善意の剥製   作:タロットゼロ

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青森港への道

朝六時。

青森駅前には、夜明け直後の冷たい空気がまだ薄く滞留していた。

長距離トラックの唸る音、始発を待つ人影、湿ったアスファルトに低く流れる白い排気。

宮城から一度も止まらず走り続けた黒塗りのセダンが、駅前ロータリーの端へ静かに滑り込んだ。

エンジンが落ち、夜を徹した長距離移動の重い疲労と、それ以上に冷え切った沈黙が車内を包み込む。

ドアが静かに開いた。

先に降り立ったのは個性デッドスポットを発動させた隠身識だった。黒いロングコートの裾を乱すことなく地面へ降り立つと、周囲の「人流」「監視カメラ」「駅入口」を数秒で巡回するように一瞥する。

問題なし。

そう判断した彼女が車内へ視線を戻すと、後部座席から真白才子が音もなく外へと降り立った。

五月の北国の朝気は、まだ肌を刺すように冷たい。

才子は周囲の視線を警戒するように黒髪のウィッグを軽く押さえ、それから、自分の脚元へと視線を落とした。

纏っているダークネイビーのパンツスーツは一目でそれと分かる仕立ての良い上質なものだったが、さすがに一晩中狭い座席に座りっぱなしだったダメージは隠せない。腿の周りや膝裏のあたりに、わずかなシワが寄ってしまっていた。

才子は無言のまま、細い指先でスラックスの生地をなぞり、そのシワを一本ずつ丁寧に伸ばし始めた。

乱れた輪郭を、本来あるべき形へと戻していく。それは彼女にとって単なる身だしなみというより、自身を再構築するための儀式のようでもあった。

識はそれを邪魔することなく、当然のように傍らで待つ。

才子は手元を見ずとも、すべてを見聞きしていた。

自分のすぐ隣で、識がショルダーバッグから財布を取り出し、中からピンと張った一万円札を三枚引き抜く一連の動作を。だが、才子がその手元へ視線を向けることはない。彼女にとって衣服を完璧に整えることは、目の前の下っ端を躾けることよりも遥かに優先されるべきタスクだった。

運転席から這い出るように降りてきた羆本は、充血した目をこすりながら、識の手元へ卑屈に手を伸ばした。

「……あ、……うす」

だが、羆本の指先が紙幣に触れる直前。

識は差し出した手を、自身の胸元へと躊躇なく引き戻した。

まるで、お預けを食らわせる犬の調教師のように、無機質な眼鏡の奥の瞳で羆本を見下ろす。

「どの船に、何時の便に乗るのかを言ってみなさい」

声音には微塵の温度もない。

羆本の手が、宙で不格好に止まる。

(俺は幼稚園児か何かか!? バカにすんのも大概にしろってんだよ!)

脳裏に湧き上がった猛烈なうんざり感が、羆本の引きつった表情にわずかばかり漏れ出た。

(だが、ここで少しでも態度に出せば、アイツが動く――)

 

隠身識の直ぐ近くからはスラックスの擦れる微かな音と共にいつでも自分の首をねじ切れる怪物の気配が漂っている。

その瞬間、羆本の脳裏に悪夢が鮮烈に蘇った。

百十度に回される視界、軋む首の音、そして生々しい破壊音――。

じわりと背中に嫌な脂汗が滲み、逆らう意志など一瞬で霧散する。羆本は乾いた喉を鳴らし、歪な笑みを張り付かせたまま、掠れた声を絞り出した。

「……青函フェリー、八時十分発、です」

数秒、識は暗証番号の入力確認でもするように羆本の顔を見つめていたが、やがて突き放すように札を差し出した。

「乗り損なうことは絶対に許されませんよ」

識にそう言い渡されると、羆本は返事もそこそこに紙幣を掴み取った。

「……わ、分かってますって」

掠れた声でそれだけ告げると、二人の視線から逃れるように、挨拶の一つもなしに大急ぎで運転席へと戻っていく。

ガチャリと乱暴にドアが閉まり、次の瞬間には、黒塗りのセダンがロータリーを弾かれるように発車していった。湿った朝靄を引き裂き、赤いテールランプが遠ざかっていく。

その無様な背を見送りながら、識の口から「チッ」と小さく鋭い舌打ちが漏れた。

怒る価値すらない相手に向ける、機械的な不快感。指示への理解は遅く、礼節も欠けている。管理対象としてあまりにも質が悪い。

「会釈の一つも出来ないとは。」

吐き捨てるような声音は、まるで部品の精度不足を確認した技術者のようだった。不作法な駒を才子の前に晒し続けたことへの、彼女なりの不快感の表明でもある。

一方で、才子は小さくため息を漏らした。

白く細い吐息が、北国の朝気へ溶けていく。

「……ふぅ。最低限の礼節すら期待するべきではありませんでしたわね」

どこまでも冷ややかで、退屈そうな声。そこには侮蔑はあっても、激情はない。粗野な羽虫へ腹を立てること自体、彼女たちにとってはあまりに無意味なことだった。羆本という存在は、怒りを向ける対象ですらなく、ただ工程上、一時的に必要だった不純物に過ぎないのだから。

静かに佇む才子の指先が、スラックスの最後のシワを伸ばし終える。

シワは、もうどこにも残っていない。

街に溶けるための退屈な衣服と黒髪をまとってなお、彼女の佇まいは冷徹な美しさと、圧倒的な支配者の格を完璧に保っていた。

 

 

「レディ」

才子が視線だけで応じる。

「港までの移動ですが、タクシーやバスの使用は避けるべきかと」

識の声は淡々としていた。

「不特定多数の車内カメラに顔が残ります。たとえ『デッドスポット』の隙間を突いたとしても、不要な痕跡が残るリスクはゼロにできません。時間はかかりますが、フェリーターミナルまでは徒歩での移動を提案いたします」

才子はすぐには答えない。

整え終えたスラックスの膝へ軽く指先を滑らせながら、数秒だけ思考する。

「……時間は大丈夫なの?」

確認は、それだけだった。

焦りも、不安もない。純粋な工程の確認。

識は即答する。

「問題ありません。八時十分の便に対し、現在は六時過ぎ。徒歩での所要時間を差し引いても、乗船手続きの開始には十分に間に合います」

一秒の淀みもない返答。脳内で距離、現在時刻、港までの導線、人流を秒単位で計算し尽くしているからこその速度だった。

才子は小さく頷いた。

「そう。なら——」

黒髪のウィッグを軽く手ぐしで整え、白い息を静かに吐く。

「良いわ。歩きましょう」

識が一礼する。

「はい、レディ」

二人は並んで歩き出した。

始発前の青森駅前。

観光客にも、通勤者にも紛れるような、街に溶けるための地味な装い。

だが、その歩調だけは異様なほど静かで、乱れがない。

シワ一つないパンツスーツを揺らす才子と、その半歩後ろを行く識。冷たい朝靄の中、湿ったアスファルトを踏む音すら完璧に揃っていた。

まぜ最初から、そう設計されていたかのように。

二人の黒い影は静かに駅前ロータリーを離れ、青森港へと向かって歩を進め始めた。

 

 

 

 

 

 

 

――バリンッ!!!

鼓膜を鋭く引き裂くような、狂おしいほど甲高い破裂音が、ビルとビルの狭い空間に炸裂した。

私≒銭高算(ぜにたかさん)の見上げた視界の先。頭上のビルの窓ガラスが、内側からの凄まじい衝撃によって一斉に粉砕されていた。朝のわずかな光を浴びて、無数のガラスの破片がキラキラと美しく輝く。それはまるで、冷酷な光のシャワーのようだった。

重力に従い、圧倒的な質量となって、私の顔面へと降り注いでくる。

(――なぜだ?)

頬を伝う鏡花の返り血の熱さを感じながら、私の脳内の電卓は、粉々に砕け散りつつも、狂ったようにエラーの文字を点滅させていた。

(なぜ、こんなことになっている? どこで計算を間違えた? 誰のせいでこの完璧な数式がバグを起こしたんだ?)

視界の端では、仰向けに倒れた鏡花が、肉の塊となって血溜まりに倒れている。遥か後方では、薫の喉から噴き上がる真っ赤な噴水が、今なおコンクリートの壁を汚し続けている。

そして目の前には、相変わらず表情一つ動かさず、私をゴミのように見下している二人の眼鏡の女性。

私は完璧だった。私たちのシステムは無敵だった。

どんなにガードの固い女だろうが、私たちの個性を組み合わせれば、いくらでも金を吐き出す都合のいい装置に変えられたはずなのだ。人生も、女も、文字通りチョロいものだと、昨夜確認したばかりだったのに。

(そうだ、一ヶ月前だって……あの女の時だって、私は一文字の狂いもなく全てをコントロールしていたはずだ――)

網膜に突き刺さるガラスの輝きが、引き延ばされた時間の中でゆっくりと反転していく。

私の意識は、破滅の光のシャワーに呑まれながら、僅か5分前すべての始まりである、眼鏡の女達を見つけた時へと巻き戻っていた。

 

夜の街の残り香を払うような冷たい朝の空気が、青森駅前のコンクリートを白く染めていた。

午前六時過ぎ。人通りのまばらな駅前広場を、徹夜明けとは思えない軽い足取りで歩く三人の男がいた。

彼らの胸を満たしているのは、万能感という名の極上の毒だ。

「――いや、本当に傑作でしたね」

私は、スマホの電卓アプリの画面を冷徹に眺めながら、目を細めた。画面に表示されているのは、昨夜、彼らがホストとして初出勤した店で叩き出した売上の数字。店始まって以来の過去最高記録。

「鏡花がファーストコンタクトで釣り、薫が引き留め、私が数字に変える。私の計算に狂いなどない。高校の時から何も変わらない。人生も女も、文字通りチョロいものですよ」

一ヶ月前、高校を卒業したばかりの彼らの最初の獲物は、担任だった二十代後半の女教師だった。

鏡花こと面影眩(おもかげげん)の『理想投影』で「運命の教え子」を演じ、薫こと吸込馨(すいこみかおる)の『依存香』で理性を溶かし、そして私、連の『罪悪勘定』で「あなたのために教師を辞めてもいい」とまで言わせる仕込みを行う。貯金から退職金まで、彼女の人生を綺麗に毟り取って使い潰すのに、一ヶ月もかからなかった。

おもちゃを壊した後の次の遊び場として、夜の世界を選んだのは当然の帰結だった。

「だろ? 俺の顔と声がありゃ、どんな女だって一瞬で財布の紐を緩めるんだよ。あのセンセーだって、俺がちょっと甘えただけで顔を真っ赤にして金を引っ張ってきたしな」

センターを張る鏡花が、仕立ての悪いホストクラブのスーツの襟を直しながら、自惚れに満ちた笑みを浮かべる。内心では(俺のツラがなきゃ1円も稼げない癖に)と他の二人を見下しながら。

「……鏡花の顔に飽きても、僕の匂いがあれば女は絶対に逃げられない。センセーが最後、泣きながら僕の服に縋り付いてきたみたいにね」

薫が静かに呼気を吐き出す。彼もまた、内心では(鏡花はただの客寄せパンダ、蓮はただの集金係、僕が全員を繋ぎ止めている真のリーダーだ)と冷めきった優越感を抱いていた。

全員が全員を「自分の引き立て役」と見下し合いながら、それでいて完璧に噛み合うゲスな黄金ルート。

今夜の売上はその証明だった。女なんて、俺たちに貢いで股を開く穴に過ぎない。

「さて、地元行きの電車が来るまでまだ時間があります。少し朝飯でも――」

私がそう言いかけた時だった。

青森駅の敷地方向から連れ立って歩いてくる、二人の女性の姿が視界に入った。

私の脳内の電卓が、火花を散らすように回転を始める。

女を効率よくカモにするため、彼女たちの着ている衣服や持ち物、その「見栄」と「財力」を見極めるアンテナを極限まで尖らせてきた私だ。一目見ただけで、その二人がそこらの有象無象とは次元が違う「極上品」であることが理解できた。

一人は、一見すると普通のビジネススーツに見える、パンツタイプのセットアップを着た二十歳前後の女だだが、仕立ての良さが素人目にも一線を画している。身体のラインに完璧に沿ったそのシルエットは、明らかに高額なオーダーメイド。丸い黒縁のメガネが、彼女の表情をどこか柔らかく、隙のあるものに感じさせている。

もう一人は、同じく仕立ての良いスカートタイプのスーツに、上質な黒いロングコートを羽織った、黒縁メガネより少し年上に見える女。縁無しのメガネの奥にある瞳は極めて知的で、一歩引いた佇まいからも、社会的な地位のある「仕事のできる強者」の気配がビンビンと伝わってきた。

「おい、見ろよ……」

薫が声を潜め、鼻をピクリと動かす。

「あのスーツ、ガチなやつ。若いくせに相当いいもん着てる。金持ってそうだな」

「持っているどころの話ではありませんね。あのコートの生地、質感……一級品です。お堅い職業のキャリアウーマンか、あるいはどこかの令嬢か。何にせよ、貯えは腐るほどあるでしょう。あの手の理性的でガードの固そうな女ほど、一度タガが外れれば全財産を投げ打って狂う。私の大好物です」

鏡花が不敵に口元を歪め、髪をかき上げた。彼の脳内ではすでに、あの二人の女が自分を見た瞬間、それぞれの「人生で最も理想とする王子様」の姿を投影して頬を染める光景が完成している。

「初日の売上だけじゃ満足できねぇな。朝帰りのご褒美に、最高の太客、釣っていこうや」

「ええ、行きましょう」

私は内心で二人を嘲笑しながら、同時に前方の女性たちへのアプローチを開始する。

「女なんて、どんなに賢ぶっていても私たちの前ではただの穴。あのプライド高そうなツラが、私たちなしでは生きられないと泣き叫ぶまで、徹底的に毟り取ってやりましょう」

一ヶ月前の女教師と同じように、いや、それ以上に無残にしゃぶり尽くす算段を立てながら、三人のホストは確信に満ちた足取りで、二人の女性の進路を塞ぐように歩みを進めた。

自分たちが近づいているものが、人間の情緒を一切持たない絶対的な合理の怪物であり、触れた瞬間に命をねじ切られる死神の鎌であることなど、その時の彼らの思考には、一文字も打ち込まれていなかった。

「お姉さんたち、こんな朝早くにどこ行くの? 良ければこの後、俺たちと少しお茶でもしていかない?」

面影が極上の笑みを浮かべ、甘く、それでいて自信に満ちた声で語りかけた。彼の『理想投影』はすでに発動している。彼女たちの目には、今頃自分たちの脳が弾き出した「最高に理想の王子様」が映っているはずだった。

だが、二人の反応は、驚くほど薄かった。

黒縁メガネも縁無し眼鏡も、足を止めはした。しかし、その瞳には驚きも、ときめきも、頬を染めるような動揺も一切ない。ただ、路傍に転がる石ころでも見るかのような、あまりにも平坦で無機質な視線がこちらへ向けられただけだった。

(おや……響きませんね)

その様子を半歩後ろから観察していた私の脳裏に、懐かしい記憶が不意にフラッシュバックした。

高校二年の時、私が単独で堕とした、ある企業の「課長職の女」だ。

あの女も、今の二人と同じような目をしていた。若くて顔が良いだけの外面には1ミリもなびかない、お堅くてプライドの高いタイプ。鏡花の『理想投影』による「完璧なビジュアル」だけでは、こういう女が本能的に張っている頑丈な警戒心の壁を、初見の一発でぶち抜くことは難しい。

私は視線をわずかに動かし、薫の後頭部を忌々しげに睨みつけた。

(それに、これだから屋外は嫌いなんですよ。風が流れる開けた場所では、薫の『依存香』の成分が薄まって効果が著しく落ちる。……チッ、本当に使えないな、コイツらは。結局、私が手を回さなければ何もできやしない)

内心で二人の取り巻きを辛辣に切り捨てながら、私の脳裏には、あの課長職の女の悲惨な末路が一瞬だけよぎる。

外面が効かないあの女に対し、私は徹底的に内面の仕込みを行った。孤独に寄り添い、理解者を演じ、私の『罪悪勘定』をじわじわと発動させたのだ。結果、彼女は私に尽くしたい一心で、会社の資金――数千万円もの大金を使い込ませて貢ぐようになり、最後はすべてを失って破滅した。

思い返しても、胸に湧くのは罪悪感ではなく、ただの機能的な成功体験としての満足感だけだ。あのバカな女のおかげで、私のシステムはさらに洗練されたのだから。

(鏡花の顔が効かず、薫の匂いも役に立たないお堅いキャリアウーマン……素晴らしい。最初から私の出番というわけですか)

そんな過去の犠牲者のことなど、これっぽっちも気に留めることなく、私はむしろ極上の獲物を前にして、ぞくぞくとするような愉悦を感じていた。こういう理性の塊のような女ほど、私の計算通りに心の隙間を埋めてやれば、一番派手に壊れて、一番大きな金を運んでくる。

「すみません、うちの鏡花が朝から不躾に。ナンパだと思って警戒させてしまいましたよね」

私は鏡花たちの前に滑り出るように一歩、足を踏み出した。

営業用の、知的で、誠実そうで、どこか母性本能をくすぐるような「完璧に計算された笑顔」を貼り付けて。

この二人の女のプライドを、内側からじわじわと腐らせて搾り取るためのアプローチを、私は迷いなく開始した。

 

「ナンパだなんて、滅相もない。ただ、こんなに素敵な方々が朝早くからお忙しそうにされていたので、少しでもお力になれればと思っただけですよ。温かいコーヒーの一杯でもいかがですか?」

私が慇懃な笑みを浮かべ、彼女たちの歩調に合わせるように横へ並ぶ。

だが、二人の女性は視線すらこちらに固定することなく、淡々と、等間隔の歩幅で前へ進み続けた。まるで、目の前を遮る風を避けるかのような、徹底した自然体。

私の完璧な営業トークを前にしても、黒縁メガネの女は表情一つ動かさずに口を開いた。

「遠慮させていただきます」

低くも高くもない、極めて平坦な声。そこには怒りも、怯えも、拒絶の不快感すらない。ただ、不要なダイレクトメールをゴミ箱に捨てるかのような、乾いた事務処理の響きだった。

すかさず、隣を歩く縁無しメガネのロングコートの女が、私の顔を1ミリも見ないまま、淡々とすれ違いざまに言葉を補足する。

「これから北海道行きのフェリーに乗る受付にいかねばならないので。道をあけてください」

その冷徹な言葉を聞いた瞬間、私たちの脳内には、別のスイッチが小気味よく入った。

(北海道行きのフェリー……受付? なるほど、ここからフェリーターミナルまで行くつもりですか)

私の頭の中で、即座に青森駅周辺の地図と、ターミナルまでの距離が弾き出される。歩くにはそれなりの距離がある。つまり、彼女たちは今、移動の手段を持たずに徒歩で向かっているということだ。

付け入る隙が見えた。その瞬間、私たちは獲物を逃すまいと、三者三様に言葉を畳みかけた。

「えっ、フェリーターミナルまで歩きなんですか? ここからだと結構ありますよ」

私が親身な風を装って声を大にすると、すかさず鏡花が前に回り込み、彼女たちの進行方向を遮るようにして、格好をつけて前髪をかき上げた。

「だったら、少しだけでいいから俺たちに付き合ってくださいよ。フェリーの時間まで、まだ余裕あるでしょ?」

『理想投影』の出力を上げ、衣服の隙間から覗く彼女たちの白い肌に視線を這わせながら、鏡花がにやけた笑みを浮かべる。

さらに、これまで黙っていた薫が、自身の『依存香』を最も吸い込ませやすい距離へと、音もなくすっと二人の背後へ滑り込んだ。朝の風の中でも、確実に二人の鼻腔に届くよう、微量の快楽物質を孕んだ息を吐き出しながら、甘く囁く。

「……ねえ、フェリー乗り場まで、僕たちがタクシー代出しますから。ね?」

歩き。フェリー。金。

彼女たちが提示した断る理由に対して、私たちが高校時代から何十回と繰り返してきた「断る必要を打ち消す黄金のハメ技」の包囲網が、朝の駅前広場で静かに、しかし確実に二人の女性を囲い込んでいく。

金を出すと言われれば、普通の女なら一瞬は躊躇うか、あるいは「悪いから」とこちらの話を聞く姿勢になる。そこへ鏡花の顔と薫の匂いを叩き込めば、どれほどお堅いキャリアウーマンだろうが、フェリーに乗る頃には私たちの完全なカモに変貌しているはずだった。

「ほら、そこのロータリーにすぐタクシー呼びますから。男に財布を出させるのも、女の特権ですよ?」

私が再び、逃げ道を塞ぐように優しい声をかける。

すべては計算通り。すべては私たちの手のひらの上。

二人の女性の足が、ついにピタリと止まった。

黒縁メガネと縁無しメガネ。二つのレンズの奥にある瞳が、ゆっくりと、こちらの3人の首元へと向けられる。

それが、自分たちの浅薄な計算など遠く及ばない、絶対的な死線への秒読み(カウントダウン)が始まった合図だとは、この時の私たちはまだ、微塵も気づいていなかった。

 

「ほら、お姉さんたち。寒いでしょ? 立ち話もなんだし、すぐそこにタクシー呼ぶからさ」

鏡花がなおも距離を詰め、甘い声をかける。薫もまた、彼女たちの排気口にでもなるかのように、じわりと『依存香』を孕んだ息を重ねていた。

二人の女性は、私たちの呼びかけに立ち止まることはしなかった。

ただ、縁無しメガネが流れるような自然な足取りで、大通りから一本外れたビルとビルの間の狭い路地裏へと、何気なく進路を変えた。

夜の闇がまだ色濃く残る、街灯の光すら届かない薄暗い隙間。

黒縁メガネもまた、まるでそれが当然のルートであるかのようにその後に続く。

普通であれば、朝の六時過ぎに初対面の男たちに絡まれて、自ら人気のない路地裏へ入っていくなど異常な行動だ。警戒心の強い女なら、なおさら大通りに留まろうとする。

だが、今の私たちは、自分たちの成功体験と完璧なシステムへの全能感に完全に脳が支配されていた。

(ふむ、大通りを外れましたか。フェリーターミナルへの近道だと思っているのか、それとも私たちの追及を物理的にかわすつもりなのか……。どちらにせよ、浅はかですね)

私は、彼女たちの背中を追いながら、脳内でソロバンを弾くことに夢中だった。

周囲が急に静まり返り、コンクリートの壁に囲まれた不気味な空間に変わったことなど、私の洗練された思考にとっては、考慮に値しないノイズでしかなかった。むしろ、人目がなくなるのは好都合だ。大通りの通行人の目を気にせず、より強引に罪悪勘定の仕込みができる。

「ちょっとお姉さん、無視すんなって! 待ってよ」

鏡花もまた、自分の顔(理想投影)が効かない焦りと、それを上回る絶対に落としてみせるというホスト初日のプライドの昂ぶりに突き動かされ、路地裏の奥へとずんずん足を踏み入れていく。視界にあるのは女の背中だけ。周囲の景色の変化など、彼の、いや、私達の目には映っていなかった。

「……ねえ、僕たちの話、聞いてよ。そんなに冷たくされると、悲しいな……」

薫も同様だった。開けた場所から遮蔽物の多い路地裏に入ったことで、自分の『依存香』の濃度が上がり、より確実に彼女たちの脳を狂わせられる環境が整ったと、内面で見下すような歓喜に浸っている。風の止まった密室のような空間。ここなら薫の独壇場だろう。

三者三様に、カモをハメるためのトークと個性の出力に意識のすべてを注ぎ込んでいた。

自分たちが、自らの足で世界の認識から隔離された、一切の法律もヒーローの目も届かない死角へ歩みを進めていることなど、一ミリも気にとめることなく。

路地裏のどん詰まり。古びた非常階段の影で、二人の女性の足が、ついに完全に止まった。

振り返る二人のメガネの奥。

先ほどまであった事務的な平坦さすら消え失せた無表情だった、だが私はそんな表情の変化にすら気づけていなかった私は完璧な包囲網の完成を確信し、利の笑みを浮かべていたその瞬間。それが、私たちの贅沢な人生の最終ページだった。

 

二人の女性は、私たちの詰め寄りを受け流していた。縁無し眼鏡が軽く、本当に軽く、酸素が惜しいとでも言いたげに「はぁ」とため息をつくと優雅な動作で肩にかけていたショルダーバッグのジッパーを無造帯に開けると、無造作にその中から帯封のついた一万円札の束――百万円分を掴み出し、コンクリートの地面へとポイと投げ捨てた。

乾いた音がして、札束が地面の上で跳ねる。

「これで満足でしょ? そろそろやめてほしいんですけど」

その言葉は、まるで「狂犬に餌を投げて追い払う」ような響きだった。金銭の重みなど端から眼中にない、圧倒的な冷淡さ。

だが、この瞬間、私は成功を確信した。

 

「……は? なんですか、これ」

地面に転がった百万円の帯封を見下ろして、私はわざとらしく吐き捨てるように言った。鏡花が横で傷ついたような顔で唇を噛み、女達の背後に回った薫が彼女たちの首筋にまとわりつくような吐息を放つ。

私は足元の札束を少しだけ蹴り、わざとらしく、しかし心の底から憤っているかのように語気を荒げた。

「私たちは決して金目当てで話しかけてるんじゃないんです!!」

路地裏のコンクリート壁が、私の叫びを反響させる。

「ただ……あなたたちと、ほんの少しだけでも、同じ時間を過ごしたいと思っただけなんです。それなのに、私たちがそんな卑しい奴らだと思ったのですか!!」

私の言葉には、一見すると純粋な悲憤が宿っているように聞こえるはずだ。

『私は清廉潔白な人間だ。そんな私が、あなたのような高潔な女性に、金銭欲のために詰め寄るはずがない。あなたは私の純粋な好意を、あろうことか金という汚れで踏みつけた』

そう、相手の良心に刺さる「理不尽な罪悪感」を植え付けることこそが、私の個性の真骨頂だ。

自分が加害者だと信じ込ませ、相手に謝罪させ、最終的に私を救済者として崇めさせる。

「あなたのその高慢で傲慢な態度が、どれだけ私たちを傷つけたか……分かりますか?」

私は一歩、また一歩と距離を詰める。鏡花も私の意図を即座に理解し、涙を溜めたような瞳で黒縁メガネを射抜いてにじり寄っていく。

「俺はただ、貴女の瞳が綺麗だと思っただけなんだ、なのにどうしてそんな風に人をゴミみたいに扱えるんだ?」

鏡花の『理想投影』が、黒縁メガネの脳内で「傷ついた天使のような男」の像を増幅させてるはずだ。そこに薫の濃厚な『依存香』が、彼女たちの理性の防壁を溶かしていく。

(そう、その顔です。罪悪感に押し潰されそうになり、混乱し、私の言葉を必死で反芻している……。完璧です。もうすぐ、この理知的な仮面が崩れ落ちる)

彼女たちの顔には、わずかな動揺が滲み出ていた。

私は確信していた。……いや、そう“勘違い”していたのだ。

彼女たちの瞳に浮かんでいたのは、罪悪感などという生温いものではない。混じりっけなしの、心底からの嫌悪感だったというのに。

「……そうですか」

その声には、怒りも哀れみもない。冷徹な評価が響いていた。

「……貴方たちは『私達と時間を共有したい』のですね」

縁無し眼鏡の指先が、バッグの中に再び入った次の瞬間、

縁無し眼鏡のバッグから引き抜かれたのは、鈍い銀色を放つ、抜き身の果物ナイフだった。

抜く、突く。その二つの動作の間に、時間の概念が存在しなかった。

「が、」

短い肉声が女の後ろから漏れた。気がつけば、薫の喉を、その果物ナイフの刃が根元まで深く刺し貫いていた。だが惨状はそれだけでは終わらない。喉を貫かれたはずの薫の身体が、まるで目に見えない巨大な大砲で撃たれたかのように、不自然な加速で遥か後方へと吹き飛んでいった。

何が起きた。何をした。

私の思考が処理を終える前に、今度は視界の端で強烈な「光」が走った。

「――あ」

隣にいた鏡花が、間の抜けた声を漏らす。

彼の美しい喉が、真横切り裂かれていた。肉が裂け、気管が断たれる嫌な音が路路裏に響く。

だが、異常なのはそこからだった。鏡花の身体は倒れず、まるで誰かに無理やり固定されたかのように、その場を軸にし急速に九十度回転した。

向きを変えた鏡花の首の傷口から、圧縮された高圧の血が、凄まじい勢いで噴き出す。

「ひ、っ……!」

温かい、鉄の臭いのする液体が、私の顔へ、服へ、全身へと容赦なく降り注いだ。

視界が赤く染まる。鏡花の血だ。鏡花の血が、私の身体を汚していく。

思考が完全に停止している中、薫が吹き飛んだ後方へと視線を向けた。

路地裏のどん詰まり。ゴミ箱の脇で、薫は仰向けに倒れていた。

その喉からは、まるで壊れたスプリンクラーのように、真っ赤な血が天に向かって高く、高く、噴水のように噴き上がっている。

「あ、え、」

声が出ない。

鏡花の体が、私の目の前で崩れ落ちる。薫の血の噴水が、朝の薄暗い路地裏を地獄の絵の具で満たしていく。

私たちの個性は? 理想は? 依存は? 罪悪感は?

すべてが、最初から存在しなかったかのように、一瞬で、跡形もなく、ただの物理的な質量として蹂躙されていた。

血塗れになった私を、二人の眼鏡のレンズが、相変わらず等間隔の距離から冷たく見下ろしていた。

 

「あ、あ、え……」

喉の奥から、乾いた掠れ声しか出てこない。

顔にかかった鏡花の血が、目元を伝って視界を赤く歪ませていく。

つい数十秒前まで、私の脳内には「完璧な成り上がりの方程式」が存在していた。女教師を壊し、ホストクラブの頂点に立ち、この目の前の二人すらも毟り取るはずだった完璧な人生設計。それが今、ただのゴミクズのように踏み砕かれ、路地裏の泥の中に散らばっている。

なぜ、薫が死んでいる。なぜ、鏡花の首が裂かれている。

理解を拒む脳のまま、私は全身をガタガタと震わせ、血溜まりの上に立ち尽くしていた。ただ呆然と、目の前の異常を見つめることしかできない。

そんな私に対し、黒縁メガネが、ゆっくりと片手を持ち上げた。

彼女の仕立ての良いオーダーメイドの袖口から、白く細い指先が、スッと天を指し示す。

「上、気をつけた方がいいわよ」

あまりにも日常的な、明日の天気でも教えるかのような、柔らかく平坦な声だった。

上――?

言われるがままに、私は首を上へと向けた。

それが、私の人生における、最後の能動的な動作となった。

直後。

――バリンッ!!!

鼓膜を鋭く引き裂くような、狂おしいほど甲高い破裂音が、ビルとビルの狭い空間に炸裂した。

見上げた視界の先。頭上のビルの窓ガラスが、内側からの凄まじい衝撃によって、一斉に、文字通り粉々に粉砕されていた。

朝のわずかな光を浴びて、無数のガラスの破片がキラキラと美しく輝く。それはまるで、冷酷な光のシャワーのようだった。

重力に従い、圧倒的な質量となって私の顔面へと降り注いでくる。

美しく、残酷な、光の弾丸。

それが、すべてを計算で支配した気になっていた銭高算の、生涯で最後に目にした光景だった。

 

路地裏には、まだ生温かい血の臭いが濃く滞留していた。

砕けたガラス片が朝の光を反射し、まるで氷の粒のようにコンクリートへ散らばっている。

その中心で、隠身識は静かにしゃがみ込んだ。

呼吸一つ乱さない。つい先ほど三人の人間が絶命したとは思えないほど、動作には日常的な滑らかさしか存在していなかった。

黒いショルダーバッグの口を開く。

中から取り出したのは、先ほど薫の喉を貫いた果物ナイフの鞘だった。識はそれを二本の指で摘まみ、血溜まりの上へ無造作に放る。軽い音を立てて、鞘が転がった。

続いて、ナイフ本体へ視線を落とす。

白いハンカチを取り出し、握り部分を丁寧に拭う。指紋、皮脂、繊維。そうした不要な情報を消去していく。

やがて識は、絶命している銭高算の右手を掴んだ。まだ僅かに温度の残る指先をナイフの握りへ静かに押し当てる。

親指、人差し指、中指。

金で揉めた末に、算が仲間を刺したという事実を構築し、そのナイフすらも路地の奥、血溜まりの中へ投げ捨てた。カラン、と乾いた音が響く。

才子は何も言わない。ただ、白い吐息を薄く漏らしながら、その作業を静かに見下ろしていた。

識は次に、地面へ散らばった百万円の帯封へ視線を移す。

しゃがみ込み、札束を一つ掴むと、帯を外した。そして、その中から数十枚ほどを抜き取り、路地裏へ雑にばら撒く。一万円札が、血とガラス片の間を滑って散らばっていく。まるで、醜く奪い合われた痕跡のように。

「金の分配で揉めたようです」

識が淡々と報告する。

「凶器にはこの男のの指紋。現場状況と負傷位置から見ても、仲間割れからの殺傷と判断される可能性が高いかと。そして、最後の一名は上階からのガラス落下による不運な事故死。通報側もその認識になるでしょう」

足元で、鏡花の血がゆっくり広がっていく。薫の喉から溢れた赤黒い液体が、排水溝へ流れ込む。

識は周囲を一瞥した。「監視カメラ」「人流」「進入経路」「退避経路」。すべてを確認し終えた上で、静かに立ち上がる。

「最低限の整合性があればいいわ」

才子は散乱する札束を見下ろし、小さく息を吐いた。

「……随分と安い末路ですこと」

価値のないものへ向ける、純粋な事実確認。

識が静かに頷く。

「ええ。自分たちを“賢い側”だと思い込んだ人間ほど、最後は単純な欲で崩壊します。警察も面倒な深追いはしないでしょう」

そこまで言ってから、識は足元の血溜まりを避けるように半歩下がった。ロングコートの裾は、一滴たりとも汚れていない。

才子は返事をしなかった。代わりに黒髪のウィッグを軽く整え、そのまま踵を返す。

識もまた、何事もなかったかのように半歩後ろへ戻った。

二人は血臭の満ちた路地裏をあとにする。

背後には、砕けたガラス。散乱した札束。三人分の死体。

だけが残された

 

路地裏を抜ける直前。

遠くでは始発列車のブレーキ音が鳴り、青森駅前の人流の気配が、ゆっくりとこちらへ戻ってきていた。

隠身識は歩調を崩さない。黒いロングコートの裾を揺らしながら、先ほどまで血と硝子片に満ちていた空間など最初から存在しなかったかのように、淡々と出口へ向かって歩いていく。

その半歩後ろ、真白才子もまた乱れ一つない足取りで続いていた。ダークネイビーのパンツスーツには、血飛沫の痕跡すら残っていない。

だが、その横顔だけが、ほんのわずかに思考へ沈んでいた。

才子はふと足を止め、自分の掌を一度だけ見下ろす。そこには、何も付着していない。何の震えも、何の後悔も。

「……識」

「はい、レディ」

「初めて、一般人を手に掛けたけれど——思ったより、なんてことはないものなのね」

声音に酔いも怯えもない。ただ、朝食のメニューが予想通りだったと口にするような、自身の内面を確認するだけの淡々とした感想。

識は眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげ、即座に答える。

「レディ。あの男たちは、一般人である以前に、レディの進行を妨げる害虫です。当然の感想かと」

一切の感情を挟まない、事実確認を述べるだけの機械的な肯定。主の歩みを阻む不純物が排除されるのは、世界の物理法則と同じくらい当然のことであり、そこに心を痛める必要など爪垢ほどもないのだ。

駅前通りの光が、黒髪のウィッグ越しに才子の横顔を淡く照らした。その瞳には、先ほどホストの男が必死に引き出そうとした罪悪感の破片など、やはりどこにも存在していなかった。あるのはただ、不要物を処理した後のような静かな空白だけ。

「……そう。そうね」

才子は小さく頷き、前を向いた。

「行きましょう。船の受付時間時間に遅れてはいけないわ」

「御意のままに、レディ」

識が静かに自身の個性『デッドスポット』を発動させる。周囲の空間に対して二人の存在感が消え去り、街のノイズへと変換していく。

二人はそのまま本通りへ出た。

三分後には、通勤客と観光客の流れの中へと完全に溶け込み、先ほどまであの薄暗い路地裏で三人の人生が無造作に終わったことなど、通り過ぎる誰一人として知る由もなかった。

『デッドスポット』の効果が切れたあとも、周囲を行き交う人々は、隣を通り過ぎる二人がつい数分前に路地裏を血の海に変えてきたばかりの存在だとは夢にも思っていない。

始発のバスが遠くで唸り、白々しい朝の空気の中でコンビニの看板がぼんやりと光っている。先ほどまで血と破壊音に満ちていた空間とは、まるで別世界だった。

二人は変わらぬ歩調で、その日常の境界を越えていく。その靴裏には、もう血痕一つ残っていなかった。

カツ、カツ、と湿ったアスファルトを叩く才子の足音が、ふと速度を落とした。

視線の先には、朝の光を反射する「オーソン」の青い看板。

才子は小さく息を吐き出し、隣を歩く識へと視線を向けた。

「識……少し喉が渇いたわ。何か一杯、飲めないかしら」

その声音には、先ほどの凄惨な光景の余韻など微塵も残っていなかった。お気に入りのハンカチを汚した時の不快感すらなく、ただ、乾燥した北国の朝気に晒された粘膜が、純粋な生理現象として水分を欲しているだけ。

識は即座に周囲の監視カメラや人流を確認しつつ、歩調を合わせて眼鏡のブリッジを押し上げた。

「レディ。あそこのオーソンの『街カフェ』などはいかがでしょうか。コンビニの簡易的なものではありますが、豆の管理や抽出の精度は決して悪くありません。今の移動経路において、最もリスクを抑えて水分を補給できる選択肢かと」

「そう。良いわ、連れて行って。美味しいか不味いかは、実際に飲んでみないと分からないもの」

才子は高貴な令嬢としての矜持を覗かせながらも、少女時代に味わえなかった未知なる味を試すことに、ほんのわずかな好奇心すら見せていた。

たった数分前、自分たちの都合だけで三人の人間の未来を永遠に消し去った。だが、そんな事よりも、今この瞬間の「喉の渇き」を潤すことのほうが、彼女たちにとっては遥かに優先されるべき現実なのだ。まるで、道端の虫を踏み潰した後に、今日の朝食を考えるような自然さで。

自動ドアが静かな音を立てて開き、二人は店内の明るい光の中へと足を踏み入れていく。

温かな暖房の空気と共に、店内に漂う淹れたての珈琲の香りが、衣服に染み付いたはずの、わずかな鉄の臭いを完全に掻き消していった。

 

自動ドアが閉まり、早朝の冷気が遮断される。

店内には、淹れたての珈琲と焼き立てのパンの匂いが柔らかく漂っていた。

始発前の時間帯ゆえに客はまだ少ない。配送業者らしき男が一人、雑誌コーナーの前で缶コーヒーを選び、窓際では夜勤明けの会社員が眠そうにスマホを眺めている。

どこにでもある、平凡な朝。

つい数分前まで路地裏で人間を三人処理していた二人は、その日常の中へ何事もなかったように溶け込んでいた。

識は店内を一瞥すると、窓際のカウンター席を視線で示した。

「レディ。あちらでお待ちください」

才子は小さく頷き、指示された席へ向かう。

黒髪のウィッグに、街に紛れるためのダークネイビーのパンツスーツ。背筋の伸びた姿勢と所作だけが一般人とは決定的に異なっていたが、それすらも“少し洗練された都会の女性”の枠に収まっていた。

椅子へ腰掛けた才子は、窓の外をぼんやり眺めながら、自分の指先で紙カップの結露を軽くなぞる。

一方の識は、迷いのない足取りでレジカウンターへ向かい、手際よく注文を済ませた。数分後、片手にトレイを載せた彼女が戻ってくる。

トレイの上には、温かなカフェオレ、ブラックコーヒー、そして三角形に切り分けられたミックスサンド。識は静かにトレイを置いた。

「レディにはカフェオレを。空腹状態でブラックは刺激が強すぎますので」

「そう、いただくわ」

才子は紙カップを受け取る。

識は脱いだロングコートを隣の椅子へ美しく畳んで掛け、自身もカウンター席へ腰を下ろした。

背筋は一分の狂いもなく真っ直ぐ。タイトなローポニーテールに、無駄のないシルエットの白シャツ。その姿は街中のコンビニにはあまりにも洗練されすぎていたが、同時に、周囲の背景を乱さない絶妙なラインを保っている。それもまた、識の技術だった。

識はまずブラックコーヒーへ口を付ける。香ばしい苦味が舌を滑り、脳を静かに覚醒させていく。コンビニの簡易抽出とはいえ雑味が少ない。この店の管理状態は良好だと、彼女は即座に判断していた。

続いてミックスサンドの包装を開封する。ビニールの切れ目を指先だけで滑らかに裂き、音を最小限に抑える。

最初の一切れ――ツナマヨのサンドを口へ運ぶ。しっとりしたパンが具材と崩れ合い、わずかな塩味と油分が空腹の身体へ静かに浸透していく。

その間も、彼女の思考は止まらない。

カウンターへ置いたタブレット端末には、刻一刻と更新される最新のニュース一覧が映し出されていた。

識は左手でサンドイッチを持ち、右手で画面をスクロールする。レタスとハムの二切れ目を齧りながら、視線だけで情報を高速処理していく。画面の電子光が、眼鏡のレンズに冷たく反射した。

青森市内の事件速報。SNSの投稿速度。警察無線の断片。

(……今のところ、まだ動きはありませんか)

路地裏の件は、まだ一般ニュースへ浮上していない。当然だ、発見すらされていないのだから。識はブラックコーヒーをもう一口飲み干し、思考をさらに鮮明にする。

その隣で、才子もまた識の動きをなぞるように、静かにサンドイッチの包装を開けていた。

九歳まで一般家庭で育った彼女は、コンビニ包装の開け方くらい知っている。だが、今の彼女たちに必要なのは「ただ食べる」ことではない。街の背景として、不自然さを一切感じさせない擬態の模倣だった。

肘を張らない。音を立てない。視線を泳がせない。

あくまで“自然に見える美しさ”だけを抽出した識の所作を、才子は完璧な速度と正確さでトレースしていく。

才子は少しだけ感心したように、小さく呟いた。

「……なるほど。こういう場では、こちらの方が自然なのね」

「はい、レディ。過剰な上品さは、時として最も目立ちます」

識は淡々と答えた。才子はカフェオレへ口を付ける。温かな甘みが、冷えた身体へゆっくり広がっていった。そこにどこか育ちの良さと冷徹な気品が滲むのは、さすが才子と言うべきだった。

そして数分後。

識が最後のブラックコーヒーを飲み干し、空のカップを静かにトレイへ戻す。

ふと隣へ視線をやると、真白才子もまた、カフェオレの最後の一口を飲み終えてカップを引き離したところだった。二人の動作は、まるで最初から秒単位で同期されていたかのように、美しく一致していた。

マスクを戻すその横顔には、もう次の移動のための、完璧な「一般人の顔」が完成していた。

 

自動ドアが開き、店内の暖気が背後へ流れ出す。

五月の冷たい北風が、再び二人の頬を撫でた。だが、温かなカフェオレと珈琲で満たされた身体は、もう先ほどほど寒さを感じていない。

識はオーソンの出口を出るなり、歩みを止めることなく左手首へ視線を落とす。銀縁の腕時計。その秒針を一瞥しただけで、脳内では現在位置、徒歩速度、人流、港までの残距離が瞬時に再計算されていた。

(……ほぼ予定通り)

コンビニ滞在によるロスは想定範囲内。フェリー乗船手続きまでの余剰時間にも問題なし。監視カメラへの露出回数も最小限に抑えられている。

その結論を出した直後、隣を歩く才子が静かに問いかけた。

「時間は?」声は平坦だった。焦りはない。ただ、次工程の確認を行う支配者の声音。

識は即答する。

「問題ありません」

一秒の迷いもない返答だった。

「このまま予定通り徒歩で移動しても、乗船開始時刻には十分余裕があります」

才子は小さく頷く。白い吐息が、朝靄の中へ細く溶けていった。

「そう。なら——食後の運動がてら、予定通り徒歩で向かいましょう」

「はい、レディ」

二人は再び歩き出した。

始発後の青森市街。少しずつ増え始める通勤の車や、横断歩道を急ぐ会社員、コンビニ袋を提げた学生。

そんな朝の雑踏へ、二つの黒い影が自然に溶け込んでいく。先ほど路地裏で起きたことなど、もう二人の脳内では完全に『処理済み』のデータに過ぎなかった。

識は半歩後ろを維持したまま、常に周囲へ意識を巡らせていた。交差点の監視カメラ。巡回車両の位置。港方面へ向かう人流密度。そして、隣を歩く真白才子の歩幅。すべてを誤差なく管理しながら、一定速度で北の港へ向かって進んでいく。

一方の才子は、そんな識の計算を疑うことなく、ただ静かに街を眺めていた。

灰色の空。潮の匂いを含み始めた風。遠くで鳴る船の低い汽笛。

英国で磨かれた感性にとっては、どこか粗雑で無骨な北の港町。だが同時に、そこには嫌いではない静けさもあった。

——そして三十分後。

湿った潮の香りが、朝の空気の中に濃く混ざり始める。

建物の隙間の向こうに、朝日に照らされた巨大なフェリーターミナルの輪郭が見え始めた。大きなガラス窓が、朝光を浴びて白く輝いている。

青森港。

巨大な白い船体が、朝靄の中にぼんやりと浮かび上がっていた。

識は歩調を崩さぬまま、再び腕時計へ視線を落とす。

(〇七時十三分……問題なし)

徒歩での移動時間、途中の信号待ち、人流の回避。そのすべてを計算に入れた上で、完璧に予定通りの時間に目的地へと到達していた。

「レディ、見えてまいりました。あの建物です」

識の微かな囁きに、才子は前方をそっと見据える。

ついに本州の最北端、その出口が目の前に迫っていた。二人の足取りは、ターミナルへと向かってさらに静かに、確実に進んでいく。

冷たい海風が、二人の黒髪をわずかに揺らした。

北海道へ向かう巨大な船は、何も知らぬまま、静かに出航の時を待っていた。




ホストの3人組は犠牲になったのだ。ノーブルレディがヴィランの階段を更に向こうへ一歩登るための犠牲にな

書いてて切るタイミングが分からずに字数が莫大になってしまい申し訳無く思います

次回こそ津軽海峡越えさせます



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