暗かった。
夜とも夕方ともつかない色の空。
雨上がりの舗道が鈍く光っている。
幼い靴音がひとつだけ響く。
まだ小さかった。
手も細い。
制服の袖が少し長い。
幼い真白才子は、その場に立っていた。
目の前には横倒しになりかけた黒い車。
片側のタイヤが縁石へ乗り上げ、
ドアが半開きになっている。
焦げた匂い。
金属の軋み。
そして中から伸びる老人の手。
「……っ」
何も考えなかった。
ただ、その手を掴んだ。
小さな腕に力を込める。
滑る。
重い。
けれど離さない。
制服の袖が汚れる。
膝を擦る。
それでも必死に引く。
「もう少し……!」
老人の体が車外へ落ちる。
次の瞬間——
背後で悲鳴が上がった。
誰かが叫ぶ。
「危ない!」
振り返る。
その瞬間、
後ろから別の車のライトが視界を白く塗った。
ブレーキ音。
耳を裂く。
世界が歪む。
老人を庇うように前に立ちふさがり手を前に出す
轟音。
何かがぶつかる。
ガラスと血が散乱する。
怒号。
そして——
気づけば、人がいた。
大勢。
取り囲む影。
顔がよく見えない。
だが口だけがはっきりしている。
「何やってるんだ!」
「勝手に触るからだ!」
「動かさなければよかったのに!」
「余計なことを!」
「危険だっただろ!」
声が重なる。
重なる。
重なる。
幼い才子は座り込んだまま、
泥で汚れた手を見つめる。
さっきまで握っていた老人の温度が残っている。
けれど誰もそこを見ない。
老人は遠くで誰かに抱えられている。
救急隊の声。
サイレン。
だがその音すら遠い。
「君のせいで——」
その一言だけが妙に近い。
幼い喉が動く。
「……助け」
声にならない。
「助けただけです」
言えない。
誰も聞いていない。
一歩、後ずさる。
だが靴が動かない。
足元が泥ではなく、
いつの間にか白薔薇になっていた。
無数の白い花弁。
踏むたび赤く染まる。
誰かがまた言う。
「善意でも、迷惑というものがある」
別の声。
「目立ちたかったのか?」
「余計なことを」
「余計なことを」
「余計なことを」
その言葉だけが増幅する。
老人の顔を見ようとしても見えない。
ただ、
助けたはずの手だけが、
今度は自分を責めるように離れていく。
「違う」
ようやく声が出る。
小さい。
幼い。
「私は——」
そこで、
ガラスが割れる音。
一面の白が砕ける。
教室へ戻ろうとしていた幼い真白才子の前に、男子生徒が二人立ちはだかった。
にやついた顔。
何か面白いものを見る目。
「おい」
ひとりが肩をぶつける。
「ニュースの奴だろ」
もうひとりが笑う。
「あの、おじいさん転ばせたやつ」
周囲で数人が振り向く。
「助けたつもりで迷惑かけたんだって?」
「ヒーローごっこ失敗?」
くすくす笑い。
胸の奥が冷える。
耳の奥で、またあの声が蘇る。
——余計なことを。
——勝手に触るから。
——迷惑だ。
男子がさらに顔を寄せた。
「ねえ今度は誰飛ばすの?」
その瞬間だった。
空気が揺れる。
男子の身体がふわりと浮いた。
「うわっ!?」
次の瞬間、
数メートル先へ軽く弾かれる。
机に肩からぶつかり、鈍い音。
教室が静まり返った。
誰も動かない。
才子自身も一歩遅れて気づく。
自分の右手が上がっていた。
指先が震えている。
男子は泣きそうな顔で立ち上がった。
「いてぇよ!」
その声で一気に騒ぎになる。
教師が飛んできた。
夕方。
校長室。
重たい革張りのソファ。
窓の外は曇っていた。
中央に座る校長。
向かいに男子生徒とその両親。
そして反対側に、
幼い才子と両親。
父の表情は固い。
母は静かすぎるほど静かだった。
男子の母親が言う。
「怪我は大したことありません。でも、個性で飛ばすなんて」
父が即座に頭を下げた。
「申し訳ありません」
母も続く。
「娘が未熟でした」
その声は冷たく整っている。
才子だけが座ったままだった。
膝の上で拳を握る。
校長が静かに言う。
「真白さん」
視線が集まる。
「あなたも謝りなさい」
喉が詰まる。
言葉が出ない。
男子がこちらを見る。
昼間と同じ顔。
少し怯え、
そのくせ勝ち誇った顔
「……」
父の低い声。
「才子」
促される。
唇を噛む。
やっと立ち上がる。
頭を下げる。
視界に自分の靴しか見えない。
「……ごめんなさい」
言った瞬間、
胸の奥に焼けるようなものが広がる。
だが男子の父親はさらに続けた。
「報道で名前が出てから精神的に不安定なんでしょうか」
母の眉がわずかに動く。
だが反論しない。
「今後は家庭でも指導いたします」
また父が頭を下げる。
何度も。
何度も。
そのたびに、
才子の中で何かが静かに沈んでいく。
帰り際。
校長室の扉が閉まる直前、
母が小さく言った。
「挑発されても手を出しちゃだめ」
振り返らないまま。
「才子がが損をするのよ」
疲れていたのだろう、それでも慰めてほしかった。
いっそ激しく叱責されたほうが、まだ救われたかもしれない。
投げかけられたのは、あまりに冷ややかな事実だけ。
廊下の窓に映る自分の顔を見る。
幼い顔。
だが目だけが妙に冷えていた。
——悪いのは先にからかってきた向こうだった。
そう思っても、
謝ったのはこちら。
頭を下げたのもこちら。
学校の廊下は、いつも通りのざわめきに満ちていた。
窓から差し込む朝の光。
教室から漏れる笑い声。
鞄の擦れる音。
何も変わらないように見えた。
だが——
幼い真白才子が角を曲がった瞬間、
前方にいた数人の生徒の空気がわずかに変わった。
ひとりが気づく。
目が合う。
その直後、
小さく肩を引く。
「……あ」
隣の友人へ何か囁く。
二人とも自然を装って端へ寄る。
廊下の中央だけが、不自然に空いた。
足音だけが響く。
コツ。
コツ。
コツ。
誰もぶつからない。
誰も触れない。
けれど、
誰も近づかない。
横を通る時、会話が止まる。
通り過ぎた後でまた小声が戻る。
「昨日……」
「飛ばされたって」
「やっぱり」
聞こえる。
聞こえないふりをするには十分な音量。
教室前ではさらに露骨だった。
扉の前で話していた女子二人が、
才子を見るなり少し間を空ける。
一人分。
いや、
半歩ぶんだけ広い距離。
まるで透明な線でも引かれているように。
席へ向かう。
椅子を引く音だけが妙に大きい。
前の席の男子は振り向きかけて、
途中でやめた。
窓の外を見るふりをする。
教科書を出す。
ページをめくる。
だが、
背中越しにわかる。
気配が固い。
休み時間。
消しゴムを落とした。
足元へ転がる。
近くの女子が拾いかける。
だが指先が止まる。
一瞬迷って、
そのまま机の脚でこちらへ押し戻す。
「……」
言葉はない。
ありがとうも言わない。
向こうも言わない。
昼休み。
廊下を歩くと、
向こうから来た集団が自然に左右へ割れた。
道ができる。
広い。
誰もぶつからない。
誰も触れない。
まるで危険物でも運ばれているようだった。
その中心を、
幼い才子は真っ直ぐ歩く。
表情は崩さない。
背筋も伸ばす。
だが指先だけが制服の裾を握っていた。
窓ガラスに映る自分。
小さい。
なのに、
周囲だけが妙に遠い。
その時、
背後で小さな声。
「また飛ばされたら嫌だし」
笑い声。
小さい。
だが鮮明だった。
足が一瞬止まりかける。
しかし止めない。
歩く。
一定の速度で。
曲がり角まで。
誰にも見えなくなったところで、
ようやく握っていた指をゆっくり開く。
掌には爪の跡が白く残っていた。
——近づかなければいい。
——最初から。
そう思えば、
少しだけ楽になる。
ざわめきが一瞬だけ薄くなった。
誰かがこちらを見た。
すぐ逸らす。
何事もないように席へ戻る者。
窓際の席まで歩く。
幼い真白才子は何も言わず椅子を引こうとして、
その手を止めた。
机の天板。
鉛筆で書かれていた。
細い線。
急いで書いたような乱れた文字。
「また とばすの?」
「きけん」
「さわるな」
端には小さく、
新聞記事の見出しを真似たように、
「しょうじょ そうどう」
と書かれていた。
文字の一部は笑うように歪んでいる。
教室の空気が妙に静かだ。
後ろで椅子が鳴る。
誰かがノートを開く音。
だが誰もこちらを見ない。
見ていないふりだけが上手かった。
才子は立ったまま机を見る。
顔は動かない。
呼吸も変わらない。
ただ指先だけが机の端へ触れる。
爪が木目をなぞる。
消しゴムを取り出す。
座らないまま、
一文字ずつ消す。
「ま」
「た」
「と」
黒鉛が薄く広がる。
完全には消えない。
跡だけ残る。
何度こすっても木目へ入り込んだ線が残った。
後ろから小声。
「怒るかな」
「やめなよ」
「聞こえるって」
消す手は止まらない。
最後の「な」を消した時、
消しゴムが小さく折れた。
白い欠片が机に落ちる。
それを拾う。
ようやく椅子へ座る。
教科書を出す。
何もなかったように。
だが机に残る灰色の跡だけは消えない。
授業が始まる。
教師の声。
黒板の音。
ノートを取る。
だが視界の端で、
薄く残った文字が何度も目に入る。
——きけん。
——さわるな。
その二語だけが、
必要以上にはっきり読めた。
放課後。
全員が帰った後、
教室に一人残る。
窓から夕陽が差す。
机に手を置く。
昼間より赤く見える。
誰もいない教室で、
才子は静かに定規を取り出した。
机の表面に残る跡を、
端から端まできっちり測る。
何センチ。
どの角度。
どれだけ筆圧が強いか。
無意味な行為だった。
学校の廊下には、帰宅する生徒たちの足音がまだ残っていた。
窓から差し込む夕陽が長く床を染める。
幼い真白才子は、鞄を抱えて歩いていた。
前方に見つけた背中。
小柄な女子生徒。
以前、一緒に図書室へ行ったことがある。
昼休みにノートを見せ合ったこともある。
笑ったこともある。
少なくとも、
才子はそう思っていた。
「——待って」
声をかける。
女子生徒の肩がびくりと揺れた。
振り返る。
その顔には、いつもの柔らかさがなかった。
どこか強張っている。
「今日……」
才子が少し歩み寄る。
「算数のプリント、ありがとうと言いそびれて——」
一歩。
その瞬間、
女子生徒が半歩下がった。
わずかな距離。
だがはっきり見えた。
「……ごめん」
声が小さい。
「え?」
「もう……」
唇を噛む。
目が揺れる。
「もう話しかけないで」
廊下の空気が止まる。
才子は動けない。
女子生徒はさらに続けた。
「あなたと一緒にいると」
喉が詰まりそうになりながら。
「私もいじめられるの」
その言葉だけがやけに鮮明だった。
遠くで誰かが笑う声。
窓の外の鳥の音。
全部遠くなる。
「……」
才子は何か言おうとする。
だが出ない。
女子生徒の目に涙が浮かんでいた。
責めているわけではない。
むしろ怯えている。
「昨日、机に……私のも書かれたの」
小さな声。
「あなたと話してるからって」
握っていた鞄の紐が強く引かれる。
「ごめんね」
本当に申し訳なさそうだった。
「嫌いになったわけじゃないの」
それが余計に刺さる。
「でも……無理」
言い終えると、
女子生徒は小さく頭を下げた。
それから逃げるように廊下を走る。
足音だけが遠ざかる。
残された才子は、
夕陽の中で立ったままだった。
床に伸びる自分の影だけが長い。
嫌われたわけではない。
でも離れられた。
それは、
もっと静かで、
もっと修復しにくい種類の断絶だった。
窓の外を見る。
校庭ではまだ何人か笑っている。
世界は普通に続いている。
自分だけが切り離されたようだった。
その時、
教室から風が吹き、
机の上に残っていた紙切れが廊下へ滑ってくる。
拾う。
そこには昼に破られたメモの一部。
丸い字で書かれていた。
こんど また ほん かそうね
その「また」は、
もう来ない。
才子は紙を二つ折りにし、
ポケットに入れようとしてグシャグシャに丸めて捨てた
学校を出た瞬間から、
空気が違っていた。
門の向こう。
数人の大人。
カメラ。
マイク。
立ったまま待っている。
幼い真白才子が姿を見せると、
一斉にレンズが向いた。
「真白才子さん!」
「学校では何か言われましたか?」
「事故についてどう思っていますか?」
「反省していますか?」
足が止まりかける。
だが止まらない。
歩くしかない。
制服の鞄を抱え直す。
質問が重なる。
「助けたことを後悔していますか?」
「個性使用について学校から指導は?」
「周囲との関係は——」
フラッシュ。
白く視界が飛ぶ。
何も答えない。
ただ前を見る。
靴音。
シャッター音。
自分の呼吸だけがやけに大きい。
途中、
誰かのマイクが近づきすぎて肩に触れた。
反射的に肩が強張る。
「……」
だが振り払わない。
振り払えばまた記事になる。
歩く。
ただ歩く。
ようやく住宅街へ入る。
人影が減る。
それでも後ろからまだ一人ついてくる。
遠巻きのカメラ。
角を曲がる。
家が見える。
いつもの門。
いつもの石畳。
そして——
玄関で足が止まった。
扉一面に紙が貼られていた。
白い紙。
何枚も。
重なるように。
乱暴に。
ガムテープで。
風に端が揺れている。
一枚目。
「めだちたがり」
二枚目。
「また だれか ころすの?」
三枚目。
「あぶない こども」
大人の字も混じる。
細い筆跡。
太い油性ペン。
新聞の切り抜きを貼ったものまである。
「善意か迷惑か」
玄関の白い扉が、
文字で埋まっていた。
後ろでシャッター音。
まだいた。
記者が一人、
遠くからその様子を撮っている。
才子は振り返らない。
ただ扉の前へ進む。
一番端の紙に触れる。
紙は少し湿っていた。
午後の湿気を吸っている。
剥がそうとする。
だがその時、
中から扉が開いた。
母だった。
表情は動かない。
一瞬だけ紙を見る。
次に才子を見る。
「入りなさい」
短い声。
才子が動かない。
母は外へ出る。
一枚ずつ紙を剥がし始める。
無言で。
破れる音だけが続く。
父も奥から現れる。
記者へ視線を向ける。
それだけで相手は少し下がる。
だが完全には去らない。
紙が剥がされるたび、
粘着跡だけが残る。
白い扉に黒ずんだ跡。
完全には消えない。
最後の一枚。
母が剥がした。
そこには赤いペンで大きく書かれていた。
「ひとのためは じぶんのため?」
母の指が一瞬止まる。
だが何も言わず破る。
玄関へ入る直前、
才子は振り返った。
道路の向こう。
まだレンズがこちらを見ている。
夕陽が反射して、
人の顔は見えない。
ただ黒い丸だけが光る。
その時、
幼い胸の奥で静かに理解した。
——泣けば記事になる。
——怒れば記事になる。
——黙っても書かれる。
ならば、
何も見せない方がいい。
玄関の扉が閉まる。
外の音が消える。
だが、
紙を剥がした跡だけは、
しばらく消えなかった。
教室へ入る。
ざわめきは一瞬だけ弱まり、
すぐに元へ戻る。
誰かが目を合わせ、
すぐ逸らす。
机へ向かう。
椅子を引く音だけが妙に響く。
机の表面には、
昨日消しきれなかった油性ペンの跡。
薄く残った文字。
爪でこすっても消えない。
鞄を置く。
座る。
教科書を出そうとして、
手が止まる。
昨夜、
玄関いっぱいの張り紙。
剥がされる音。
記者のレンズ。
「もう話しかけないで」
全部がまだ耳の奥に残っている。
呼吸が浅い。
視界が少し揺れる。
机に両腕を置く。
その上に額を伏せる。
髪が机に広がる。
最初は音を殺そうとした。
けれど、
喉が勝手に震えた。
小さな嗚咽が漏れる。
肩が揺れる。
涙が木目に落ちる。
一滴。
また一滴。
だが、
誰も何も言わない。
前の席の男子は振り返らず、
隣の列ではノートを見せ合う声が続く。
後ろでは昨日のテレビの話。
「映ってたよな」
「マジで?」
笑い声。
教室の空気は普通に流れていた。
まるで、
一人だけ透明になったみたいだった。
やがてチャイムが鳴る。
担任教師が入ってくる。
出席簿を持ち、
教卓へ立つ。
教室を見渡す。
一瞬、
机に伏したままの才子へ視線が止まる。
けれどそれだけだった。
「はい、席について」
すでに座っている。
淡々とした声。
「ホームルーム始めます」
名前が呼ばれる。
返事をしない。
数秒の沈黙。
教師はもう一度呼ばない。
次の名前へ進む。
黒板に今日の日付が書かれる。
白いチョークの音。
涙は止まらない。
けれど、
止める人もいない。
慰める人もいない。
責める人すらいない。
ただ、
そこに存在していても、
教室の流れに含まれていない。
その無音の切り離しが、
昨日のどんな言葉より深く胸に沈んだ。
机に落ちた涙が乾き始めた頃、
才子は静かに理解する。
——泣いても、何も変わらない。
——見せても、誰も助けない。
短い息遣いだけが響いた。
次の瞬間、
ベッドの上でバロネス・エイズワースは弾かれるように身を起こした。
肩が大きく上下している
厚いカーテンの隙間から、
淡い明け方の光が細く差し込んでいた。
夜は終わりかけている。
胸の奥にはまだ、
夢の残り香が沈んでいた。
古い教室。
伏せた机。
濡れた木目。
「もう話しかけないで」
玄関を覆う紙。
無数の文字。
誰も助けない朝。
そして、
助けたはずの手を責める大人たちの声。
どれも、
今さら揺らぐほど新しい記憶ではない。
それでも、
夢になる時だけは妙に生々しい。
奥歯に鈍い痛みが残っていた。
無意識に噛み締めていたらしい。
舌先で触れる。
小さく息を吐く。
再び目を閉じることはしなかった。
眠れば、
同じ続きを見る可能性がある。
ならば、
二度寝に意味はない。
ただそれだけだった。
感情ではなく、
判断として身体を起こす。
乱れたシーツから足を抜く。
白いネグリジェの裾が静かに膝へ落ちた。
素足が床へ触れる。
冷たい。
だが不快ではない。
立ち上がる。
静かな高級ホテルスイートルームの室内。
隣室からも物音はない。
まだ誰も起きていない時間だ。
ベッド脇に置かれた時計へ一瞬だけ目をやる。
午前五時を少し回ったところ。
十分だと判断する。
髪をかき上げ、
そのままバスルームへ向かった。
扉を開ける。
白い照明が柔らかく灯る。
洗面台の鏡に映る自分は、
すでにいつもの無表情へ戻りつつあった。
だが目元だけ、
わずかに睡眠の浅さを残している。
蛇口をひねる。
冷水で指先を濡らす。
鏡越しに自分を見る。
「……バカバカしい」
小さく呟く。
夢に乱されること自体が、今の彼女には無駄だった。
洗面台の横、鏡に映る自分を見つめたまま、肩に掛かる白い絹に指をかける。
ホテルが用意した、無機質なほどに純白のネグリジェ。
それを滑らせるように脱ぎ捨てると、柔らかな布地は足元のタイルへ音もなく崩れ落ちた。
鏡の中、剥き出しになった自分の身体。
夢の中で泥に汚れ、膝を擦りむいていた少女の面影は、そこにはもうどこにもない。
あるのは、鍛えられたわけでもなく、ただ冷徹に管理された、一人の女の輪郭だけだ。
床に落ちた白い塊を一顧(いっこ)だにせず、彼女は一歩、前へ踏み出した。
そのままシャワーブースのガラス扉を開く
湯を出す。
立ちのぼる蒸気が、
明け方の冷たさをゆっくり押し返していく。
肩に最初の湯が落ちた時、
ようやく胸の奥のざらつきが少しだけ薄れた。
今日も予定は詰まっている。
ならば、
過去に時間を割く理由はない。
そう整理しながら、
彼女は静かに目を閉じた。
シャワーの温度を上げる。
次いで、
水圧も強くした。
勢いよく落ちる湯が、
肩から背へ叩きつけるように流れる。
白いタイルへ跳ね返る水音が、
明け方の静けさを埋めた。
バロネス・エイズワースは壁に片手をついたまま、
目を閉じる。
だが脳裏に浮かぶのは、
さきほどまでの悪夢ではない。
昨夜、
SNSで確認した反応だった。
大半は称賛。
慈愛。
品格。
聖女。
予想通りの賛辞が並ぶ。
僅かに「ちょっとトゲがあったんじゃないか」程度の批判コメントがあったが
直ぐにほかの称賛のコメントにかき消された
だが、問題はそこではない
肝心の流れが弱かった。
——ヒーロー側への批判が広がりきらない。
あの場で、
もっと明確に揺らせたはずだった。
もっと深く、
相手の弱さを引き出せたはずだった。
女性ヒーローは耐えた。
想定よりも崩れなかった。
あれが計算を一段鈍らせた。
肩へ落ちる湯がさらに強くなる。
苛立ちを散らすように、
あえて顔から正面で浴びる。
髪が頬へ張り付く。
呼吸は乱れない。
ただ、
目だけが冷えていく。
「……次は外さない」
低く、
誰にも聞かせない声。
今日こそ、
世論の向きを決定的にする。
昨日のような半端は許さない。
水を止める。
途端に静寂が戻る。
湯気の中、
ガラス越しに自分の輪郭が曇る。
タオルで水気を拭き取り、
白いバスローブを羽織る。
腰紐を締め、
濡れた髪を片側へ払ったところで——
控えめな音が響いた。
コン、コン。
高級ホテルスイートルームの入口扉。
朝の静けさを壊さぬような、
訓練されたノック。
秘書だとわかる。
思ったより早い。
彼女は鏡越しに一度だけ表情を整えた。
さっきまで残っていた苛立ちの痕跡を、
完全に消す。
目元。
口元。
呼吸。
すべていつもの位置へ戻す。
そして、
静かに扉へ視線を向けた。
「入りなさい」
声には、
もう何一つ揺れがなかった。
扉が静かに開く。
入ってきた秘書は、
いつも通り一礼して足を止めた。
だが次の瞬間、
その視線がわずかに揺れる。
湯上がりのバロネス・エイズワースは、
まだ髪の先に水滴を残していた。
白いバスローブの襟元から覗く首筋。
濡れた髪が肩へ沿う。
明け方の淡い光が、
肌をいっそう白く見せている。
普段、
完璧に整えられた姿しか見ない秘書でさえ、
一瞬だけ言葉を忘れた。
それに気づかない才子ではない。
しかし視線を受け流したまま、
壁の時計へ目を向ける。
次の瞬間、
眉がわずかに動いた。
「……」
秒針。
表示。
もう一度確認する。
本来なら、
十分で済ませるつもりだった。
長くても十五分。
だが時計は、
予想よりはるか先を示している。
「……一時間?」
声は小さい。
自分でも意外だった。
悪夢の残滓を切るだけのはずが、
いつの間にか水音の中で時間を失っていた。
秘書はすぐに視線を正し、
手元の端末を開く。
「お呼び立てしてしまい申し訳ありません」
「いいえ」
才子は短く答える。
だがまだ時計を見ている。
一時間。
その数字がわずかに気に障る。
ここまで無意識に時間を浪費したことなど記憶に無い。
奥歯に残る鈍い違和感。
夢の影響が完全に抜けていない証拠だった。
それを認めるのは不快だった。
バスローブの腰紐を締め直す。
「三十分待って」
淡々とした声。
「身支度を整えるわ」
秘書が一礼する。
「かしこまりました」
才子はそのまま、スイートルームの奥、私室へ向かった。
歩幅はいつも通り。
だが内心では、
まだ一つだけ整理しきれない事実が残っていた。
——たかが夢に、一時間。
扉が閉まる。
その瞬間、
さっきまでの湯気も、
揺らぎも、
完全に私室の外へ切り離された
ベッドルームへ入ったバロネス・エイズワースは、扉を閉めると同時に一度だけ深く息を吐いた。
ここから先は、
迷いなく決められた手順だった。
まず、ドライヤーを手に取る。
濡れた髪へ温風を当てると、
肩に張りついていた水滴が少しずつ消えていく。
鏡越しに映る自分の表情は、
すでに先ほどの夢の痕跡を消し始めていた。
一定の角度で髪を払い、
乾き方の偏りが出ないよう指先で整える。
数分。
完全に水気が抜けると、
ドライヤーを元の位置へ戻した。
次に、
バスローブの腰紐を解く。
白い布が肩から滑り落ち、
無造作にベッド脇へ置かれる。
ためらいなく下着を身につける。
動作に無駄はない。
視線は時計へ一度も向かない。
だが体内で秒単位の感覚は狂っていなかった。
クローゼットから今日の仕事着を選ぶ。
柔らかな光沢を帯びたドレス。
今日の訪問先、
今日の撮影、
今日並ぶであろう報道写真——
その全てを計算した色と形。
袖を通し、
背のラインを整える。
裾を軽く引き、
皺を消す。
次にドレッサーへ座る。
ブラシを入れるたび、
乾いた髪が滑らかに流れる。
分け目、
毛先、
横顔の見え方。
左右差を確認する。
化粧は軽い。
だが薄いほど技術がいる。
目元にわずかな陰影。
唇の色を整える。
血色は抑えすぎず、
主張しすぎず。
最後に小さなイヤリング。
金具を耳へ留めた瞬間、
全体の輪郭が完成する。
立ち上がる。
姿見の前へ進む。
正面。
横。
背面。
襟元。
袖口。
髪の流れ。
視線の高さ。
わずかな乱れもない。
さきほど一時間を失った女と、
同一人物には見えなかった。
鏡の中の自分へ、
小さく確認する。
「——良いわ」
感情はない。
ただ、
元へ戻ったことの確認だけだった。
そして、
居間へ続く扉を開く。
秘書を待たせると告げてから、
ちょうど三十分。
一秒も狂っていなかった。
居間へ戻ると、
秘書はすでに端末を開いたまま待機していた。
一礼のあと、
即座に本題へ入る。
「本日の予定ですが——もし昨日の病院への再訪を優先されるなら、午前の移動時間を調整可能です」
その言葉に、
バロネス・エイズワースは足を止めた。
すぐには答えない。
視線だけがわずかに宙へ向く。
昨日の病室。
白薔薇。
耐えきった女ヒーローの微笑。
想定より崩れなかった空気。
そして、
SNS上で伸びきらなかった批判の流れ。
確かに、
小さな誤差は残った。
本来なら、
もう一度押し込めば修正できる可能性もある。
だが——
思考は冷静に切り分けられる。
取り戻すべき失敗と、
捨て置いてよい躓き。
昨日の件は後者だった。
世論はすでに大勢で優位にある。
わずかな違和感は、
放置しても自然に埋もれる。
あの女性ヒーローを再度刺激しても、
今度は警戒されるだけだ。
しかも成功率は高くない。
低い確率へ時間を投じるのは、
単なる感情的な執着になる。
それは最も避けるべき判断だった。
数秒の沈黙の後、
才子は首を横に振る。
「必要ないわ」
声は静かだった。
「昨日の件は十分」
秘書がすぐに頷く。
「では予定通りに」
「ええ」
才子はソファ脇のテーブルへ視線を落とした。
すでに次へ切り替わっている。
「無駄な修正は全体を鈍らせるものよ」
独り言のように言う。
だがその声には、
昨夜の苛立ちを切り捨てた痕跡だけが、
かすかに残っていた。
秘書は端末を一度スクロールし、
次の予定を読み上げた。
「このあと八時にヘリポートへ移動します」
バロネス・エイズワースはソファに腰を下ろしながら、
無言で続きを促す。
「八時二十分に離陸。十時に被災地到着予定です」
端末の画面には、
現地配置図と動線がすでに整理されている。
「現場では復旧作業中のヒーローへの陣中見舞いとなります。品物は昨夜のうちに搬入済みです」
才子の指先がカップの縁へ触れる。
「撮影位置は」
「作業導線を妨げない範囲で三箇所確保済みです。報道側にも制限をかけています」
短く頷く。
無駄はない。
秘書は続けた。
「十一時三十分まで現地滞在、その後空港へ移動」
「十二時発の便で岩手県へ向かいます」
画面が切り替わる。
「十四時、避難所にて物資寄付。受領側責任者との面会時間は十五分」
「十五時五十分発で青森県へ移動です」
そこで初めて、
才子が小さく目を細めた。
「青森は押しているのではなくて?」
「到着後の導線は短縮済みです。現地側も受け入れ体制完了しています」
「そう」
わずかに間を置く。
昨夜の躓きは切った。
ならば今日は、
数字で取り返す。
露出。
印象。
記録。
積み上げれば、
昨日の違和感など自然に沈む。
カップを置く。
「では予定通りで」
秘書が一礼する。
「はい」
明け方の静けさはもう消えていた。
この部屋の空気はすでに、
一日分の演出で満たされ始めていた。
秘書は端末の画面をさらに送った。
「青森県到着後ですが、十七時に農業協同組合で寄付贈呈となっております」
「金額は?」
「五千万円です」
淡々と告げられる数字に、
バロネス・エイズワースの表情は変わらない。
「小切手は?」
「すでに現地へ搬入済みです。署名確認のみお願い致します」
才子は軽く頷く。
秘書は続ける。
「贈呈後、現地代表との短時間懇談があります。報道は冒頭三分のみ」
「余計な質問は?」
「制限済みです」
「結構」
端末の表示が最後の行へ移る。
「その後、十九時発の便で東京都へ戻ります」
部屋に一瞬だけ静けさが落ちた。
朝から夜まで、
分刻みで積まれた訪問。
被災地。
避難所。
農業支援。
映る場所も、
渡す順番も、
数字も、
すべて意味がある。
昨日一つ取りこぼしたとしても、
今日一日で上書きできる。
そういう設計だった。
才子はカップの残りへ視線を落とし、
静かに言う。
「青森では滞在を引き延ばさないで」
秘書が即座に反応する。
「承知しました」
「寄付だけで十分よ」
その一言には、
昨日の病院で余計に踏み込んだ反省が、
冷えた形で残っていた。
——必要以上に触れれば、
相手にも余白を与える。
今日は違う。
与えて、
印象だけ残して去る。
それでいい。
秘書は端末を閉じる。
「では、出発まで三十分です」
才子は立ち上がった。
もう完全に、
悪夢の痕跡は消えていた
才子は最後の予定確認を終えると、
テーブル上の時刻表示へ一度だけ目を向けた。
まだ数分、
余白がある。
「朝食を楽しむ余裕くらいはありそうね」
独り言のような声音だった。
だが秘書は意味を取り違えない。
「はい」
即答する。
この場合の余白が、
単なる休憩ではなく、
気分と呼吸を整えるための時間だと理解している。
才子はソファ脇の内線へ手を伸ばした。
短く番号を押す。
数秒後、
応答。
「ルームサービスを」
声は穏やかだが簡潔だった。
「紅茶を一式。軽い朝食も」
注文は必要最小限。
銘柄だけ指定し、
余計な説明は加えない。
受話器を置く。
秘書は端末を閉じながら、
一歩下がった。
「では、七時五十分に再度参ります」
「ええ」
才子は軽く頷く。
秘書は一礼し、
静かに退室する。
扉が閉まる。
再び、
高級ホテルスイートルームに短い静寂が戻った。
その静けさの中で、
才子は窓辺へ歩く。
明け始めた街を見下ろす。
今日一日の移動距離。
露出。
記録。
寄付。
すべて頭の中で既に並び終えている。
昨日のわずかな躓きは、
今日の数字の中で薄まる。
そう判断していた。
数分後、
ワゴンの音が廊下に近づく。
朝はもう、
完全に始まっていた
朝の光が差し込む高級ホテルスイートルームのダイニングテーブル。
才子は背筋を伸ばし、ナプキンを膝に置く。テーブルの上には、シンプルながら気品ある朝食が並んでいた。
クラシックな三角形のサンドイッチ。レタス、スモークサーモン、クリームチーズが美しく層をなしている。
香り高い紅茶。ティーカップの縁には、細やかな金の縁取り。
小さなヨーグルトのカップ。フルーツソースが上品に添えられ、さりげなく彩りを添えている。
フレッシュな季節のフルーツ。ブルーベリーとラズベリー、薄くスライスされたキウイが小皿に整えられている。
才子はフォークを手に取り、まずサンドイッチを丁寧に口元へ運ぶ。ひと口かじるたび、素材の香りと軽やかな食感が心を落ち着かせる。
紅茶を一口含むと、温かさが喉を伝い、意識の隅に残っていた昨夜の悪夢や苛立ちを、少しずつ押し流していく。
ヨーグルトにスプーンを入れ、フルーツを絡めて味わう。小さな一口にも気品を失わず、動作は静かに、しかし確実に整えられている。
才子の目は窓の外に向いたまま、街の光景と自身の思考を同時に見据える。
「今日も……完璧に。」
無駄のない仕草、落ち着いた呼吸、そして淡々とした所作。朝食の間、才子はまさに淑女そのものの立ち振る舞いで、次の行動への準備を静かに整えていた。
お読みいただきありがとうございます。
白状します、本当は悪夢見て秘書と軽い打ち合わせ、実際の行動で終わらせる予定でしたが、悪夢が思ったより長くなり。何よりバスローブ姿描きたくてシャワーシーン入れたら字数が増えてしまい、いっそ開き直って朝食まで取らせて。朝のひとときの1話にしました
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