少しだけ肩をすくめる。
「全部ではありません」
「全部じゃないんだ」
「みかさんと会えば、楽しい時間になるだろうとは思っていました」
「そこは確信なんだ」
「かなり」
「で、こうなるのは?」
「思っていたより早かったです」
みかさんが数秒だけ黙る。
「……早かったんだ」
「ええ。もう少しだけ、警戒されるかと思っていました」
「してたよ、一応」
「最初の十五分ほどは」
「短いな」
「かなり頑張っていただいたと思います」
「なんか悔しい」
その悔しさすら、もう笑いの側にある。
なぎさは少しだけ身を乗り出した。
「でも、嬉しかったです」
「何が」
「みかさんが、思ったより素直な方だったことです」
「素直じゃないけど」
「かなり素直です」
「どこが」
「嫌なら嫌と、困るなら困ると、嬉しいなら嬉しいと、ちゃんと出ます」
「……そんなに?」
「かなり」
「その単位ほんと便利だな」
みかさんは苦笑しながらも、完全には否定しなかった。
そのまま少しだけ沈黙が落ちる。気まずくない。ちゃんと静かな時間だ。
「じゃあさ」
みかさんが言う。
「なぎさは、なんでそんなに余裕なの」
不意に来た問いだった。
けれど、悪くない問いだと思う。
なぎさは窓の外を一度見て、それからまた隣を向いた。
「余裕があるように見えますか」
「見える。かなり」
「その使い方は好きです」
「今そこじゃない」
「失礼しました」
笑ってから、少しだけ真面目な声に戻す。
「たぶん、嬉しいからだと思います」
「嬉しい?」
「ええ」
素直に頷く。
「みかさんと一緒にいるのが楽しいですし、その楽しさがちゃんと返ってきているので、焦る理由がありません」
みかさんが少しだけ目を細める。
視線の置き場を探すみたいに、ペットボトルを指先で回す。
「……それ、またずるいやつ?」
「本音です」
「普通に言うね」
「言える相手ですので」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
重くはない。けれど、軽く流れていかない温度がそこにある。
みかさんが少し黙ってから、ゆっくりと息を吐いた。
「それ、かなり嬉しいかも」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
なぎさはそこで目を細める。
嬉しいと口にした。
しかも、自分から。
これは大きい。
「かなり良い反応です」
「すぐそうやって評価に戻す」
「嬉しいので、つい」
「……まあ、分かるけど」
みかさんはそう言って笑った。その笑い方は、最初よりずっとやわらかくて、どこか少しだけ照れていた。
そのあとは、また軽い話に戻した。次に見る映画の予告編がどれも煽りすぎだとか、コンビニの期間限定味はだいたい信用できないとか、みかさんが最近見つけた変なスナックのパッケージが妙に強気だったとか、本当にどうでもいい話ばかりだ。
でも、そういう話の方が大事なときもある。
ちゃんと近づいているときほど、わざと大げさに名前をつけない方がいい。
すでに十分進んでいるのだから。
帰り道、駅へ向かって歩きながら、なぎさは小さく笑っていた。
「なに笑ってるの」
みかさんに聞かれて、なぎさは視線を向ける。
「今日はかなりうまくいったと思いまして」
「だからそれを口に出すなって」
「事実ですので」
「強いなぁ……」
困ったように笑う顔が、やっぱりやわらかい。
駅の改札前で立ち止まる。
別れ際の空気は、前よりずっと軽い。次がある前提になっていると、別れそのものは少し楽になる。
「では、また連絡します」
なぎさが言うと、みかさんは少しだけ眉を上げた。
「自分からするんだ」
「かなりします」
「そこは宣言なんだ」
「安心材料です」
「便利に使うなぁ、その言葉」
笑いながら、みかさんが手を振る。
「じゃあね」
「またお会いしましょう」
その一言に、みかさんは少しだけ嬉しそうに笑って、改札の向こうへ消えていった。
後ろ姿を見送って、なぎさは静かに息を吐く。
急ぐ必要はない。
もう分かっている。
昨日会っていない時間に、みかさんはちゃんとこちらを思い出していた。
今日も隣にいる時間を、落ち着くと口にした。
嬉しいとも言った。
そして、次があることを前提に別れていった。
ここまで来ていれば、あとはもう少しだけ。
「かなり楽しみですね」
誰もいないところでそう呟くと、自分の声が少しだけ弾んでいた。
それも悪くない。
むしろ、かなり良い。