冷えた石壁は、夜になる前からもう冬のような温度を宿していた。
窓硝子に打ちつける細かな雨は、外の庭園を曇らせ、背の高い草に埋もれた古い噴水の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。かつては整然としていたはずの芝はまだらに荒れ、黒ずんだ生垣の向こうで、痩せた老使用人が一人、黙々と枝を刈っていた。
客間には暖炉があったが、火は弱かった。湿った薪が燃えきらず、古い木材と煤、それに長く閉ざされた布地の匂いが部屋の隅に沈んでいる。
才子は、その中央に立っていた。
足元の絨毯は厚く、けれど踏みしめるたびにわずかに湿り気を返す。壁に掛けられた肖像画の男たちは、どれも同じように痩せた顎を上げ、失われた威厳だけを今も手放していない顔をしていた。
持参した小型通信端末を起動すると、淡い光が浮かび上がる。
空中に現れたのは、輪郭だけの影だった。
顔の細部は見えない。それでも、その場の空気を押し下げるような威圧だけは鮮明だった。
「……先生。イギリス、エインズワース家の下屋敷に到着いたしました」
声は平坦だった。
抑揚を抑え、必要以上の感情を乗せない。それはここ数年で身についた習慣だった。
『ああ、無事に着いたようだね、才子』
低い声が耳元に滑り込む。
海を越えた通信とは思えないほど近い。
『……どうだい。かつてこの国の歴史を動かした血筋、その成れ果ては』
才子は答える前に、窓辺の銀燭台へ視線を落とした。
表面は磨かれている。だが、台座の縁には薄く緑青が浮いていた。
「……静かです」
一拍置いてから言う。
「ですが、誇りだけが建物の隅々に張り付いていて、息苦しさを感じます」
わずかに沈黙があった。
通信の向こうで、相手が満足げに笑った気配だけが伝わる。
『鋭いね』
柔らかな声音だった。
叱責でも命令でもない、教師が生徒の答えを褒めるような穏やかさ。
『彼らは過去という名の鉄を、今も手放せずに抱えている。重さで沈みながらね』
窓の外で、老使用人が剪定鋏を止めた。腰を伸ばす動作すらどこか慎重だった。
『才子。あの日、君が日本で見た大衆と、この屋敷の主を比べるなら——何が違うと思う?』
玄関で出迎えた老主人の顔を思い出す。
青白い頬。
乾いた指先。
視線だけが、衣服の裾から靴先まで値踏みするように冷たかった。
「……大衆は、数に守られて私を石で打ちました」
自分の掌を見る。
白く細い指は、幼いころと変わらない。
けれどあの日、誰かを助けようとして差し出したそれは、もう別の意味を持っている。
「この屋敷の主は、過去の名声に縋って、先生からの援助を待っています」
視線を上げた。
「……どちらも、自分一人では何も決められない弱者に見えます」
『正解だ』
影がわずかに身を乗り出したように見えた。
『長く見ているとね、人は結局二つに分かれる。支配する者と、支配される者だ』
暖炉の火が小さく弾ける。
『だが今の社会は、その順序を曖昧にした。救うべき者が、救われるべき者に媚びる。多数決という名の弱さに、力ある者が膝を折る』
静かな声だった。
怒気はない。
だからこそ、言葉は深く沈む。
『君を毒だと切り捨てたあの日、彼らは義務を放棄したのだよ』
あの日。
病院の白い天井。
途切れ途切れの報道。
父の沈黙。
母の泣き腫らした目。
——助けちゃ、だめだった?
その問いだけが、どこにも届かなかった。
『だから君には学んでもらう』
声が続く。
『この屋敷で、完璧な淑女の型を』
窓硝子に映る自分の姿を見る。
黒髪は整えられ、背筋は自然に伸びている。
幼さはまだ残っているのに、表情だけが年齢から切り離されていた。
『それは弱者に紛れるためではない。選ばれた強者が、弱者を導くための形だ』
雨脚が少し強くなる。
『持てる者にとって、それは権利ではない』
影が囁く。
『逃れられない義務だ』
庭では老使用人が、濡れた枝を抱えて運んでいる。
誰にも見られないまま。
黙って。
「……義務」
自分の声が、小さく返った。
『そうだ。君のような力を持つ者が、迷う群れに檻を与える。秩序を教える。それが最も慈悲深い』
掌をゆっくり閉じる。
何かを救おうとして拒絶された手だった。
けれど、空白のまま放っておくには、その記憶は重すぎた。
「……秩序が必要なら」
言葉を選ぶ。
完全な肯定には、まだ少し遠い。
「……誰かがそうしなければならないなら」
窓の向こうの霧が深くなる。
「私が、覚えます」
『いい返事だ……エインズワース氏の言葉は、私の言葉と思うように』
低い声だった。
叱責ではない。確認するような穏やかさだった。
『このことは前もって氏にも伝えてあるよ』
才子は返事をする前に、わずかに肩を引いた。
ほんの数ミリにも満たない動きだったが、自分でもそれが反射だったと分かった。
教育を受ける。
その意味は理解していた。
礼儀を学ぶこと。
発音を整えること。
歩幅を揃えること。
だが今告げられたのは、それ以上だった。
自分の口から出る言葉。
目線の高さ。
沈黙の置き方。
それらすべてが、自分のものではなくなる。
「……はい、先生」
声は乱れなかった。
「エインズワース卿の教えを、先生の御意志として刻みます」
通信の向こうで、影がわずかに頷いた。
『物分かりがいいね』
暖炉の火がひとつ、小さく崩れた。
『礼儀とは単なる作法ではない』
その声音には、かすかな愉悦が混じる。
『相手に、自分は抗えない存在と向き合っている——そう本能で理解させるための、静かな暴力だ』
窓の外では雨が細く流れていた。
古い硝子を伝う水筋が、庭園を歪ませる。
『紅茶を啜る所作ひとつ。ドレスの裾を捌く音ひとつ』
ゆっくりとした声だった。
急かさない。
だが逃げ場も与えない。
『そのすべてが法になる。君が口を開く前に、弱者が姿勢を正すように』
才子は視線を落とした。
自分の右手。
指先まで整えられた形。
数年前、この手はただ必死に誰かへ伸びた。
何も考えず。
ただ助けたかった。
『エインズワース氏は没落した』
影が続ける。
『だが型だけは本物だ』
暖炉の火が赤く揺れ、壁の肖像画の頬に陰を作った。
『君は、その空の器を奪い取る』
わずかに息を吸う。
「……奪う、のですか」
自分でも、その問いがどこから出たのか分からなかった。
『そうだ』
答えは即座だった。
やわらかく、迷いがない。
『誇りというものは、持つ者が消えれば、次の持ち主を待つだけだ』
影が少しだけ前へ傾く。
『彼らの血統も伝統も、もう自力では立てない。ならば君が満たせばいい』
声が低くなる。
『君自身の力で』
庭の奥で、老使用人が濡れた枝束を抱えていた。
背を丸め、誰に見られるでもなく歩いている。
『彼らの誇りを吸い込み、君が新たな主として立つ』
通信越しでも分かるほど、その声は静かに満足していた。
『それが君の受けるべき真の淑女修行だ』
短い沈黙。
そして最後に、
『……期待しているよ。私の美しいレディ』
通信が途切れた。
光が消える。
同時に、部屋の温度が一段落ちたように感じた。
暖炉は燃えているのに、指先だけが冷たい。
背後で扉が三度、規則正しく叩かれる。
重い蝶番が軋み、老主人が入ってきた。
燕尾服は古いが丁寧に仕立て直されている。
襟元だけがわずかに擦り切れていた。
「……真白様」
低く乾いた声。
白い手袋の指先が微かに震えている。
「オール・フォー・ワン閣下より、すべて承っております」
青白い顔に浮かぶのは、礼節と緊張だった。
貴族としての矜持。
だがその奥に、拭えない恐怖がある。
「本日より、あなたの呼吸一つに至るまで——」
一拍置く。
言葉を選ぶように。
「私が……いいえ、閣下が、正しく導きましょう」
才子は無言で頷いた。
エインズワースの声を聞く。
だがその奥で反響するのは別の声だった。
礼儀。
姿勢。
沈黙。
すべてが誰かの意思になる。
壁の鏡に映る自分は、さっきより少しだけ遠く見えた。
九歳の頃、病院の白い天井の下で、
「助けちゃだめだった?」
と問うた少女の輪郭が、
そこから静かに削り取られていく。
音もなく。
確実に。
長い食卓の中央に置かれた燭台の火は、ほとんど揺れなかった。
外ではまだ雨が降っている。
窓の向こうで庭園は霧に溶け、古い硝子越しに枝だけが黒く浮かんでいた。
晩餐室の壁には濃い色の木材が張られ、先祖たちの肖像画が等間隔に並んでいる。
そのどれもが、食卓に座る者を無言で見下ろしていた。
才子は、老主人に導かれて席についた。
椅子を引く音さえ小さい。
布張りの背もたれは古いが、角度だけは厳密に保たれていた。
目の前には白い皿。
銀のカトラリーは曇りなく磨かれている。
だが、持ち手の細部に刻まれた紋章は摩耗していた。
エインズワース卿は向かいに腰を下ろし、ナプキンを静かに広げた。
その一連の動きに、無駄がひとつもない。
「まず、ナイフです」
低い声だった。
講義というより確認に近い。
老いた手が、卓上のナイフへ伸びる。
「刃は、常に皿の中心よりわずか内側へ」
示された角度はほんのわずかだった。
外へ開かない。
相手へ向かない。
自分にも向けない。
「人は無意識に、刃の向きを読む」
才子も同じようにナイフを持ち上げる。
指先の位置を揃える。
力を入れすぎれば銀に微かな音が立つ。
それを避けるように置く。
「敵意を感じさせず、しかし隙も見せない」
エインズワース卿の視線がナイフの先端へ落ちた。
「食卓とは、もっとも静かな交渉の場です」
燭台の火が銀の表面で細く伸びた。
「刃先が外へ向けば、粗野。内へ寄せすぎれば、防御的」
才子は皿の縁とナイフの距離を見た。
わずかに修正する。
ほんの数ミリ。
「……この位置ですか」
「ええ」
老主人は頷いた。
「攻撃する者は角度に表れる。恐れる者も同じです」
その言葉に、通信で聞いた声が重なる。
——礼儀とは静かな暴力だ。
次にスープが運ばれる。
老使用人が足音を立てずに器を置いた。
湯気が白く立つ。
しかしエインズワース卿はすぐにはスプーンを取らなかった。
手は膝の上に置かれたまま。
視線だけが器の縁に落ちている。
才子も動かない。
部屋には時計の針だけがかすかに鳴っていた。
一秒。
二秒。
三秒。
ようやく老主人が言う。
「誰よりも遅く口をつけなさい」
その声は静かだった。
「……冷めます」
才子が言うと、
老主人の口元がわずかに動いた。
「冷めても構いません」
視線が上がる。
青白い瞳の奥に、古い時代の硬さがある。
「最初に口をつける者は、その場に従っている」
スプーンを持ち上げる。
動作は遅い。
だが一切迷わない。
「最後に口をつける者が、場を見ている」
そこで初めて一口。
音は立たない。
「全員が待つ理由を作れる者が、食卓の中心です」
才子はスプーンに触れたまま止まる。
熱が銀越しに指へ伝わる。
たしかに待っている間、使用人も、向かいの老主人も、すべての動きがこちらの呼吸に揃う。
自分が動けば始まり、
動かなければ始まらない。
「……待たせることも、支配ですか」
問いに対して、老主人はすぐに答えなかった。
一度スープを置き、
燭台の火を見た。
「待たせるのではありません」
そして低く言う。
「待つ価値があると、相手に思わせるのです」
その瞬間、
才子の脳裏に、通信越しの声が再び蘇る。
——弱者は、先に安心を求める。
——強者は、沈黙で答えを与えない。
才子はゆっくりとスプーンを持ち上げた。
誰よりも遅く。
器の縁に一切触れず、
静かに口元へ運ぶ。
ぬるくなり始めたスープは、薄く塩の味がした。
けれどその温度よりも、
今この部屋で、自分の動きを全員が見ているという感覚の方が鮮明だった。
壁の肖像画の眼差しまでが、こちらへ向いている気がした。
「よろしい」
老主人が小さく言う。
「今の間で、あなたは一つ、この家の時間を奪いました」
才子はスプーンを置いた。
銀が皿に触れる音はしない。
午後の光は薄かった。
厚い雲が窓の外を低く覆い、庭園の輪郭を灰色に滲ませている。
雨は止んでいたが、硝子にはまだ細かな水滴が残り、古い窓枠の隙間から湿った冷気がわずかに入り込んでいた。
食堂の中央、小さな丸卓の上に銀のティーセットが整然と並ぶ。
燭台は昼間のため灯されていない。
その代わり、曇天の淡い光がポットの曲面にぼんやり映っていた。
若いメイドが一人、足音を殺して近づく。
まだ年若い。
緊張のせいか、ポットを持つ手がほんの少し硬い。
白い手袋越しでも分かるほどだった。
才子の前へカップが置かれる。
琥珀色の液面が静かに揺れた。
才子は両手を膝に置いたまま、その揺れが収まるのを見てから、ほんのわずかに顎を引いた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
会釈も最小限。
日本では、丁寧すぎるとも言われない程度の自然な礼。
だが次の瞬間、
硬質な音が食堂に走った。
カップがソーサーへ触れた音だった。
鋭く、必要以上に乾いた音。
向かいに座るエインズワース卿が、手元のティーカップを置いていた。
老いた指先は細く、骨ばっている。
その指がソーサーの縁からゆっくり離れる。
「……真白様」
低い声。
わずかに冷えている。
「今、何とおっしゃいましたかな」
才子は視線を上げた。
老主人の青白い瞳に浮かんでいたのは怒りではなかった。
失望だった。
そしてその色は、どこか既視感があった。
通信越しに何度も見た、あの穏やかな失望とよく似ていた。
「……メイドに、感謝を伝えました」
背筋を崩さず答える。
「それが何か」
老主人は首を横に振った。
動きはゆっくりだった。
否定を深く刻むように。
「あなたは今」
一語ずつ区切る。
「彼女と同じ地平へ降りました」
言葉のあと、部屋が静かになる。
メイドは目を伏せたまま動かない。
呼吸すら目立たない。
「……閣下のお言葉を、お忘れか」
その呼び名が落ちた瞬間、才子の右手の指先がわずかに硬くなる。
見えないほどの反応だったが、自分には分かった。
「丁寧すぎる言葉、過度な会釈」
老主人はティースプーンを持ち上げ、音もなくカップへ沈めた。
「それは慈悲ではありません」
静かに一度だけ混ぜる。
「己の立ち位置への迷いです」
銀が磁器に触れる、ごく薄い音。
「彼女は奉仕することで役割を果たしている」
スプーンを置く。
「そこへ対等の礼を返すことは、役割を曖昧にする」
窓の外で風が枝を揺らした。
細い影が硝子を横切る。
「秩序にとって、それは無礼です」
才子は黙って聞いていた。
メイドの手元がわずかに震えている。
紅茶の表面に、ごく小さな波紋が広がる。
「強者は、太陽のように在ればいい」
老主人の声はさらに低くなる。
「太陽は、照らした草木へ礼を言いません」
その言葉に、
病院の白い壁が一瞬だけ脳裏に浮かんだ。
まぶしい照明。
聞こえない問い。
——助けちゃだめだった?
あの日の声が、自分の内側でまだ薄く残っている。
「……感謝は、不要だと」
自分でも、確認するような声だった。
「必要なのは承認です」
老主人は即答する。
「よくやった、と視線で示せば足ります」
そして少しだけ前へ身を乗り出した。
「導く者が、導かれる者に頭を下げてはならない」
その口調はもう完全に別の誰かのものだった。
聞き慣れた抑揚。
聞き慣れた温度。
「私の言葉は、閣下の言葉」
胸元へ細い指を当てる。
「さあ、もう一度」
老主人が顎でカップを示した。
「今度は静寂で受け取りなさい」
メイドがわずかにカップの位置を整える。
才子は目を閉じた。
一瞬だけ。
その短い暗闇の中で、
幼い頃の自分が、差し出した手の温度だけを思い出す。
だがそれは、すぐに冷えた。
石壁の冷たさのように。
銀食器の硬さのように。
目を開ける。
今度は何も言わず、ただカップへ指を添える。
会釈もしない。
視線だけを一度、メイドへ向ける。
承認とも命令とも取れる、短い一瞥。
メイドは深く頭を下げた。
その動きは先ほどよりも速かった。
「……よろしい」
老主人が言う。
「今の沈黙は、言葉より強い」
紅茶を口元へ運ぶ。
少し冷め始めていた。
だが温度より先に感じたのは、
この部屋から一つ余分な音が消えたことだった。
ありがとう、というたった一語が失われただけで、
空気がわずかに軽くなる。
その変化を、
才子は確かに覚えてしまうのだった。
大広間は静かだった。
かつて舞踏会の夜ごとに無数の靴音を反響させた床は、今はただ、二人分の気配だけを受け止めている。
高い天井から吊られたシャンデリアは灯っていたが、往年の輝きはない。
磨かれた硝子の一粒一粒が弱く光を返し、その淡い明滅が広間の隅に長い影を落としていた。
壁を飾る肖像画の貴族たちは、薄暗がりの中から黙って見下ろしている。
寄木細工の床の中央に、真白才子は立っていた。
漆黒のドレスは光を吸い込むようだった。
余計な装飾はない。
だが縫製の線ひとつまで隙がなく、肩から裾へ落ちる布の重みが彼女の立ち姿をいっそう細く見せていた。
髪は高くまとめられ、首筋が白く露わになっている。
その白さすら冷たい。
正面にはエインズワース卿。
燕尾服は古い仕立てだったが、皺ひとつない。
老いた手が杖の頭を握っている。
「……真白様」
広間では声が少しだけ遅れて返る。
「今日まで、あなたはすべてを誤差なく身につけられた」
才子は返事をしない。
ただ視線だけを向ける。
「歩幅。呼吸。視線。沈黙」
老貴族はゆっくりと杖を床へ打った。
硬い音が一度だけ響く。
「本日は仕上げです」
その音の余韻が消えるまで待つ。
「今から私を、この国の名士と思いなさい」
わずかな間。
「あなたを値踏みし、侮り、血筋を疑い、笑う者たちです」
窓の外で風が鳴る。
古い窓枠が微かに軋んだ。
「それらすべてを」
老貴族の声が低くなる。
「一動作で沈黙させなさい」
才子は静かに頷いた。
まぶたひとつ動かさない。
その頷きすら短く、余計な感情を含まない。
「……始めます」
一歩。
寄木の床にヒールが触れる。
だが音は驚くほど小さい。
二歩目。
裾が滑る。
布擦れの音だけが細く続く。
三歩目で止まる。
数歩手前。
その距離は正確だった。
近すぎず、遠すぎず。
礼が最も美しく見える位置。
才子は顔を上げた。
エインズワースの目を見る。
真っ直ぐに。
そこに敬意はない。
許可も求めない。
ただ、相手の存在を測り終えた者の静かな視線だけがある。
老貴族の喉がわずかに動いた。
そして才子は右足を半歩引く。
動きは遅い。
だが迷いがない。
膝が静かに折れ、
上体が前へ流れる。
背筋は崩れない。
肩も揺れない。
首筋から背中にかけて一本の線が保たれたまま、完璧な角度で沈む。
深い礼。
古い家系の教本にも載る型。
だが、
そこにある圧が違った。
頭を下げているはずなのに、
見下ろされている錯覚があった。
視線は最後まで外れない。
伏せない。
瞬きすらない。
礼というより、
沈黙の宣告だった。
広間の空気が止まる。
シャンデリアの鎖がかすかに揺れた音まで聞こえた。
エインズワースは息を呑んだ。
喉の奥で小さく空気が鳴る。
目の前にいる少女の動作は、
彼が何十年も信じてきた礼法を完全に理解したうえで、
その上に別の何かを乗せていた。
支配。
それも、声を使わない支配。
やがて才子がゆっくりと身を起こす。
上がる速度すら一定。
顔が完全に戻るまで、一切の乱れがない。
「……見事です」
老貴族の声が掠れた。
「これほどとは……」
杖を握る手が震える。
「まるで——」
言葉が途切れる。
彼自身、何を見たか言葉にできなかった。
名門の令嬢ではない。
王族でもない。
もっと危ういもの。
秩序そのものが人の形を取ったような冷たさ。
ついに老貴族は杖を手放した。
乾いた音を立てて床へ落ちる。
そのまま片膝をつく。
続いて深く頭を垂れる。
「……私の教えることは、もう型に過ぎません」
声が震えていた。
「あなたはすでに、その先へ到達しておられる」
才子は黙っていた。
見下ろす。
跪く老人を。
その瞳には何も浮かばない。
褒められたという反応も、
戸惑いも、
満足もない。
ただ次へ進む者の静けさだけがある。
「……次を」
短く言う。
広間の奥へ声が吸われる。
「次なる授業を、エインズワース卿」
老貴族は頭を下げたまま、
わずかに肩を震わせた。
歓喜に近かった。
窓の外では雲がさらに低くなっていた。
夕刻の光が完全に消え、
古い館の中で黒いドレスだけが輪郭を保っていた。
海の向こうで失ったものが何だったのか、
その輪郭だけは、
もう誰にも見えなかった。
書斎にはまだ晩餐前の静けさが残っていた。
暖炉の火は弱く、薪の端が赤く崩れるたびに、小さな音だけが壁際へ散っていく。
重いカーテンは半ば閉じられ、窓の外では灰色の夕空が荒野へ沈み始めていた。
古い時計の振り子が規則正しく揺れている。
その単調な音の中で、
若いメイドの指先だけが不規則に震えていた。
銀盆の上でスプーンがわずかに触れ合う。
乾いた小さな音。
それだけで十分だった。
才子の視線が上がる。
何も言わない。
ただ見た。
その一瞬で、メイドの肩が強張る。
喉が上下する。
次の動作へ移れなくなる。
書斎の空気が止まった。
「……違います」
低い声が割って入った。
エインズワース卿だった。
机上に開いていた古書を閉じる。
革表紙が静かに鳴る。
老貴族は椅子から立ち上がった。
「才子様」
その呼びかけに、才子は視線だけを向ける。
「今のは、いただけません」
言葉に怒気はない。
だが断定だった。
「……彼女は準備を遅らせました」
才子の声は平坦だった。
「晩餐の流れを乱しています」
「ええ」
老貴族は頷く。
「ですが」
ゆっくり歩み寄る。
杖の先が床を一度叩く。
「あなたが今なさったのは支配ではありません」
メイドの横で止まる。
「ただの苛立ちです」
沈黙。
その一言だけで、
才子の眉がほんのわずかに寄った。
「……秩序を守るための威圧です」
「違います」
即答だった。
老貴族は震えるメイドの肩へそっと手を置く。
「下がりなさい」
声は柔らかい。
メイドは深く頭を下げ、ほとんど逃げるように退出した。
扉が閉まる。
書斎に再び時計の音だけが戻る。
エインズワース卿は才子の前へ向き直った。
「本物の強者は、視線で追い詰めません」
暖炉の火が小さく揺れる。
「追い詰めねば動かぬなら、まだ相手と同じ場所で争っている」
才子は黙って聞く。
その沈黙を確認してから、老貴族は続けた。
「恐怖で従わせる者は、裏切りを恐れる者です」
机の上へ指先を置く。
「閣下が求めておられるのは、その程度ではない」
“閣下”。
その呼び名だけで、
空気の質が少し変わる。
才子の目がわずかに細くなる。
「……では、どうすべきだったのでしょう」
老貴族は答える前に一拍置いた。
「微笑むのです」
短い言葉。
才子はわずかに目を動かした。
「……微笑む?」
「ええ」
老貴族は静かに頷く。
「ただ、穏やかに」
窓の外を指す。
荒野には風が走り、低い草が一方向へ揺れていた。
「嵐の中で羊を鞭打つのは三流です」
指先を下ろす。
「一流は城になる」
その言葉が書斎に沈む。
「逃げ場として存在するだけでよい」
才子は動かない。
だが視線の奥で何かが整理されていく。
「あなたが静かに微笑めばいい」
老貴族は続けた。
「その奥にあるものを、相手に勝手に想像させるのです」
暖炉の火が弾ける。
「怒りか、失望か、慈悲か」
声がさらに低くなる。
「分からぬからこそ、人は自ら怯えます」
そこで初めて、
才子は自分の手を見る。
指先は完全に静かだった。
だが数分前まで、そこには確かに棘があった。
未熟な敵意。
まだ「正したい」という子供じみた反応。
「……敵意」
小さく呟く。
「ええ」
老貴族が答える。
「まだ残っておられる」
書斎の壁に掛かった肖像画が暗く沈む。
「感情を殺すのではありません」
才子は顔を上げる。
「超えるのです」
その言葉だけは、
まるで別の誰かの声に聞こえた。
聞き慣れた、
あの静かな声に。
しばらくして、
才子の口元がわずかに動く。
ほんの微細な変化。
笑っていると断言できるほどではない。
だが、
先ほどの鋭さは消えていた。
何も映さない湖面のような静けさだけが残る。
「……理解しました」
その声は前より低い。
柔らかい。
しかし温度がない。
「次からは」
一歩下がる。
ドレスの裾が床を擦る。
「彼女が私の影を見ただけで、自ら最善を選ぶように」
右足を引く。
膝を折る。
深いケットシー。
滑らかで、
穏やかで、
先ほどよりもずっと恐ろしい。
頭を上げた時、
老貴族は無意識に息を止めていた。
そこにいたのは、
怒りを覚えた少女ではない。
怒りという段階すら不要になり始めた何かだった。
「……見事です」
老貴族は小さく呟く。
暖炉の火だけが、
静かに揺れていた。
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