北海道の乾いた空気は、吐く息を白く濁らせていた。
交差点で悲鳴が上がったのは、信号が変わった直後だった。
ブレーキの焼ける音。金属の潰れる嫌な響き。
横転した大型車両の荷台が大きく軋み、そのまま積載していたタンクローリーが滑るように前へ押し出される。
誰かが叫ぶ。
「危ない!!」
乗用車が一台、完全に下敷きになっていた。
フロントは原型を失い、車体中央まで押し潰されている。
中から聞こえるのは子供の泣き声と、大人のかすれた助けを求める声。
周囲にいた大人たちは動けなかった。
タンクローリーは少しでもずれればさらに圧がかかる。
重機もまだ来ない。
ヒーローも到着していない。
そのときだった。
人混みの前に、小さな影が出た。
白いマフラーを巻いた少女。
まだ幼い、九歳の子供。
真白才子は、じっと潰れた車を見る。
次の瞬間。
ぎし、と。
タンクローリーの巨体が浮いた。
周囲の空気が一斉に張り詰める。
数十トンある鋼鉄の塊が、見えない手に持ち上げられるように数十センチ横へ滑った。
「う、浮いてる……!?」
車体を潰していた圧が消えた瞬間、才子はさらに左手を上げる。
潰れた乗用車のドアが、ねじ切れる寸前で止まり、静かに開いた。
「………!!」
近くの大人が我に返る。
消防隊員がまだ到着する前に、通行人二人が中から子供を抱き出す。
続いて母親、最後に意識の薄い父親。
四人全員、生存。
直後。
支えていたタンクローリーがゆっくり地面へ戻された。
音もなく。
乱暴さもなく。
まるで最初からそこに置かれていたみたいに。
その場にいた誰もが言葉を失っていた。
数時間後の夕暮れ時
北海道の空は低く、事故現場に張られた規制線の黄色だけが妙に鮮やかに浮いている。
横倒しになったタンクローリー。
フロントを潰された乗用車。
砕けたガラスがアスファルトに散り、消防の赤色灯が断続的に雪混じりの路面を照らしていた。
四人はすでに救急搬送されている。
「奇跡です……全員生存です」
誰かがそう漏らした。
だが、現場にいた誰もが見ていた。
数十トンの鋼鉄が、九歳の少女の前で静かに持ち上がった瞬間を。
報道陣のカメラが一斉に向く。
フラッシュが白く弾ける。
その中心に立たされたのは、小さな娘ではなく、その父親だった。
背後に立つ真白才子は、白いマフラーの端を握ったまま黙っている。
「未成年による個性使用について、一言お願いします!」
「救助行為とはいえ、許可のない個性行使ですが――」
矢継ぎ早の問いに、父親は一度だけ事故現場を振り返った。
まだクレーン車が到着していない。
潰れた車体の跡だけが残っている。
そして静かに言った。
「目の前で命の危険に迫られた人を助ける」
冷えた空気の中で言葉だけがはっきり響く。
「ヒーローだの制度だのの前に、人間として当たり前の話だ」
一瞬、記者たちの動きが止まった。
最初に口を開いたのは、年配の女性記者だった。
慎重に言葉を選ぶようにマイクを握る。
「……」
数秒、沈黙する。
「……おっしゃることは、痛いほど分かります」
その声には責める色が薄かった。
「ですが、現代社会において無免許の個性行使は厳格に禁じられています。もし、その行為が暴走を招き、二次被害が出ていたとしたら……あなたは、それでもお子さんの行動を『当たり前』だと言い切れるのでしょうか」
父親は視線を逸らさない。
「暴走しなかったから四人が生きている」
短い返答だった。
女性記者の眉がわずかに動く。
その横から、別の記者が一歩前へ出る。
若い男だった。
「非常に力強い言葉です。しかし、その『人としての善意』が、かつての超常黎明期の混乱を招いた歴史もあります」
超常黎明期という単語に周囲が少しざわつく。
「もし誰もが自分の判断で個性を振るえば、それはヒーロー制度の崩壊――ひいては自警主義への逆行になりませんか? お子さんの将来に泥を塗ることになるとは考えなかったのですか」
父親の表情が初めてわずかに硬くなる。
「制度が必要なのは分かっています」
「ですが?」
「制度が届く前に、あの車は潰れていた」
記者の喉が止まる。
さらに後方から、別局の派手なロゴ入りマイクが突き出された。
勢いの強い男性リポーター。
「なるほど!」
声が一段高い。
「つまり保護者であるあなたは、現在のヒーロー免許制度そのものが『人として不自然だ』と、そう仰るわけですね?」
父親の眉がわずかに寄る。
「法よりも個人の正義を優先すべきだと、お子さんに教育されていたと?」
空気が変わった
フラッシュがまた増える。
今度は質問ではなく、切り取るための光だった。
父親は低く言った。
「言葉を曲げないでください」
声は大きくない。
だが、その場のざわめきが静まる。
「私は制度を否定していない」
一歩だけ前へ出る。
「制度が来るまでの数分で、人は死ぬと言っている」
さらに、
「――あの子が持ち上げたのは法律じゃない。鉄の塊だ」
完全に沈黙が落ちた。
誰も次の言葉を出せない。
そのとき。
後ろで小さな声がした。
「……助けちゃ、だめだった?」
真白才子だった。
九歳の声。
細く、かすかに震えていた。
さっきまで強気だった記者たちの目が一斉に揺れる。
誰もすぐには答えられなかった。
冬の風だけが、事故現場を抜けていった。
地下は静かだった。
外の雪を知らないように、厚い壁の内側には一定の温度だけが保たれている。
照明は控えめで、広い部屋の中央に置かれた大型モニターだけが淡く明るい。
画面の中では討論番組が続いていた。
『超常社会の在り方――九歳少女の救助行為は是か非か』
ソファに深く腰掛けた男は、肘掛けに頬を預けたまま動かない。
スーツは黒。
呼吸すら静かだった。
オール・フォー・ワンは画面を見ている。
A氏が熱を帯びた声で言う。
「ヒーローという単語は本来、見返りを求めず、法や損得を超えて目の前の命を救わずにはいられない魂の在り方だったはずです」
男の口元が、わずかにだけ緩む。
続いてB氏。
「そのロマンチシズムで救えるのは目の前の一人だけです」
「例外を認めれば、それは崩壊の始まりなんですよ」
言葉が重なるたび、画面下には流れるコメント。
#本物の正義
#制度は誰のためだ
#でも法は必要
数字が増え続ける。
同時接続。
拡散数。
関連動画。
救助現場の映像が何度も切り抜かれて流される。
小さな少女が、巨大なタンクローリーを浮かせた瞬間。
潰れた車体。
泣きながら救い出される子供。
そのあとに流れる父親の声。
『あの子が持ち上げたのは法律じゃない。鉄の塊だ』
そこで男は小さく笑った。
「実に美しい」
背後に控えていた黒服の男が目を上げる。
「美しい……ですか」
「うん」
穏やかな声だった。
「制度は、人を守るために作られる」
「だが制度は必ず、制度そのものを守り始める」
モニターではA氏とB氏がまだ言い争っている。
「善意を罪にするのか!」
「善意に免責を与えれば終わりだ!」
男は指先で肘掛けを一度叩いた。
「正しい」
どちらが、とは言わない。
「どちらも正しいからこそ、人は割れる」
その声には楽しげな温度すらある。
「英雄を信じたい者、法に縋りたい者」
「そして、そのどちらにも失望する者」
流れるコメント欄の中に、
今のプロよりよほどヒーロー
あの子こそ本物
免許って何のため?
男はその文字列を見ながら続けた。
「たった一人の少女が」
「社会に問いを作った、問いは、答えよりも価値がある」
黒服の男が慎重に尋ねる。
「……接触なさいますか」
そこで初めて、男は少しだけ首を横に振った。
「まだ早い」
画面に映る少女の静止画。
白いマフラー。
無表情。
小さな手。
「今はまだ、ね」
「だが――」
そこでニュース映像が切り替わる。
事故現場でマイクに囲まれた少女が、小さく口を開く。
『……助けちゃ、だめだった?』
スタジオが静まり返る。
コメント欄が一気に加速する。
男の口元がさらに深く歪んだ。
「人はね」
優しい声だった。
「こういう純粋さを、必ず壊す」
部屋の空気が少しだけ冷える。
「守ろうとして称賛し、利用して最後には、責任を押し付ける」
モニターの光だけが、顔の半分を照らす。
「さて」
男は立ち上がる。
「彼女がどちらへ転ぶか」
「少し興味がある」
テレビではまだ議論が続いている。
だが彼にとって重要なのはもう討論ではない。
その少女が、
社会に守られる側になるのか。
社会を疑う側になるのか。
それだけだった。
夕方の事務所は珍しく静かだった。
デスクの上には未処理の書類。
壁際には次の巡回予定。
窓の外では冬の光がゆっくり沈みかけている。
その静けさを破ったのは、事務所のテレビから流れたニュース速報だった。
『北海道で発生した多重事故――九歳女児が個性で四名救助』
「む?」
大きな身体を少し屈め、ソファに腰掛けていた男が顔を上げる。
金髪がわずかに揺れる。
オールマイトはリモコンに手を伸ばさず、そのまま画面を見た。
映像が切り替わる。
横倒しになったタンクローリー。
押し潰された乗用車。
現場映像のぶれたカメラの中で、小さな少女が前に出る。
次の瞬間。
巨大な車体が浮いた。
「……!」
思わず背筋が伸びる。
重量、角度、接触点。
ただ持ち上げたのではない。
潰れた車体へ余計な圧をかけず、重心だけをずらしている。
「九歳……?」
低く漏れる、映像は繰り返し再生される。
そのあと、父親の声。
『目の前で命の危険に迫られた人を助ける。ヒーローだの制度だのの前に、人間として当たり前の話だ』
オールマイトは黙った。
その言葉のあと、記者たちの反論が続く。
無免許個性行使。
制度。
二次災害。
責任。
討論番組へ切り替わる。
「例外を認めれば崩壊の始まりです」
「それでも救われた命がある!」
言葉が飛び交う。
だが彼は討論より、別の一点を見ていた。
事故現場で後ろに立つ少女。
白いマフラー。
両手を握ったまま、何も言わない。
そして最後に、小さくこぼれた声。
『……助けちゃ、だめだった?』
その一言で、オールマイトの表情が変わる。
ほんのわずかに眉が下がる。
「……違う」
誰に言うでもなく漏れた。
「違うよ、少女」
テレビではまだ議論が続いている。
だが彼にはもう聞こえていなかった。
助けるべきだった。
迷う余地なく。
あの状況ならなおさらだ。
問題はそこではない。
問題は――
その行為をした子供が、今この瞬間、
“自分は間違ったのか”
と疑わされていることだった。
窓の外を見る。
遠くに夕焼け。
静かに息を吐く。
「社会は正しい」
小さく言う。
「だが、正しいだけでは幼い心を守れない時がある」
そのとき事務所のドアがノックされる。
「失礼します」
入ってきたサイドキックが声をかける。
「次の現場ですが――」
オールマイトはテレビを見たまま問う。
「この子の名前は?」
「え?」
「救助した少女だ」
サイドキックが資料を確認する。
「真白才子。報道ではそう出ています」
その名前を一度だけ繰り返す。
「真白……才子」
短い沈黙、やがて立ち上がる。大きな背が夕陽を遮る。
「覚えておこう」
声は静かだった。
だがはっきりしていた。
「助けることを迷わなかった子は、伸ばさねばならない」
「制度に怯えて、救う手を止めるようになってはいけない」
テレビではまだ父親の言葉が流れている。
『あの子が持ち上げたのは法律じゃない。鉄の塊だ』
オールマイトは小さく笑った。
「実に不器用で」
「実に真っ直ぐだ」
次の瞬間には、いつもの笑顔に戻る。
「よし!」
拳を軽く握る。
「ならば私も、次の現場で一人でも多く救わねばね!」
その声は明るい。
けれど胸の奥には、確かに小さな棘が残っていた。
制度がある。
法がある。
それでもなお、
救うという衝動は、
時に先に走る。
――それをどう守るか。
象徴である自分にも、答えはまだなかった。
春の特集番組だった。
明るい音楽。
柔らかい色味の編集。
スタジオ中央に大きく映し出されたのは、事故現場の静止画だった。
潰れた車。
浮き上がるタンクローリー。
その前に立つ、小さな少女。
テロップが踊る。
『現代の奇跡――命を救った小さな手』
司会者が笑顔で言う。
「今日は全国が感動した、北海道の小さなヒーローについてです!」
画面が切り替わる。
救助映像のスロー再生。
BGMは静かなピアノ。
『無免許の天使』
『現代の聖女』
『奇跡の九歳』
街頭インタビュー。
「泣きました」
「すごいですよね」
「こういう子が本物のヒーローだと思う」
コメンテーターが頷く。
「制度はもちろん大事です。でも、まず人を助ける心。これを忘れてはいけません」
別画面では父親の言葉が再び流れる。
『ヒーローだの制度だのの前に、人間として当たり前の話だ』
SNSの投稿数が右上で跳ね上がる。
#RealHero
#本物の正義
翌週には特集第二弾。
今度は家の近くまでカメラが来た。
通学路。通っている小学校。好きな給食。
担任のコメント。
「とても落ち着いた子です」
「絵を描くのが好きで――」
母親は玄関先で困ったように笑う。
「すみません、学校は……」
だがマイクは引かない。
「普段から正義感は強いんですか?」
「家ではどんな教育を?」
放送はさらに続いた。
『密着・奇跡の少女の一日』
昼休みの校庭。
友人と話す後ろ姿。
ぼかしは入っているが、町の人間には十分わかる。
近所ではもう名前が通る。
「テレビの子だ」
「ほら、あの」
「すごい力なんでしょう?」
最初は善意だった、握手を求められる、写真を頼まれる。
商店街でおまけをもらう。
だが数カ月と経たずに、番組の空気が少し変わる。
テロップの色が濃くなる。
『天使か、危険な強個性か』
スタジオに専門家が並ぶ。
「サイコキネシスは極めて高出力です」
「もし制御不能になった場合――」
CGで車が吹き飛ぶ映像。
家具が浮く再現。
司会者が神妙な顔で頷く。
「九歳の子供が持つには、あまりにも強すぎる力だという声もあります」
別のコメンテーター。
「善意は疑いません。ただ、“だから安心”とは言えません」
翌月には別番組。
夜のニュース枠。
『少女は本当に安全か』
『家庭教育に問題は』
『父親の制度批判発言、再検証』
過去映像が繰り返される。
父親の言葉だけ切り取られる。
『制度だの前に――』
『当たり前の話だ』
そこへ被せるようにナレーション。
「一部では“法軽視”との指摘も」
街頭インタビューも変わる。
「ちょっと怖いですよね」
「力が強すぎる子って……」
「何かあったら、周りが大変じゃないですか」
学校帰り。
ランドセルを背負った真白才子の前で、知らない母親が子どもの肩を引いた。
「近づいちゃだめ」
小さな声だった。
だが聞こえた。
才子は何も言わず、そのまま歩く。
数歩後ろで、またカメラがいた。
「真白さん!」
「今の気持ちは?」
「怖いと言われることについてどう思いますか!」
答えない。
すると翌日の見出し。
『沈黙の天才少女――心に何を抱える』
夜。
テレビを消した父親が低く息を吐く。
部屋の中は静かだった。
テーブルの向こうで才子が牛乳を持ったまま言う。
「……助けたの、そんなに変?」
父親は少しだけ黙る。
言葉を選ぶ。
「変じゃない」
「でも?」
「……世の中は、一度持ち上げたものを試したがる」
意味はまだ十分に分からない。
ただ、翌朝。
学校の机に置かれていた紙には、
“怒ったら浮かせるの?”
とだけ書いてあった。
十歳になる暇も与えずに彼女の名前はもう、奇跡だけでは呼ばれなくなっていた。
春先の午後だった、雪の消えた歩道にまだ冷たい風が残っている。
真白才子は下校途中、交差点の手前で信号待ちをしていた。
ランドセルが少し重い。
信号は青へ変わりかけていた。
そのとき。
タイヤの甲高い音。
右から一台、白い乗用車が速度を落とさず突っ込んでくる。
赤信号。
運転席ではスマートフォンを見ている若い男。
歩道には老人がいた。
小型犬を連れて、ゆっくり横断歩道へ足を出している。
「――」
考えるより先だった。
才子の右手が上がる。
乗用車を横へ弾いた。
見えない力で、強く。
「うわっ!?」
老人は尻もちをつき、犬が吠える。
だが車は止まらない。
弾いた反動でわずかにずれた軌道の先で交差点中央で活動していたヒーローの方へ向かった。
「っ!」
現場整理中だった若手ヒーローが振り返り回避した、だが一瞬遅れていた。
誘導していたバイクが倒れる、規制コーンが跳ね飛び、車は電柱に激突して止まった。
周囲に悲鳴が上がる。
犬が吠え続けていた、老人は無傷で運転手も軽傷。
ヒーローも大きな怪我はない、だが空気は重かった。
数分後。
駆けつけた警察が現場保存と事情聴取を行なっていた
「……つまり、あなたが個性で老人を?」
警官が確認する。
才子は小さく頷く。
近くでヒーローが腕を押さえながら言う。
「助かった命があるのは事実です」
若い男だった、まだ新人らしい。
「でも、こちらの規制線へ車が流れたことで現場対応が崩れてしまった」
父親が低く聞き返す。
「じゃあ、見ていろと?」
警官は言葉を選ぶ。
「そういう話ではありません」
その横でテレビクルーがすでに来ていた。
マイク。
カメラ。
誰かが囁く。
「またあの子だ」
その日の夜。
ニュース速報。
『再び“無免許救助”――今度は業務妨害か』
映像には倒れたコーン。
避けるヒーロー。
老人の証言。
「助けてもらったのは確かです……でも急に飛んで……」
討論番組。
コメンテーターが厳しい顔をする。
「前回は奇跡でした。しかし今回は違う」
「結果としてヒーロー活動への支障が出ている」
「だから制度が必要なのです」
SNSは割れた。
また助けただけだろ
#本物の正義
今度はさすがに危ない
だから免許制度あるんだよ
別の投稿。
これで責めるのは酷い
でも車の軌道変わってるの事実
翌日。
学校で廊下を歩く才子の前で、男子がわざと大げさに避けた。
「飛ばされるぞ」
笑い声。
小さい。
だが刺さる。
放課後。
父親と帰る途中、才子がぽつりと言う。
「……助けなかったら、よかったの?」
父親はすぐ答えなかった。
横断歩道の前で止まる。
信号が変わるまでの数秒。
「助けたことは間違ってない」
静かに言う。
「でも」
才子が先に言う。
父親は少し苦く笑う。
「世の中は、“正しい”だけじゃ通らない」
家へ向かう夕暮れ。
後ろからまたカメラのシャッター音がした。
夜のニュース番組だった。
スタジオの色が以前より暗い。
落ち着いたBGM。
だが空気は明らかに違う。
画面中央に映るのは交差点の防犯カメラ映像。
赤信号を無視した車。
歩道へ出かけた老人。
次の瞬間。
老人の身体が横へ弾かれる。
車体の軌道が変わる。
誘導中だったヒーローが飛び退く。
倒れる規制コーン。
停止したフレームで赤い円が付く。
司会者が低い声で言った。
「――この映像、皆さんはどう見ますか」
テロップ。
『再び無免許個性使用 今度は“善意”か“軽率”か』
コメンテーターが頷く。
「前回は奇跡的に称賛されました」
「しかし今回は、明確にヒーロー業務へ影響が出ています」
画面に専門家。
事故再現CG。
「老人を横へ飛ばしたことで車両進路が変化した可能性があります」
「結果として現場整理中のヒーローへ危険が及んだ」
別のパネル。
『無免許個性行使が与える社会的影響』
「子どもたちが“助ければ許される”と誤解する危険があります」
「模倣行為が起きればどうなるか」
以前、あれほど明るかったスタジオに笑顔はない。
ただ冷静な“分析”だけが続く。
翌日には昼の情報番組。
今度は街頭インタビュー。
「助けた気持ちは分かるけど……」
「でもルールありますよね」
「強い力を持つなら余計に慎重じゃないと」
テロップが重なる。
『“天使”は本当に正しかったのか』
さらに翌週。
校門前だった。
授業が終わった直後。
門を出た真白才子の前に、マイクが突き出される。
「真白さん!」
カメラが寄る。
十歳の顔に容赦なくレンズが向く。
「君がやったことは法律違反だと分かっていますか?」
立ち止まる。
「今回、ヒーローの活動を妨害したという指摘があります」
別のマイク。
「プロヒーローの立場がなくなったとは思いませんか?」
「前回助けたことで注目された影響は感じていますか?」
「また同じ状況なら、個性を使いますか?」
矢継ぎ早。
答える隙がない。
ランドセルの肩紐を握る手だけが少し強くなる。
校門の向こうから教師が慌てて出てくる。
「やめてください!」
だが翌日の見出しは別だった。
『問いかけに沈黙――少女は何を思う』
夜。
家の前にも車が止まる。
インターホン。
何度も鳴る。
父親が出る。
すぐライトが当たる。
「どういう教育をしたら、お子さんに法を越えさせるんですか!」
「結果として全国に無免許使用を肯定する空気を作った責任は!」
「以前の“制度より人命”発言、今も変わりませんか!」
父親の眉が動く。
「帰ってください」
「答えてください!」
「ヒーロー制度を否定するんですか!」
ドアが閉まる。
しかし翌朝には編集された映像が流れる。
『無言で扉を閉ざす父』
スタジオで誰かが言う。
「説明責任は必要でしょうね」
別のコメンテーター。
「世間に影響を与えた以上、もう私人ではない」
テレビの光だけが部屋を照らしていた。
消された音声の中で、字幕だけが流れる。
『社会的責任』
『説明義務』
『強個性の危うさ』
食卓で牛乳が残る。
真白才子は箸を持ったまま動かない。
母親も何も言わない。
父親だけがテレビを消す。
部屋が暗くなる。
しばらくして、才子がぽつりと言った。
「……わたし」
声が細い。
「助けると、迷惑なの?」
誰もすぐ答えられなかった。
外ではまだエンジン音がする。
報道車両は帰っていない。
窓の外でカメラの赤いランプが点いている。
その小さな光だけが、
やけに長く残った。
深夜だった。
ニュース番組の再放送が小さな画面で流れている。
『無免許個性使用を繰り返した少女、その家庭環境とは』
父親の映像。
母親の後ろ姿。
家の前のぼかされた住所。
「少し不用心だね」
低い声が部屋に落ちた。
ソファに腰掛けた男は、片手でリモコンを弄びながら笑う。
オール・フォー・ワンだった。
背後の男が一礼する。
「対象に動きはありません」
「そうだろうね」
画面では街頭インタビュー。
「親が甘いんじゃないですか」
「特別扱いされすぎ」
男は少しだけ首を傾ける。
「人は面白い、英雄を欲しがり、飽きると処刑台に乗せる」
ニュースが切り替わる。
今度はネット掲示板の転載。
法を舐めてる
あの親が問題
子どもが危険なら親が止めるべき
「十分だ」
男は静かに言った。
「燃料は足りている」
「……例の者を?」
「うん」
返答は軽い。
「“正義”に酔っている者がいい」
数日後。
地方の小さな掲示板で一つの投稿が拡散する。
真白家は反省していない
夜も平然と外出している
近所の安全は誰が守るのか
さらに別投稿。
警察は甘い
市民が声を上げるべき
投稿主は不明。
だが火はすぐ広がる。
その中に一人いた。
元ヒーロー志望。
免許取得前に不適格判定を受けた男。
今も自作のヒーロー装備を持ち歩く。
蛍光色のベスト。
警棒。
防刃手袋。
自分では“地域防衛活動”のつもりだった。
彼は画面の前で拳を握る。
「誰かがやらなきゃならない」
翌夜。
真白家の前。
暗い住宅街。
男は門の前に立つ。
息が荒い。
インターホンを押す。
何度も。
何度も。
父親が玄関を開ける。
「何ですか」
男は叫ぶ。
「あなた方のせいで社会が乱れてる!」
「子どもに法律違反を教えるな!」
父親が眉をひそめる。
「帰ってください」
だが男はさらに前へ出る。
「あなたたちは危険なんだ!」
押し合いになる。
その瞬間。
玄関灯が揺れる。
背後で才子が顔を出す。
「お父さん――」
男が振り向く。
その目が少女を捉えた瞬間、熱が変わる。
「ほら見ろ!」
「その目だ! 力を使う気だろ!」
警棒が振り上がる。
父親が庇う。
鈍い音。
母親の悲鳴。肉が刺される音
玄関先で身体が崩れる。
さらに混乱。
才子の視界が白くなる。
咄嗟に発動したサイコキネシス。
門扉が弾け飛ぶ。
男は吹き飛び、塀へ叩きつけられる。
静寂。
赤色灯が来るまで、ほんの数分。
だがニュースは翌朝には完成していた。
『真白家騒動、ついに暴力沙汰へ』
『市民との衝突で父親重体』
専門家が言う。
「過熱報道との因果は慎重に見るべき」
別局では、
「一部市民が危険を訴えていた」
そのころ地下で。
同じニュースを見ながら男は穏やかに座っていた。
「実に繊細だ」
背後の部下が問う。
「予定通りですか」
「いや」
オール・フォー・ワンはわずかに笑う。
「予定以上だ」
画面には玄関先で立ち尽くす少女。
毛布を掛けられ、無言。
ライトに照らされる顔。
涙もない。
「守るべきものを、“正義”に奪われた子は」
声は静かだった。
「とても良い問いを抱える」
「社会を信じるべきか」
「壊すべきか」
テレビの光が消える。
「さて、頃合いだね」
深夜の病院は静かだった。
昼間の騒がしさが嘘のように、
廊下には足音も少ない。
白い壁。
遠くで鳴る機械音。
面会時間は終わっている。
待合スペースの端、
硬い椅子に真白才子は座っていた。
毛布を肩に掛けられている。
けれど寒さは感じていなかった。
膝の上で握った手だけが震える。
さっき聞いた言葉がまだ消えない。
「お父さまも、お母さまも……」
その先は覚えていない。
理解したくなくて、
頭が止まった。
泣くのも途中で止まると思った。
でも止まらなかった。
「……っ……」
小さく息が漏れる。
誰もいないと思っていた。
だから、
顔を伏せたまま、
やっと声になる。
「わたしが……」
涙が落ちる。
「助けなきゃ……」
喉が詰まる。
次が続かない。
何度も飲み込んで、
ようやく出た。
「助けなきゃ……よかった……」
その時だった。
「違うよ」
知らない声。
穏やかだった。
才子が顔を上げる。
少し離れた廊下の陰。
黒い外套の男が立っている。
病院の白い光の中なのに、
なぜか輪郭だけが静かに沈んで見える。
警備員も看護師も気づかない。
男はゆっくり歩いてくる。
だが足音はほとんどない。
「君は間違っていない」
優しい声だった。
怒りもない。
責めもない。
「君は目の前の命を救った」
「本来なら褒められるべきことだ」
才子は動けない。
ただ見上げる。
男は隣には座らない。
一歩離して立つ。
「だが世界は違った」
「君を責めた」
「君の家族を追い詰めた」
病院の蛍光灯が少し唸る。
「そして最後には」
言葉を切る。
言い切らない。
その沈黙が逆に重い。
「君だけが残された」
才子の唇が震える。
「……わたしのせい」
即答だった。
男は首を横に振る。
「違う」
一切迷いなく。
「大人たちのせいだ」
「弱い正義」
「保身」
「群れるだけの善意」
静かな声なのに、
一つ一つが冷たい。
「君が背負う必要はない」
その言葉で、
初めて才子の呼吸が乱れる。
泣き方が変わる。
押し殺していたものが少し崩れる。
男は視線を窓へ向けた。
夜の病院。
暗い駐車場。
報道車両の灯りがまだある。
「見えるかい」
才子もつられて窓を見る。
遠くの赤いランプ。
カメラ。
まだいる。
「明日も来る」
「両親を失った子どもにもマイクを向ける」
声は淡々としていた。
だから現実味が増す。
「君はどこへ帰る?」
答えられない、家という言葉が、もう浮かばない。
男はそこで初めて手を差し出す。
強くない。
静かに置く。
「一緒に来ないかい?」
短い。
ただそれだけ。
「君が泣き終わるまで、誰にも責められない場所がある、君の力を咎める者もいない」
才子の目が揺れる。
男は最後に一つだけ足す。
「君はまだ、人を嫌いきれていない。だから今のうちに休んだ方がいい」
長い沈黙。
病院の時計だけが進む。
そして、
小さな手が伸びる。
触れる。
男は強く握らない、包むだけたった
「そうか」
次の瞬間、
廊下は静かなまま、椅子だけが残る。毛布が落ちる。
看護師が角を曲がる頃には、そこには誰もいなかった。
「個性は確かに魅力的だ」
薄暗い部屋で男が微笑む。
「だがね」
窓の向こうで眠る少女を見る。
「これは奪ってしまうには惜しい」
口角が上がるのが止められない
「社会が自ら手放した善意ほど、よく効く毒はない」
曇天の下、石造りの古い屋敷
芝は手入れされているが、
噴水は止まり、
鉄門には錆が見える。
かつては威厳だったものが、
今は維持の限界を隠していた。
長い廊下を歩きながら、
真白才子は静かに周囲を見る。
黒い靴音が規則的に響く。
隣を歩く男は穏やかだった。
完璧な紳士然としたAFO
応接間では老紳士が待っていた。
細い体。
背筋だけが貴族の名残を保つ。
壁には古い肖像画。
銀の茶器。
だが絨毯の端が擦れている。
「……本当に、助かります」
老紳士の声は低い。
誇りがある。
だからこそ屈辱も混じる。
AFOは微笑む。
「名家が金で潰れるのは惜しい」
軽く紅茶を置く。
「歴史とは、残すべきものだ」
机上には契約書。
数字は一目で大きい。
だが条件は少ない。
老紳士は何度も確認する。
「担保も……利息も……」
「不要だよ」
あまりにも自然に言う。
「君の家が残ればいい」
その一言で、
老紳士の喉が詰まる。
才子は横で見ていた。
純粋に思う。
助けている。
困っている人を。
静かに。
誰にも知られず。
帰りの車内。
窓の外を古城が流れる。
才子が小さく言う。
「……先生は」
少し迷う。
「優しいですね」
AFOはすぐ答えない。
少ししてから、
柔らかく笑う。
「優しい?」
「そう見えたかい」
「だって」
才子は窓を見る。
「困ってた」
「だから助けた」
AFOはその言葉を否定しない。
むしろ受け取る。
「そうだね、だが、あの人は助けを求められなかった」
才子が見る。
「誇りが邪魔をする、制度は誇りに値段をつける、そして最後には切り捨てる」
静かな声。
授業のようだった。
「力とはね」
窓に映る自分を見ながら言う。
「持たない者に分けることで秩序になる。持つ者が独占すると支配になる」
才子はまだ全部分からない。
だが聞いている。
「今の社会は後者だ」
「力を許可証に閉じ込め」
「持つ者だけが正義を名乗る」
遠くで鐘が鳴る。
「君はどうだった?」
その問いは急だ。
「助けたら、罰せられた」
才子の指が少し固まる。
AFOは穏やかに続ける。
「私は君を責めなかったね、しかし彼らは責めた」
短い沈黙。
「どちらが自然だと思う?」
答えられない。
だが胸の奥で、
少しずつ並び始める。
父の死。
病院。
報道。
今日の老紳士。
そして目の前の男。
AFOは最後に窓の外を見て言う。
「急がなくていい」
「世界はゆっくり見ればいい」
「壊れている場所は、必ず見えてくる」
車は霧の中を進む。
才子はもう窓の外より、
その言葉を考えていた。
窓のない部屋は、常に一定の温度と、微かな機械音に満ちていた。
カチ、カチ、と規則正しく刻まれる秒針の音だけが、ここが現実の時間と繋がっていることを示している。
「――以上が、超常黎明期における『個性』保有者への初期弾圧の歴史です。教科書には『秩序の混乱』としか記されませんが、実態は無個性世代による、保身のためのジェノサイドに他なりません」
黒いスーツに身を包んだ男は、感情の起伏のない声で淡々と述べ、プロジェクターの画面を切り替えた。
映し出されたのは、白黒の、酷く粗い群衆の写真だ。
松明を掲げ、怯えと殺意が混じった目で、一人の歪な姿をした『個性』保有者を追い詰めている。
真白才子は、デスクに向かい、配られた資料に静かに目を落としていた。
ランドセルはもうない。
代わりに、上質な、しかしどこか血の通わない灰色のワンピースを着ている。
十歳の指が、鉛筆を握り、資料の余白に『ジェノサイド(集団殺害)』と、歪みのない文字で書き加えた。
「才子様、何かご質問は」
黒服の男が、慇懃に問いかける。
彼は才子のことを「様」付けで呼ぶが、その目には敬意ではなく、高度な工業製品を見つめるような、冷徹な観察の光が宿っていた。
「……いいえ」
才子は短く答える。
声は、かつての春先の午後に響いたものより、ずっと低く、平坦になっていた。
「では、次の時限は『個性の効率的運用における流体力学』です。ドクターが執刀中のため、私が代講いたします」
黒服は、淀みなく授業を続ける。
歴史、倫理、物理、戦術。
ここでは、一般教養の義務教育は行われない。
教えられるのは、**「社会の欺瞞を暴くための知識」と、「その欺瞞を物理的に粉砕するための技術」**だけだ。
才子は、それをスポンジが水を吸うように、無感情に、しかし完璧に記憶していった。
そして、週末の夜。
カチ、カチ、という秒針の音が消え、代わりに、重厚な絨毯が足音を吸い込む、広大な書斎へと才子は招かれる。
部屋の奥。
数え切れないほどの古書に囲まれたキングサイズのソファに、その男は座っていた。
AFO
彼の端正な顔の表情は読み取れない。
だが、その存在感だけで、部屋の空気が数度下がったように感じられた。
「お入り、才子」
男の声は、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていた。
才子はゆっくりと歩を進め、彼の膝元にある、小さな椅子に座る。
「今週は、何を学んだんだい?」
「……歴史と、物理。それから、倫理です」
「ほう、倫理か」
男は、微かに気配を揺らす。
それが、愉悦を示していることは、才子にも分かった。
「彼らは、現代の倫理をどう教えている?」
才子は、少しの間を置いて、記憶の引き出しから言葉を取り出す。
「『倫理とは、弱者が強者を縛るための、空虚な言葉の檻である』。……そう、教わりました」
「正解だ。よく学んでいるね、才子」
男は、優しく微笑んだ
そして彼の手が、才子の、かつてタンクローリーを持ち上げた白い髪に、そっと触れる。
その手は、冷たく、しかしあの日、自分を見捨てた社会の視線よりは、ずっと温かかった。
「だが、才子。その『檻』こそが、彼ら(大衆)の心の拠り所だ。……では、問いを変えよう」
男は、才子の髪を愛おしげに撫でながら、静かに毒を落とす。
「あの日、君の家の前にいた『正義の市民』たち。……彼らは、倫理という檻の中にいたかな? それとも、檻の外にいたかな?」
才子の動きが、ピタリと止まる。
脳裏に、あの日の記憶が、フラッシュバックのように蘇る。
インターホンの音。カメラのフラッシュ。
父を刺した男の、歪んだ正義感に満ちた目。
『子どもに法律違反を教えるな!』
倫理。法。秩序。
それらは、彼女を守らなかった。
むしろ、暴徒たちが彼女を攻撃するための、格好の武器(免罪符)として使われた。
「…………」
才子は、答えられない。
だが、彼女の中の、まだ「真っ白」だった場所が、男の問いによって、じわりと灰色に濁っていく。
「急がなくていい、才子。世界はゆっくり見ればいい」
男は、彼女の沈黙を肯定するように、手を離す。
「壊れている場所は、必ず見えてくる。君の知性は、そのためにあるんだから」
書斎の奥、消されたテレビのモニターには、かつて「天使」と呼ばれた少女が、今は「暴力沙汰の当事者」として報じられている、音声のないニュース映像が、静かに流れていた。
才子は、そのモニターを見つめながら、自分の心の中に、新しい、そして絶対的な「問い」が並び始めるのを、確かに感じていた。
社会(ヒーロー)は、私を『迷惑』だと言った。
市民(せいぎ)は、私を『危険』だと言った。
でも、この人だけは、私を『必要』だと言っている。
「さあ、おやすみ、才子。来週は、もう少し面白い倫理(じゅぎょう)を用意させよう」
「……はい、先生」
才子は立ち上がり、慇懃に一礼する。
その瞳には、もう十歳の子供らしい迷いや恐怖は、薄れ
ただ、冷徹な、世界への不信感だけが、静かに灯っていた。
彼女が書斎を出た後。
AFOは、誰もいなくなった闇の中で、再び、口角を吊り上げた。
その笑みは、社会が生み出した「善意の毒」が、期待以上に美しく、完成へと近づいていることへの、最悪の賞賛だった。
「社会が自ら手放した善意ほど、よく効く毒はない」
地下の書斎だった。
壁一面の本棚。
ランプの灯りだけが机を照らしている。
十四歳になった真白才子は、
静かに立っていた。
背筋が伸びている。
もう泣く年齢ではない。
だが目の奥には、
まだ消えない冷たさがある。
机の向こうで、
オール・フォー・ワンが指を組んだ。
「少し遠くへ行ってもらう」
才子は瞬き一つせず聞く。
「アメリカですか?」
「いや」
わずかに笑う。
「イギリスだ」
静かな驚き。
だが声には出さない。
「君に必要なのは力だけじゃない」
机上に一枚の古い写真。
石造りの屋敷。
広い庭園。
「人は理屈で従わない」
「見た目で従う」
才子の視線が写真に落ちる。
「美しい言葉」
「正しい姿勢」
「崩れない目線」
「それだけで、人は自分から膝を折る」
「君はまだ粗い」
否定ではない。
素材評価だった。
「だが素質はある」
「君は“怒らずに否定できる”」
それは非常に危険な才能だった。
「先生のためにですか」
才子の問いは自然だった。
AFOは即答しない。
少しだけ窓のない壁を見る。
「私のためでもある」
「だが君自身のためでもある」
「いずれ君は」
声が低くなる。
「正義の顔をした者たちの前に立つ」
「その時、怒りでは負ける」
「優雅さで勝て」
沈黙。
才子は写真を見たまま、
小さく頷く。
「……はい」
AFOはそこで初めて柔らかく言う。
「完璧なレディになりなさい」
「誰にも疑われず」
「誰よりも正しく見えるように」
「そして必要な時だけ」
わずかに口元が動く。
「世界を否定しなさい」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(何色にも染まる)真白な(サイコキネシスの個性を持った)才子が
ヒーロー社会という完成されたシステムの中で、純粋な善意が「システム外のイレギュラー」として排除されていく過程を描きたくて筆を執りました。
特に、AFOが単なる暴力ではなく「淑女の教育」を施すという点には、彼なりの歪んだ美学と、社会への皮肉を込めています。才子がこの先、どのような「完璧なレディ」としてヒーローの前に立つのか、想像を膨らませていただければ幸いです。
もしよろしければ、読後の率直な感想をお待ちしています。
執筆の励みになりますので、一言でもいただけると嬉しいです!
誤字の修正ありがとうございました
スピンオフみたいな感じで赤黒血染視点の話も考えてはあるのですが需要ありますかね
-
ある
-
無い