『距離感バグってる年下に懐かれたら、いつの間にか好きになっていた話』 作:かみりあ
待ち合わせの時間より五分ほど早く着いたとき、みかは駅前のガラスに映った自分の姿を見て、少しだけ眉を寄せた。
別に気合いを入れているつもりはない。髪も服も、普段の自分から大きく外れてはいないし、誰かに見せつけるような気持ちもない。ただ、今日は少しだけ鏡を見る回数が多かった気がするし、家を出る前に一度決めた服をやめて、別のものに変えたのも事実だった。
「……いや、だから何」
自分に言い聞かせるように小さく呟く。
理由がないわけではない。今日はなぎさと会う。もう何度もやり取りして、二回続けて実際に会って、そのたびに妙に楽しくて、そのくせ少しずつ落ち着かなくなっている相手だ。そう考えれば、多少服を迷うくらいは自然なのかもしれない。
でも、それを自然だと認めると、何かが一気に進んでしまいそうで嫌だった。
駅前の広場には、休日らしいゆるい賑わいが広がっていた。誰かを待っている人、買い物帰りの人、ただ通り過ぎていく人。それぞれに目的を持って歩いている中で、みかはスマートフォンを一度だけ確認する。
その画面に、短い通知が並んでいた。
【筋肉ゴリラ】:到着しています
【筋肉ゴリラ】:みかさんはまだでしょうか
相変わらずだ。
みかは小さく笑う。
【姫みか】:着いたよ
【筋肉ゴリラ】:見つけました
「早」
思わず口に出た。
顔を上げると、少し離れた場所で、なぎさがこちらを見ていた。やっぱり小さい。何度見てもその小ささには少し驚く。なのに見失わないし、人混みの中でも不思議とちゃんと見つかる。姿勢のせいか、表情のせいか、それとももう自分が見つけ方を覚えてしまったせいなのか、今となってはよく分からない。
なぎさは視線が合うと、少しだけ嬉しそうに笑って歩いてくる。
その歩き方にも無駄がない。急いでいるわけでもないのに迷いがなくて、周囲の流れに自然に馴染みながら、まっすぐこっちへ来る。
「こんにちは、みかさん」
「こんにちは」
返した瞬間、距離が収まる。
もうすっかり定位置みたいになっている、あの近さだ。近い、と思うのに、今さらそこを大きく問題にする気にもならない。
「今日は昨日より少しだけ柔らかい雰囲気ですね」
なぎさが、ほとんど最初の挨拶みたいな顔で言う。
「え、また見た目の話?」
「好きなので」
「主語がでかいな」
「みかさんを見るのが、です」
「ちょっと待って、それ初手で言う?」
「初手の印象は大事だと思いまして」
その返しがあまりに自然で、みかは反射的に顔を背けた。
「……そういうとこなんだよ」
言いながらも、笑ってしまう。もう何度目か分からないその台詞は、前よりずっと抵抗の少ない言い方になっていた。
なぎさはその反応を楽しそうに受け取って、そのまま歩き出す。
「今日はどうされますか」
「そうだね」
みかも並んで歩き出す。
今日は特に“この店に行く”と決めてきたわけではない。ただ、会うことそのものが先にあって、そのあと何をするかは流れで決めればいいと思っていた。
いや、正確には、そういう会い方がもう自然になっているのが少しおかしい。
「なんか、毎回ふわっと決めてるよね」
みかが言うと、なぎさがくすっと笑った。
「大枠だけ決めておく方が、みかさんは楽しそうですので」
「そんなの分かるの?」
「かなり」
「その“かなり”便利だなぁ」
「かなり便利です」
即座に返ってきて、みかはまた笑う。
「自分で言うんだ」
「気に入っていますので」
「だろうね」
そのまま駅ビルの中を歩く。今日は買い物を目的にしているわけではないから、前みたいに服を見るでもなく、雑貨を見るでもなく、ただ目についたものに足を止めるような進み方になる。
最初に入ったのは、小さな生活雑貨の店だった。
木目の棚が並んでいて、照明も少しだけ暖かい。キッチン用品や文具、タオル、香りものが雑多に並んでいて、何かを買うつもりがなくても、なんとなく見ているだけで時間が過ぎるタイプの店だ。
「こういう店、ずっと見ちゃうんだよね」
みかが棚の前で足を止めながら言うと、なぎさもその横に並ぶ。
「分かります。用事がなくても楽しいですし、用事ができることもあります」
「それ、買う予定なかったのに増えるやつだ」
「かなり危険です」
「その危険、ちょっと好きそうだよね」
「否定はしません」
そこで目についたのは、色の違うマグカップだった。青、白、薄いグレー、くすんだ緑。どれも地味すぎず派手すぎず、微妙に手が止まる色だ。
みかはそのうちの一つを手に取る。
「これどう思う?」
横に差し出すと、なぎさが少しだけ身を寄せる。相変わらず近い。でも、今はもうその動き自体に驚かなくなっている。
「綺麗ですね」
なぎさは少しだけ目を細めた。
「みかさんの部屋にありそうです」
「え、そう?」
「ええ。整えすぎてはいないけれど、好きなものはちゃんと選んで置いていそうな感じがします」
「なにその解像度」
「想像です」
「想像でそこまで言う?」
「昨日までの情報量がかなり多いので」
みかは思わず吹き出した。
「会話を分析対象にするな」
「楽しみながら見ています」
「なんでも楽しそうだなほんと」
そのまま別の棚も見て回る。なぎさは興味を持つと素直に足を止めるし、気になったものはきちんと口に出す。見た目の印象だけだともっと静かなタイプに見えるのに、実際は思っていたよりずっと表情が動く。笑うし、面白がるし、時々変なところで本気になる。
例えば今もそうだった。
「みかさん、これかなり良いです」
なぎさが妙に真面目な顔で差し出してきたのは、小さな猫の形をした箸置きだった。
「……それ?」
「かなり可愛いです」
「わかるけど、そのテンションで来ると思わなかった」
「想像以上でした」
「なぎさ、そういうの好きなんだ」
「好きです。使わないのに欲しくなる類のものは、だいたい好きです」
「危ないタイプだ」
「認めます」
その素直さに、また笑ってしまう。
会話をしていると、なぎさはちゃんとこちらの反応を見ている。拾うべきところを拾って、少しだけ踏み込んで、でも重くしすぎない。これがもし全部意識してやっているなら相当ずるいし、無意識でやっているならそれはそれで厄介だ。
たぶん、半分ずつなのだろうとみかは思う。
そこが一番困る。
店を出た頃には、時間が少しだけ進んでいた。ガラス越しに見える空の色が、ほんの少しだけ柔らかくなっている。昼と夕方のあいだの、輪郭がぼやけ始める時間だ。
「ちょっと休む?」
みかが聞くと、なぎさがすぐに笑った。
「ちょうど同じことを考えていました」
「またそうやって揃えてくる」
「揃ったのではなく、本当にそうでした」
「わかってるって」
近くのカフェに入る。店内はそこまで混んでおらず、窓際の二人席が空いていた。案内されるまま席へ向かって、みかは自然に向かいに座ろうとして――その手前で、少しだけ止まる。
なぎさが何を言うか、もう分かっていたからだ。
案の定、なぎさは小さく笑った。
「今日は最初から隣にしていただけそうですね」
「言うと思った」
「かなり嬉しいです」
「まだ座ってないんだけど」
「可能性が見えたので、つい」
結局、最初から隣に座る。
それが当たり前になってきている自分に、みかは少しだけおかしさを感じた。でも、もうそれを一つ一つ言葉にするのも違う気がしていた。
注文を済ませると、少しだけ静かな時間が落ちる。窓の外では人が行き交い、店内では食器の触れ合う小さな音がする。隣にいるなぎさの気配が、昨日よりも自然に馴染んでいる。
「……なぎさ」
「何でしょう」
「ちょっと思ったんだけど」
「ええ」
「これ、普通にデートっぽくない?」
口に出した瞬間、自分で少しだけ笑ってしまう。
冗談半分みたいな言い方だった。けれど、冗談だけでもない。
なぎさは少しだけ考えるようにしてから、くすっと笑った。
「かなり良い表現だと思います」
「そこ肯定するんだ」
「嫌でなければ、かなり嬉しいです」
「そういう返しをするから困るんだよね」
「困らせるつもりはありません」
「でも困るの」
なぎさはそこで少しだけ目を細めた。
「では、嬉しいのと困るのが両立している状態でしょうか」
「分析すな」
「かなり面白い反応でしたので、つい」
みかは額に手を当てて天井を見た。
だめだ。いちいち会話の返しがきれいすぎる。しかも、向こうは楽しそうにしているだけで、変に勝ち誇る感じがないから余計に強い。
「みかさん」
なぎさが少しだけ声を落として言う。
「今日、かなり機嫌が良いですね」
「え、そう?」
「見ていて分かります。昨日より、私に文句を言うまでの時間が長いです」
「そんな測り方ある?」
「あります」
「何を基準にしてるの」
「体感です」
「雑すぎるな」
でも、否定はできない。
今日の自分は、昨日よりたしかに楽だ。会う前は少しだけ落ち着かなかったのに、顔を見た瞬間にそれが消えた。隣にいることも、やり取りをすることも、前ほど“意識してしまって困るもの”ではなくなってきている。
その代わりに。
もっと別の形で、ちゃんと引っかかるようになっていた。
ドリンクが運ばれてきて、みかはストローをくるくる回す。その何でもない動きのまま、ふと口を開いた。
「ねえ」
「ええ」
「昨日、家で変な感じだった」
なぎさが少しだけ目を丸くする。
「変な感じ、ですか」
「うん。なんか……」
言葉を探す。
「一人なのに、一人っぽくないっていうか」
そこまで言ってから、自分で少しだけ笑う。
「伝わる?」
なぎさはほんの少しだけ考えるように視線を落として、それからみかの方へ向き直った。
「かなり嬉しいです」
「そっち?」
「ええ。みかさんの中に、私がちゃんと残っているということですよね」
「……まあ、そうだけど」
「それはかなり大きいです」
あっさり言われて、みかは少しだけ言葉に詰まった。
変に誤魔化すでもなく、勝手に重くするでもなく、でもちゃんと意味だけは受け取っている。その反応が、やっぱりずるい。
「なぎさってさ」
「何でしょう」
「そういうの、ほんとにそのまま言うよね」
「みかさんには、そのまま言った方が良い気がしますので」
「どういう基準?」
「ちゃんと受け取ってくださるので」
みかは一瞬だけ黙った。
それから、小さく笑う。
「受け取ってるの、バレてるんだ」
「かなり」
「その単位ほんと好きだね」
「便利ですし、今の気分に近いので」
なぎさが笑う。
その笑い方は明るいのに、どこか落ち着いている。小さいのに、こうして隣にいると不思議なくらい存在感がある。昨日も思ったし、その前も思った。今日はそれが、もう疑問じゃなくなりつつある。
それが一番怖い。
「……なぎさ」
「ええ」
「私、たぶんだいぶ慣らされてるよね」
なぎさがその言葉を聞いて、少しだけ肩を揺らした。
「かなり順調だと思います」
「やっぱりそうなんだ」
「でも、無理やりではありません」
「そこはわかる」
「みかさんが止めれば止まります」
「止めてないけど」
「ええ。そこがかなりありがたいです」
また笑う。
そのまま少しだけ肩の力を抜いて、ソファの背にもたれたとき、みかはふと気づいた。隣にいるなぎさの距離が、さっきよりほんの少しだけ近い。けれど、もうそれを直そうとも思わない。
むしろ、それでいい気がしている。
「……なんかさ」
「何でしょう」
「会うたびに普通になっていくの、ちょっとずるくない?」
みかが言うと、なぎさはやわらかく笑った。
「それは私も思っていました」
「そっちも思うんだ」
「かなり」
「便利だなぁ、ほんと」
でも、そうやって笑い合える時点で、もうだいぶ答えは出ている気がした。
カフェを出たあと、二人は少しだけ遠回りして帰ることにした。夜に近づく街の空気は落ち着いていて、明かりのつき始めた店先や、ガラスに映る人の流れがゆっくりと目に入る。急ぐ必要がない道を歩くのは、それだけで少しだけ贅沢だった。
「みかさん」
「なに」
「今日は、かなり良い日でした」
「それまだ終わってないでしょ」
「途中経過でも、かなり良いです」
「感想が早いんだよ」
笑いながら言う。
そのまま少しだけ視線を落とすと、やっぱりなぎさはすぐ隣にいた。
小さい。
でも、そこにいることの意味は、もう十分すぎるほど大きい。
「また会うよね」
口に出したあとで、みかは少しだけだけ照れくさくなった。
でも、なぎさは迷いなく笑う。
「もちろんです。もうその前提でいます」
「強いな」
「みかさんが否定しないので」
「……しないけど」
その一言を聞いたなぎさが、少しだけ嬉しそうに笑った。
「それはかなりありがたいです」
「うん」
みかも小さく笑う。
もう、ここまで来ると誤魔化す意味もあまりない。
まだ言葉にはしない。したくない。けれど、次があることが当たり前になっている時点で、たぶんもう十分なのだ。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、今日はここで」
「ええ。また連絡します」
「そこはもう決定なんだ」
「かなり」
「ほんと好きだね、その言い回し」
「気に入っていますので」
「知ってる」
みかは少しだけ笑って、改札へ向かう前に一度だけ振り返った。
なぎさはまだそこにいて、目が合うと小さく手を振る。
その仕草が、妙に自然で、妙に嬉しい。
「……ほんと、なんなんだろ」
小さく呟く。
でも、その問いにはもう少しずつ答えが見え始めていた。
隣にいるのが普通になってきた。
会っていない時間が変に長く感じる。
また会うのが前提になっている。
その全部が、もうただの“気が合う”では片づかない。
そこまで分かっていても、今はまだ、このままでいい気がした。
まだ、もう少しだけ。
この距離のまま、笑っていたかった。