善意の剥製   作:タロットゼロ

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真白才子は本気を出せば結構強いんです


2人のヴィランの快進撃

夜は静まり返っていた。

重いカーテンに閉ざされた室内。

外界の気配は完全に断たれ、ただ一つ、机上の端末だけが淡く光を灯している。

その前で――

真白才子は、カーテシーの姿勢を保っていた。

片足を引き、

膝を折り、

上体をわずかに沈める。

黒のドレスが優雅に広がり、白い手袋を嵌めた指先が静かに重ねられている。

完璧だった。

一分の隙もなく、

形式としても、美としても、

それは“完成された礼”だった。 

端末の向こうから、微かなノイズ。

そして、声。

 

『……さて、本題に入ろうかな』

 

低く、穏やかで、

どこか楽しげな響き。

空間そのものが、わずかに引き締まる。

 

『だがその前に――』

 

わずかな間を置いて、

その声は、より柔らかくなる。

 

『少し楽にしなさい、レディ』

 

命令ではない。

強制でもない。

ただ、当然のように与えられる“許可”。

それ自体が一つの力だった。

 

沈黙。

 

才子はすぐには動かなかった。

カーテシーの姿勢のまま、わずかに呼吸を整える。

その一瞬の静止が、

彼女自身の“意思”を示していた。

 

やがて――

ゆっくりと、動く。

 

引いていた足が、静かに戻される。

膝を折っていた重心が、わずかに上がる。

ドレスの裾が、床の上で音もなく流れる。

 

上体が起きる。

 

だが完全に立ち上がることはしない。 

そのまま、

もう一度、膝を折る。 

今度は、より低く。

より安定した姿勢で。 

片膝を床につける。 

白い手袋が、その膝の上に重ねられる。

背筋は変わらず真っ直ぐ。

視線はわずかに伏せられたまま。 

カーテシーという“対外的な礼”から、

より内向きの、対話のための姿勢へ。

それは崩れではない。

移行だった。

 

「……失礼いたしました」

 

静かに告げる。

その声には揺らぎがない。

 

端末の向こうで、わずかに息を含む気配。

 

『いいね』

 

小さく、満足げに。

 

『やはり君は、形を理解している』

 

才子は何も答えない。

ただ、その姿勢のまま静止している。

 

『では改めて』

声が、わずかに低くなる。

 

『本題に入ろうか、レディ』

 

室内の空気が、静かに張り詰めた。

 

才子は、わずかにだけ顎を引く。

 

「――はい」

 

その応答は短く、

そして、どこまでも整っていた。

 

夜は動かない。

だが確実に、

何かが一段、深く進んでいた。

 

『アメリカの友人から連絡があった』

 

淡々とした声音。

だが、それは世界の動きを示している。

 

『スターアンドストライプを弔と僕が殺した時の君の仕事がアメリカ側に確定することは時間の問題のようだ。』

 

才子は微動だにしない。

 

ただ、その言葉を正確に受け取る。

 

『そうなれば』

 

『日本政府も、君の排除に動くだろう』

 

当然の帰結。

否定の余地はない。

 

『だから――』

 

ほんのわずかに、

声に余裕が混じる。

 

『君には、僕が準備していた北海道の拠点に移ってほしい』

 

選択肢ではない。 

与えられる進路。

 

『日本政府ごときに、君を捕らえさせるわけにはいかないからね』

 

その言葉には、

守るという意思が含まれていた。

だが才子の中に、迷いは存在しない。

考える必要がない。

答えは最初から定まっている。

彼の意志が、そのまま自分の進路である。

ゆっくりと、口を開く。

 

「承知いたしました」

 

短く、

完全に整えられた返答。

そこに自我の揺れはない。

ただ、絶対的な受容。

端末の向こうで、わずかに気配が緩む。

 

『……ああ』

 

満足げな、低い声。

 

『それでいい、レディ』

 

その一言には、

確かな肯定があった。

 

『君はやはり、期待を裏切らない』

 

静かな評価。 

それだけで十分だった。 

回線の向こうで、何かが整えられていく気配。

 

『では準備はこちらで進めておこう』

 

『すぐに動けるようにしておく』

 

その言葉は、すでに次の段階を示している。

 

通信が、途切れる。

 

静寂が戻る。

 

だが――

 

才子はしばらく、そのまま片膝をついた姿勢を崩さなかった。

 

顔を上げることもない。

 

命令が終わった後でさえ、

その姿勢は保たれている。

 

それは命令ではなく、彼女自身の在り方だった。

 

やがて、

ほんのわずかに、

呼吸だけが動く。

 

次の行動へ移る準備。

 

すべては、すでに決まっている。

 

彼の意志に従い、

その通りに世界を進める。

 

それだけが――

彼女にとっての“正しさ”なのである

 

静寂は、まだ室内に残っていた。

通信が途切れた後も、

空気だけが、先ほどのやり取りを記憶している。

 

真白才子は、片膝をついたまま動かない。

 

命令はすでに下された。

進路も、決定されている。

 

あとは――実行するだけ。

 

その時だった。

 

机上の端末が、再びわずかに光を帯びる。

 

ノイズ。

 

そして、声。

 

『ああ、そうだレディ』

 

先ほどと変わらぬ、穏やかな声音。

 

まるで思い出したことを軽く付け足すように。

 

『一つ、細かい話をしておこう』

 

才子は即座に応じる。

 

「はい」

 

短く、正確に。

 

『どうやら君の周りに、少しばかり“羽音”が増えているようだ』

 

わずかな間。

 

『気にならないかい?』

 

問いかけ。

だが、答えは求めていない。

 

才子の呼吸は乱れない。

 

「問題ありません」

 

即答。

 

『そうか』

 

柔らかく肯定する声。

 

『だがね』

 

わずかに、低くなる。

 

『移動の際にまとわりつくのは、あまり美しくない』

 

静かな価値判断。

 

『君は、もっと静かに動くべきだ』

 

『だから、掃除をしておきなさい』

 

あまりにも自然な言葉。

 

『移動に邪魔なハエは、排除しておくといい』

 

それは命令だった。

 

だが声は、どこまでも穏やかで、

配慮すら感じさせる調子だった。

 

『羽音は、意外と目立つからね』

 

軽い付け足し。

 

人の生死を扱っているとは思えないほどに、

日常的で、

丁寧だった。

 

沈黙。

 

才子は一切の間を置かない。

 

その命令の意味を、

解釈する必要がないからだ。

 

すでに理解している。

 

ゆっくりと、口を開く。

 

「先生のご指示のとおりに」

 

迷いのない応答。

 

感情の揺れは、どこにもない。

 

ただ、命じられた通りに、

世界を整えるという意思だけがある。

 

端末の向こうで、

わずかに満足げな気配が揺れる。

 

『うん、それでいい』

 

短い肯定。

 

それだけで十分だった。

 

『では、今度こそ行きなさい、レディ』

 

『美しくね』

 

通信が、完全に途切れた。 

音は消え、

光だけがわずかに残る。 

真白才子は、その場で静かに頭を垂れた。

誰も見ていなくとも、

回線が閉じた後であっても、

礼は省略されない。

深く、

正確な最敬礼。

それが終わって、ようやく――

ゆっくりと身を起こしたとき、

背後で、同じく礼を取っていた女性が口を開いた。

 

「ではレディ、参りましょう」

 

簡潔な合図。

その声に対し、才子は一歩踏み出しかけて――

ふと、足を止めた。

 

「ところで」

 

振り返る。

 

視線が、まっすぐに相手を捉える。

 

「貴女の名は?」

 

一瞬。

 

ほんのわずかに、女の表情が曇った。

理解できない問いではない。

だが、確認の順序としては――不自然。

それでも、即座に整える。

 

「……隠見識(かくれみ・しき)です」

 

抑えた声音。

 

だが才子は、首を横に振る。

 

「それは知っています」

 

間を置かず、続ける。

 

「ヴィランネームは?」

 

沈黙。 

今度は、ほんのわずかに息を吐く。

 

「……失礼いたしました」

 

一歩、姿勢を正す。

 

「ブラインド・スポットと申します」

 

改めての名乗り。

それは秘書としてではない。

役割を変えた、名だった。

 

「個性は《デッド・スポット(死角)》」

 

声が、少しだけ業務的な響きを帯びる。

 

「私とその半径一メートル以内の者を、対象の視界に入っていても脳が背景として処理してしまう“心理的死角”を強制的に作り出します」

 

淀みのない説明。

 

「持続時間は最大三分。再発動には、同時間のインターバルを必要とします」

 

才子はその説明を、静かに受け止める。

 

「いい能力です」

 

短い評価。

 

ブラインド・スポットは、わずかに頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

だが、すぐに続ける。

 

「欠点もあります」

 

事実だけを述べる口調。

 

「認識を阻害できるのは、あくまで肉眼のみ、監視カメラ、その他の記録媒体には効果がありません……ですので、レディにはカメラの無力化をお願いいたします」

 

依頼という形を取っている。 

だが、それが拒否されないことを理解した声音だった。 

才子はわずかに頷く。 

それで十分だった。 

二人の間で、役割分担が確定する。 

バロネスと秘書ではない。 

移動を共にする、ヴィラン同士として。

短い沈黙の後、

才子は扉へと歩み出した。

隠見識がそれに続く。

 

 

扉が開く。 

外の廊下は、静かだった

人工的な光。

 

「早速ですが――」

 

識が、軽く指を上げる。

 

「あの非常灯には隠しカメラが内蔵させています、中のカメラの向きだけを変えていただければ問題ありません」

 

示された先。 

廊下の天井に設置された非常灯。

才子は歩みを止めない。

視線すら向けないまま、

指先だけが、わずかに動く。

次の瞬間。 

非常灯の中の監視カメラが、内側から押し潰された。

金属がねじれ、

音もなく監視としての機能を失う。

遅れて、破片が床に散った。

識がそれを一瞥する。

確認は一瞬。

 

「……お見事です」

 

短く告げる。

才子は応じない。

すでに次へ移っている。

二人は並び、

そのまま廊下を進む。

足音は静かで、

気配は薄い。

やがて、エレベーターが見える位置まで来た。

距離にして、五メートル。

そのとき――

 

「……あちらも」

 

識が、わずかに視線をずらす。

 

「エレベーター脇のダビデ像のレプリカ」

 

白い石像。 

装飾として置かれたそれは、

あまりにも自然に空間に溶け込んでいる。

 

「眼部に隠しカメラが」

 

告げた、その瞬間。 

才子の指先が、再び動いた。 

間はない。

視線すら向けない。 

――次の瞬間。

ダビデ像の首が、真後ろを向いていた。 

切断面は滑らかで、

衝撃も、破壊音もほとんどない。

識が、それを一瞥する。 

評価は、一瞬だった。

 

「……ありましたが、もう問題ありません」

 

淡々とした確認。 

才子は何も答えない。 

すでに処理は終わっている。 

二人は歩みを止めない。

 

 

扉の上の表示灯が、

無機質に点滅していた。

 

其処には誰もいない。

 

いや――

 

そこにいるはずの“誰か”は、

もう誰の視界にも、

記録にも、

存在していなかった。

エレベーターの扉が、静かに閉じる。

内部には、すでに“目”はない。

監視カメラも、

隠しカメラも、

すべて排除されている。

密閉された箱の中で、

二人は無言のまま立っていた。

やがて、わずかな振動。

下降。

一つ下の階で、停止する。

チン、という軽い電子音。扉が開いた。 

外の廊下は、上階と変わらぬ静寂に包まれている。

先に動いたのは、隠見識だった。

 

「……まずは」

 

淡々とした声。

 

「警護の二人に事情を話しておかなければなりません」

 

任務の継続としては、正しい判断。

彼女はそのまま、目的の部屋の前へと歩く。

手を上げ、ノックしようとした――

その直前

 

「お待ちなさい」

 

静かな声が、それを止めた。 

ブラインド・スポットの手が止まり、振り返る。

才子は、わずかに視線を向けていた。

 

「貴女の個性の能力を、確認しておきたい」

 

要求は簡潔だった。 

だが、その意味は明確だ。

説明ではなく、

実証。

ブラインド・スポットは、何も言わない。

ただ、小さく頷いた。

カードキーを取り出す。

無音で読み取らせ、

ドアを開けた。

鍵は、抵抗なく解ける。

二人はそのまま、

音もなく室内へと滑り込んだ。

中は、明るい。

だが――

 

「……でさぁ、あの二人」

 

笑い声。 

カードの擦れる音。

室内の中央。

異形の男が二人、テーブルを囲んでいた。

一人は、巨大なゴリラのような体躯。

もう一人は、毛皮に覆われたヒグマの異形。

どちらも人の形を保ちながら、

すでに“人間”ではない存在。

 

「いい女だよな」

 

ゴリラの男が、カードを投げる。

 

「わかるぜ。ああいうのが、逆にたまんねぇ」

 

ヒグマが笑う。

 

「ひん剥いてよぉ、相手させてぇよな」

 

下卑た笑い。 

空気が濁る。 

だが―― 

二人は気づかない。 

背後に“侵入者”がいることに。 

視界に入っている。 

だが認識されない。 

それが、《デッド・スポット》。 

才子は、無言だった。 

ただ、その視線だけが、わずかに動く、 

横に立つブラインド・スポットへ。

 

――殺しても良いかしら。

 

言葉はない、 

だが、十分に伝わる。

 

隠見識は、一瞬だけ考えるように視線を落とし―― 

そして、答えた。

 

「……私はペーパードライバーでして」

 

静かな声。

 

「車の運転に自信がありません、ですので、一人だけにお願いします」

 

合理的な判断。 

同時に、許可。 

次の瞬間空気が、わずかに歪む。 

ゴリラの男の首が、何の前触れもなく――

回っていた。

180度。270度。そして360度

 

骨の軋む音が、

一瞬遅れて響く。 

カードが、手から落ちる。 

巨体がそのまま崩れた。 

ドサリ、と重い音。 

ヒグマの男が、顔を上げる。

 

「……は?」

 

理解が追いつかない。 

目の前で起きた現象に、

思考が止まる。 

その間にも、

才子は動かない。 

ただ、静かに立っているだけ。

識も同じだ。 

二人は、そこにいる。

だが―― 

彼には、見えていない

 

「なんだこりゃ?どうなってんだ?」

 

ヒグマの男の喉から、間の抜けた声が漏れる。

理解が追いつかない。

目の前で起きた“異常”を、

現実として受け止めきれない。

そのときだった。

すっと、

空気の感触が変わる。

隠見識が、そこにいた

 

 

「……っ!?」

 

ヒグマの目が見開かれる。

 

最初から、いなかったはずの存在が、

突然、世界に現れたかのように。

喉が震える。

声を上げようとする――

 

その瞬間。

喉が締まった。

見えない力が、

喉を正確に捉える。

空気が通らない、声が、出ない。

ヒグマの目が、さらに大きく見開かれる。

視線の先。

そこに立っているのは、

銀髪の女。

何もしていないように見える。

だが、何もかもを“握っている”。

指一本、動かさずに。

自分たちが下卑た妄想を働かせていた女たちがいた

 

「お酒を飲んでいなくて良かったですね」

 

識が、淡々と言った。

声には、感情がない。

ただの事実確認のように。

 

「飲んでいたら――」

 

わずかに、視線を横へ向け、床に転がる死体へ。

 

「貴方も死んでいましたよ」

 

ヒグマの喉が、引き攣る。

呼吸が、浅くなる。

恐怖が、

ようやく理解へと変わる。

だが、声は出ない。

出させない。

才子の念動が、

正確に制御している。

識はその様子を一瞥し、必要な情報だけを口にする。

 

「先生のご指示で、我々は北海道へ移動します」

 

簡潔。 

余計な説明はない。

 

「準備を進めておいてください、それとレデイの部屋にある先生の連絡用の端末の確保を、忘れないように」

 

スイートルームのカードキーがテーブルの上に置かれる

それだけで十分だった。

そして、最後に。

床に転がるゴリラの死体へ、ほんのわずかに顎を向ける。

 

「……それは、車のトランクにでも放っておいて構いません」

 

処理は不要。 

価値もない。 

そう言い切るように。 

才子は、何も言わない。

ただ、

ヒグマの喉を締めていた力を――

ふっと、解いた。

空気が一気に流れ込む。

 

「――ッ、は、っ……!」

 

ヒグマが崩れるように咳き込む。

だが、

二人はもう見ていない。

用件は済んだ。と言わんばかりに背を向ける。

 

「それでは三十分後に車で逢いましょう」

 

音もなく、扉へ。

そのまま、

何事もなかったかのように部屋を出ていく。

静寂が戻る。

遺されたのは、

荒い呼吸と、

一つの死体。

ヒグマの男は、

震える手で顔を上げる。

ゆっくりと、

視線を横へ。

そこにあるのは、

さきほどまで笑っていた男。

首が、

あり得ない方向へと傾いていた

動かない。

もう、二度と。

 

「……っ……」

 

声にならない音が漏れる。

ようやく理解する。

自分が、

たまたま生かされた事を。

そして、

それがどれほど軽い理由だったのかを。

恐怖が、

遅れて全身を支配する。

部屋の空気は、

先ほどと何も変わらないはずなのに――

もう、

まったく別の場所になっていた。

廊下は、変わらず静かだった。

足音だけが、

規則正しく床に吸い込まれていく。

真白才子と隠見識は並んで歩く。

急ぐ様子はない。

だが、その歩みには一切の無駄がなかった。

識は、端末を取り出す。

指先で軽く操作し、

視線を落とす。

 

「……先生からの情報によれば」

 

淡々とした声。 

画面に表示された情報を、そのまま読み上げる。

 

「ハエの住処は三箇所」

 

言葉に、わずかな軽さすらない。 

ただの分類。 

ただの対象。

 

「一つは――」

 

指が画面をなぞる。

 

「この階から二つ下、一般フロアに滞在する二人組」

 

続けて、

 

「一つは地下駐車場。車内に二名」

 

さらに、

 

「残りの一つは向かいのホテル、九〇八号室」

 

 

「レディの部屋を監視しているようです」

 

説明は、それだけ。 

だが、

十分すぎる情報だった。

 

才子は軽く頷くだけだった。

問い返しもしない。

エレベーターの前に到達する。

既にカメラは処理済み。

“目”は存在しない。

識がボタンを押す。

わずかな待機。

やがて、扉が開く。

二人は中へ入り、ゆっくりと振り返る

正面の廊下は、すでに過去になっている。

扉が閉じる。

密閉された空間。

識が操作盤に手を伸ばす。

 

「……まずは、こちらから処理いたします」

 

押されたのは、

二つ下の階。 

静かに、下降が始まる。

音もなく。

揺れもなく。

まるで、

次の“掃除場所”へ運ばれていくかのように。

軽い振動とともに、

エレベーターが停止する。

静かに、扉が開いた。

一般フロア。

カーペットの色がわずかに変わり、

空気の匂いも違う。

人の気配。

生活の残滓。

だが――

その中に、異物が混じっている。

識が一歩、外へ出る。

周囲を一瞥。

そして、小さく呟く。

 

「……あちらです」

 

廊下の奥の監視カメラ

才子が軽く指を動かすだけで画角がズレて監視の意味を失う

客室の一つ。

扉は閉じられているが、

中の“気配”は隠しきれていない。

才子は無言で従う。

足音は変わらない。

だが、

距離だけが確実に詰まっていく。

扉の前で止まる。

識がカードキーを取り出す。

 

(形だけとは言えお互いのカードキーを預け合っていたことがこんな形で役に立つとは。)

 

「発動します」

 

短い宣言。 

その瞬間―― 

空気が、わずかに歪んだ。 

何も変わっていない。 

だが、

“見え方”だけが変わる。 

そこにいるはずの二人が、

世界から切り離される。

識はそのまま、カードキーを滑らせた。

電子音。

ロックが解除される。

扉を開ける。

中に入る。

――誰も、気づかない。

室内。

二人の男がいた。

スーツ姿。

だが、くつろいでいる様子ではない。

机の上には端末。

モニターには、

最上階の監視カメラのログ

 

「……いや、だからよ」

 

一人が椅子を揺らしながら言う。

 

「この任務、当たりだって。あの女、間近で見れるんだぞ?」

 

もう一人が肩をすくめる。

 

「所詮、見れるだけだろ。」

 

軽い笑い。

緊張はある。

だが、致命的な警戒はない。

“見えていない”のだから。

識は、才子を振り返らない。

そのまま、半歩後ろに下がる。

 

才子が、静かに手を上げる。 

何の前触れもなく。 

一人の男の首が百八十度反転する。

 

「……は?」

 

間の抜けた声 

力なく、崩れ落ちる。 

もう一人が振り返る。

異変に気づく。 

だが―― 

視界には何もない。

ただ、仲間が倒れた“結果”だけがあった。

 

「おい……?」

 

立ち上がる。 

一歩、踏み出す。 

その瞬間。 

首に不可視の圧力がかかる

 

「……っ!?」

 

声にならない驚愕。 

首が勝手に動く 

見えない何かに掴まれている。 

呼吸が乱れる。 

視線が泳ぐ。 

だが、

原因はどこにもない。

才子の指が、わずかに閉じる。

それだけで、

頸の骨が砕けていく。

音が消える。

抵抗は、数秒。

やがて、

力が抜ける。

 

静止。

 

沈黙。

 

識は時計を見る。

 

「発動から……四十秒」

 

小さく呟く。 

余裕がある。 

問題ない。 

個性を解除する。 

世界が、元に戻る。 

“存在”が再び認識される。

だが、

もう意味はない。

二人とも、

動かない。

識は室内を一瞥し、

端末に手を伸ばす。 

必要なデータだけを抜き取り、

ログを簡単に破壊する。

痕跡を最小限に。

手際は完璧だった。

 

「完了です」

 

振り返る。 

才子は何も言わない。 

ただ、

次を待っている。 

識は頷く。

 

「では、次は地下駐車場のハエを」

 

二人はそのまま部屋を出る。 

背後には、

静かに転がる二つの死体。

 

エレベーターが、地下へと降りていく。

わずかな振動。

無音に近い移動。

やがて、停止。

扉が開いた。

地下駐車場。

コンクリートの匂いと、

わずかに残る排気ガスの気配。

天井の照明が、白く冷たい光を落としている。

人の気配は、薄い。

だが――“いる”。

識が時計を確認する。 

先ほどの使用時間に対する、正確な休止。 

四十秒。インターバルはエレベータ内で十分に取れている

 

「……再開します」

 

識が小さく告げる。 

空気が、再び歪む。 

存在が、背景へと沈む。 

二人は歩き出した。 

足音は、相変わらず静かだ。 

約十メートル先。

一台の車。 

その中に、二人の男がいる。 

運転席と助手席。 

簡素な食事。 

アンパンと牛乳。

任務の合間の、気の抜けた時間。

 

「……当たりだな、これ」

 

助手席の男が笑う。

 

「だな。交代まで適当に張っときゃいいし」

 

牛乳のパックを傾ける。 

緊張は、薄い。 

ここが安全圏だと、

無意識に思っている。

識が、わずかに足を止めた。

視線だけで対象を

確認する。

そして、隣へ。

 

「……レディ」

 

小さな声。

 

「車という障害物越しでも、可能ですか?」

 

問いは短い。 

だが意味は明確だ。 

才子は、わずかに顎を引いた。

 

「当然です」

 

迷いのない返答。 

右手が、ゆっくりと持ち上がる。 

指先が、軽く揃えられる。 

照準を合わせるように。 

車内の二人へ。 

そして――

ほんのわずかに、

指を捻った。

その瞬間。

運転席の男の身体が、

ビクン、と跳ねた。

牛乳が手から滑り落ちる。

 

「……あ?」

 

声にならない声。

 

次の瞬間、前のめりに、ハンドルへと突っ伏した。

不自然な角度。 

動かない。 

助手席の男が、顔を上げる。

 

「おい……?」

 

違和感。 

理解が追いつかない。 

視線を向ける。 

その時点で、もう遅い。 

五秒。 

いや、それすら要らなかった。

見えない力が、

正確に首を捉える。

一瞬の抵抗。

 

「……っ、な——」

  

ゴキリ。 

短く、乾いた音。

頭が、不自然に傾く。

力が抜ける。

助手席の男もまた、

シートに沈み込んだ。

 

沈黙。

 

車内は、何事もなかったかのように静まる。

外から見れば、

ただの“休憩中”にしか見えない。

識が、その様子を一瞥する。

確認は一瞬。

 

「……お見事です、レディ」

 

簡潔な評価。 

そこに誇張はない。 

ただ、事実としての称賛。 

才子は応じない。 

手を下ろす。 

それで終わりだった。 

二人はそのまま歩き出す。 

次の“掃除場所”へ向けて。

地下駐車場には、

再び静寂だけが残った。

車の中の二人は、

もう二度と動かない。

だが――

誰も、それに気づくことはない。

 

夜、二十一時十五分。

フロントホールは、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。

照明は落とされ、床に敷かれた絨毯が足音を吸い込む。

受付の奥で、夜勤のスタッフが一人、帳簿に目を落としているだけだった。

二人は、何のためらいもなくその空間へ足を踏み入れる。

堂々と。

隠れる必要など、最初から存在しないかのように。

ブラインド・スポットの個性が発動している。

視界に入っているはずの二人は、ただの背景として処理されていた。

人の意識の外側を、静かに通り過ぎる。

カウンターの前を横切る瞬間、

才子は一度も足を止めなかった。

視線を僅かに向け、

ただ指先だけが、わずかに動く。

——引く。

天井の隅を走っていた配線の一本が、音もなく千切れた。

火花も散らない。

ただ、機能だけが静かに死ぬ。

監視カメラの一系統が、そこで途絶えた。

何事もなかったかのように、二人は歩き続ける。

自動ドアが、静かに開く。

夜の外気が流れ込んできた。

一歩、外へ。

背後で騒ぎが起き始めたがそのまま振り返ることなく、ホテルを後にする。

 

隠見識は、隣を歩きながら、わずかに視線を横に流した。

(……規格外だ)

思考は冷静だったが、その奥に微かな驚きがある。

昼過ぎに目にした光景。

巨大コンテナを弾き飛ばした圧倒的な出力。

先ほど見せた、首の骨だけを正確に折る精密操作。

そして今。

数ある配線の中から、必要な一本だけを選び取り、寸分違わず引き千切る照準。

(同じ力で、同じ人間がやっているとは思えない)

力任せではない。

繊細さだけでもない。

両方が、異様な水準で噛み合っている。

(……相当、訓練している)

いや、それだけでは足りない。

積み上げられたものの質が違う。それを積み上げるための労力を割くことをなし得た動機は世の中への憎悪か先生への忠誠か、検証することに意味は無い

歩く姿は変わらない。

静かで、優雅で、揺らぎがない。

だがその内側には、

明確な“用途”として磨き上げられた力がある。

隠見識は、それ以上何も言わなかった。

ただ一つだけ、確信する。

この女は——

 

“兵器”だ。

 

夜の街は静かだった。

次の目的地へ向かう足音だけが、わずかに響いていた。

街灯の光が、アスファルトに淡く広がる。

車の通りもまばらで、

遠くに流れる音だけが、背景のように存在している。

二人は並んで歩く。

足並みは揃っている。

急ぎも、迷いもない。

ただ、目的地へ向かっているだけだった。

やがて識が口を開く。

 

「……向かいのホテルですが」

 

視線は前を向いたまま。

端末も見ていない。

すでに頭の中で整理されている情報を、そのまま言葉にする。

 

「鍵はシリンダー型です」

 

 

「レディであれば、容易く解錠可能と判断してよろしいですね」

 

確認。

 

だが、疑いは含まれていない。 

才子は何も言わない。 

ただ、わずかに頷いた。 

それで十分だった。 

識もまた、小さく頷く。 

それ以上の言葉は不要。 

前提は共有されている。 

やがて二人は、向かいのホテルへと到達する。 

外観は先ほどのホテルよりも質素な造りになっていた

自動ドアを抜け、内部へ。

ロビーは静まり返っている。

時間帯相応の、薄い気配だけが漂っていた。

識は周囲を一瞥し、

すぐに判断する。

 

「……インターバルを取ります」

 

短く告げる。 

そのまま、フロントの前を通り過ぎ

迷いなく奥へ進む。

トイレ。

人気はない。

個室の一つを開ける。

中へ入る。

扉を閉める。

狭い空間。

外界と切り離された、わずかな静止。

識は腕時計を確認した。

秒針が、規則正しく進む。

 

2分40秒。

 

それだけあればいい。 

才子は壁にもたれない。

ただ、そこに立っている。

動かない。 

呼吸すら、静かだ。 

沈黙。 

だがそれは、

次の行動のための“整え”だった。 

やがて識が顔を上げる。

 

「……再開可能です」

 

淡々と告げる。 

準備は整った。 

次の

“巣の中”へと向かっていく

 

再び、静かな移動。

 

廊下を抜けるまでの間はデッド・スポットで姿を隠し

階段を使い、

余計な接触を避けながら進む。

足取りは変わらない。

迷いも、焦りもない。

5分後、9階に到着し再びデッド・スポットを発動

九〇八号室の前に到達する。

識がわずかに下がる。

視線で合図。

才子が前に出た。

ドアノブに触れることはない。

ただ、鍵穴へと意識を向ける。

内部構造を“掴む”。

シリンダーのピン。 

その配置。 

微細なズレ。 

見えない指先が、それらを正確に押し上げる。 

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

 

——カチリ。

 

 

音は、それだけだった。 

才子はそのまま、ゆっくりと扉を開く。 

軋みすらない。 

二人は滑り込むように室内へ侵入した。

暗い部屋。  

窓際には機材。 

そして、

その前に座る二人の男。

背を向けている。 

こちらには気づかない。

「どうだ」 

一人が低く問う。 

 

「カーテン閉め切られてわからんな」 

 

もう一人が答える。

苛立ちはない。 

ただ、退屈そうな声音。

  

「それにしても……真白才子か」

 

ふと、先ほどとは違う調子で続けた。

 

「今にして思えば、可哀想なことをしたものだ」

 

識の視線が、わずかに動く。

 

 

「当時は新人だったが……すごいものだと思っていた」

 

「上の方針であんなことになったのは、個人的にかなり残念に思ってる」

  

「うむ、そ………」

 

短い相槌 

それだけの会話。 

識は、隣を見た。 

——揺れていないか。 

その確認のために。 

だが。 

すでに、

答えは出ていた。 

 

「うむ」と言い終えた、その瞬間。

 

男の首は、 

折れていた。 

音は、ほとんどない。 

ただ、

不自然に傾いた頭部と、

崩れ落ちる身体。 

残った一人が、ようやく振り返る。

 

「——は?」

 

理解が追いつかない。 

目の前で、

同僚が死んでいる。 

だが、

原因が見えない。

才子の指が、

すでに次へと向けられている。

 

照準は、

完全に一致していた。

逃げ場はない。 

識は何も言わない。

ただ、その光景を見て、

わずかに目を細める。

 

(何の迷いもない。)

 

部屋の中は、再び静まり返った。 

わずか数秒前まで会話があったとは思えないほどの、完全な沈黙。 

二つの身体は、椅子に沈み込んだまま動かない。

才子は、すでに興味を失っていた。

指を下ろし、

何事もなかったかのように立っている。

 

「……処理に入ります」

 

識が短く告げた。 

許可を求めるでもなく、

ただ手順として。 

机の上に置かれた端末へ歩み寄る。 

ノート型の監視端末。 

外部接続用の通信機器と、

記録媒体が一体化したモデル。 

電源は入ったまま。 

ログは開かれている。 

識は椅子に座らない。 

立ったまま、

端末を操作する。

 

 

まず確認。

 

記録範囲。

 

監視ログ。

 

通信履歴。

 

バックアップの有無。

 

 

すべてを、一瞬で把握する。

 

 

「……甘い」

 

小さく、呟く。

 

 

防護はされている。

 

だが、想定が低い。

 

国家レベルの介入など、

最初から考慮されていない構成。

 

 

指が走る。

迷いはない。

まず、

全ログの一括削除。

画面が一瞬だけ空白になる。

だが、それでは足りない。

 

識は即座に次の操作へ移る。

 

 

新規データ生成。

 

ランダムな映像。

 

無意味な時系列。

 

ノイズに近いログ。

 

 

それらを、

先ほど削除した領域へと流し込む。

 

 

上書き。

 

 

さらにもう一度。

 

 

上書き。

 

 

そしてもう一度。

 

 

回数を重ねるごとに、

元の情報は物理的に崩壊していく。

 

 

復元は不可能。

 

 

「……これで完全です」

 

 

最後に、

外部同期履歴を確認。

 

 

クラウドとの接続。

 

バックアップの転送ログ。

 

 

該当時間帯を特定し、

同様に改竄。

 

 

存在しなかったことにするのではない。

 

 

“意味のないものが記録されていた”ことにする。

 

それが最も自然で、

最も疑われにくい。

 

識は端末を閉じた。

 

画面は沈黙し、

そこには何も残っていない。

 

視線を室内へ戻す。

 

 

死体。

 

機材。

 

空気。

 

 

すべてが、

“何も起きなかった部屋”として成立している。

 

「……問題ありません、レディ」

 

簡潔な報告。  

才子は一度だけ頷いた。 

それで、この場所は終わりだった。 

二人は、振り返ることなく部屋を後にする。 

残されたのは、

復元不可能な空白と、 

気づかれることのない結果だけだった。

地下駐車場は、ひんやりとした空気に満ちていた。

コンクリートの壁に囲まれた空間は音を吸い、

足音すら鈍く反響する。

二人は無言のまま、その奥へと進んだ。

やがて、一台の車の前で足が止まる。

運転席の脇に立つ影が、すぐに姿勢を正した。

 

「お待ちしておりました」

 

低く、抑えられた声。 

ヒグマの異形。 

だがその声音には、

先ほど部屋で見せていた軽薄さは、微塵も残っていなかった。 

識は腕時計に視線を落とす。 

針は、二十一時三十分を指している。

 

「……時間通りですね。端末は?」

 

簡潔な確認。

 

「確保しております」

 

即答だった。 

男はすぐに後部座席のドアへ回り、

恭しくそれを開く。 

才子が一歩、車内へ足を入れる。 

その動作に、無駄はない。 

ドレスの裾が静かに揺れ、

そのまま席へと収まる。 

男はその一連を見届けてから、

反対側へと回る。 

識が視線だけで合図し、

同じく車内へ滑り込む。 

それを確認して、

男は静かにドアを閉めた。 

重い音が、地下に沈む。

 

 

——別人だ。 

識は、何も言わずにそう判断する。

ほんの三十分前。

あの部屋で、

下卑た言葉を並べていた男と、

今、目の前で頭を垂れている存在が、

同一とは思えない。

 

恐怖。

それが、ここまで人間を矯正する。

理解したのだ。

何が起きたのかを。

何を見たのかを。

そして、

自分が“生かされている理由”を。

エンジンがかかる。

低い振動が、車体を通じて伝わる。

 

才子は何も言わない。

ただ、静かに前を見ている。

識もまた、口を開かない。

すでに必要な処理は終わっている。

あとは、

移動するだけだ。

車はゆっくりと発進する。 

地下駐車場の闇の中へ、

音もなく、溶けるように、

ハンドルを握りながら、

 

 

羆は、先ほどの光景を思い出していた。

あの一瞬。

首が回った音。

あまりにもあっさりとした死。

——まるで、何でもないことのように。

喉が、わずかに乾く。

 

 

(……報告、しなければ)

 

 

後部座席に視線を向けることはできない。

ただ、意識だけがそこに引きずられる。

 

 

彼は、スイートルームに残してきた端末へと回線を繋いだ。

 

暗号化通信。 

数秒の沈黙の後、

回線が開く。

 

『何かね?』

 

柔らかな声。

 

『おや——君はレディではないね?』

 

わずかな不快感。

 

『君は誰かね?』

 

 

「……っ、申し訳ありません」

 

羆の声が、わずかに上ずる。

 

「護衛を務めております……羆本です」

「ご報告があり——」 

 

言葉を選ぶ。

だが、選んだところで意味はない。

 

 

「……五里等が、レディによって排除されました」

 

 

一瞬の静寂。

 

 

それは、

怒りでも、

驚きでもなかった。

 

 

『おや、そうか』

 

あまりにも軽い。

 

 

『……それは彼が、レディに「掃除」の手を煩わせるほどに無礼だった、というだけの話だろう?』

 

 

羆の指先が、わずかに震える。

 

 

『むしろ君は——』

 

声が、わずかに楽しげに細まる。

  

『彼女が運転手としての君の価値を認めてくれたことに、心から感謝すべきだ』

 

 

沈黙。

 

 

羆は、返す言葉を持たなかった。

理解してしまったからだ。

ゴリラは“失敗した”。

それだけの理由で、

 

“消えた”。

 

そして自分は——

 

(……まだ、使える)

 

ただそれだけで、

生きている。

 

『芸術品がね』

 

ふと、声が続く。

 

 

『自分を汚そうとした泥を払い落とす』

 

『その行為を咎めるコレクターはいない』

 

わずかな間。

 

『むしろ——美しいと称賛するものだよ』

 

通信が切れる。

 

無音。

 

エンジン音だけが残る。

 

羆は、ゆっくりと息を吐いた。

 

(……次は)

 

喉の奥が、ひどく重い。

 

(次は……俺だ)

 

ほんの少しでも、機嫌を損ねれば。

ほんの少しでも、価値を失えば。

 

 あの音が——

 

 自分の首で鳴る。

 

 バックミラーに、一瞬だけ視線を向ける。

 

後部座席。

 

静かに座る、銀髪の少女。

 

何もしていない、ただそこにいるだけで、すべてを終わらせられる存在。

  

羆は視線を戻す。

  

アクセルを、わずかに踏み込んだ。

 

——速度が上がる。

 

少しでも遠くへ。

 

少しでも正確に。

 

少しでも、

 

“価値のある存在”であるために。

 

地下駐車場を抜けると、

車はそのまま、夜の道路へ滑り出した。

街の灯りが、窓越しに流れていく。

だが車内には、

会話らしい会話はない。

エンジン音と、

タイヤが路面をなぞる微かな振動だけが、

時間の経過を示していた。

しばらくして、

隠見識が口を開く。

視線は前方のまま。

声音も変わらない。

 

「……進路を変更してください」

 

運転席の男が、わずかに背筋を伸ばす。

 

「群馬のサービスエリアに向かいなさい」

 

「そこに、別の車が準備されているはずです」

 

指示は簡潔。

だが、そこに曖昧さは一切ない。

 

 

「そこで車を交換しますよ」

 

“逃走”ではない。

 

“段取り”だ。

 

「……了解しました」

 

男は即座に応じる。

ナビゲーションを操作し、

進路を引き直す。

才子は何も言わない。

ただ、わずかに視線を外へ向ける。

流れていく夜景。

それらはすべて、

すでに意味を持たない。

識は端末を確認する。

通信は安定。

追跡の兆候なし。

予定通り。

—だが、それでいい。

予定通りに進むことこそが、

何よりも重要なのだ。

車は速度を上げる。

街を抜け、

やがて高速へ。

闇は深くなる。

その中を、

一台の車が、

音もなく走り続けていた。

 




此処まで読んでくださりありがとうございました

隠見識の制作秘話

必要になったので秘書子さんをネームドキャラにするにあたって最初は任意の透明化にしようと思ったのですが、それじゃ欠点がなさすぎてつまらないなと考えていたらHUNTERXHUNTERのカメレオン男を思い出しそれをもとにしました、個性がカメレオンだと芸がないので盲点や死角を利用して隠れみの術と認識の識を足して、完成させました



全部書くと冗長になるのでカットしてますが
このあと
福島、宮城、岩手、青森と次々にクルマを替えています、しかも行く先々の監視カメラは破壊する徹底ぶりで北海道に向かっています




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