それと、11話を機会に、連載に切り替えようと思います。
残り短いあいだですがよろしくお願いします
夕暮れの赤みがかった光が、都内の大病院の白い外壁を粘つくように染め上げていた。
昼と夜の境目に生まれる、あの不穏な色。
病院の正面玄関前には、すでに何重もの人垣ができていた。
テレビ局の中継車。
伸びるケーブル。
肩を押し合う記者たち。
獲物を狙う獣のようなレンズ。
そのざわめきの中心へ、一台の黒い高級車が静かに滑り込む。
エンジン音が止まる。
次の瞬間——
ドアが開いた。
閃光。
無数のフラッシュが一斉に弾けた。
そこから降り立ったのは、真白才子だった。
彼女の両腕には、視界を埋め尽くすほどの百本の白薔薇。
白。
ただひたすらに白。
花弁は夕陽を受けてわずかに赤みを帯び、その芳香は病院前に漂う排気ガスの匂いさえ押し流していく。
後ろでは黒服の護衛が、大型の鉄製花器を恭しく抱えていた。
「バロネス! 本日の生放送、拝見しました!」
「病院訪問は予定通りですか!?」
「本当にお忍びなんですか!?」
矢継ぎ早の問い。
マイクが差し出される。
才子は一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように微笑んだ。
頬にかすかな朱が差す。
「……あら」
柔らかな声だった。
「つい先ほど、放送で口を滑らせてしまいましたの」
白薔薇を抱えたまま、少しだけ肩をすくめる。
「これでは“お忍び”ではありませんわね」
周囲から小さな笑いが漏れる。
「わたくしとしたことが……お見舞いに行けるのが嬉しくて、つい」
その言葉に、記者の一人が感嘆したように呟く。
「なんて純粋な……」
「彼女らしいな……」
だがその直後だった。
「中入れるだろ!? ウチが同行だ!」
「いや生枠押さえてんのはこっちだ!」
「馬鹿野郎!うちはキー局だぞ!こっちご優先に決まってるだろ!!」
一気に空気が荒れる。
カメラマン同士が肩をぶつけ合う。
スタッフの怒声。
病院の自動ドア前で押し合いが始まる。
本来静かであるべき場所に、欲と焦りが露骨に溢れ出した。
才子はその騒ぎを見つめ、静かに眉を曇らせた。
悲しげな表情。
完璧な角度。
「皆さま、どうか落ち着いてくださいませ」
その一言で、声量がわずかに下がる。
「ここは病を得たヒーローが休まれる場所ですわ」
言葉は柔らかい。
だが確実に届く。
「病院へご迷惑をおかけするわけには参りません」
一歩前へ出る。
「中へ入るクルーは、代表一社だけに絞らせていただきます」
静かな決定。
だがそれが火種になる。
「代表ってどこだよ!」
「ふざけるな!」
「ウチだろ!」
再び記者同士がぶつかる。
醜い。
あまりにも露骨な争い。
その様子を、才子は白薔薇を抱えたまま静かに眺めていた。
微笑みは崩れない。
だがその瞳の奥だけが、凍ったように冷たい。
(……本当に滑稽)
心の奥で、無音の嘲笑が落ちる。
(特ダネ。数字。自己顕示欲)
(正義を語る顔で、こんなにも容易く醜くなる)
フラッシュがまた焚かれる。
(あなたたちのその浅ましさが——)
(かつて九歳のわたくしを追い詰めたことも知らずに)
一瞬だけ、瞳の奥に幼い記憶が過る。
追いかけるマイク。
叫ぶ大人たち。
囃し立てる男子。
だが次の瞬間には消える。
(そして今も、自分たちで“正義”の足場を削っている)
彼女にとって目の前の群衆は、もはや報道ではない。
“扇動される素材”。
“壊れる標本”。
「——行きましょう」
護衛へ視線を送る。
白薔薇に顔を寄せる。
花弁へそっと唇を近づけた。
まるで、これから息の根を止める獲物へ最後の手向けを与えるように。
「皆さまに、わたくしの気持ちが……正しく届きますように」
完璧なカメラ目線。
涙すら宿しそうな優しい眼差し。
その一瞬に、全レンズが吸い寄せられる。
シャッター音が雨のように降った。
そして白い花束を抱いたまま、才子は病院の自動ドアをくぐる。
その背中は、誰の目にも慈悲深い聖女だった。
——だがその足取りは、
獲物のいる檻へ向かう捕食者のそれと、少しも変わらなかった。
ハイツアライアンス共同ラウンジ——白薔薇の向こう側
ハイツアライアンスの共同ラウンジには、夕食後らしい穏やかな匂いがまだ残っていた。
食器を片付け終えたばかりのテーブル。
ソファに散らばるクッション。
大型モニターに流れる夜のニュース。
だが、その空気は次第に重く変わっていく。
画面いっぱいに映し出されていたのは、真白才子だった。
百本の白薔薇。
白一色の花束に顔を寄せ、病院玄関で柔らかく微笑む。
背後では記者たちが場所取りで揉み合い、怒声を飛ばし合っている。
それを彼女が静かにたしなめる。
——誰の目にも、美しい。
あまりにも美しすぎて。
だからこそ、不快だった。
「——クソがッ!! どの口で『お忍び』とか抜かしてやがる!!」
爆豪勝己の怒声がラウンジを震わせた。
握ったリモコンが軋む。
掌から火花が弾ける。
「自分でカメラ呼び寄せといて、“病院に迷惑”だァ!? 全部計算済みじゃねぇか、このアマ!!」
鋭い視線が画面を射抜く。
理屈より先に、本能が嘘を嗅ぎ取っていた。
隣で八百万百が深く息を吐く。
「……鮮やかすぎますわ」
視線はテレビから離れない。
「一社に絞ることで混乱を抑えたように見せながら、独占映像という利益を与えている……完全に主導権を握っています」
膝の上で指が強く組まれる。
「慈善活動をここまで戦略化するなんて……」
彼女の声には珍しく苦みがあった。
同じ富裕層の空気を知るからこそ分かる。
洗練された悪意。
「いや……でもさ」
ぽつりと、上鳴電気が呟く。
「あれ、ぶっちゃけすげぇ美人だよな……薔薇似合いすぎっていうか……」
一瞬、空気が止まる。
隣にいた耳郎響香の目が細くなった。
「……あんた今なんて?」
「いや、敵ってのは分かってるって! でも画として強——」
最後まで言えなかった。
バシッ!!
耳郎のイヤホンジャックが脇腹へ突き刺さる。
「いっっっっった!!」
「バカ鳴」
冷たい声。
「何のための花か分かってないでしょ」
テレビへ顎を向ける。
「あれは“お見舞い”じゃない。黙らせるための武器」
上鳴が脇腹を押さえて悶絶する横で、ソファの端にいた芦戸三奈が小さく顔を曇らせていた。
記者同士が押し合い、怒鳴り合う映像。
「……なんかさ」
声がいつもより静かだった。
「ちょっと悲しいね」
誰もすぐには返せない。
「病院なのに……あんなに押し合って」
視線が落ちる。
「みんな、“いいこと”してる人見てるはずなのに、なんであんな空気になるんだろ」
その横で蛙吹梅雨が穏やかに口を開いた。
「焦ってるのよ、芦戸ちゃん」
落ち着いた声。
「撮り逃したくないんでしょうね」
芦戸が眉を寄せる。
「でも……」
「だからこそ、余計に目立つの」
蛙吹は画面を見る。
「落ち着いてる人が、一番きれいに見えるから」
その言葉に、芦戸は少しだけ口を結んだ。
理解したくないが、理解できてしまう。
爆豪が低く呟く。
「……あいつ、何する気だ」
切島鋭児郎が拳を握る。
だが答えは出ない。
ただ一つ分かる。
あの白い花束が運ばれる病室には——
地獄より冷たい善意が、これから静かに置かれる。
その時だった。
ラウンジ入口から甘い匂いが漂う。
「おい、できたぞ」
砂藤力道が大皿を抱えて入ってくる。
焼きたてのケーキ。
丁寧にクリームまで整えられている。
「今日はちょっといい感じに——」
言葉が止まる。
誰も振り向かない。
全員テレビを見ている。
爆豪は火花。
耳郎は不機嫌。
八百万は険しい。
芦戸は沈んでいる。
砂藤がゆっくり状況を理解する。
「……あー……今じゃなかったか」
誰かが小さく「ごめん」と言った。
しかしケーキの甘い匂いだけが、妙に場違いに漂う。
その時だった。
ラウンジ入口の自動ドアが静かに開く。
「騒がしいと思ったら」
低い声。
全員が振り向く。
入ってきたのは相澤消太だった。
首に巻いた捕縛布。
眠たげな目。
だが視線だけは鋭い。
爆豪がすぐ口を開く。
「センセ、あれ——」
「見れば分かる」
相澤はテレビを見る。
画面の中では才子が病院へ入っていく。
白薔薇。
カメラ。
完璧な角度。
数秒、無言。
そして相澤は淡々と言った。
「覚えとけ」
全員の空気が変わる。
「敵は殴ってくるとは限らない」
静かだった。
だが重い。
「善意の形で距離を詰めてくる奴もいる」
耳郎が視線を上げる。
八百万が息を止める。
「怒った側が負ける場を作るのが上手い相手は厄介だ」
爆豪の火花がわずかに止まる。
相澤はソファ脇に立ったまま続けた。
「だから感情を読まれるな」
テレビを顎で示す。
「今病院にいるヒーローは、それを分かった上で対応する。」
「……昨日の件、回ってるんすか」
切島が低く聞いてくる質問に相澤は短く頷く。
「お前らも学べ」
そこへ砂藤がまだ皿を持ったまま立っているのに気づく。
相澤がそちらを見る。
「……で、それは」
砂藤が少し困ったように答える。
「ケーキです」
相澤は一瞬だけ沈黙し、
「切るか」
と言った。
空気が少しだけ戻る。
だがテレビの中ではまだ白薔薇が揺れていた。
爆豪は舌打ちしながらもソファへ座り直す。
「……食う」
その一言で、ようやく誰かが皿を取り始めた。
けれど甘い匂いの奥に残るのは、
白薔薇の冷たさだった。
病院の自動ドアが静かに閉まる。
外の喧騒が嘘のように遠ざかり、白い廊下には消毒液の匂いだけが残った。
百本の白薔薇を抱えた真白才子は、歩幅を乱さずゆっくりと進む。
靴音は控えめ。
背筋はまっすぐ。
一歩ごとに、まるで舞台を進むような正確さだった。
前方から書類を抱えた看護師が来る。
才子は自然に半歩引き、柔らかな微笑を浮かべる。
「どうぞ、お先に」
声は低く穏やか。
看護師が慌てて頭を下げる。
「す、すみません……!」
「いいえ。お仕事中でしょう?」
英国淑女そのものの発音。
礼の角度まで美しい。
さらに先、点滴台を押した高齢患者が曲がり角で止まる。
才子はすぐ横へ寄り、通路を空けた。
「どうぞ」
患者は驚いたように目を見開く。
「ありがとう……」
「お大事になさってくださいませ」
白薔薇がわずかに揺れる。
その姿は廊下の誰の目にも“本物”に映る。
廊下脇のベンチには、小学生ほどの少女がいた。
隣には疲れた顔の母親。
少女は手術室ランプをじっと見つめている。
緊張で両手を握りしめていた。
才子の歩みがそこで止まる。
母親が驚いて顔を上げた。
「……あの」
才子は花束から一本だけ抜く。
真っ白な薔薇。
茎の棘はすでに丁寧に処理されている。
「待つ時間は、とても長く感じますものね」
少女の前にそっと差し出す。
「少しだけ、気持ちが和らげば」
少女が戸惑いながら受け取る。
「……いいの?」
「ええ」
微笑みは崩れない。
「きっと大丈夫。お父様は戻っていらっしゃいます」
母親が思わず頭を下げる。
「ありがとうございます……」
「どうかお気になさらず」
その一連の流れは完璧だった。
角度。
間。
言葉。
視線。
すべてが寸分違わない。
だが——
二人の前を横切る、その一歩。
ほんの一瞬だけ。
誰にも気づかれない速度で。
才子の目から光が消えた。
口元がわずかに冷える。
感情とも呼べないほど短い歪み。
——羨ましい。
——守られる側でいられることが。
——誰かの帰りを信じて待てることが。
——失う前提で生きなくていいことが。
胸の奥で鈍く疼くものは、羨望よりももっと濁っていた。
憎悪。
幸福そのものへの拒絶。
あまりに自然に寄り添う親子の姿が、
白く整えた感情の表面を一瞬だけ引き裂いた。
だが次の瞬間には消える。
何事もなかったように、目元が柔らかく戻る。
唇がわずかに上がる。
再び完璧な慈愛。
観葉植物の陰から小型カメラがその横顔を追っていた。
もちろん気づいている。
気づかないはずがない。
けれど止めない。
視線すら向けない。
ただ歩幅だけをわずかに整える。
もっとも美しく見える角度へ。
(……その瞬間は撮れていないでしょうね)
内心でだけ確認する。
撮らせるのは白薔薇だけ。
少女への微笑みだけ。
廊下を進む背中は、再び一点の曇りもない。
ヒーローの病室へ向かう白が、
静かに距離を縮めていく。
病棟最奥。
一般病室とは明らかに造りの違う区画だった。
壁材は厚く、床の光沢すら硬質に見える。
重傷ヒーロー専用区画。
通路の先には重厚な自動ドア。
その前で真白才子の歩みが止まった。
プレートには患者名。
青玉晶
女性ヒーロー。
ヒーロー名。サファイアグローブ
個性——触れた物質を最大硬度9まで固化する。
その能力ゆえ、暴走防止も兼ねた特殊病室が用意されている。
白薔薇の香りが扉前に静かに広がる。
その時だった。
背後から、代表取材を許された記者が遠慮がちに声をかける。
「……バロネス」
才子が振り返る。
記者は申し訳なさそうに一礼したが、その目は真剣だった。
「実はお願いがございます」
手元のボイスレコーダーを確認する。
「先日の男性ヒーローへのお見舞いの際——現場に記録映像がなく、不幸な“行き違い”が起きました」
一瞬だけ空気が張る。
「彼が取り乱し、あなたに手を上げてしまった件です」
記者は言葉を慎重に選びながら続けた。
「我々としても、あのような誤解を二度と繰り返したくありません」
カメラマンが小さく機材を構え直す。
「あなたの安全のため。そして何より、その善意が正しく伝わるように——病室入口まで、可能であれば中まで同行し、一部始終を記録させていただけませんか」
沈黙。
ほんの一拍。
その間に、才子の睫毛がわずかに震えた。
誰にも分からないほど小さく。
だが胸中では冷たい舌打ちが鳴る。
(……余計なことを)
前回はカメラがなかった。
だからこそ、遠慮なく精神を抉れた。
言葉を選ぶ必要もなかった。
追い詰め、怒りを誘い、最後に暴力へ変える。
完成した筋書き。
今回は違う。
監視の目がある。
レンズがある。
音声が残る。
(けれど——)
拒めば不自然。
ここまで積み上げた聖女像に傷が入る。
一秒で計算は終わった。
次の瞬間には、口元に柔らかな微笑みが戻る。
「……まあ」
少しだけ困ったような表情。
わずかな不安を含ませる。
「皆さま、わたくしの身を案じてくださるなんて」
記者の表情が緩む。
才子は白薔薇を抱き直した。
「確かに……あのような怖い思いは、もう二度としたくございませんわ」
かすかに伏せる睫毛。
「皆さまが見守ってくださるなら、これほど心強いことはありません」
顔を上げる。
完璧な笑み。
「どうぞ、お隣に」
一歩、半歩だけ位置を空ける。
「真実を、そのレンズに収めてくださいまし」
「ありがとうございます!」
記者の声が少し上ずる。
「責任を持って撮影します!」
カメラが回り始める。
赤いランプ。
その横顔を、才子は穏やかに見つめ返した。
だが瞳の奥は絶対零度だった。
(いいでしょう)
白薔薇の香りがわずかに揺れる。
(撮りたいのなら、撮ればいい)
指先が一本、茎を撫でる。
(カメラの前で一言も毒を吐かずに、どう壊すか——)
むしろ興が乗る。
制約が増えた。
だからこそ面白い。
(難しいほど、脚本は美しい)
重厚な自動ドアが静かに左右へ開き始めた。
内部の白い光が漏れる。
(さあ——見せて差し上げましょう)
百本の白薔薇を抱えたまま、才子は一歩踏み出す。
(カメラが回っていても成立する、“絶望”という芸術を)
コツ。
コツ。
ヒールの音だけが静かに響く。
その後ろを、記者とカメラマンが恭しく追う。
自分たちが何を運び込んでいるのかも知らずに。
善意という名の包装紙に包まれた毒を。
特殊病室の空気は重かった。
外で待機する記者たちの期待とは裏腹に、内部は驚くほど静かだった。
白いベッド。
規則正しいモニター音。
そして、その中央に横たわるサファイアグローブ。
真白才子が一歩足を踏み入れた瞬間から、彼女の肩はわずかに強張っていた。
——根津校長の言葉を自分に言い聞かせる。
“超越”。
その単語を繰り返す
才子は抱えていた百本の白薔薇を後ろの黒服に預けた。
無機質な花瓶へ、一気に活けられる。
白が増殖する。
病室の一角を埋めるほどの白。
香りだけで圧迫感が生まれる。
「……お体の具合はいかがかしら」
声は柔らかい。
鈴のように澄んでいる。
「一日も早い現場復帰を、皆が待ち望んでおりますわ」
カメラはその横顔を丁寧に追っている。
どこから見ても慈愛。
だが、
カメラが少し角度を変えた一瞬だけ。
才子の瞳が真正面から青玉晶を射抜いた。
温度が消える。
「……けれど」
静かな声。
「無理をして戻る必要はありませんのよ?」
花瓶の白薔薇へ目を向ける。
「以前のように動けないご自分を、市民の前に晒すことが……どれほどお辛いか」
「皆さまは優しいようでいて、とても正直ですもの」
言葉は柔らかい。
だが意味は鋭い。
——弱った姿は見抜かれる。
青玉の指先がシーツの下で固くなる。
ベッド柵の金属表面がわずかに硬質な音を立てた。
個性が無意識に反応している。
だが才子は続ける。
「きっと、“以前のあなた”を覚えている方ほど」
微笑む。
「少しの違いにも敏感になってしまいますわ」
ヒーローとして最も刺さる一言。
前と比べられる。
劣化を見られる。
沈黙。
喉がわずかに震える。
だが青玉晶は目を逸らさない。
才子はさらに一輪、花の向きを整えた。
「焦らなくてよろしいのです」
穏やかに。
「戦えなくなった方にも、別の尊い役割がありますもの」
その一言で、空気がわずかに沈む。
——戦えなくなった前提。
——現場を降りる未来。
だがまだ終わらない。
「後輩たちに席を譲る勇気も、立派な強さですわ」
完全な励ましの形。
完全な退場勧告。
白薔薇の香りだけが濃くなる。
青玉晶の呼吸が一度深く入る。
怒りはある。
確実にある。
だが飲み込む。
そして静かに答えた。
「……ありがとうございます」
声は掠れない。
「全力を尽くします」
才子の瞳がわずかに細くなる。
期待していた崩壊はない。
暴力もない。
叫びもない。
折れない。
硬度9。
少なくとも外側は。
才子は再び聖女の微笑みを整えた。
「ええ。どうか、ご無理なさらず」
最後まで完璧な角度で振り返る。
カメラには理想的な見舞いが残る。
病室の扉が閉まる。
白薔薇だけが残る。
その瞬間、
青玉晶はシーツの中で握った拳をゆっくり開いた。
爪の跡が深く残っていた。
ハイツアライアンスの共同ラウンジ。
砂藤が焼いたケーキの甘い匂いと緊張が混ざり合う奇妙な静寂の中、全員の視線は再びモニターへと注がれていた。
画面の中、バロネス・エインズワースが病室を後にする。
その直前、カメラが捉えたサファイアグローブ(青玉晶)の表情は、硬く、しかし一点も曇っていなかった。
「……耐え、た」
切島鋭児郎が、祈るように握りしめていた拳をゆっくりと解いた。掌には爪の跡が深く刻まれている。
「ああ。一発も、一言も、あのアマの土俵に乗らなかった。……大した根性だぜ、あのヒーローは」
爆豪勝己が忌々しげに舌打ちをしながらも、ソファの背もたれに深く身体を預けた。掌の火花は消えている。彼なりの、最大級の安堵の表明だった。
「良かったですわ……。もしあの方があの場で取り乱してしまえば、メディアはこぞって『精神的に不安定なヒーローの危険性』を叩き、バロネスの『慈愛』をさらに神格化させていたでしょう」
八百万百が胸に手を当て、長く、重い溜息をついた。
張り詰めていた空気が、ようやくラウンジの隅々まで解けていく。
「サファイアグローブさん、かっこいい……。あんなにボロボロに言われて、それでも『ありがとうございます』って……。私なら、泣いて飛び出しちゃってたかも」
芦戸三奈が潤んだ瞳を拭い、隣の蛙吹梅雨に寄りかかる。
梅雨は「ケロリ」と一点を見据えたまま、静かに頷いた。
生徒たちが口々に安堵を漏らし、砂藤が「……よし、今度こそケーキ切るぞ!」と声を張り上げた。
ラウンジに、ようやく年相応の少年少女らしい活気が戻り始める。
その輪から少し離れた壁際。
相澤消太は、生徒たちの騒ぎを視界の端に入れながら。僅かながらに安堵の息を漏らした。
(……よく繋いでくれた、サファイアグローブ)
相澤の胸中を占めていたのは、教師としての厳格さよりも、同じ現場を駆ける同志への深い感謝だった。
真白才子の攻撃は、物理的な破壊よりも質が悪い。
善意という名の「正解」を突きつけ、反論する者を「悪」に仕立て上げる。
一度その術中に嵌まれば、ヒーロー社会という足場は内側から腐り落ちる。
(あの状況で、プライドを捨てて“盾”に徹するのは、殴り勝つより何倍も苦しいはずだ)
相澤は、生徒たちが砂藤のケーキに群がる様子を眺める。
もし今日、彼女が折れていれば、明日この子たちが街に出る時、向けられる視線はさらに冷たいものになっていただろう。
彼女が一人で耐え抜いたあの数分間は、未来のヒーローたちの居場所を守るための、最も孤独で高潔な防衛戦だった。
「……相澤先生も食べます?」
上鳴電気が、フォークを手に能天気に話しかけてくる。
相澤は一瞬だけ、自身の険しい表情を緩め、捕縛布を整え直した。
「……ああ。一切れ、もらおうか」
モニターの中では、再びニュースキャスターが真白才子の品格を称賛し始めている。
世間の評価はまだ、敵の掌の上だ。
だが、その脚本には確実に、一人の女性ヒーローの忍耐という名の「計算外の空白」が刻まれた。
(次は、俺たちの番だ)
甘いケーキを口に運びながら、相澤の瞳は、ラウンジの明るい光の向こう側にある、決戦の闇を静かに見据えていた。
夕方。
病院の窓から差し込む夕焼けが、病室の白をゆっくり侵食していた。
花瓶いっぱいに活けられた白薔薇も、その光の中では赤く染まる。
まるで葬列だった。
白いベッドの上で、サファイアグローブは膝を抱えていた。
肩が小さく震えている。
声は押し殺しているのに、呼吸だけが乱れる。
思い出す。
何度も。
耳の奥で繰り返される。
——無理をして戻る必要はありませんのよ。
——以前のように動けないご自分を晒すくらいなら。
——後輩に席を譲る強さもありますわ。
「……っ」
唇を噛む。
涙が止まらない。
「……ふざけないでよ……」
掠れた声がシーツへ落ちた。
殴りたかった。
一発でいい。
あの微笑みを崩したかった。
けれどカメラがあった。
レンズがあった。
全国へ流れる視線があった。
だから笑った。
「ありがとうございます」と返した。
その自分が悔しかった。
ヒーローとして。
人間として。
尊厳を踏みにじられながら、何もできなかった。
その時——
重い病室の扉が静かに開いた。
控えめな音。
だが入ってきた存在は大きい。
「……起きていたか」
低く、太い声。
ブラドキングだった。
巨体が夕焼けを背負って立つ。
いつもの熱血な勢いはない。
肩を少し落とし、静かにベッド脇まで歩いてくる。
「管……先輩……」
慌てて涙を拭こうとした手を、
ブラドキングの大きな掌が止めた。
「いい」
短い声。
「拭うな」
その言葉に青玉晶の手が止まる。
「その涙は、おまえが今日一日、戦った証だ」
椅子は引かない。
立ったまま真正面から見下ろす。
その目にあるのは同情ではなかった。
現場を知る者だけが向ける敬意。
「……悔しかっただろう」
拳がゆっくり握られる。
ミシ、と関節が鳴る。
「あの女の言葉は鋭い。現場の人間間にしか刺さらん刃だ」
白薔薇を見る。
「善意に包んで、おまえの積み上げてきたものを否定しに来た」
夕陽が花弁の赤を濃くする。
「……それを、よく堪えた」
青玉晶の喉が震える。
ブラドキングは続けた。
「根津校長が言っていた」
少し鼻を鳴らす。
「耐えることこそが、あいつらへの一番残酷な武器だとな」
視線を戻す。
「おまえは今日、それを振るった」
「……でも」
声が揺れる。
「私は……何も返せませんでした」
「返してる」
即答だった。
「帰り際の背中が少し硬かった」
青玉晶が顔を上げる。
「壊せなかったんだ。おまえを」
白薔薇の香りがまだ残る。
「計算違いだったはずだ」
ブラドキングの声が低くなる。
「おまえが耐えたことで、あいつの脚本には小さなヒビが入った」
病室が静まる。
モニター音だけが規則正しい。
「世間はまだ分からん」
「……」
「だが、俺たちは知ってる」
大きな手が、頭の上へ。
触れない。
だが確かな距離で止まる。
「今日、おまえは誰より強かった」
その言葉で、青玉晶の目からまた涙が落ちた。
「……私、まだ」
声が震える。
「ヒーローでいて、いいんでしょうか」
ブラドキングの答えは一瞬だった。
「当たり前だ」
断固としている。
「おまえが今日守ったのは自分だけじゃない」
拳が胸の前で止まる。
「あの場で唇噛んでる全員の誇りだ」
沈黙。
それから少しだけ顔を逸らす。
照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「……すまなかったな。辛ぇ役目を押しつけた」
低く続ける。
「だが、その悔し涙は、俺が預かる」
一歩下がる。
「雄英の連中も、必ず力に変える」
扉へ向かう。
「今日は寝ろ。泥みてぇにな」
病室を出る。
扉が閉まる。
残された青玉晶は、ようやく深く息を吐いた。
白薔薇の香りはまだ鼻につく。
だが胸の奥に凍っていた塊は、
少しだけ溶け始めていた。
深夜。
面会時間はとうに過ぎ、病院の廊下には消毒液の匂いと機械音だけが残っていた。
病室の灯りは落とされ、窓の外には都市の明かりが滲んでいる。
花瓶いっぱいに押し込まれた白薔薇だけが、暗がりの中でぼんやり浮いて見えた。
甘すぎる香り。
息が詰まる。
ベッドの上で、サファイアグローブは膝を抱えていた。
昼間から何度も繰り返される声。
——戻らなくてもいい。
——以前のように戦えないなら。
——後進に譲るのも勇気。
耳の奥にこびりついて離れない。
目を閉じても、あの微笑みが浮かぶ。
その時——
病室の扉が、ノックもなく勢いよく開いた。
「よお、生きてるか!」
硬い音が響く。
カツン。
カツン。
「ひでぇツラしてんな!」
現れたのはミルコだった。
右脚の義足が床を叩くたびに硬い音が鳴る。
左腕の袖口からは金属義手。
全身に新しい包帯。
松葉杖を片手に、それでも前へ進む姿はまるで獣だった。
痩せている。
だが眼だけが異様に鋭い。
生き物としての熱量だけで身体を支えているようだった。
「ミルコ……?」
青玉晶が思わず息を呑む。
「……あんた、その体で」
「体なんざ後で治る」
ミルコはズカズカとベッド脇まで来る。
そして白薔薇を見るなり、露骨に眉をしかめた。
「……うわ、最悪」
花瓶を覗き込む。
「何だこれ。葬式か?」
白い花弁を指先でつつく。
「嫌がらせにしても陰気すぎるだろ」
青玉晶は思わず目を瞬かせた。
昼間、自分はこれを「善意」として扱わなければならなかった。
けれど目の前の女は一秒で切り捨てる。
「……私、耐えたよ」
声が掠れる。
「言い返さなかった」
俯く。
「でも、悔しくて……」
また涙が滲む。
その瞬間、
バチン、と肩を叩かれた。
「痛っ!」
「痛いだろ?」
ミルコが口角を上げる。
「生きてる証拠だ」
その目が獲物を見るように光る。
「いいか。あたしは放送見てた」
松葉杖を立てる。
「あんたがあのクソ丁寧な引退勧告を真正面から受け流した瞬間——」
牙を見せる。
「あたし、気持ちよくて耳が震えた」
青玉晶が呆気に取られる。
「絶対あの女、内心こうだったぜ」
ミルコが声色を変える。
「——あれ? なんで殴ってこないの? ってな」
鼻で笑う。
「顔、ちょっと引きつってたぞ」
白薔薇を顎で指す。
「あれだけ舞台作って、壊せなかった」
ぐっと前へ身を乗り出す。
「あんたの勝ちだ」
その言葉が、胸に落ちる。
青玉晶の喉が震える。
「……ありがとう」
だが視線は自然とミルコの義手へ落ちた。
金属光沢。
削れた表面。
無数の修理痕。
「……でも」
声が小さくなる。
「蛇腔の時……私が動けていたら」
「は?」
「私の個性で守れていたら、あんたの腕も脚も——」
最後まで言わせなかった。
ミルコが鼻で笑う。
「何言ってんだ」
義足を床へ打ちつける。
カツン。
「いたって、あたしは突っ込んでた」
左腕の義手を軽く持ち上げる。
「見ろよこれ」
金属が光る。
「生身の時より硬ぇ」
右脚を鳴らす。
「脚も新型だ」
口角が吊り上がる。
「あたしは半分失った」
その眼だけがさらに鋭くなる。
「その代わり執念は倍だ」
言葉に一切の迷いがない。
「悔しいなら覚えとけ」
青玉晶を指差す。
「あんたの硬度は死んでねえ」
一歩引く。
「次、現場で会ったら」
笑い、握り拳を向ける
「ヴィランの顔面に全部叩き込め」
青玉晶の口元がわずかに緩む。
「……ふふ」
涙混じりの笑い。
「相変わらずデリカシーないね」
「ヒーローにそんなもんいらねえ」
即答だった。
白薔薇を見る。
「これ、今から全部ゴミ箱に蹴り込むか?」
「……いい」
青玉晶は首を振る。
「明日、自分で捨てる」
ミルコが少しだけ満足そうに鼻を鳴らす。
「よし」
背を向ける。
カツン。
カツン。
松葉杖と義足の音が静かな病棟に響く。
去り際、一度だけ手を上げる。
振り返らない。
親指だけ立てる。
「——胸張って寝ろ」
扉が閉まる。
静けさが戻る。
だがさっきまでの静けさとは違う。
白薔薇の香りはまだある。
けれど、それを押し返すように、
義足の硬い音が耳に残っていた。
青玉晶はゆっくり花瓶を見る。
白い花。
昼間は棺のように見えた。
だが今は違う。
明日、自分で捨てる。
自分の手で。
自分の意思で。
そして枕へ頭を沈める。
瞼を閉じる。
胸の奥に一つだけ、熱が残る。
——必ず治す。
——この病を、完全に。
——現場へ戻る。
——自分の足で。
静かな誓いだった。
その夜、サファイアグローブは久しぶりに、浅くない眠りへ落ちていった。
深夜のスイートルーム——埋もれた棘
深夜。
高層階のスイートルームは、都市の夜景を一面のガラス越しに抱え込んでいた。
足元まで伸びる窓の向こうで、無数の灯りが瞬いている。
静かだった。
だが、その静けさとは裏腹に、
ソファへ腰掛けたバロネス・エイズワースの指先だけが規則的に画面を滑っていた。
タブレットには、昼間の慰問映像を切り取った記事と反応が並ぶ。
「さすが英国の淑女」
「百本の白薔薇とか品格が違う」
「日本のヒーローも見習うべき」
「言葉遣いまで完璧」
「本当に上流の人って感じ」
賞賛が流れる。
次から次へ。
予想通りだった。
だが。
その中に、ごくわずかに混じる。
「……でも少し言い方きつくなかった?」
「励ましというより圧を感じた」
「後半ちょっと棘あった気がする」
才子の指が止まる。
目が細くなる。
次の瞬間、そのコメントは別の大量の称賛に飲まれて見えなくなる。
埋もれる。
一瞬で。
だが——
彼女の眉間の皺は消えなかった。
本来欲しかった流れがない。
肝心の、
ヒーロー側への批判が伸びていない。
「……弱いですわね」
小さく呟く。
もっと揺れるはずだった。
もっと、
「現場復帰すべきでない」
「無理をするな」
「席を譲れ」
そういう空気へ傾くはずだった。
だが反応はそこまで行かない。
耐えた。
あの女は耐えた。
壊れなかった。
タブレットを閉じる音が少し強くなる。
その時、控えていた秘書が静かに口を開く。
「……お休み前に、明日の予定を」
才子は立ち上がったまま、振り向かない。
「読み上げて」
「はい。明朝八時、ヘリポートより被災地視察。瓦礫撤去を担当するプロヒーローへの陣中見舞い。その後、市役所表敬訪問。昼前に空港へ移動し——」
声が続く。
だが才子の耳には半分しか入っていない。
ドレスの背中のファスナーへ手をかける。
「午後は老人ホーム慰問、その後——」
「ええ、結構」
短く遮る。
「変更があれば朝に」
「……かしこまりました」
秘書が一礼する。
その背に、珍しく言葉が落ちた。
「先生……申し訳ありません」
秘書がわずかに振り向く。
才子はもうこちらを見ていない。
「明日は必ず、上手くやります」
扉が閉まる。
静寂。
バスルームの照明だけが白く灯る。
鏡の中に映るのは、昼間まで一切乱れなかった完璧な淑女。
だが目だけが冷えている。
蛇口をひねる。
湯気が立つ。
ドレスが床へ落ちる。
白い肌に、今日一日張りついていた外向けの仮面が少しずつ剥がれていく。
シャワーが肩を打つ。
温度は高い。
それでも胸の奥のざらつきは消えない。
瞼を閉じる。
思い出す。
病室で耐えた顔。
壊れなかった目。
そして、
わずかにあった、
自分の言葉が届かなかった感触。
湯の音の中で、小さく息を吐く。
「……次は」
誰にも聞こえない声。
「必ず」
熱い湯が頬を流れる。
それが水滴か、苛立ちなのか自分でも分からなかった。
死柄木弔の回復が予想されるリミットまでまと5日
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は1万字を超えるボリュームで、真白才子の「聖女としての侵食」と、それに対峙する現場ヒーローの意地を描きました。
彼女が守ったのは、自分自身のプライドだけでなく、後に続く1-Aの生徒たちの居場所でもありました。
物語はいよいよ、死柄木復活までの残り5日へと突入します
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