善意の剥製   作:タロットゼロ

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筆が重くなる感覚って初めて知りました


待機時間

窓ガラスを姿身代わりにして、スーツ姿の自分を映している。

夜の外光と室内の照明が重なり、輪郭はわずかにぼやけているが、全体のバランスを確認するには十分だった。

真白才子は無言で袖口を整え、襟の角度をわずかに修正する。

肩のライン、ウィッグの収まり、眼鏡の位置。

一つずつを確認していく。

背後では、布の擦れる微かな音が続いていた。

隠身識が脱いだドレスを丁寧に畳み、ボストンバッグへと収めている。

視線を向ける必要はない、互いに今やるべきことを把握している。

やがて、才子の手が止まる。

確認は終わった。

充分に整えられた自分を認識した途端に、ふと意識の外側にあった喉の渇きが、確かな質感を持って浮上してきた。

彼女は静かに窓から離れると、備え付けの低い駆動音を鳴らす小さな冷蔵庫へと歩み寄って行き扉を開ける。

並んだミネラルウォーターの一本に一度指をかけた、だがその時、背後で低く重い金属音が響いた。

ジッパーが、ドレスを飲み込んだバッグの口を、端から端まで一気に噛み合わせていく音だ。

識が彼女の残したドレスの片付けを終えた合図。

その音を耳にした瞬間、才子の指がわずかに動きを変えた。

自分の一本を掴むつもりの手、それが無意識のうちに隣のボトルへと滑る。

彼女は二本のボトルを同時に取り出した。

そのまま振り返ると、識はちょうどバッグの口を完全に閉じ終えたところだった。

一瞬の間。

言葉は交わされない。

才子の指先が、わずかに動く。

次の瞬間、片方のボトルが音もなく浮かび上がり、識の方へと滑っていった。

一直線に無駄のない軌道で、識の手元へと届いたそれは減速もぶれもなく、ぴたりと収まる。

まるで最初からそこにあったかのように。

「……どうも」

短い受け取りの声。

才子は応じず、残った一本へと視線を落とした。

キャップに指をかける。

軽く捻る。

小さな音がして封が切れる。

そのまま口元へ運び、ゆっくりと傾けた。

ごくり、と。

静かな室内に、控えめな嚥下の音が落ちる。

もう一度。

ごくり、と。

半分ほど飲んだところで、動きが止まった。

ボトルを離し、わずかに息を吐く。

その仕草だけは、ほんの一瞬だけ、年相応の少女のものに見えた。

 

ボトルの中の水は、すでに半分以上失われている。

才子はそれを一瞥すると指先をわずかに動かした。

次の瞬間、ボトルが彼女の手を離れ見えない力に掬い上げられるようにして空中へと持ち上がる。

空気を切るわずかな気配だけが、遅れて意識に届く。

ボトルがゆっくりと上昇していく。

 

なかに入っている水はぶれることも、揺れることもなく、ラベルの向きすら変わらず、そのままの姿勢で、ただ高度だけが増していく。

才子は頸を動かすこともなく視線の角度をわずかにずらしボトルを視界に捉えていた。

天井の白いクロスに、ボトルの影が淡く映る。

距離は、あとわずか。

そこで動きが止まった、わずか数ミリの空間を残した位置に完全に静止した。

才子の瞳に、変化はない。

次の瞬間、支えが消える。

ボトルは重力に従い、真っ直ぐに落ちた。

一気に加速し、床にぶつかる——その直前で急停止わずかに空間を残した位置で完全に静止している。

上昇。

落ちる。

止める。

また、落とす。

同じ工程が、寸分違わず繰り返される。

精度は崩れない。

誤差もない。

それでも——

満たされる感触は、どこにもない。

次の落下。

解放。

加速。

——その直前。

脳裏に、別の光景が差し込んだ、昼間の避難施設、崩れるコンテナ、傾く機体、弾くように力をかけた瞬間、必要以上に伸びた軌道、個性の制御を誤ったその事実が胸を一気に冷やす。

指先に、わずかな力が乗った。

——乾いた音が弾ける。

空中で、ボトルが潰れた。

内圧が一気に逃げ、

歪んだボトルから水滴がわずかに散る。

制御は維持されている。

位置にも、誤差はない。

だが——才子は苛立ちに目を細めていた

「……不甲斐ない」

平坦な声が、落ちる。

感情でも評価でもなく事実の確認。

(あの程度の状況で出力を誤ってここでも同じ、こんな姿を先生に見られてしまってはどれほど失望させてしまうか)

潰れたボトルを小さな塊まで圧縮させてゆっくりと机へ落とす。

軽い音。

才子はそれを一瞥することもなく次の工程へ移る。

新しいボトルが、静かに浮かび上がる。

落とす。

止める。

また、落とす。

先ほどまでと、同じ動作。

 

「……レディ」

識の声が、静かに差し込まれる。

才子の指は止まらない。

ボトルが落ちる。

——直前で、止まる。

「いつも、このような訓練を?」

問いは簡潔だった。

才子は一拍も置かない。

次の瞬間、

ボトルが下から弾き上げられる。

床すれすれから、一気に加速。

天井へ。

「ええ」

そのまま、天井直前。

触れる寸前で、

横へ弾く。

一直線に、壁際へ滑る。

「十二歳頃から」

音もなく空中を進み壁への接触寸前で急停止。

識は黙って見ている。

サイコキネシスは自分の個性とは無関係なので評価できるものではない。

ただ事実として受け取入れる。

才子の指が、わずかに動きボトルが引き寄せられる。

空中で軌道を変え、

彼女の前へ。

両手の間に、静止する。

「イギリスにいた頃は、最低でも八時間」

距離は、数センチ。

揺れはない。

完全な固定。

識の視線が、わずかに細まる。

それがどういう意味かは、口にしない。

才子の指が、さらに僅かに閉じる。

ボトルが、内側から歪む。

空気が押し出される。

形が崩れる。

「日本に来てからは」

言葉と同時に両手の中央への圧力が増し、ペットボトルが破裂して中から水が弾ける。

 

だが、飛び散らない。

水が空中にばらけず一塊のまま留まっていた。

「時間が取れなくて」

わずかに間。

水の塊が、ゆっくりと回転する。

表面が揺れる。

それでも、崩れない。

「二時間程度しか、出来ていないけれど」

言い終わると僅かな動きに合わせて水が静かに浮かび上がっていく。

 

才子の脳裏に12歳の頃自分の個性をどう伸ばすかを先生(オール・フォー・ワン)に相談した日の事が思い起こされていた

 

週に一度だけ設けられている書斎での面談。

その部屋は、屋敷の中でも特に静寂が深かった。

重厚な本棚。

艶のある木製の机。

外界を遮断するような厚い絨毯。

壁際で燃える暖炉の火だけが、部屋に柔らかな橙色を落としている。

十二歳の真白才子は、机の前に静かに座っていた、背筋は真っ直ぐ。

両手は身体の前で揃えられている。

幼さの残る年齢でありながら、その姿勢には既に妙な完成度があった。

「今週は、重心移動と荷重分散について学習しました」

淡々とした声が響く。

机の向こう側。

椅子に腰掛けた男は、静かに耳を傾けていた。

「質量の位置によって物体の挙動は変化します。同一重量でも、重心位置次第で必要な支持力が変わることも確認しました」

才子はそこで一度言葉を区切る。

「加えて、重力加速度と落下速度の関係についても」

机の上にはノートが置かれていた。

数式。

図式。

びっしりと書き込まれた記録。

単なる暗記ではない。

理解し、応用しようとしている痕跡だった。

男――オール・フォー・ワンは、それを眺めながら静かに口元を緩める。

この少女は、知識を与えられるだけでは終わらない。

自分の力へ繋げようとしている。

それが、わかる。

「なるほど」

いつもの満足気な低い声。

いつもなら「この調子で頑張りなさい」と言われて終わるはずだったが、この日の才子は返事を待つことなかった、むしろわずかに視線を伏せ思考しているというよりも迷っている。

そして数秒後、静かに顔を上げた。

「先生」

声音が変わった、報告でも確認でもなくもっと個人的な問い。

「私の個性は、どのように鍛えるのが良いのでしょうか」

暖炉の火が、小さく鳴った。

一瞬だけ。

部屋の空気が変わる。

オール・フォー・ワンは沈黙したまま少女を見る。

命令されたからではない。

期待に応えるためでもない。

この少女は、自分から“強くなろう”としている。

その事実が、何よりも重要だった。

そして同時に――

何より愉快だった。

口元が、ゆっくりと歪む。

愉悦。

だがそれは、声に出して笑うような粗雑なものではない。丹念に育てた種子が、ようやく自ら根を伸ばし始めたのを見た時の喜び。

(そうとも、人は強制だけでは伸びない自ら求めてこそ、力は深く染み込む)

炎の明かりが、男の横顔に濃い影を落とす。

「嬉しいよ才子、君もその質問ができるように育ったのだね」

穏やかな声だった。

優しさすら感じさせる声音。

「まずは、落とさないことより、思った場所へ止めることを覚えるといい」

才子の瞳が、静かに細められる。

一言も聞き漏らすまいとする集中。

「才子、君の個性出力は十分に強い、年齢を重ねればさらに強力になっていくだろう。でもね、力は大きければ良いわけじゃない、必要な場所へ、必要な量だけ届かせる、それが制御だ」

少女は黙って聞いている。

その小さな頭の中で、言葉が高速で組み立て直されているのが見えるようだった。

「壊れやすい物を使いなさい。ティーカップでも、ガラスでもいい、失敗すれば壊れるものほど、自分の誤差が理解できる。」

その瞬間。

才子の瞳に、微かな光が宿った。

理解と納得そして――高揚。

「……はい、先生」

短い返答。だがそこには、隠しきれない確かな熱があった。

今すぐにでも、自室へ戻ってティーカップを浮かべたい。自分の誤差がどこにあるのかを、壊れる陶器の音で確かめたい。

そんな少女特有の、純粋で鋭利な向上心をオール・フォー・ワンは見逃すことはなかった、彼はゆっくりと椅子に深く背を預け肘掛けの上で指を組み。

「いい目だ、才子。……だがね、焦ってはいけないよ」

男の声が、心地よい残響を伴って静寂を撫でる。

彼は机の上の置時計に、わずかに視線を向け「完璧な制御には、完璧な休息が必要だ。張り詰めた糸は、いつか必ず断ち切れてしまう。……」彼は立ち上がることはせず、ただ座ったまま、才子に優しく手を差し伸べた。

才子は吸い寄せられるように一歩歩み寄り、その大きな手に自分の頭を委ねる。

冷たいはずの指先が、不思議と熱を帯びているように感じられた。

「今夜はもう、ゆっくりと休みたえ。……夢の中で、君が最も美しくティーカップを操る姿をイメージしながらね。脳内でのシミュレーションも、立派な訓練の一部だ」

男の手が、彼女の白い髪を一度だけ、愛おしげに梳いた。

それは父親のような温かさと、蒐集家が宝物を慈しむような執着が混ざり合った、歪な愛の形。

「おやすみ、才子。……」

「……はい。おやすみなさいませ、先生」

才子は深く、完璧な角度で一礼した。

顔を上げた彼女の瞳からは、先ほどの熱は意志という名の冷徹な光へと形を変えていた。

音を立てぬよう、それでいて確かな足取りで、少女が書斎を去っていく。

重厚な扉が静かに閉まり、カチリ、とロックが掛かる音が響く。

一人残された闇の中で、オール・フォー・ワンは、彼女が先ほどまでいた空間を眺め、満足げに目を細めその余韻を味わうようにソファーへ深く身を預ける。

暗い書斎。

最低限の照明だけが、輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

やがて、壁面モニターが音もなく点灯する。

青白い光。

映し出されたのは、無数の試験管と機材に囲まれたドクターの姿だった。

白衣の老人は、振っていた試験管の手を止める。

「……随分と遠回りじゃのう」

濁った瞳が、モニター越しに細められる。

「重力やら流体やら、あの歳の子どもに座学ばかり仕込んでおる。もっと早くから実践訓練を叩き込んだ方が、効率は良かったのではないのかね?」

沈黙。

オール・フォー・ワンは答えない。

ただ、口元だけが僅かに歪む、愉しむように暗闇の中で静かに笑っていた。

「……ドクター」

低い声が落ちる。

穏やかで、しかし逆らうことを許さない響き。

「君は相変わらず、せっかちだ」

指先が、ソファの肘掛けを軽く叩く。

「君が研究中の例の脳無の試作品なら、それでいい。反射に命令を刻み込み、効率的に敵を殺す。兵器としては実に合理的だ」

小さく肩を竦め「だがね」とそこで声色が変わる。

わずかに、本当にわずかにだけ、熱が混じった。

「彼女に求めているのは、そんな安い消耗品ではない」

ドクターは黙って聞いている。

オール・フォー・ワンの視線が、先ほどまで才子が座っていた椅子へ向けられる。

まだ小さい。

十二歳の少女が使うには、少しだけ大きい椅子。

「信念を持たない力は、ただの暴力だ」

静かな声音。

講義のようですらあった。

「無理やり鍛えれば、いずれ力そのものに飽きる。あるいは——」

僅かな間。

「また誰かを救うためなんてつまらないことに使おうとする」

ドクターの眉が動く。

オール・フォー・ワンは続けた。

「だから私は待っていたのだよ彼女自身が気づく瞬間をね」

ゆっくりと脚を組む。

「重力。流体。運動エネルギー。彼女は学び続けてきた」

声に愉悦が滲む。

「その学びを実行できる唯一の手段が、自分の個性だと理解した時——」

オール・フォー・ワンの笑みが、深くなった。

「彼女は自ら望んで力を研ぎ始める先生、私はこの力をこう使いたい——とね」

ドクターが「洗脳の方が早かろうに」と鼻を鳴らす。

「違うね」

即答だった。

「与えられた意思は脆い」

暗闇の奥で、赤い光が微かに揺れる。

「彼女は素直な頑固者だ、そんな彼女が自分で選んだと思い込んだ意思だけが、最後まで折れない信念になるのだよ」

静寂。

モニターの駆動音だけが響く。

「社会が“天使”と呼んだ少女が」

オール・フォー・ワンは、ゆっくりと呟いた。

「淑女の微笑みを浮かべながら、自らの意思で世界を圧し潰す」

「……その瞬間こそ、美しいとは思わないか?」

ドクターは答えない。

ただ、呆れたように肩を竦めた。

オール・フォー・ワンの笑みは消えない。

「効率などという言葉で、そのための熟成を汚してはいけない……たかだか2年の遠回りなど安いものだよ」

 

翌日23時を回り、屋敷が深い静寂に沈んだ頃。

AFOの書斎に、教育係(黒服)が音もなく入室した。その手元の記録には、才子の第一日目の「自習」の結果が克明に刻まれている。

「……先生。真白才子の初日の様子ですが」

AFOは読書を止め、顔を上げずに応じる。

「聞こうか」

「昼過ぎまで予定通りの座学を。その後、15時から先ほど23時までの8時間。水分補給と最低限の休憩を除き、彼女は一度も個性の行使を止めませんでした」

教育係の声に困惑を超えた戦慄が混じる。

「指示は出しておりません。ですが、彼女は自室に運び込ませたティーカップと、ドクターから借り受けた精密測定器のみを相手に、8時間、寸分も集中を切らさなかった。……部屋からは、数分おきに陶器の割れる音が響いておりました。それも、後半になるにつれ音の間隔が長くなり——」

「——精度が上がった、ということだね」

AFOが言葉を継ぐ。彼はゆっくりと本を閉じ、愉しげに口角を上げた。

「15時から23時……。大人が一日の仕事を終え、安らぎを求めるその時間を、12歳の彼女は『自分を壊し、作り替える時間』に選んだわけだ。しかも、誰に命じられるでもなくね」

AFOは立ち上がり、窓の外の闇を見つめる。

「やはりあの子は面白い。私が誤差を知れと言っただけで、彼女は自分の生活のすべてを、その誤差を埋めるための反復に乗せてしまった」

「先生、あまりに急激な負荷です。精神が焼き切れる懸念もあります。明日のスケジュールを調整すべきでしょうか」

その問いに、AFOは短く、しかし冷徹な否定を投げた。

「いや、必要ない。彼女は今、生まれて初めて『自分だけの武器』を研いでいる悦びに浸っているのだよ。その至福を邪魔してはいけない。

8時間、暗い部屋で一人、陶器が割れる音を聞きながら、彼女は何を思っただろうね? おそらく、あの日自分を拒絶した社会の顔でも思い浮かべていたのではないかな」

AFOはそこで言葉を切り、満足げに喉を鳴らした。

「……だが、本当に素晴らしいのはそこじゃない。彼女はおそらく、割れたティーカップの数だけ自分の未熟さを許せなかったはずだ。 憎しみよりも先に自分への失望。……自分を律し、削り、完璧であろうとするその呪縛(プライド)。それこそが、彼女を最高の淑女へと変えるんだよ…報告は以上かね?それなら下がっていいよ」

 

黒服の教育係が深々と一礼し、音もなく書斎を後にする。

重厚な扉が閉まり、静寂が戻た。

広い書斎には、オール・フォー・ワンだけが残されている。

彼は窓際へ歩み寄ることもなく、ソファへ深く身を預けたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 

八時間。

十二歳の少女が、誰に命じられるでもなく、暗い部屋で、壊れるティーカップの音を聞き続けた。

その光景を想像すると、自然と口元が緩む。

 

「……真白才子、か」

低い呟き。

その名を舌の上で転がすように、ゆっくりと発音する。

 

死柄木弔。

脳裏に、後継者の姿が過ぎった。

乾いた手。

崩壊。

積み重なった憎悪。

社会そのものを拒絶する、剥き出しの破壊衝動。

あれは、炎だ。

怒りと痛みを燃料にして広がる、制御不能の災害。

放っておけば周囲ごと焼き尽くす。

だからこそ、導いてやる必要がある。

壊し方を。

憎み方を。

世界への牙の向け方を。

 

だが——

真白才子は違う。

 

彼女は炎ではない。

むしろ、氷だ。

静かに、

透き通り、

形を保ったまま、

周囲の温度を奪っていく。

 

「弔が壊したいから壊す子どもなら」

独白が、静かに落ちる。

「彼女は、正しく在ろうとした結果として世界を圧し潰す」

そこにあるのは衝動ではない。

理論。

矜持。

自己規律。

 

社会に否定された怒りですら、彼女の中では感情の濁流にならない。

冷却され、沈殿し、透明になるまで濾過されて、そして最後には正当性という形へ変換される。

 

オール・フォー・ワンは喉の奥で微かに笑った。

 

実に、美しい。

 

「憎しみを叫ぶ者など、珍しくもない」

ソファの肘掛けを、指先がゆっくり叩く。

「だが、微笑みを浮かべたまま世界を追い詰める者は、そうはいない」

才子は誰かを虐げることに快楽を見出すタイプではない、むしろ逆だ。

誰より礼儀正しく、誰より洗練され、誰より正しいくあろうとしている。そして素晴らしいことに彼女にはそれを実行できる知性と力がある。

 

「……育て甲斐がある」

小さな呟き。

それは教師の満足にも、蒐集家の陶酔にも似ていた。

 

弔を育てる時間は、荒れ狂う獣へ爪と牙を教える行為に近い。

だが才子は違う。

 

彼女は、自ら檻の構造を学ぶ。

鉄格子の材質を理解し、重心を計算し、最も美しい壊し方を考える。

しかも、自分の意志で。

 

「本当に素晴らしいよ、才子」

 

 

 

闇の中で、羆本の浅ましい本能がうごめいていた。

視界の先、街灯も届かない路地の奥に、一人の女が背を向けて立っている。

銀色の髪が、夜の闇に白く浮き上がって見えた。その華奢な背中、無防備に晒された項(うなじ)を見た瞬間、羆本の脳内にどろりとした下卑な欲望が溢れ出す。

「グ、グヘヘへ……。こんなところで一人かよ、お嬢ちゃん……」

喉の奥で下品な笑いが漏れる。

羆本は巨体を揺らし、獣のような足取りで音もなく歩み寄った。獲物を追い詰める快感に、鼻の穴を広げて荒い息をつく。

あと数歩。

手が届く。

下卑た妄想に口元が歪んでいた、その白い首筋を泥にまみれたこの手で掴み組み伏せて——。

「捕まえたぜッ!」

羆本が弾かれたように飛びかかった、その瞬間。

振り返ったのは、慈悲の欠片もない冷淡な「死」そのものだった。

真白才子の氷のように冷たい瞳が、羆本を正面から射抜いた。

触れる直前、羆本の身体がまるで巨大なトラックに正面衝突されたような衝撃に襲われる。肺の空気が強制的に叩き出され、視界が激しく回転した。

次に彼が背中を打ち付けたのは、アスファルトの上ではなかった。

清潔な、白を基調としたモダンなカフェの床。

場違いなほどの静寂と、微かに漂うコーヒーの香り。

「…………がっ、はっ……」

血の混じった唾を吐き捨て、羆本が顔を上げる。

すぐ目の前の席に、隠身識が座っていた。

彼女は手元のノートパソコンから視線を外すと、這いつくばる羆本を——文字通り床に落ちた汚物を見るような、底冷えする眼差しで見下した。

「……目障りです、もうあなたにようはありません」

それだけ言うと、識は興味を失ったように視線を画面に戻した。

トントン、トントン……。

軽快なキーボードの打鍵音が、羆本の絶望を嘲笑うように鳴り響く。

「ま、待て……! 悪かった、俺が——」

命乞いをしようとした羆本の体が、見えない力によって吊り上げられた。

足が床から離れ、宙に浮く。

もがこうとするが、指一本動かせない。

目の前に、ゆっくりと歩み寄ってくる真白才子の姿があった。

彼女は無言で、まるで壊れた人形の部品を調整するかのような手つきで、指先をわずかに捻る。

「……あ、あがっ、……カッ……!」

首に、凄まじい圧力がかかった。

筋肉が悲鳴を上げ、頸椎が軋む。

頭が、意志とは無関係に、ゆっくりと、確実に——右へと旋回していく。

九十度。

真横を向かされた視界の端で、識が無表情にエンターキーを叩くのが見えた。

百度。

喉が潰れ、呼吸が止まる。

百十度——。

「バキリ」という、自身の骨が断裂する乾いた破壊音が脳髄まで突き抜けた。

「ひ、あ、……ッ!!!」

そこで、羆本は跳ね起きた。

いや、跳ね起きたつもりだったが、実際には首を百十度回された恐怖の余韻で、身体が硬直して動かなかった。

目の前には、夢の中と同じ——白い壁。

耳に届くのは、夢の中と同じ——識が叩くキーボードの音。

そして背後からは、夢の中と同じ——何かを「止めては落とす」超常的な気配。

羆本は脂汗で額をぬらしながら、必死に「寝たふり」を再開した。

首の骨は繋がっている。だが、背後の少女が指一本動かせば、現実の首もあの角度まで容易に回されるのだという事実が、彼の心臓を休みなく叩き続けていた。

(ちきしょう、カタカタうるせぇんだよ!それにんなんだよ!後ろで物が動いてる気配が怖えんだよ!)

 

 

識の顔をノートパソコンの青白いバックライトが照らしていた。

彼女の指先は、羽虫が跳ねるような速度でキーボードを叩き続けてる画面上には、青森から北海道へ渡るためのあらゆる航路、時刻表、そして港湾のセキュリティ情報が、無機質な文字列となって流れていた。

(シルバーフェリー……八戸から苫小牧。最短でも八時間は長すぎる。レディをこれほどの長時間、不安定な洋上に留めておくのはリスクが跳ね上がる)

識の思考は、冷徹な論理の糸を紡いでいく。

次に彼女が呼び出したのは、青森港から函館を結ぶ「津軽海峡フェリー」のデータだった。

(三時間四十分から四時間。拘束時間は半分以下になる。……だが、問題は場所だ)

識は画面上の「個室予約」の項目を見つめ、細い指を止めた。

(身分証の提示)

レディ——真白才子を休ませるための最上級の個室。本来ならば、当然用意すべき空間だ。しかし、彼女の脳内にあるリスクアセスメントの天秤が、激しく揺れていた。

(羆本の方は一人での移動を装わせ、車ごと積み込ませれば、後は個室でも一等でも好きな部屋を取らせてしまえば済む話ね。だが……私の名は、すでに当局に把握されている可能性が高い。ましてや、真白才子の名は論外だ。偽名を使ったとしても、乗船時の身分照会、あるいはその後の足取りを追われるトリガーになりかねない)

潜伏者にとって、予約という行為は自ら足跡を刻むことに等しい。

(……やむを得ない、か)

識が出した結論は、彼女の矜持にとって耐え難いものだった。

予約不要、身分証の提示リスクが最小限で済む、スタンダードクラス。つまり、不特定多数の人間が雑魚寝する「大部屋」への潜伏。

誇り高きレディを、あのような不潔で雑多な場所に紛れ込ませる。それは識にとって、己の無能を突きつけられるような選択だった。

「……チッ」

思わず、小さな舌打ちが漏れた。

自分自身への苛立ち。完璧な手配を整えられない不甲斐なさ。

だが、その微かな音が、そばで寝たフリをしていた羆本の耳に届く

「……っ!?」

寝台で、羆本の肩が僅かに揺れ動いた。

彼はちょうど三十分前、悪夢から跳ね起きたばかりだった。首を百十度回され、骨が砕ける音を聞いた直後の、生きた心地のしない現実。

(な、なんだ!? 今の舌打ちは……! 俺が何かしたか!? 寝たフリがバレてるのか!?それともさっきの夢での醜態を見透かされたのか!?)

羆本は脂汗を流し、掛け布団を僅かにずりあげた。

背中越しに感じるのは、無表情でパソコンを叩き続ける「精密機械」のような識と、その隣で、歪んだペットボトルを虚空に浮かせたまま静止している「死の美少女」の姿だ。

識は羆本の動揺など一瞥もせず、画面上のデータを消去した。

彼女がこの「大部屋潜伏案」を二人に告げるのは、車を発進させるときで良いいい。それまでは、この男に余計な情報を与える必要も、レディの集中を乱す必要もない。

(……不純物は、私がすべて排除すればいいだけの話)

識の瞳が、青白い光の中でより一層鋭く、冷たく研ぎ澄まされていく。

ノートパソコンを閉じるパチンという小さな音が、羆本には断頭台の刃が落ちる音のように響いていた。

 




今回は才子の「異常なまでの精度」がどこから来たのか、その源流を書きました。

次回、津軽海峡を渡ります。
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