『距離感バグってる年下に懐かれたら、いつの間にか好きになっていた話』   作:かみりあ

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もう、引き返す理由がない

 改札を抜けたあとも、みかの足取りはどこか落ち着かなかった。

 

 別れ際の空気は、少し前までと比べればずいぶん軽くなっていた。変に立ち止まって言葉を探すこともなければ、「またね」の先に本当にまた会えるのかを疑う感じもない。次があることを、お互いにほとんど当然みたいに思っている。だから、表面だけ見れば今日の別れ方はかなり穏やかで、むしろ自然ですらあった。

 

 それなのに、体の奥の方にだけ、さっきまで隣にいた距離の感覚がしつこく残っている。

 

 書店で同じ棚を眺めていたときの、肩が触れそうで触れない近さ。休憩スペースのベンチで、何でもない話をしながら飲み物を手にしていたときの、妙に落ち着く並び方。帰り道、夜になりかけた街の空気の中で、並んで歩くこと自体がすでに前提みたいになっていたこと。

 

 思い返そうとしなくても、そういう場面ばかりが、勝手に頭の中へ戻ってくる。

 

「……だから何なの」

 

 電車を待つホームで、小さく呟いた声は自分で思っていたより弱かった。

 

 もちろん、答えがまったく分からないわけではない。分からないふりをしているだけで、たぶん自分がどこに立っているのかは、もうだいぶ見えている。ただ、そこへ名前をつけると、一気に戻れなくなる気がする。それが少し悔しくて、みかはまだギリギリのところで言葉をぼかしているだけだ。

 

 家に着いて、靴を脱ぎ、バッグを置いて、リビングの電気をつける。その全部がいつも通りの流れなのに、今日に限っては、部屋の中の静けさが必要以上に広く感じられた。

 

 水を飲もうと思ってキッチンへ向かい、コップを手にしたところで、ふと自分の動きが止まる。

 

 静かだ。

 

 いや、普段から静かな家なのだから、今日だけ急にそうなったわけではない。ただ、さっきまで誰かとずっと喋っていて、その相手がこちらの言葉をすぐ拾って、少しだけ笑って、何でもないことに温度を乗せて返してくる子だったせいで、その不在だけが妙にはっきり形を持ってしまっている。

 

「……だいぶ来てるな、これ」

 

 苦笑混じりにそう言って、みかはコップを持ったままソファへ腰を下ろした。

 

 座った瞬間、また気づく。

 

 少しだけ、横に寄っている。

 

 そこに誰かが座るための十分な空間ではない。でも、一人でだらっと座るには少しだけ不自然な寄り方で、自分でも意味が分かるぶん余計に困る。

 

 昨日もそうだった。

 今日も、同じだ。

 

 隣にいることを前提に体が動いてしまうくらいには、もうその位置が馴染んでいる。

 

「重いなぁ……」

 

 そう呟いてみても、そこに本気の嫌悪感は乗らなかった。呆れているのは本当だが、気持ち悪いからやめたいとは思っていない。その時点で、もうかなり答えは出ている。

 

 みかはコップをテーブルに置き、スマートフォンを手に取った。

 

 用事があるわけではない。そう言い切れたらどれだけ楽かと思う。でも、指が迷わずトーク画面を開いた時点で、その言い訳はあまり意味を持たない。

 

 画面の一番下には、さっき別れたあとに交わした短いやり取りが残っている。

 

【姫みか】:じゃあ、また

【筋肉ゴリラ】:ええ。また連絡します

【姫みか】:待ってるから

【筋肉ゴリラ】:待たせすぎないようにします

 

 そこまで見て、みかは小さく笑った。

 

 最後の一文が、ずるい。

 

 大げさでもなく、気取ってもいないのに、ちゃんと残る。そういう言い方を、なぎさは本当に自然にやる。わざとらしさがないからこそ、余計に効くのだ。

 

 トーク画面を閉じようとして、結局そのまま指が止まる。何か送ろうかと思ったわけではない。……いや、たぶん少しは思っていた。だから閉じられない。

 

 そのタイミングで、ちょうどスマートフォンが震えた。

 

 反射みたいな速さで画面を見る。送り主の名前を確認した瞬間、みかは小さく肩を落として笑った。

 

「ほんと、タイミングいいな……」

 

【筋肉ゴリラ】:みかさん

【姫みか】:なに

【筋肉ゴリラ】:少しだけ確認なのですが

 

 みかはそこで、もう一度笑った。

 

「またそれ」

 

 この丁寧な前置きが好きなのだ、この子は。妙にかしこまっているようで、その実、次に来る内容はだいたいこちらの心拍数を少しだけ上げる類のものだと、もうだいぶ学習している。

 

【姫みか】:その言い方ほんと好きだね

【筋肉ゴリラ】:気に入っていますので

【姫みか】:知ってる

【姫みか】:で、なに

【筋肉ゴリラ】:帰ってから、少し静かではありませんか

 

 その一文を読んだ瞬間、みかの手が止まった。

 

 言い当てられた、と思う。

 

 部屋の中の静けさ。さっきまでの空気がなくなったあとに残る、妙に広い感じ。自分でもうまく説明できなかった違和感を、そのまま拾われた気がした。

 

【姫みか】:静か

【姫みか】:無駄に広い

【筋肉ゴリラ】:私も同じです

【姫みか】:そっちもなんだ

【筋肉ゴリラ】:ええ

【筋肉ゴリラ】:少し前まで、隣にみかさんがいましたので

 

 みかは、そこでソファの背に深くもたれた。

 

 やっぱりずるい。

 

 言っていることはただの事実だ。たしかに、少し前まで隣にいた。今日はその時間が長かったし、話もたくさんした。だから、いなくなったあとに少し静かに感じるのは、それだけならおかしくない。

 

 でも、それをこんなにまっすぐ言われると、ただの現象で済ませられなくなる。

 

「そういうとこなんだよ……」

 

 画面に向かって文句を言うみたいに呟きながら、みかは口元を押さえた。笑っているのが自分でも分かる。

 

【姫みか】:そういう言い方ずるい

【筋肉ゴリラ】:よく言われます

【姫みか】:だろうね

【筋肉ゴリラ】:ですが、本当です

【姫みか】:知ってるって

 

 軽い言葉のやり取りなのに、妙に落ち着く。会っていないのに、会っているときの流れがそのまま続いているみたいだった。

 

 その心地よさに少しだけ身を任せてから、みかは思い切るように入力欄へ指を置いた。

 

【姫みか】:ねえ

【筋肉ゴリラ】:呼ばれました

【姫みか】:その返し気に入りすぎでしょ

【筋肉ゴリラ】:かなり

【姫みか】:減らすんじゃなかったの?

【筋肉ゴリラ】:少しだけ

 

 そこでまた笑ってしまう。

 

 こんなふうに笑ってしまうから、会っていない時間まで変に埋まってしまうのだろう。

 

【姫みか】:明日、空いてる?

 

 送ったあとで、みかは天井を見上げた。

 

 早い。

 でも、もうそこを気にする段階でもないのかもしれない。

 

 返事は、予想通り早かった。

 

【筋肉ゴリラ】:空いています

【筋肉ゴリラ】:みかさんは

 

 この返しが来ることまで、もう分かっている。

 

【姫みか】:空いてる

【筋肉ゴリラ】:では、明日もお会いしませんか

 

 そこで、みかは少しだけ目を細めた。

 

 自然すぎる。

 会うことが、もう完全に特別な行動じゃなくなっている。

 少し前なら、それ自体にもっと驚いていたはずなのに、今はそこまで強く引っかからない。

 

【姫みか】:言うと思った

【筋肉ゴリラ】:同じことを考えていそうでしたので

【姫みか】:まあね

【筋肉ゴリラ】:嬉しいです

 

 その一言が、ちゃんと温度を持っている。

 

 軽い。

 でも軽すぎない。

 

【姫みか】:どこ行くの

【筋肉ゴリラ】:もしよろしければ、ですが

 

 少しだけ間があった。

 

 メッセージの向こうで、なぎさが言葉を選んでいるのが分かる。その感じが、逆に少しだけ緊張を呼ぶ。

 

【筋肉ゴリラ】:私の家に来ませんか

 

 みかはそこで、ほんの一瞬だけ固まった。

 

「……家?」

 

 声に出る。

 

 予想はしていなかった。いや、まったく考えていなかったわけではないのかもしれない。どこかでもう一段階近い場所へ進むなら、そういう選択肢もあるだろうとは、ぼんやり思っていた気もする。

 

 でも、実際にその言葉を見ると、やっぱり意味が少し変わる。

 

 家。

 

 外で会うのとは違う。

 時間の流れ方も、距離の感じ方も、たぶん少し変わる。

 

 だからこそ、みかはすぐには返事ができなかった。

 

【姫みか】:家?

【筋肉ゴリラ】:ええ

【筋肉ゴリラ】:もし難しければ、別の場所でも大丈夫です

 

 その言い方に、みかは少しだけ救われる。

 

 押しつけていない。

 当然みたいに踏み込んでこない。

 ちゃんと、こちらに選ばせている。

 

 だからこそ、余計に断りにくい。

 

 ……いや、違うかもしれない。

 

 断りにくいのではなく、自分が断りたくないのだ。

 

【姫みか】:びっくりしただけ

【筋肉ゴリラ】:それはそうだと思います

【筋肉ゴリラ】:ただ、明日はもう少し落ち着いて話せる場所が良い気がしました

 

 みかはスマホを持ったまま、少しだけ目を閉じた。

 

 嫌ではない。

 怖くもない。

 少し驚いた。

 でも、それ以上に、興味が勝っている。

 

 なぎさの家。

 なぎさが普段いる空間。

 そこに自分が入ったら、どう感じるのか。

 

 そう考えてしまう時点で、答えはもう出ている。

 

【姫みか】:じゃあ行く

【筋肉ゴリラ】:ありがとうございます

【筋肉ゴリラ】:かなり嬉しいです

【姫みか】:その顔見えなくても分かる

【筋肉ゴリラ】:たぶん、かなり笑っています

 

 みかは画面を見て、小さく笑った。

 

 そこから先は、明日の待ち合わせ場所や時間の話になった。ついでに、甘いものを少し用意しておきますとか、部屋はあまり面白くないかもしれませんとか、そういう細かいやり取りも続く。全部、変に身構えさせないようにしながら、それでもちゃんと嬉しさを隠していない文面で、それがまたなぎさらしかった。

 

 翌日、みかは家を出る前に、鏡の前で少しだけ長く立ち止まっていた。

 

 家に行くだけだ。

 別に特別な場所へ行くわけじゃない。

 そう思いながらも、一度選んだ服をやめて、違うものへ手を伸ばす。整えすぎるのは違う。でも、何も考えていないように見えるのも違う気がする。

 

「……面倒くさいな、ほんと」

 

 自分に向けた文句だった。

 

 でも、その面倒くささ自体が嫌ではない。むしろ少しだけ楽しい。そう感じている時点で、もうかなり深いところまで来ているのだろう。

 

 待ち合わせ場所に着くと、なぎさはすでにいた。

 

 やっぱり小さい。

 やっぱりすぐ見つかる。

 そして、こちらに気づくと、やっぱり嬉しそうに笑う。

 

「こんにちは」

 

「こんにちは、みかさん」

 

「来ていただけて嬉しいです」

 

「まだ着いただけだけどね」

 

「その時点でかなり嬉しいので」

 

「そういうの普通に言うよね」

 

「思ったままですので」

 

 その返しに、みかは少しだけ視線を逸らしながら笑った。

 

 もう、この感じにずいぶん慣れてきている。

 

 並んで歩く。

 住宅街へ入る。

 人の流れが減って、会話の距離が少しだけ近づく。

 

「家、遠いの?」

 

「歩いて十分ほどです。ちょうど良いくらいかと」

 

「なにが」

 

「落ち着くまでの時間として」

 

「それ言う?」

 

「かなり正直にいく方針です」

 

「昨日から急に堂々としてるな」

 

「昨日から、かなり良い流れですので」

 

 住宅街は静かだった。大通りの賑わいが少しずつ遠くなって、足音と会話だけがよく聞こえる。こういう道を並んで歩くのは、今までの“出かける”とは少し違う感じがした。目的地が明確だからというのもあるし、その目的地が“なぎさの家”だからというのもある。

 

 そこを意識すると、少しだけ変に緊張する。

 でも、その緊張は嫌なものではない。

 

 マンションの前で足を止めたとき、みかは小さく息を吐いた。

 

「ここ?」

 

「こちらです」

 

 建物は綺麗で、外観も落ち着いている。派手さはないのに、ちゃんとしている。そういうところが、妙になぎさらしく思えた。

 

「なんか似合う」

 

「建物がでしょうか」

 

「うん。整ってる感じ」

 

「それは褒め言葉として受け取っておきます」

 

 エントランスを抜け、エレベーターで上がる。密室になると少しだけ静かで、その静けさが妙に近い。向かい合うほどではない。けれど、隣に立っているだけで、さっきより少しだけ相手の気配が濃くなる。

 

 部屋の前で鍵が回る音がして、ドアが開く。

 

「どうぞ」

 

 中へ入った瞬間、みかは思わず目を細めた。

 

 静かだ。

 

 外の音が、すっと切れる。空気は整っていて、匂いも強すぎない。綺麗なのに冷たくない。物の少なさがそのまま無機質さに繋がっているわけではなく、必要なものだけがちゃんと選ばれて置かれている感じがある。

 

「……すご」

 

 思わず口から出た。

 

「かなりちゃんとしてる」

 

「散らかっているよりは良いかと思いまして」

 

「いや、それはそうだけど」

 

 靴を脱いで、リビングへ通される。ソファ、ローテーブル、棚、観葉植物。どれも落ち着いていて、でも生活の気配が薄すぎない。

 

「思ってたより、ちゃんと住んでるんだね」

 

「逆にどう思われていたのでしょう」

 

「もっとこう、筋肉ゴリラ寄りかと」

 

「それは少しだけ困りますね」

 

 なぎさが笑う。

 

 そのままキッチンへ向かい、「飲み物は温かいものでもよろしいですか」と聞いてくる。その自然さが家主そのもので、みかは少しだけ肩の力が抜けた。

 

「うん、お願い」

 

 ソファに座る。

 視線が部屋を一回りして、また元の位置に戻る。

 

 そのあいだにも、少しずつ落ち着いていく自分が分かった。

 

 緊張していたはずなのに、不思議と気まずくない。

 初めて来た場所のはずなのに、変な居心地の悪さがない。

 

「どうぞ」

 

 なぎさがマグカップを差し出す。

 

 受け取るとき、指先が少しだけ触れた。

 

 ほんの一瞬。

 それだけなのに、妙に意識に残る。

 

「ありがとう」

 

「いえ」

 

 なぎさはそう言って、当たり前みたいに隣へ座った。

 

 距離は、いつものそれだ。

 でも、場所が違う。

 家の中で、こんなふうに並んで座るのは、少しだけ意味が違うはずだった。

 

 それなのに。

 

「……落ち着く」

 

 みかは、ほとんど無意識にそう言っていた。

 

 自分でも、少し驚くくらい自然に出た言葉だった。

 

 なぎさが、隣で少しだけ笑う。

 

「それは良かったです」

 

 その声が、柔らかい。

 

 押しつける感じではない。

 でも、ちゃんと嬉しいのが分かる。

 

 みかはマグカップを両手で持ちながら、ゆっくり背もたれへ体を預けた。

 

 静かな部屋。

 隣にいるなぎさ。

 何も特別なことはしていないのに、この時間が思った以上に自然で、思った以上に心地いい。

 

 そこでようやく、みかははっきり思った。

 

 もう、引き返す理由がない。

 

 最初の距離には戻れない。

 戻りたいとも思わない。

 ここまで来てしまったら、あとはもう、そのまま進んだ方がきっといい。

 

「ねえ、なぎさ」

 

「何でしょう」

 

「これさ」

 

 少しだけ言葉を探す。

 でも、前よりは楽だった。

 

「もう、戻れない感じするんだけど」

 

 なぎさは、その言葉に驚かなかった。

 

 ただ、やわらかく笑う。

 

「戻る理由が、あまり見つかりませんね」

 

 その返事が、あまりにも自然で。

 軽いのに、ちゃんと真ん中に落ちてくる。

 

 みかは少しだけ笑って、カップを見下ろした。

 

「……だよね」

 

 それだけで十分だった。

 

 今はまだ、このままでいい。

 次で何かが決まることも、たぶんもう分かっている。

 でも、今日はこの静かな部屋の中で、隣に座って、同じ温度で笑っていられればそれでいい。

 

 そこまで来てしまっていることが、嬉しいような、悔しいような、でもやっぱり少しだけ幸せだった。

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