善意の剥製   作:タロットゼロ

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事件は会議室で起きてるんじゃない

 

ワシントンD.C.、ホワイトハウス西棟。

照明は落とされている。

スクリーンに映るのは、ただ一枚の資料だった。

「……送れ」

大統領補佐官が言う。

それは命令というより、確認だった。

通信士官が頷く。

「送信先、日本国外務省。最優先、暗号レベル・アルファ」

一瞬の間。

そして、クリック音。

それだけで、一つの国の運命が動き始めた。

 

東京、外務省。

深夜。

本来なら誰もいないはずの時間。

だが、廊下の灯りは消えていなかった。

「……来ました」

若い職員の声が、やけに乾いていた。

会議室の空気が、凍る。

外務大臣は、ゆっくりと椅子に座ったまま画面を見る。

開封。

一行目。

――“これは最終通告ではない。だが、それに限りなく近い”

誰も息をしない。

 

資料は、簡潔だった。

通信ログ。

資金の流れ。

時系列。

そして最後に、一つの結論。

――真白才子は、敵対行為に関与した可能性が極めて高い。 

だが、本当に重いのはその後だった。

別紙。

たった数行。

「我々は、貴国政府もまた当該人物に欺かれた被害者である可能性を考慮している」

誰かが小さく顔を上げる。

「……被害者?」

続く一文。

「よって、以下の措置が取られる場合、対日措置の一部緩和を検討する」

沈黙。

誰もが理解する。

これは“救済”ではない。

条件付きの赦免だ。

 

箇条書き。

・対象人物のペルソナ・ノン・グラータ指定

・外交特権の即時停止

・日本国内での指名手配

・身柄確保後、合衆国への引き渡し

 

その下に、たった一行。

「貴国の対応を、世界は注視している」

 

誰かが、椅子を軋ませた。

「……つまりはこういうことか?」

声が震える。

「真白才子を捕らえて差し出せ、と」

外務大臣は答えない。

ただ、次のページを開く。

そこには、もう一つの文書があった。

 

――“未対応の場合の想定措置”

 

経済制裁。

軍事的再配置。

同盟関係の見直し。

 

読み上げる必要すらない。

そこに書かれているのは、“未来”だった。 

静寂。

長い、長い沈黙。 

やがて、外務大臣が口を開く。

「……繋げろ」 

数分後。

回線が開く。

ワシントン。

直通。 

画面の向こうにいるのは、一人の男。

感情のない顔。

ただ、待っている。 

「文章は……確認した」

外務大臣が言う。

声は落ち着いている。

だが、その指先はわずかに震えていた。 

『理解が早くて助かる』

短い返答。

それ以上の感情はない。

外務大臣は、言葉を選ぶ。

一つでも間違えれば、終わる。

 

「時間をいただきたい、我が国としても、事実関係の精査が必要だ」

 

一瞬の沈黙。

 

『それは時間稼ぎか?』

 

即座に切り込まれる。

逃がさない、という意思。

 

「……閣議を行う」

外務大臣は続ける。

「正式な国家意思として決定する必要がある」

 

今度は、わずかに間があった。

 

『時間は?どれくらいだ?』

 

問いは短い。

だが、そこに含まれる意味は明白だった。

――猶予はやらない。

外務大臣は、一瞬だけ目を閉じた。

そして、答える。

 

「……12時間」

 

会議室の誰かが息を呑む。

 

「12時間以内に、結論を出す」

 

重苦しい沈黙が流れる。

 

画面の向こうの男は、数秒間こちらを見ていた。

評価している。

値踏みしている。

 

やがて、口を開く。

 

『いいだろう』

 その一言で、全員の背筋が凍る。

 『だが誤解するな』

声の温度が、一段下がる。

『これは交渉ではない』

誰も動けない。

『12時間後、我々は“結果”だけを見る』

わずかな間。

『その結果が我々の期待に沿わない場合——』

言葉は最後まで言われなかった。

必要がなかった。

回線が切れる。

無音。

外務大臣は、ゆっくりと椅子に背を預けた。

天井を見上げる。

 

「……12時間だ…その間に誠意を見せていただきたい」

 

誰も返事をしない。

その意味を、全員が理解しているからだ。

それは猶予ではない。

猶予に見せかけた、処刑までのカウントダウンだった。

 

時計の針は、午前一時をわずかに回っていた。

官邸の執務室に残る光は、ひどく薄い。

受話器が静かに置かれる。

回線が切れたことを示す、わずかな電子音。

それが、この夜の始まりだった。

外務大臣は、しばらく動かなかった。

手の中の温度が、ゆっくりと失われていく。

アメリカの声は、もうそこにはない。

だが、言葉だけは残っている。

――「十二時間だ…その間に誠意を見せていただきたい」

誠意。

その言葉の意味を、彼は正確に理解していた。

差し出せ、という意味だ。

迷う余地もなく。

言い訳も許されず。

ただ一人の人間を。

「……」

息を吐く。

それすらも、重い。

やがて彼は顔を上げた。

「秘書官」

扉の外で待機していた影が、すぐに応じる。

「はい」

「全閣僚に連絡。緊急閣議を招集する」

一瞬の間。

「……今から、ですか」

確認ではない。

覚悟の共有だった。

外務大臣は頷く。

「今からだ」

その一言で、夜が動き出す。

 

電話が鳴る。

一軒目。

二軒目。

三軒目。

眠りの底へ沈んでいた世界を、無理やり引きずり上げる音。

「……はい……」

受話器の向こうの声は、まだ現実を理解していない。

「緊急閣議です。直ちに官邸へ」

短い説明。

そして、次の言葉。

「議題は——」

わずかな沈黙。

「バロネス・エインズワースの件です」

 

沈黙が、数秒続く。

やがて、声が変わる。

「……は?」

 

 

防衛省。

地下の指揮所は、すでに夜ではなかった。

モニターの光が、人工の昼を作り出している。

防衛大臣は、椅子に沈み込んだまま目を閉じていた。

眠っているわけではない。

ただ、休んでいるだけだ。

そこに、補佐官が駆け寄る。

「大臣」

「……来たか」

目を開ける。

それだけで、すべてを理解していた。

「官邸か」

「はい。緊急閣議です」

短い沈黙。

「内容は」

補佐官が一瞬だけ言葉を選び、

それでも隠せないまま告げる。

「……エインズワース卿の、処遇です」

防衛大臣は何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと立ち上がる。

「車を回せ」

 

 

別の場所。

農林水産大臣の議員宿舎。

電話のベルが、やけに甲高く響いていた。

三度目で、ようやく手が伸びる。

「……なんだ、こんな時間に……」

不機嫌な声。

だが、秘書の言葉を聞いた瞬間、その色が消える。

「緊急閣議……?」

「はい。至急です」

「議題は」

一瞬の間が空き告げられる

「…真白才子に関する件です」

 

受話器の向こうで、何かが落ちる音がした。

 

「……は?」

 

その名前は、彼にとって複雑な意味を持つ、AFOの傀儡と云う疑いと、救いの聖女。

つい半日も前地方の農協に、莫大な寄付を行った女。

疲弊しきっていた現場に、救いの手を差し伸べた存在。

その彼女が。

「……どういうことだ」

「詳細は官邸で」

「ふざけるな、説明を——」

言葉は、途中で止まる。

 

「……指名手配の可能性があります」

 

完全な沈黙。

受話器を握る手が、わずかに震えた。

 

 

法務大臣は、すでに机に向かっていた。

起こされた瞬間から、眠気は消えている。

目の前には、開かれた六法と、走り書きのメモ。

「ペルソナ・ノン・グラータ……」

低く呟く。

「外交官特権の停止……国内法適用……」

無理だ、と一瞬思う。

だが、その思考を即座に切り捨てる。

無理かどうかではない。

やるかしかないのだ。

「根拠を作れ」

背後の官僚たちに命じる。

「どんな解釈でもいい。繋げろ」

「しかし大臣、前例が——」

「前例を作るんだ」

言葉は鋭かった。

「今この瞬間が“前例”になる」

 

 

そして——

首相官邸。

黒塗りの車が、静かに滑り込む。

一台。

また一台。

夜の底に、閣僚たちが集められていく。

 

総理大臣は、すでに起きていた。

というより、眠れていなかった。

机の上には、手つかずの書類。

そして、冷めきったコーヒー。

「……あと一年だったんだがな」

ぽつりと呟く。

誰に聞かせるでもない。

あと一年。

それで、この任期は終わるはずだった。

大きな失点もなく、

波風も立てず、

静かに次へ引き継ぐだけだった、それが。

 

「なんで、今だ」

 

答える者はいない。

 

ノックの音。

「総理、閣僚が集まり始めています」

「ああ」

短く応じる。

立ち上がる。

足が、少しだけ重い。

 

だが、止まることはできない。 

扉の向こうには、

すでに決断を待つ世界がある。 

そしてその決断は、

一人の人間の運命だけでは終わらない。 

国の立場。

同盟の形。

そして——

この国が、どちら側に立つのか。 

すべてを決める夜だった。 

総理は一度だけ目を閉じる。

そして、開く。

 

「……行くか」

 

その一言で、

日本の「最も長い深夜」が始まった。

 

官邸の会議室は、異様な静けさに包まれていた。

壁の時計だけが、規則正しく音を刻んでいる。

午前2時。

人間が判断を誤るには、あまりにも適した時間だった。

 

総理は、資料から目を離さなかった。

だが、読んでいるわけではない。

ただ、視線を落としているだけだ。

 

「……本当に」

ぽつりと、言葉が漏れる。

 

「本当に、間違いはないのか」

 

誰に向けた問いでもない。

だが、確かに場に投げられた。

 

「アメリカの過剰反応……あるいは、誤報という可能性は……」

 

その言葉には、わずかに“願い”が混じっていた。 

数秒の沈黙。 

次の瞬間。

 

「ありません」

 

外務大臣が、間を置かずに切り捨てた。

食い気味だった。

 

「総理、これは“相談”ではありません」

 

視線が上がる。

 

「実弾を装填した“突きつけ”です」

 

言葉は静かだった。

だが、逃げ場を完全に塞ぐ強度を持っていた。

 

「証拠の真偽を検証する時間は……我々には、一秒も残されていません」

 

沈黙が落ちる。 

総理は何も言い返さなかった。

言い返せなかった。 

それが事実だからだ。

 

「しかし」

 

別の声が上がる。

副総裁だった。

 

「世論はどうする」

 

その言葉に、何人かが顔を上げる。

 

「避難所の連中、農協、地方自治体……」

 

言葉を選びながら続ける。

 

「昨日まで“聖女”として拝んでいた相手だぞ」

 

机の上の資料を軽く叩く。

 

「それを、今日から“テロリストだ、石を投げろ”と言って——」

 

わずかに声が強くなる。

 

「素直に従うと思うか?」

 

 

沈黙。

 

その問いは、もっともだった。 

理屈ではない。

感情の問題だ。 

人は、そこまで単純に切り替えられない。

——本来なら。 

 

「従いますよ」

 

誰かが、言った。 

静かな声だった。 

全員の視線が、その方向へ向く。 

国土交通省の古い官僚だった。

年配。

長くこの国の“現場”を見てきた男。 

彼は、資料にも目を落とさず、ただ淡々と続ける。

 

「数ヶ月もすれば、忘れます」

 

誰も、すぐには言葉を返せなかった。 

彼は続ける。

 

「人は、自分を助けてくれた相手よりも、自分を騙した相手を憎む方が、ずっと得意ですから」

 

空気が、わずかに軋んだ。

 

 

「……」

 

副総裁が何か言いかけて、やめる。 

否定できなかった。 

誰よりも、それを知っているからだ。 

 

「最初は抵抗があるでしょう」

 

国交省の男は、まるで天気の話でもするように続ける。

 

「“あんなに良くしてくれたのに”」

 

「“信じられない”」

 

「“何かの間違いだ”」

 

「と。」

 

 

ゆっくりと、言葉を重ねる。

 

「ですが」

 

その声には、感情がなかった。

 

「“騙されていた”という物語を与えれば、人は納得します」

 

誰も動かない。

 

「自分が愚かだったとは思いたくない」

 

「だから、“悪いのはあいつだ”と結論づける」

 

 

視線だけが、わずかに動く。 

「そして——」 

ほんの少しだけ、間を置く。 

「石を投げ始める」 

完全な沈黙。 

 

「……残酷だな」

 

誰かが、かすかに呟いた。 

国交省の男は、わずかに肩をすくめた。 

「現実です」 

その一言で、すべてが終わる。  

総理は、ゆっくりと目を閉じた。 

脳裏に浮かぶのは、

テレビで見た光景だった。

子どもたちに囲まれる少女。

 

笑顔。

 

拍手。

 

歓声。

 

——あれは、本物だったのか、それとも。 

「……どちらでもいい、か」 

小さく呟く。 

重要なのは、そこではない。 

「我々がどうするか、だ」

目を開く。  

もう迷いはなかった。

迷っている時間が、なかった。

「結論を出す」

その声は、静かだった。 

だが—— 

完全に、冷えていた。

その瞬間。 

一人の少女の物語が、

国家によって“書き換えられた”。

 

救った記憶は、 

“騙した証拠”へと変わり、

感謝は、

“怒り”へと変換される。

そしていずれ——

「……そんな女も、いたな」 

その一言に収束していく。 

それが、かつて、そしてこれからこの国の選んだ“救い”だった。

 

会議室の空気は、すでに冷え切っていた。

結論に向かって進んでいる。

誰もがそれを理解している。

 

「さて、あの女を捕らえる法的根拠だが……」

法務大臣が話し始めるや、一人の若い声が、場を割った。

 

「外患誘致でいくべきです」

 

一瞬。

空気が止まる。

 

全員の視線が、その発言者へ向いた。

まだ若い官僚だった。

だが、その目は真剣だった。

 

「刑法第八十一条」

 

言葉に力が入る。

 

「外国と通謀して、日本に対し武力を行使させた場合——死刑です」

 

机上の資料を指で叩く。

 

「今回の件は、それに該当する可能性があります」

 

誰も、すぐには口を挟まなかった。

 

「AFOという存在は、もはや国家に匹敵する脅威です」

 

「彼女がそれと接触し、結果として米国の戦力を失わせたのであれば——」

 

わずかに息を吸う。

 

「これは準戦時行為です」

 

言い切る。

 

「最も重い罪で裁くべきです、国民の納得も得やすいでしょう」

 

 

沈黙。

 

 

その言葉には、“正しさ”があった。

 

怒り。

恐怖。

そして、釣り合いを求める感情。

 

あの女がやったことに対して、

それに見合う重さを与えたいという衝動。 

 

「……」

 

だが。 

その“正しさ”は、

あまりにも、極端すぎた。

 

 

「無理だな」

 

低い声が、それを切り捨てた。 

法務大臣だった。

 

「武力行使の定義を理解しているか」

 

淡々とした口調。 

感情は、一切乗っていない。

 

「AFOは“外国”ではない、ただの犯罪者だ」

 

 

若い官僚が言葉を詰まらせる。

 

 

「今回行われたのは、軍の侵攻でも、占領でもない、組織的な武力行使とは認定できん」

 

 

指先で資料を軽く押す。

 

「これを外患誘致に当てはめれば——」

 

視線を上げる。

 

「海外の犯罪組織と繋がっただけで、すべて死刑だ、あまりにも極端すぎる。これでは法体系が崩壊する。」

 

 

言い切りだった。

だが、それだけでは終わらない。

 

 

「それに」

 

今度は、官房長官が口を開いた。

 

「“通謀”の証明がない」

 

 

画面に映る資料を指す。

 

 

「これは同期だ」

 

「タイミングの一致」 

 

「だが——合意の記録ではない」

 

 

「彼女が“偶然同じタイミングで動いただけだ”と主張した場合」

 

 

「日本の裁判所は、ほぼ確実に無罪を出す」

 

 

空気が、さらに冷える。

 

 

「……」

 

誰も反論しない。

 

できない。

 

 

「我々が欲しいのは」

 

官房長官の声が、わずかに低くなる。

 

 

「最高裁まで争うような“立派な罪名”じゃない」

 

 

その言葉には、

明確な軽蔑が含まれていた。

 

 

「違うか?」

 

 

誰も答えない。

 

 

「欲しいのは……今すぐ拘束できる理由だ」

 

 

 

そして、最後の一撃が来る。

 

 

「それに」

 

外務大臣 が、静かに付け加える。

 

 

「彼女は英国籍だ」

 

 

視線が、総理へ向く。

 

 

「外患誘致などという看板を掲げてみろ」

 

 

声は低い。

 

だが、はっきりと響いた。

 

 

「イギリスは確実に噛みつく」

 

 

「不当な政治裁判だとな」

 

 

「身柄引き渡しどころか……国交そのものが飛ぶ可能性すらある」

 

 

 

完全な沈黙。

 

 

若い官僚は、何も言えなかった。

 

 

正しさは、否定されていない。

 

 

ただ——

 

使えないと判断された。

 

 

 

「……では、どうする」

 

 

総理が、静かに問う。

 

 

その声には、もう迷いはなかった。

 

 

答えを求めている。

 

 

それに対して——

 

官房長官が、ほんのわずかに息を吐いた。

 

 

「簡単です」

 

 

その言葉は、

あまりにも軽かった。

 

 

「“小汚い罪”でいい」

 

 

誰かが、わずかに顔をしかめる。

だが、誰も否定しない。

 

 

「破壊活動防止法」

 

「テロ資金提供」

 

「内乱予備」

 

 

一つ一つ、並べていく。

 

 

「世論が見て、“ああ、そういう女か”と納得する程度でいい」

 

 

「中身の精査は後回しだ」

 

 

視線が、ゆっくりと全員をなぞる。

 

 

「まず必要なのは——」

 

 

ほんの一瞬だけ、間を置く。

 

 

「見出しだ」

 

 

 

静寂。 

その言葉が、すべてを決めた。

正義ではない。 

真実でもない。

 

総理は、目を閉じた。

 

一億円の寄付。

 

救われた人々。

 

笑っていた子どもたち。

 

それらが、一瞬だけ浮かぶ。

 

 

だが——

 

 

すぐに消えた。

  

「……それでいく」

 

短く、言う。 

誰も異論を挟まない。

その瞬間。

  

聖女を守るための理想の罪は捨てられ、

 

確実に潰すための“実務の罪が選ばれた。

 

そして——

 

 

それが、最も早く、

 

最も確実に、

 

彼女を“社会から排除する方法”だった。

 

罪状の話し合いが一段落するのを待っていた男の座る椅子が軋む音がした。

 

警察庁長官だった。

無表情のまま、資料を閉じる。

 

「……法的根拠は整いました」

 

その一言は、引導だった。

 

「特別指名手配の発令準備に入れます」

 

隣で、警視総監が時計を見た。

 

「7時間前…昨夜午後9時の定期報告で対象の滞在地点は特定済みです、新たな報告が無いことからその場を動いていないと思って良いでしょう。」

 

淡々と報告する。

 

「周囲三キロ圏内、すでに私服および機動隊で包囲を開始する準備に入っています」

 

総理が顔を上げる。

 

「……SATは」

 

「待機中です」

 

一切の迷いなく答える。

 

「閣議決定が下り次第、突入可能です」

 

 

副総裁が思わず声を上げた。

 

「待て、早すぎる! まだ外交官だぞ!」

 

警視総監は視線すら向けない。

 

「その前提は、既に閣議の決定時点で消えていると解釈しておりますが。」

 

警察庁長官が続ける。

 

「アメリカが“確定”を出した以上、我々に“誤り”という選択肢はありません」

 

静かに言い切る。

 

「一分遅れるごとに、同盟の信頼が削られます」

 

 

副総裁が、苦々しく吐き捨てた。

 

「……まさかとは思うが、私怨ではあるまいな」

 

わずかな沈黙。 

警視総監が初めて視線を向けた。

感情はない。

 

「そのようなことはありません」

 

即答だった。

 

「すべては、この国の安全のためです」

 

御前5時に近づいた頃、会議室の空気は、すでに結論を知っている者たちのそれだった。

誰もが言葉を選んでいる。

だが、選んでいるだけで――迷ってはいない。 

その沈黙を断ち切ったのは、公安部長だった。

資料を一枚だけ机に置き、静かに視線を上げる。

 

「では、確保計画の説明に入ります」

 

低く、無機質な声。

 

「対象は、バロネス・エインズワース。現在、都内ホテルに滞在中です」

 

 

「相手の抵抗も想定されます。昨日の岩手での個性出力も考慮して――」

 

わずかに区切る。

 

「ヒーローの投入を前提とします」

 

小さなざわめき。

だが、すぐに消える。

 

「本作戦は時刻基準で進行します」

 

「午前七時、公安庁舎にて全人員を集結。ブリーフィングを最短化し、同七時三十分に出発し」

 

指先が資料の一点を叩く。

 

「七時五十分に到着し、八時に真白才子の部屋へ突入。対象の身柄を確保します」

 

 

沈黙。

 

 

副総裁が低く言う。

 

「……確実に、か」

 

公安部長は即答した。

 

「確実にします」

 

迷いはない。

 

「失敗は想定しておりません」

 

その言葉に、室内の温度がわずかに下がる。

 

外務大臣が問う。

 

「外交特権の扱いは」

 

「閣議決定と同時に無効化されます」

 

「それ以前に動いた場合は?」

 

「緊急性を理由に、事後承認で処理可能です」

 

誰もそれ以上追及しない。

 

すでに、線は越える前提になっている。

 

 

公安部長は、最後の項目に移る。

 

「なお、現地の状況ですが」

 

一瞬だけ、間を置く。

 

 

「ホテル正面には、報道関係者が集まりつつあります」

 

総理が顔を上げる。

 

「……なぜだ」

 

公安部長は、わずかに首を振った。

 

「昨日、バロネスが施設訪問を行った件が、各局で大きく報じられました」

 

淡々と続ける。

 

「“聖女”としての取材を求めて、自然に集まっているものと思われます」

 

 

沈黙。

 

 

つまりそれは――

 

この作戦が始まる時、

すでにカメラが回っているということだった。

 

 

官房長官が、小さく息を吐く。

 

「……好都合だな」

 

誰も否定しない。

 

公安部長も、ただ事実として言った。

 

「第一報は、その場で出せます」

 

 

総理の表情が、わずかに歪む。

 

「……偶然、か」

 

 

誰も答えなかった。

 

 

だが、全員が理解している。

 

 

偶然であれ、違うものであれ――

 

この国は、それを使う。

 

 

 

総理は目を閉じた。

 

 

つい数時間前。

 

テレビの中で笑っていた少女。

 

子どもたちに囲まれていた姿。

 

 

それが、頭をよぎる。

 

 

だが――

 

 

すぐに消えた。

 

 

 

「……八時だな」

 

 

静かな確認。

 

 

公安部長が頷く。

 

 

「はい。八時には」

 

 

一瞬だけ言葉を選び、

 

だが結局、変えなかった。

 

 

「対象は確保されています」

 

 

 

“聖女”ではない。

  

“バロネス”でもない。

 

ただの――ヴィラン

 

 

 

その呼び名が、

 

すべてを終わらせていた。

 

 

 

「――念のため、現地の監視状況を確認します」

 

誰に向けたものでもない、事務的な一言。

 

彼はポケットから端末を取り出し、短く操作する。

 

スピーカーは使わない。

耳に当てる。

 

コール音。

 

一回。

 

二回。

 

三回。

 

 

誰も何も言わない。

 

だが、会議室の空気が、わずかに変わる。

 

 

「……応答なし」

 

小さく呟く。

 

すぐに別の回線へ切り替える。

 

「第二監視班」

 

コール。

 

 

――応答なし。

 

 

ほんの一秒。

 

それだけの間だった。

 

だが、

 

それまで積み上げてきた“前提”に、

 

見えない亀裂が入るには十分だった。

 

 

公安部長は、表情を変えない。

 

だが、指先だけが、わずかに速くなる。

 

 

「第三班、応答しろ」

 

 

コール。

 

 

沈黙。

 

 

 

誰かが、椅子の上で姿勢を正す。

 

別の誰かが、資料から目を上げる。

 

 

音は、何もない。

 

だが確かに――

 

 

“何かが崩れる音”がした。

 

 

 

外務大臣が、低く言う。

 

「……どういうことだ」

 

 

公安部長は、答えない。

 

代わりに、短く告げた。

 

 

「現地との通信が途絶しています」

 

 

その一言で、すべてが変わる。

 

 

完璧だったはずの計画。

 

時間で区切られ、

 

誤差なく進むはずだった作戦。

 

 

その前提が、

 

今この瞬間に、

 

消えた。

 

 

警察庁長官が、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……逃走の可能性は」

 

 

「不明です」

 

即答だった。

 

 

「ただし――」

 

 

一瞬の間。

 

 

「監視員が応答しない状況は、通常ではありません」

 

 

 

副総裁が、苛立ちを隠さず言う。

 

「おい、どうする。七時集合だの八時確保だの――前提が崩れているぞ」

 

 

誰もすぐには答えない。

 

 

その沈黙の中で、

 

初めて、会議室に“焦り”が混じる。

 

 

 

警視総監が、静かに口を開いた。

 

 

「……計画を前倒しします」

 

 

全員の視線が集まる。

 

 

「現在時刻から即時展開。現地への先行部隊を投入します」

 

 

「待て、まだ閣議が――」

 

 

「待てません」

 

 

言葉を被せる。

 

一切の躊躇がない。

 

 

「対象が既に異変に気付いている場合、時間を与えること自体がリスクです」

 

 

公安部長が頷く。

 

 

「同意します」

 

 

短い言葉。

 

だが、それで十分だった。

 

 

 

総理が、机に手を置く。

 

 

「……つまり」

 

 

ゆっくりと確認する。

 

 

「我々は――先手を取られた可能性がある、ということか」

 

 

 

誰も否定しなかった。

 

 

 

その瞬間。

 

 

この作戦は、

 

“計画”から“追跡”へと変わった。

 

 

 

そして――

 

 

会議室の誰もが、

 

同じことを考えていた。

 

 

 

(彼女は、気付いている)

 

 

 

夜はまだ明けていない。

 

 

だが、

 

状況だけが、一足先に崩れ始めていた

 

 

「――直ちに確保しろ!」

 

公安部長の声は、先ほどまでの平坦さを完全に失っていた。

 

命令は短い。

 

だが、その一言で、現場は動いた。

 

 

【10分後】

 

ホテル上層階。

 

カードキーが差し込まれ、無音でロックが解除される。

 

「突入」

 

低い合図。

 

ドアが押し開けられる。

 

 

――静かすぎた。

 

 

リビング。

 

整えられたソファ。

 

 

 完全に片付けられていた

  

 

「……いない」

 

 

寝室。

 

浴室。

 

クローゼット。

 

 

すべて、空。

 

 

「対象、確認できず。室内、クリア」

 

 

報告の声が、やけに乾いていた。

 

 

その瞬間、

 

無線が割り込む。

 

 

『こちら外周班――』

 

 

一瞬のノイズ。

 

 

『……監視員を発見』

 

  

 

『全員、死亡』

 

 

部屋の空気が止まる。

 

 

『損傷状況――頸部。全員、同一手口』

 

 

誰かが、息を吸う音がした。

 

 

『……首の骨を折られています』

 

 

 

【官邸・会議室】

 

報告は、ほぼ同時に届いた。

 

 

「対象、現場より消失」

 

 

「監視員、全滅」

 

 

 

その二つの言葉が並んだ瞬間――

 

 

ドンッ!!

 

 

机を叩く音が、室内に響いた。

 

 

「……っ!!」

 

 

公安部長だった。

 

初めて見せる、露骨な感情。

 

 

「やられた……!」 

 

低く、押し殺した声。

 

 

その隣で、 

総理が、ゆっくりと額に手を当てる。 

 

「……なんということだ」

 

それは怒りではない。

純粋な、理解の追いつかなさだった。

 

 

 

官房長官が立ち上がる。

 

 

「マスコミは――」

 

 

言いかけて、止まる。  

全員が思い出していた。

ホテルの正面には、すでに――

 

「……待機している」

 

絞り出すような声。

 

 

「確保後に発表するはずだった……それが……!」

 

計画が、音を立てて崩れていく。

 

 

 

公安部長が歯を食いしばる。

 

「追え。まだ遠くには行っていないはずだ」

 

 

だがその言葉には、

 

先ほどまでの“確実性”はなかった。

 

 

 

【15分後】

 

ホテル前。

 

 

フラッシュが焚かれる。

 

 

「バロネスはまだ中に!?」

 

「今日も施設訪問の予定は!?」

 

「何が起きてるんだ!」

 

 

押し寄せる記者たち。

 

 

その向こうで、

 

 

異様な気配が近づいてくる。

 

 

 

風が揺れる。

 

 

次の瞬間、

 

 

屋上から、影が落ちた。

 

 

着地。

 

 

コンクリートがひび割れる音。

  

 

「ヒーローだ……!」

 

 

誰かが叫ぶ。

 

 

続けて、別の影。

 

 

さらにもう一つ。

 

 

複数のヒーローが、無言で集結していく。

 

記者たちの空気が、一瞬で変わる。

 

 

「え、何これ……」

 

 

「ただの取材じゃない……?」

 

 

誰かがスマートフォンを取り出す。

 

 

 

その瞬間――

 

 

一斉に、着信音が鳴り始めた。

 

 

 

ブブッ、ブブッ、ブブッ……

 

 

 

各社の端末。

 

同時に鳴る。

 

 

 

「……官邸から?」

 

 

一人が通話に出る。

 

 

「はい、こちら――」

 

 

数秒。

 

 

顔色が変わる。

 

 

「……え?」

 

 

別の記者も、電話を取る。

 

 

「ちょっと待ってください、今現場に――」

 

声が上ずる。

 

「事情説明……?」

 

混乱が広がる。

 

 

だが、その中心で

ヒーローたちは、一切の感情を見せない。

ただ、建物を見上げている。

そこにいるはずだった存在は、

もう――いない。

 

朝はまだ来ていない。

 

 




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