とあるお方の感想で思ったので、考えてみました
夜の街は、闇は深さを増していき、その中を高級車が幹線道路へと流れ込み、信号の少ない道を選ぶように進んでいく。街灯が一定の間隔で並び、フロントガラス越しに淡い光を刻んでいた。
速度は徐々に上がる、だが車内の空気は変わることなく沈黙が支配していた。
エンジンの低い振動と、タイヤがアスファルトを撫でる音だけが、かすかに車内へと流れている。
運転席の羆本は、背筋を固めたままハンドルを握っていた。前方に必要以上に集中するあまりサイドミラーへの注意が疎かになるほど、後部座席に意識を向けないようにしているのが、かえって明確だった。
その後ろ。
才子は静かに座っている、視線は前方に向けられ背もたれに深く預けるでもなく、力を抜く様子もない。
隣で、識が端末を閉じる。
必要な確認はすでに終えている。
追跡はない。通信も問題ない。
すべては予定通りに進んでいる。
一瞬だけ、視線を横へ向ける。
ノーブルレディ…真白才子。
呼吸は乱れていない、姿勢も崩れていない。
だが
(取れる時だけでも休息を取らせたほうが良い)
判断は即座だった。
必要かどうかではない、取らせるべきかどうか。
識はわずかに思考を巡らせ、結論を出す。
そして、口を開いた。
「……レディ」
声音は変えない。
いつも通りの、簡潔で実務的な響き。
「これから長い道のりになります、群馬までの短い間ですが、少しでも仮眠をとってお休みください」
提案ではなく、必要な処置としての言葉だった。
車内に、再び静寂が落ちる。
羆本の指先が、わずかに強張る。
後部座席の反応を、聞くつもりはない。
だが、聞いてしまう。
ほんの僅かな変化でも、それが自分の生死に関わると理解しているからだ。
数秒の沈黙。
才子は、すぐには答えなかった。
視線がわずかに動き、静かに口を開く。
あなたは休まなくていいのですか?
と、問いかける。
それは配慮にも似ているが、声音には温度がない。
純粋な確認。
識は一拍も置かずに答える。
「私はまだ問題ありません」
識は淀みなく答える。声に無理をしている様子はなく、ただ純粋に任務の遂行力として自己の残量を計算した上での回答だった。
「……そうですか」
才子はその言葉を否定はしない。
ただ、別の基準で処理する。
短い応答のあと、わずかに、言葉を続けた。
「では」
声は変わらない。
静かで、揺れがない。
群馬から福島までは、あなたが眠りなさいと提案を出す。だが、響きはほとんど指示に近い。
「群馬のサービスエリアで車を乗り換えた後、さらに福島、宮城と乗り換えが続きます。その都度、監視カメラの物理的調整と、あなたの『デッド・スポット』の連携が必要になる時もあるはずです」
淡々とした事実の羅列。
才子の声には一切の労わりや感情がこもっていないが、そこには絶対的な合理性があった。
「疲労による個性のインターバル管理のミスは、先生の計画を損なう原因になります。……群馬で車を換えた後は、あなたが眠りなさい」
車内に、わずかな沈黙。
識は一瞬だけ視線を伏せ、すぐに理解する。
実に合理的、否定する理由はない。
識は一瞬だけ沈黙し、そして深く頷いた。
才子の言う通りである。自分たちの最大の目的は、一切の痕跡を残さず北海道の拠点へ到着すること。個性の発動と解除のタイミングにコンマ一秒の狂いも許されない以上、睡眠による脳のクリアリングは必須のタスクだった。
「……承知しました」
短く応じて、続ける。
「では福島から宮城までは、レディがお休みください」
対等な提案。
役割の分担。
そこに遠慮はない。
必要な配分として提示されている。
才子は、ほんのわずかに頷いた、それで合意は成立する。
「……では、レディ。群馬までの約一時間半、私が周囲の警戒と、前方の監視を引き受けます。次の乗り換えが完了次第、交代ということで」
「ええ。そうしましょう」
才子は短く肯定すると、静かに目を閉じた。
背もたれに身を預けるその姿は、まるで主の命令を待つ間だけ電源を切られた、精巧なビスク・ドールのようだった。
会話は終わる。
再び、車内は静寂に包まれた。
エンジン音だけが、一定のリズムで流れている。
後部座席で静かに成立した、極めて合理的で冷徹なローテーション。
羆本は、無言でハンドルを握っている。
視線は前。
瞬きすら少ない。
だが——
その頭の中は、静かではなかった
(は?……交代、だと?)
彼女たちは眠る。
完璧な仕事をするために、脳を休める。
では、自分は?
出発前に通信越しで聞いた、あの穏やかで残酷な声が脳裏にフラッシュバックする。
『むしろ君は——彼女が運転手としての君の価値を認めてくれたことに、心から感謝すべきだ』
そうだ。自分は「不眠不休で運転する部品」として機能し続ける限りにおいてのみ、首を繋がれている。交代などない。眠る権利など、最初から与えられていないのだ
喉の奥で荒い感情が燻る、不満がじわじわと広がる
(ふざけんなよ……)
だが、その感情は、
すぐに別のものに押し潰される。
だが後ろに意識を向けるだけで、背筋が冷たくなる。
バックミラー越しに、見える位置にいる。
銀髪の女。
何もしていない、ただ座っているだけ、それなのに。
(……無理だろ)
逆らうという発想自体が、最初から存在しない。
あの部屋で、あの首から響いたあの音、思い出した瞬間に喉の奥がひりつく。
(……やれるわけねぇ)
恐怖が消えない。
むしろ、消せないからこそ、余計に不満が溜まる。
(寝かせてやる? 交代?)
心の中で吐き捨てる。
(こっちは不眠不休かよ……)
ハンドルを握る手に、わずかに力がこもる。
だがその力も、どこか中途半端だった。
怒り切れない、反抗もできない、ただ、受け入れるしかない。
(……クソが)
小さく、本当に小さく、息と一緒に漏れる。
もちろん、声にはならない。
ただ、内側に押し込める。
(やるしかねぇのかよ……)
結論は、それだけだった。
羆本は視線を前に固定する。
アクセルを、わずかに踏み込む。
速度が上がる。
夜の高速を、
一台の車が走り続ける。
後ろにいるものから逃げるように、それでいて、決して逃げられないと知りながら。
車内は、静寂に沈んでいた。
一定の速度。
変わらない振動。
時間だけが、滑るように過ぎていく。
隠見識は視線を前に向けたまま、わずかに隣へ意識を向けた。
真白才子。
夜の車内であっても、その存在は埋もれない。
窓の外は暗い、街灯の光も断続的だ。
それでも——
銀の髪は光を拾う、わずかな反射だけで輪郭が浮かび上がる。
顔立ちも同じだ、陰影が落ちても線の鋭さは消えない怜悧な美貌。
そしてドレス姿
それ自体が、一つの特徴として成立している。
(……目立つ)
識は、内心でそう結論づけた。
隠れるための個性はある、だがそれは“認識の外に置く”能力に過ぎず、短時間しか発揮されない。
識は、静かに端末を取り出す。
画面を点灯。
暗号化された通信アプリを開く。
指先が動く。
入力は、簡潔だった。
黒のウィッグ。
目元の印象を抑える丸型の伊達眼鏡。
女性用ビジネススーツ。
次の車両へ用意。
余計な装飾は要らない、理由も書く必要はない、必要な要件だけを並べる。
送信。
画面が一瞬だけ暗くなり、通信待機状態へ移行する。
車内は変わらず静かだ。
才子は目を閉じている。
羆本は前を見たまま何も言わない、ただ運転に集中している。
識は、端末に視線を落としたまま、数秒、待つ。
——既読。
応答は早い。
さらに数秒。
画面が、わずかに光を変える。
返信が入った。
識はそれを開く。
――了解。
――宮城で交換する車両内に用意しておく。
それだけだった。識は一度だけ画面を確認し、端末を閉じる。
これで問題は一つ消える、あとは受け取るだけ。
視線を前へ戻す、何も変わらない車内。
だが見えないところで、確実に準備は進んでいる、その事実だけが静かに積み重なっていった。
後方からのの静寂が車内の空気を一層重く沈めていた、識が膝の上で操作する端末の淡いブルーの光が後部座席をかすかに照らしている。
その無機質な操作音と彼女の冷徹な表情。
運転席の羆本にとってその沈黙は刃を突きつけられているのと同義だった。
彼女たちが何を企み自分をどこへ連れて行こうとしているのか。
あるいは、いつ自分を処分する段取りを整えているのか、耐えがたい不安が羆本の口を動かした。
「……あの、先ほどは、どのような事を?」
声がわずかに震える。
バックミラー越しに伺う視線は卑屈なほどに泳いでいた。
識は端末から視線を外すことすらしない、ただその指先が止まる。
「……あなたに話す必要はありません。黙って前を見て運転しなさい」
拒絶。
一切の余地を与えない、凍りつくような声だった。
自分の作業を邪魔したことへの、明確な不快感さえ混じっている。
「……ッ、申し訳、ありません……」
羆本は弾かれたように視線を前方に固定した、心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。
だが恐怖の波が一度引いた後、その底からどす黒い感情がせり上がってきた。
(……あぁ、そうかい。話す必要はねぇ、かよ)
ハンドルを握りしめる手に、じっとりと嫌な汗が滲む。
(なんだよ、あの態度は、おめえだって俺と同じただの手下だろうが。先生(AFO)の名前を出して、あのガキ(才子)の隣に座ってるからって偉くなったつもりか?)
自分よりも立場が上の強者に寄り添い、その威光を自分の力だと勘違いしている、羆本の脳裏に一つの言葉が浮かぶ。
(虎の威を借る狐が……!!)
内心で毒づく、それしか、自分の尊厳を保つ方法がなかった。
(お前だって、先生に見限られりゃ俺と同じ、ただのゴミだろ。レディ、レディって、おべっか使いやがって。鼻につくんだよ、その澄ましたツラが……!)
だが、どれほど心の中で罵倒を重ねようとも、彼はアクセルを緩めることはできない。
バックミラーに映る識の冷淡な瞳。
そして、その隣で無を体現している才子の存在。
その圧倒的な現実の前に彼の怒りは行き場を失い、ただ不気味な不満として内側に蓄積されていく。
(……いつか見てろ。どいつもこいつも、足元すくわれる日が来るんだ。……それまでは、せいぜいその虎の皮を被ってやがれ)
羆本は小さく誰にも聞こえないほど細い息を吐き出すと、充血した目を剥いてライトが照らすアスファルトを睨みつけた。
彼の心にあるのは、もはや忠誠心などではなく、醜い意地と、剥き出しの生存本能だけだった
(……喉が、焼ける)
運転席の羆本は何度も空嚥下を繰り返した。口内は砂漠のように乾き、張り付いた喉の粘膜が呼吸のたびにひりつく。
(……クソッ、なんであの時……)
本当なら、群馬のサービスエリアで車両を交換した際、自販機の一台でも見つけて飲み物を確保しておくべきだった。時間はあった。一言「喉が渇いた」と言えば、あの二人のことだ、合理的判断としてそれくらいは認めていただろう。
だがあの時の自分は、隠見識の放つ冷徹な重圧に完全に呑まれていた。
「次、一分以内に発進しなさい」
その事務的な一言に羆本は「はい」としか答えられなかった。喉の奥まで出かかった「水を買わせてください」という言葉は、彼女の眼鏡の奥で光る無機質な瞳を前にあえなく霧散したのだ。
自業自得だ。あの二人に怯え、機嫌を伺うあまり、自分から生存に必要な権利を放棄したのだ。
後悔という熱が、渇ききった喉をさらに焦がす。
福島へと向かう単調な一本道、後ろで感じる識の規則正しい呼吸音が、かえって羆本の焦燥を煽っていた。
その時だった。
カチッ、と。
後部座席でプラスチックが弾ける小さな音がした。
羆本がバックミラーを覗くと、中央のアームレストにあるドリンクホルダーから、一本のミネラルウォーターが音もなく浮き上がっていた、才子の指先一つの動きでキャップは勝手に回転して外れ、ボトルは重力を無視して羆本の左手の直ぐ側、最も掴みやすい位置へと滑り込んできた。
「……喉が渇いているみたいね。飲みなさい、効率が落ちるわ」
才子の声は、深夜の空気よりも冷たく、澄んでいた。
「あ、ありがとうございます……! レディ!」
羆本は震える手でボトルを掴み取った。今の彼にとって、それはどんな宝物よりも価値のある命そのものに見えた。
本来、自分のような奴が触れることすら許されないレディの持ち物。それを、彼女は自らの意志で差し出してきたのだ。
羆本はなりふり構わず、ボトルの口を喉に押し込んだ。
冷気が喉を通り、胃に落ちる。細胞一つ一つが蘇るような強烈な快感。ごく、ごく、と無様に音を立てながら、彼は一滴も残さじと、最後の一滴まで飲み干した。
飲み終えた瞬間、ボトルの感触が手の中から消失した。
空になった容器は、目に見えない力に吸い寄せられるようにして後部座席へと戻り、再びドリンクホルダーへと静かに収まった。
「……」
羆本の胸の内に、じわじわと熱い自惚れが広がっていった。
喉が潤ったことで、それまで彼を縛り付けていた恐怖の鎖がわずかに緩んだのだ。
(……いける。俺は、気に入られてる……!)
単純な思考が駆け巡っていた、識は眠っている、今、この空間で才子の特別に触れているのは自分だけだ。あの五里等のようなゴミとは違う、自分はレディにとって「配慮する価値のある存在」に昇格したのだと、そう確信した。
(……チャンスだ。ここで取り入れば、俺の立場は一気に跳ね上がる)
羆本は卑屈な笑みを浮かべ、バックミラーに映る銀髪の影に、先ほどよりも滑らかな声で語りかけた。
(……今なら)
識がいない。
判断も、管理も、遮断もない。
残っているのは、この小娘一人。
浅い計算が、喉を押し上げる。
「……あの、レディ」
声は乾いていた。
「改めて、先ほどの……部屋での件、本当に申し訳ありませんでした。五里等の分まで、俺がしっかりと……」
バックミラー越しに、影のような銀髪を見る。
数秒の沈黙
「それはもう済んだ話よ」
落ちた声は、どこまでも平坦だった。
「……私にとって、終わった事を蒸し返すほど無駄なことはないわ。気にしないで、運転に集中しなさい」
「……あ、はい」
冷たい。だが、「拒絶ではない」と、羆本は自分に都合よく解釈した。水をくれたのだ。あれは「お前をまだ使う」という合図に違いない。
(……まだ、いける)
羆本はさらに言葉を重ねる。
「……それにしても、レディの『個性』は本当に凄いですね。あの五里等を一瞬で……あ、いや、失礼。あの鮮やかな手並み、畏怖すら感じました」
沈黙。
今度は、返答すらない。
才子は動かない。
聞こえていないわけではない、ただ意味がない。
賞賛という行為そのものが、処理対象に入っていない。
(……反応、なしかよ)
空気が、さらに冷える、羆本の喉がわずかに鳴る。
(……何か、何かないか)
焦りが記憶を掻き回す、そして掴む。
「……そういえば、初日のことで」
声を繋ぐ。
「養護施設の子供たち一人一人に合わせて、プレゼントを用意されてましたよね。あれ、凄かったです。……レディは、子供がお好きなんですか?」
わずかな期待、“人間らしさ”そこに触れられれば……そう思った。
才子は、ゆっくりと視線を窓の外へ向ける。
流れていく闇。
その中へ、言葉を落とす。
「……嫌いじゃないわ」
短く感情はない。
「両親を失くしている子供は、自分と似ているもの」
それだけ。
慈愛も、同情もない。
ただ、分類としての共通項。
鏡を見るような、乾いた認識。
(……は?)
羆本の思考が、一瞬止まる。
想定していた答えと、違いすぎた。
優しさでもなければ、冷酷でもない、空虚なのだ。
言葉が続かない、続けられない。
会話は、そこで途切れた。
車内に沈黙が戻る。
エンジン音だけが、一定に流れる
(……チッ)
内心で、舌打ちが落ちる。
(なんだよ、あれ)
ハンドルを握る手に、わずかに力がこもる。
(おたかくとまりやがって)
話に反応しない、会話が広がらない、何を言っても、返ってこない。
(人形かよ……)
乾いた苛立ちが、じわじわと溜まっていく。
(ガキが好きか嫌いか、それくらい普通に答えろよ、先生のお気に入りだからって人間辞めたツラしやがって……)
その言葉は、声に出すことはできない
最後に一縷の望みをかけて
「レディ俺は必ず貴女の御役に立ちます、さっきの水のお礼も込めて絶対に」
「羆本」
言葉が、途中で断ち切られる。
名前を呼ばれた。
それだけで、背筋が凍る。
「はい……!」
反射的に声が跳ねる。
才子は、わずかに首を傾けた。
それだけの動き。
だが、空気が変わる。
「あなたは今、機嫌を取ろうとしているのね」
心臓が止まる。
(——読まれてる)
否定の言葉が出ない、いや、出せない。
「……ち、違——」
「いいえ、違わないわ」
即座に切られる。
「謝罪も、称賛や忠誠も、全部、自分の位置を上げるための行動でしょう?」
あまりにも静かな声量、それなのに、逃げ場がない。
「……ッ」
喉が鳴る、言葉が出ない。
「別に、それ自体は悪いことではないわ」
才子は変わらない声音で続ける。
「生き残るための行動としては、当然のことですもの」
救われた。
そう思いかけた、次の言葉が来るまでは。
「でも、それを、私に向けてどうするの?」
理解が追いつかない。
「……え?」
間の抜けた声が漏れる。
才子は、わずかに視線を上げた、バックミラー越しに、目が合う。
羆本は目を逸らせない。
「あなたが評価を上げるべきなのは、ブラインドスポットに対してでしょう?」
淡々と告げる。
「彼女があなたを管理している、彼女が必要と認めれば、あなたは残る」
一切の感情がないただ、構造の説明。
「だから」
才子は視線を外した、もう興味がないというように。
「無駄なことに思考を使わないで、運転だけしていなさい。それが、あなたの役割よ」
完全な切断。
会話はそれで終了した。
車内に再び静寂が落ちる。
エンジン音だけが一定のリズムを刻む。
羆本は、前を見たまま動けなかった。
(……最初から、がん中に無いってのかよ、)
乾いた理解が、ゆっくりと染みていく、ハンドルを握る手に、力が入らない、それでもアクセルは踏み続ける。
(……クソが)
心の中でかすかに毒づく、だが、その言葉はもうどこにも届かない。
後部座席では識が静かに瞳を閉じている、その隣の才子は流れる闇を静かに眺めていた。
夜の高速道路は、どこまでも続いていた。
隠見識は、深くシートに身を沈めたまま動かない。
呼吸は規則的で瞼も閉じられている。
——眠っているように見える。
だが、意識は完全には落ちていなかった。
(……くだらない)
内側で、静かに思考が動く。
先ほどのやり取り。
謝罪。
賞賛。
的外れな問い。
すべて聞いていた。
(バカが)
切り捨てるような評価。
(口先で取り入ることができる相手などと、思うとは)
浅い。あまりにも浅い。
(浅はかな男)
感情ではない、ただの分類。
(行動で認めさせる以外に、何があるというのか)
それが、この場の唯一の基準。
それ以外は、すべて無価値。
これ以上考える必要もない。
識の意識は、そこで思考を切り上げた。
不要な情報は遮断する、それが最も効率的だからだ。
呼吸が、わずかに深くなる。
身体から、力が抜けていく。
今度こそ、完全な休息へと落ちていく。
後部座席は、再び完全な静寂に包まれた。
福島から宮城へ。
黒い車は変わらぬ速度で北上を続けていた。
外は深夜、街の光はほとんど消え等間隔の街灯だけが機械的に前方を照らしている。
車内の後部座席では、真白才子が静かに目を閉じていた。
呼吸は浅く、規則正しい。
その隣で、隠見識が羆本を監視していた
何も言わない。
ただ、起きている。
それだけで十分だった。
(……クソが)
運転席の羆本は歯を食いしばる、指先は痺れている。
ハンドルを握る感覚が少しずつ鈍くなっている、それでも力を込める。
離せば終わると分かっているからだ。
(なんで俺が……)
視線は前から動かさない。
(たった一人で、北海道まで走らなきゃならねえんだよ……!)
後部座席には、沈黙を体現したような少女と、冷たい理性で動く女。
(……ああ、分かってる)
思考が、逃げ場を探す。
(俺も悪かったよ)
あの瞬間。
五里等の軽口。
自分の反応。
(ニヤついたのは認める……けどよ)
歯の奥で感情が軋む。
(元はと言えば、全部あいつのせいだろうが……!)
脳裏に蘇る。
あの一言。
——ひん剥いて。
(ふざけんなよ……!)
内心で吐き捨てる。
(あの女を相手にそんな言葉が出るか? 普通)
あり得ない。
考えれば分かる。
(少しは考えろよ、あの脳筋野郎……!)
もし、あれがなければ、もし、余計なことを言わなければ。
(今頃は……)
喉が乾く。
(交代で、助手席で寝てられたんだ……)
今のように瞼をこじ開けるような眠気と戦いながら、神経を擦り減らす必要もなかった。
(俺は巻き込まれただけだ……)
必死にそう結論づける。
(俺はあいつほど馬鹿じゃない)
確かに思った。
あの女達の外見。
価値。
だが——
(黙って見てるだけのつもりだったんだ)
踏み込む気はなかった。
あいつが先に、踏み外した。
(勝手に死神の鎌に首突っ込みやがって……)
あの瞬間、首が回る音。
(……笑ったのは)
ほんの一瞬、言葉が詰まる。
(……場の空気だ)
自分に言い聞かせる。
(付き合いだろ、あんなもん……)
だから——
(なんで俺が、こんな扱いされなきゃならねえんだよ……!)
怒りが膨らむ、だが、その先はない、ぶつける先がない。
(……死んで楽になりやがって)
ぽつりと、思考が落ちる。
(あいつは、一瞬で終わった)
痛みも、恐怖も、全部。
(俺は違う)
今この瞬間も、終わりへ向かっている最中だ。
(目的地に着くまで、ずっとだ)
一秒一秒が、削れていく。
(少しでもミスったら終わりだ……)
蛇行、不要な振動、無駄に強いブレーキ
(あの女狐がしゃしゃり出る)
後ろの女——識。
(“不具合ですね”とか言って)
そのまま、何もかも終わる。
(交代もねえ……話す相手もいねえ……聞こえてくるのは……)
断片的な記憶。
冷たい会話。
処理。
隠蔽。
(全部……)
呼吸が荒くなる。
(全部、あいつのせいだ……)
結論は、それしかない。
そうしなければ、保てない。
(俺はまだマシだ……あいつが、全部ぶち壊したんだ……)
ハンドルを握る手が震える。
(……目的地に着いたら)
思考が、別の恐怖へと向く。
(俺はどうなる……?)
運転手が不要になった時、その後
(……掃除、されるのか?)
喉が鳴る。
(嫌だ……)
(死にたくねえ…… 五里等のように…あんな風に死にたくねぇ…………寝ちゃダメだ、止まっちゃダメだ……全部……全部あいつが悪い……)
呟きは、声にならない。
ただ、頭の中で繰り返される。
羆本は、充血した目で前方を睨みつける。
アクセルを踏み続ける。
黒い車は、
深夜の東北自動車道を、ただひたすら目的地に向かって走り続ける。
逃げ場はない。
終わりも、まだ来ない。
その途中だけが、延々と続いていた。
福島から宮城への県境を越えたあたりで、隠見識は考えていた。
運転手を監視しながら、脳内ではすでに宮城上陸後の戦術が、パズルのピースを嵌めるように組み立てられている。
(……宮城まで、あと一時間を切るわね)
計画の最重要事項は、レディの「秘匿性」を一段階上げることだ。
宮城のSA(サービスエリア)で事前に手配させた車両への乗り換えを行う。その車内にはレディを変貌させるための荷物が用意されているはずだ。
問題は、どこでそれを行うか。
(車両交換での乗り換え時に済ませられれば理想的だが……さすがに、車内空間でレディにウィッグの調整や着替えを強いるのは、あまりに不敬。……かといって、SAの多目的トイレ?)
識は内心で即座に首を振った。
(論外。不特定多数の視線がある場所で、一分一秒でもレディを晒すリスクは取れない。それにレディをあのような薄汚れた場所へ立たせるわけにはいかない)
彼女にとって、才子(レディ)は守るべき対象であると同時に、傷一つ付けてはならない”先生のお気に入り“なのだ。
識は膝の上で端末を静かに起動させた。
光量を最小限に絞りブルーライトカットのフィルター越しに宮城インターチェンジ周辺の地図を展開する。
(……この男を使えばいい)
視線は黙々とハンドルを握る羆本の後頭部を捉えた。
(この男の名義で、国道沿いのビジネスホテルを一室取らせる。チェックインから入室までを彼に行わせ、その後に私たちが『デッド・スポット』で潜り込めば、宿泊記録に私たちの名は残らない。……そこで、完璧な変装を)
指先が滑らかに動き、空室状況を検索し始める。
防犯カメラの死角になりやすい立地、フロントの監視が薄い自動精算機タイプ、非常階段近くの部屋が空いている物件……
「……羆本」
静寂を切り裂く、識の冷徹な声が響いた。
「は、はいッ!」
肩を跳ねさせた男に彼女は端末を向けず、ただ淡々と指示を落とす。
「宮城で車両を乗り換えた後、指定するホテルへ向かいなさい。貴方の免許証で一部屋、三時間程度の休憩で予約を取るの。……」
「……は、ホテル、ですか?」
「不服かしら? 休息を与えてあげるのだから、感謝しなさい」
識は再び端末の画面に目を落とした。
羆本が内心で(自分はロビーで待たされるだけだろうが!)と毒づいていることなど、彼女にとっては、ノイズにすらならない既知の反応だった。
(……見つけたわ。ここなら裏口から非常階段を使ってレディを誘導できる)
端末の光が、識の眼鏡の奥で冷たく反射した。
深夜の宮城インターチェンジ付近。
照明の届かないサービスエリアの最奥で、闇は一段と濃く沈んでいた。
大型トラックが無造作に並ぶその隙間に、目立たない国産セダンが一台、静かに停まっている。
事前に共有された座標。
監視カメラの死角。
すべては、計画通りだった。
「……あれですね」
羆本が、喉を絞るような声で呟く。
指示された位置へ、慎重に車を寄せる。
ブレーキの踏み方一つにも、過剰な神経が使われていた。
停車。
それだけで、車内の空気が変わる。
「行きましょう」
短い指示。
隠見識の声だった。
ドアが開き、そして閉じる。
動きは最小限で無駄は一切ない。
識の《デッド・スポット》が発動する。
その一瞬で才子と識の二人は滑るように車両を移動した。
音もなく。
気配も残さず。
新しい車内。
ドアが閉じると同時に、すべては“なかったこと”になる。
羆本はハンドルを握ったまま動かない。
後部座席では、真白才子が静かに座っている。
何も変わらない。
まるで最初からそこにいたかのように。
識は一度だけ周囲を確認するとトランクに向かう、音を立てずに持ち上げられた蓋の内側には、黒いボストンバッグが一つ。
識は無言でそれを引き寄せ開く、暗がりの中でも中身は明確だった。
黒髪のウィッグ。
人毛特有の、鈍い光沢。
丸型の伊達眼鏡。
どこにでもある、記憶に残らない形状。
女性用のビジネススーツ。
ダークネイビーの質は良いが特徴がない、パンツタイプとスカートタイプの2種類が用意されて、その時の状況でどちらも選ぶことを可能にした、街に溶けるためだけの衣装。
(……すべて、指定通り…)
識の指先が、バッグの底に触れる。
違和感。
わずかに厚い。
引き上げる。
封筒。
(……いえそれ以上ね…)
中身を確認するまでもない。
帯封の感触。
重量。
開く。
一万円札の束が、規則正しく収められていた。
五束。
五百万円。
(……気を利かせてくれた、というところかしら)
声には出さない、思考の中で処理する。
足のつかない現金、それは選択肢そのものだ。
逃走。
買収。
即時対応。
どれにも使える。
(当座としては、十分すぎる)
評価は、それで終わる。
(先生のご指示なのかどうかは今は問題ではない)
ただ“使える”それだけのことだった。
識は札束を迷いなく封筒のなかに戻しジャケットのサイドポケットへと滑り込ませる、動きに一切の迷いはない。
バッグを元の状態へ戻す、配置を崩さない、そしてトランクを閉める。
音は、ほとんどしなかった。
車へ戻る。
ドアを開け、乗り込み、閉める。
それだけで、外界との接続は再び断たれる。
「問題ありません」
淡々とした報告。
「レディ、準備は整っています」
才子はただ静かに頷くだけで了解する。
羆本は、ミラー越しにそのやり取りを見ていた。
(……なんなんだよ、こいつら)
理解が追いつかない、総てがあまりにも慣れている。
(最初から、こうなるって分かってたみてぇだ……)
喉が乾く。
自分だけが、何も知らされていない。
自分だけが、流れの外にいる。
その事実が、じわじわと内側を削っていく。
「発進しなさい」
背後から、識の声。
思考が断ち切られる。
「……ッ、はい」
反射的に応じる。
エンジンが低く唸る。
黒い車が、再び闇の中へと滑り出していく。
移動計画は、順調に進行していた。
車内は、相変わらず静まり返っていた。
エンジンの低い振動だけが、密閉された空間に一定のリズムを刻んでいる。
後部座席の識は隣へとわずかに視線を向けた。
真白才子。
窓の外を見ている。
識は簡潔に口を開いた。
「……レディ」
反応は即座だった。
視線が、わずかにこちらへ向く。
「宮城インター通過後、国道沿いのビジネスホテルへ向かいます」
説明は淡々としている。
感情も、余計な言葉もない。
「ウィッグ、眼鏡、スーツ。すべて用意済みです。以降は“別人”として移動します」
才子は、わずかに目を伏せた。
思考は一瞬。
必要性の確認だけが行われる。
そして——
「……良いわ」
短く、肯定した。
「貴女がそれがいいと思うのなら」
疑問も、補足もない。
判断は即決、迷いは一切存在しない。
識は小さく頷く、想定通りの応答、そこにズレはない。
「もう一点」
識は続ける。
声の温度は変わらない。
「トランク内に追加で資金が用意されていました」
才子の視線が、わずかに動く。
「五百万円。現金です」
羆本の指が、一瞬だけ強張る。
だが、誰もそれに触れない。
才子は、数秒だけ沈黙した。
金額の重みは理解している。
だが——
それ以上の意味はない。
「……そう」
感想は、それだけだった。
そして、すぐに続ける。
「管理は、貴女に任せます」
一切の躊躇がない。
当然のように。
識に対する役割分担として。
その言葉を受けて、識はわずかに視線を伏せた。
(予測通り)
内心で、静かに結論づける。
(レディは金銭の価値を正しく理解している、だからこそ私に任せる。)
そして、その判断は正しい。
(生活資金の管理、調達、痕跡の処理、この分野においては、私の方が適任)
そこに、確かな自負がある。
識は迷わず封筒を自分のバッグへと滑り込ませた。
動作は自然で、淀みがない。
「承知いたしました」
それで完了。
金の話は、終わった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
車内は再び静寂に沈む。
羆本は前を見たまま何も言えない。
五百万。
それがどれほどの価値か、理解している。
(なんなんだよ……こいつら)
喉の奥で、言葉にならない感情が燻る。
だが、それもすぐに押し潰される。
羆本は、何も言わずアクセルを踏み続ける。
夜の国道へと、車は滑り出す。
行き先は決まっている。
役割も決まっている。
ただ一人、
それを“選べない”男だけを乗せて。
宮城の国道沿い。古びたビジネスホテルの駐車場に、セダンが滑り込んだ。
街灯の光が届かない隅の方に車を止めると、識が静かに口を開く。
「羆本。貴方が代表してチェックインしてきなさい」
「えっ、俺が……一人で、ですか?」
羆本がバックミラー越しに尋ねる。識は答えず、代わりに内ポケットから厚みのある財布を取り出した。中から引き出されたのは、ピンと張った十万円分の新札。
それを助手席の隙間から、羆本の目の前へ差し出す。
「これで部屋を取りなさい。三時間程度の『休憩』で十分よ」
「じ、十万……? 休憩なら、せいぜい数千円で……」
「領収書は不要よ。……余った釣りは、貴方の手間賃として好きに使いなさい」
羆本の呼吸が、一瞬止まった。
数千円の宿泊費を払えば、手元には九万円以上の現金が残る計算だ。今の自分にとっては、あまりにも甘い毒のような誘惑。
「手間賃……。これ、全部、俺がもらっていいんですか?」
「ええ。ただし、レディの存在は一切悟らせないこと。貴方が一人で疲れを癒やすために、贅沢に金を使う……そんな『愚かな客』を演じなさい。できるわね?」
識の瞳は、金を見ている羆本を、まるでゴミを見るような冷たさで見据えている。
羆本は震える手でその札束を受け取った。
「わ、分かりました……。すぐに、取ってきます!」
「……早く行きなさい。時間が惜しいわ」
羆本が車を降り、小走りにフロントへ向かう姿を、識は無機質な目で見送る。
隣で目を閉じている才子へ、識は声を潜めて告げた。
「……レディ。あの男には『餌』を与えておきました。欲に目がくらんでいる間は、余計な恐怖でミスをすることもないでしょう」
「そう。……合理的ね」
才子は目を開けることなく、短く応じた。
闇に包まれた車内で、十万円という大金が、ただの「使い捨ての潤滑油」として消費されていく。
ビジネスホテルの一室。
羆本が先に押さえた部屋は、予想通り狭く安っぽかった。
壁紙はくすみ、空気には古い煙草の残り香が薄く残っている。ベッドは一つで、窓は閉じられ、外の気配はほとんど入ってこない。
ドアが開く。
隠見識が先に入り、その後ろから真白才子が静かに続いた。
その瞬間、部屋の温度がわずかに下がったように錯覚する。
羆本は反射的に背筋を伸ばした。
「……」
識の視線はすでに部屋全体を査察していた。死角、侵入経路、遮蔽物——すべてが数秒で処理される。
そして、次に羆本へ向く。
「羆本」
「は、はい」
「レディがお着替えになる。廊下に出て見張りなさい。少しは気を使いなさい」
命令。
迷う余地はない。
「……了解で——」
動こうとした、その瞬間。
「——必要ないわ」
静かな声が、動作を止めた。
羆本の足が、床に縫い付けられる。
識が、わずかに目を見開いた。
「……レディ?」
才子はすでに鏡の前に立っていた。
背中を向けたまま、ドレスのホックに指をかける。
「それより識」
振り返ることなく鏡越しに声だけを響かせる。
「時間はどれくらい余裕があるのかしら?」
識は一瞬だけ間を置いた。
腕時計を確認する。
「……予定より移動が早く進んでいます、約一時間ほど余裕があります。」
「そう」
短い応答。
次の瞬間、才子は躊躇いなく、ドレスのジッパーを下ろした。
滑らかな白い背中が、安ビジネスホテルの蛍光灯の下に晒される。羆本は心臓が口から飛び出しそうになり、反射的に視線を床に叩きつけた。
布の張力がわずかに緩む音。
羆本の喉が鳴る。
視線は…上げない、いや上げられない。
「羆本、あなた」
才子の声がかたりかけてくる。
「そこのベッドで一時間、仮眠を取りなさい」
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
反射だった。
思考が追いつかない。
「頸をかけてまで私の着替えを覗き見るほど、あなたは愚かではないでしょう?」
その言葉の奥にあるものを、羆本は一瞬で理解した。
(……頸をかける)
脳裏に焼き付いている。
あの音。
あの一瞬。
五里等の首が、ねじ切られた光景。
「……ッ」
呼吸が詰まる。
才子は続ける。
「あなたの「運転」は、この計画の生命線、一秒でも長く脳を休めなさい」
合理。
それだけだった。
そこに羞恥も、配慮もない。
羆本という存在は、
「見るかもしれない男」ではなく、「機能を維持すべき部品」として処理されている。
識が、わずかに眉を寄せる。
だが、反論はしない。
それが最適解であると理解しているからだ。
「……指示よ。寝なさい」
冷たい追撃。
完全な締め。
「……は、い……」
声が擦れる。
羆本はぎこちなくベッドへ向かった。
靴も脱がず、倒れ込む。
壁の方へ顔を向ける。
背を向ける。
背後。
見ない。
考えない。
(……見てねぇ)
頭の中で、言葉が反響する。
(最初から……俺のことなんて)
視界の外。
意識の外。
人間ですらない。
「……クソが」
音にならない。
喉の奥で潰れる。
毛布を引き寄せる。
震えを押し込むように。
(……たった九万やそこらで、俺は喜んじまって、挙句の果てに人間扱いもされてねぇ……。けど、この金を手放す勇気も、あの女に立ち向かう度胸も、俺にはねぇんだ……)
背後で、
布が擦れる音がした。
ドレスが滑り落ちる音。
識の足音。
ウィッグを取り出す気配。
すべて、聞こえる。
(……寝れるかよ)
思考が叫ぶ。
だが——体は限界だった。
張り詰めていた神経が、逆に緩む。
逃げ場のない状況。
だからこそ、
意識が落ちる。
防衛本能。
(……死にたくねぇ……)
最後の断片、それを境に、羆本の意識は、浅い闇へ沈んでいった。
「……レディ」
小さく、識が声をかける。
不満は残っている。
だが、抑え込まれている。
「本来であれば、隔離すべき対象です」
「そうね」
才子は淡々と答える。
すでにドレスは外されていた。
「でも、必要ないわ」
鏡の中の自分を見る。
感情はない。
ただの確認。
「彼は見ない、見れば死ぬと理解しているもの」
識は沈黙する。
それ自体は正しい。
だからこそ、
不快感だけが残る。
「……承知いたしました」
それでも、従う。
それが役割だからだ。
識は手際よくウィッグを取り出し、
才子の髪に合わせていく。
光を反射していた銀の髪が、徐々に埋もれていく。
スーツが用意される。
「印象を落とします」
「ええ」
丸眼鏡がかけられる。
視線の鋭さが、わずかにぼやける。
完成に近づくにつれ、
数時間前スウィートルームに居た高貴な淑女が、ただの「どこにでもいる女」へと変わっていく。
だが——
本質は何一つ変わっていない。
「……これで、問題ありません」
識が告げる。
才子は鏡の中の姿を一瞥した。
評価はない。
ただ、条件を満たしているかどうか。
「良さそうね」
それだけだった。
ベッドの上では、
羆本が浅い呼吸を繰り返している。
眠っている。
だが——
完全ではない。
どこか怯えたままの顔。
「……」
識が一瞬だけ視線を向けるが、直ぐに興味を失い腕時計を確認する。
「出発まで、約四十五分」
「ええ」
「予定通りです」
部屋は再び静かになる。
安い照明の下で、
三人はそれぞれの役割を維持したまま、
時間だけが、過ぎ去っていく。
目的地に着くまでの「溜め」の回として楽しんでいただけていれば幸いです。羆本、不眠不休で頑張っています。
感想をいただけると励みになります。