善意の剥製   作:タロットゼロ

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さようなら本州

 

ホテルの正面玄関前。

まだ薄暗い朝の空気の中で、カメラを抱えた記者たちは互いに顔を見合わせ、戸惑いを隠せないでいた。

彼らがここに集まったのは、昨日あれほどの巨額寄付と人命救助を行った聖女の、今朝の出発風景を収めるためだ。誰もが和やかな朝の取材を予想していた。

――それが、なぜこんなことになっている。

ドン、と重い着地音がアスファルトを揺らした。

ホテルの屋上から、早朝の薄闇を割って荒々しく降り立ったのはシルキーパンサーだった。ピンクを基調とし背中が開いてしなやかな尻尾が出ているタイトなコスチュームは、標的が消え失せた最上階のスウィートルームから屋上までを血眼で探し回った代償として薄っすらと汗ばみ、肌に張り付いていた。

普段ならメディア向けに背中の毛並みを触らせ愛嬌を振りまくはずの女性ヒーローだが、今は激しく上下する胸の動悸を隠そうともしない。無駄に終わった捜索への怒りと焦燥でわずかに肩を震わせながら、その双眸には一切の笑みがなかった。額の汗を拭うことすらせず、殺気立った視線でエントランスを睨みつけている。

同時に、上空から鼓膜を打つような激しい暴風が吹き下ろした。

バサァッ! と自前の巨大な猛禽の翼を広げ、さらにその背部に重装備されたスラスターユニットを激しく明滅させながら、垂直に着地したのはミスターファルコンだった。

“速すぎる男”ホークスに追いつくため、生身の翼に機械の加速力と最高速度を強制的に上乗せした、執念の複合スタイル。

バイザーの隙間から覗く、鋭く湾曲した猛禽の嘴(くちばし)と、隼そのものの冷徹な双眸は、無理な減速による金属的な制動音とスラスターが焼ける焦げた匂いの中にあっても、微動だにしない。

明らかに、最悪の事態を想定した戦闘警戒の構えだった。

さらに、ホテルの回転扉が不自然な速度で回り、中から重厚な足音が響く。

両腕に特殊合金の鎖を巻き付けた大柄な男、チェインスリンガーが、ホテルの内側から這い出るようにして現れた。その顔はひどく硬く、ただ事ではない重苦しい鉄の匂いを漂わせている。

「な、なんだ……!? なんでヒーローがこんなに……」

「シルキーパンサー! なぜあなたがここに!?」

たまらず記者たちがボイスレコーダーを突き出し、困惑と焦燥の混じった質問を浴びせる。カメラのフラッシュが、感情を消したヒーローたちの輪郭を白く浮かび上がらせた。

「ミスターファルコン! なぜそんな武装を!? まるでヴィランの襲撃でもあったような――」

「チェインスリンガー! 中で何が起きてるんだ! バロネスは!? バロネスに何かあったのか!?」

詰め寄るマスコミの波。

彼らの頭には、まだバロネスがテロリストであるという可能性など一ミリも浮かんでいない。あるのは聖女が何かの事件に巻き込まれたのではないかという的外れな心配と、現場の異常な空気への恐怖だけだった。

だが、3人のヒーローは、その喧騒に対して一切の感情を見せなかった。シルキーパンサーは向けられたマスコミのレンズを一瞥すらしない。チェインスリンガーは無言で腕の鎖をわずかに軋ませ、それ以上近寄らせないという明確な拒絶の意志を示す。

「……ノーコメントだ」

ミスターファルコンが、バイザー越しに低く、極めて無機質な声を一度だけ発した。

それきり、彼らは二度と口を開かなかった。

なぜ誰も何も言わない。

なぜバロネスは出てこない。

ヒーローたちはただ、静まり返った巨大な建物を見上げている。

何も知らされていないマスコミの混乱を置き去りにしたまま、彼らの張り詰めた背中が、そして冷え切った沈黙が、ただ不気味に夜明けの空間を支配しているなか、一斉に、着信音が鳴り始めた。

ブブッ、ブブッ、ブブッ、ブブッ

 

「……官邸から?」一人が通話に出る、「はい、こちら……

 

別の記者達もも次々に電話を取る。

「ちょっと待ってください、今現場に――えっ事情説明……?」

画面が切り替わる。

けたたましい『緊急速報』のテロップと共に、ホテルの前で立ち尽くすヒーローたちの生中継映像がワイプへと縮小され、朝の情報番組の明るいスタジオが映し出された。

だが、その場の空気は番組が想定していた爽やかな朝からは程遠かった。

「……という、信じられない映像が先ほど入ってきました」

メインキャスターの男性が、手元の原稿とモニターを交互に見ながら、戸惑いを隠せない声で口を開いた。

「繰り返しお伝えします。昨日、東北地方の被災地で多額の寄付と人命救助を行い、日本中の話題をさらった『善意の聖女』、バロネス・エインズワース氏。彼女が宿泊している都内のホテルに今朝、複数のプロヒーローが突如として集結し、現場は騒然としています」

隣に座るベテランの政治ジャーナリストが、腕を組みながら険しい顔つきでモニターを睨みつけている。

「これ、異常事態ですよ。映っていたミスターファルコンやシルキーパンサーは、いわゆる対ヴィラン戦闘の最前線に立つ実戦派です。要人警護で出てくるような人選じゃない。それに、あのチェインスリンガーの様子……」

ジャーナリストはペンで机を軽く叩いた。

「ホテルの中から出てきたでしょう? 彼は制圧や拘束を専門とするヒーローだ。それが何も言わずに出てきた。……中で何か、とんでもない凶悪犯罪が起きたとしか思えません」

「凶悪犯罪って……まさか、バロネスが狙われたってことですか!?」

ひな壇に座っていた女性タレントが、悲鳴のような声を上げる。

「昨日あんなに子どもたちに優しくして、泥だらけの被災地を駆け回っていたのに……! 海外の要人で、しかもあれだけの大金持ちだから、身代金目的のヴィランに襲撃されたとか、そういうことなんでしょうか!?」

「可能性は高いですね。あれだけ大々的に報道されれば、目をつけられるリスクもあります」

別のコメンテーターが深く頷く。

「それにしても、不可解なのは警察とヒーローの対応です」

ジャーナリストが再び口を挟む。

「もしバロネス氏が襲撃された被害者なら、速やかに『要人を保護した』なり『現在救出中だ』なり、何らかのアナウンスがあって然るべきです。マスコミをあんな風に完全にシャットアウトして『ノーコメント』を貫く理由がない。まるで、絶対に外へは出せない“何か別の異常事態”が起きているような……」

「とにかく、バロネスのご無事を祈るばかりです……。昨日あんなに素敵な笑顔を見せてくれた方が、こんな事件に巻き込まれるなんて……」

女性タレントが胸の前で手を組み、ワイプの中のホテルを見つめて沈痛な面持ちになる。

スタジオの空気は完全に善良な被害者であるバロネスを心配する方向で統一されていた。

彼女が被害者ではなく、この事態を引き起こした張本人である事も、あのチェインスリンガーが見たのが、彼女を監視していた者たちの無残な死体の山である事も、誰も一ミリも疑っていなかった

『――現場の記者から続報です! 未だホテルからバロネス氏が出てくる気配はなく、ヒーローたちも沈黙を貫いています!』

インカムを押さえながら、メインキャスターが緊迫した声で伝える。

「一体、このホテルの中で何が起きているのでしょうか。番組では引き続き、この不可解な事件の続報を追い続けます――」

画面の隅、現在時刻を表示するデジタル時計が午前7時20分を無機質に時を刻んでいた。

巨大なガラス窓の向こうで、青森港の灰色の海が静かに波打っている。

フェリーターミナルの乗船待合ロビーには、出港前の独特な慌ただしさと、早朝特有の重い停滞感が満ちていた。ベンチに腰を下ろすトラックドライバーたち、大きなバックパックを抱えた観光客。皆、それぞれの目的地へ向かう退屈な時間を消化しているはずだった。

――その空気が、頭上の大型モニターから流れた一筋の電子音によって、完全に破られた。

『――繰り返し、お伝えします。都内のホテルに、複数のプロヒーローが突如として集結。現場は緊迫した空気に包まれています』

アナウンサーの切迫した声が、スピーカーを通じてロビー全体に響き渡る。

その場にいた全員の視線が、磁石に引き寄せられるように一斉にテレビ画面へと向けられた。ワイプに映し出されたのは、昨日あれほど日本中を沸かせた「バロネス・エインズワース」の輝かしい笑顔。そしてメイン画面には、武装したヒーローたちが無言でホテルのエントランスを固める異様な生中継の映像。

「おい、これ……バロネスのホテルじゃないか?」

「嘘だろ、襲撃か……!? ヴィランの仕業かよ」

ロビーのあちこちから、驚きと動揺の混じった囁き声が漏れ始める。

誰もが、画面の向こうの善良な被害者の身を案じ、突如として日常の裏側に現れた凶悪犯罪の気配に息を呑んで釘付けになっていた。

誰もが、画面の中の銀髪の聖女の安否を気に揉んでいる。

――そのテレビ画面の、すぐ真下を、ダークネイビーのパンツスーツを揺らす、一人の黒髪の女が、音もなく通り過ぎていった。

真白才子は歩みを止めることなく、頭上のモニターを一度だけ一瞥した。

画面の中では、チェインスリンガーやミスターファルコンといった、自分を追っていたはずの者たちの映像が繰り返し流されている。才子の瞳は完全に凪いでおり、ただ、ほんのわずかに口元だけが柔らかく緩んだ。

「……賑やかね」

小さく漏れたその言葉に、半歩後ろの隠身識が淡々と返す。

「現時点では、まだ被害者として認識されていますので」

「そう」

才子はそれ以上興味を示さず、前を向いた。

縁無しメガネの奥の冷徹な瞳で、識はテレビを見る群衆の「視線の角度」と「意識の向き」を正確に測定している。全員の意識が画面に集中している今、自分たちへの警戒レベルは事実上のゼロ。

すぐ目の前で、缶コーヒーを持ったドライバーの男が「バロネスさん、無事だといいなぁ……」と画面に向かって呟いている。その男の真横を、そのバロネス本人が、静かに靴音を響かせて通り過ぎる。その男は、自分が案じている本人が目の前を通り過ぎていった事を最後まで気づかなかった。

受付カウンターの前には、人の気配がほとんどなく、職員の女性も、手元の業務を止め、壁のテレビを不安そうに見上げている。

「すみません」

識の、硬質で淀みのない声がカウンターに響いた。

職員の女性がハッと我に返り、慌てて視線を二人の女性へと戻す。

「あ、はい! 失礼いたしました。……本日のご乗船でしょうか」

「ええ。八時十分発の便、二名です」

職員は壁のモニターをチラチラと何度も気にしながら、機械的に発券の手続きを進めていく。お世辞にも集中しているとは言えないその態度を、識は冷ややかな眼差しで見下ろしていた。

(……感心はしませんが、そのおかげで私達の事に気を回さずにいるのは好都合と言うべきでしょうね。それに手続き自体に不備を出さないのなら、それで良しとしましょう)

言いたくもない文句を言って、この場で余計な時間を食わずに済む。その程度のことさえしてくれれば強いて文句を言う必要も無い。

その間、才子はカウンターに軽く指先を預け、退屈そうに窓の外の白い船体を見つめていた。

「――お待たせいたしました。こちら、乗船券でございます。間もなくご案内が始まりますので、あちらの改札口へお進みください」

「恐れ入ります」

識がチケットを受け取り、才子へ向かって音もなく一礼した。

才子は小さく頷き、受付を離れながらふと呟く。

「人というものは、見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない、カエサルだったかしら」

識は否定も肯定もしなかった。

背後では、まだテレビの音がけたたましく鳴り響き、人々が画面の中の幻影に向かって祈りを捧げている。その愚かな祈りの声を背中で聞きながら、二人の黒い影は、本州の最果ての出口へと向かって、まっすぐに歩みを進めていった。

 

「おい、外事課から何か降りてきてないのか!?」

「公安、完全に口を割るなと上から止められてるらしい!」

首相官邸、一階の記者クラブ待機室は、早朝にもかかわらず文字通りの蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

壁の大型モニターに映る都内ホテルの生中継――重武装のプロヒーローたちが無言でエントランスを固める異常映像――が、記者たちの嗅覚を狂おしいほどに刺激している。

「バロネスの安否不明でこれだけのヒーローが動くか? 普通ならSPの増員だろ」

「官房長官の定例会見、前倒しになるって噂だ」

困惑に近いやり取りが飛び交う地上階から、数枚のセキュリティドアと厚い防音壁を隔てた、地下の特別会議室。

そこには、上の喧騒とは対極にある、窒息しそうなほどの凍りついた沈黙が沈殿していた。

長机を囲むのは、警察庁、内閣危機管理監、ヒーロー公安委員会、そして内閣広報官。

室内のモニターには、ホテル最上階の惨状写真が映し出されている。

血痕。破壊された監視機器。壁へ叩きつけられた監視要員の死体。

そして――ターゲットであるバロネス・エインズワースの姿は、影も形もない。

全員の顔が土気色に変色し、徹夜の疲労と絶望で指一本動かせずにいる。

「……確認する」

危機管理監が低い声を発した。

「現時点で対象の確保には失敗。公安の監視チームは壊滅。駅、高速、港湾へ非公開照会を実施中だが……周辺からは完全にロスト。これで間違いないな」

「対象の姿が追えないなら、周辺から洗え!」

警察庁側の幹部が焦燥に駆られた声を上げる。

「あの女の傍らには常に秘書の女がいただろう。隠身識といったか 。彼女の手配と足取りはどうなっている!」

しかし、公安側の男は苦渋に満ちた顔でゆっくりと首を振った。

「……彼女から追跡するのも、極めて困難です」

「困難とは何だ!」

「先ほど、隠身識の個性届を確認しました。申告されている彼女の個性は『存在障害』。自らの存在感や他者からの認識を極端に低下させる能力です」

「存在障害……?」

「はい。防犯カメラの顔認証(Nシステム)や生体センサーに引っかかりにくい上、人混みに紛れれば目撃証言すらまともに集まりません。同行者である秘書の足取りから本体を追うという、我々の定石すら通用しないよう周到に仕組まれています」

「最悪だ……」

警察庁の幹部が、力なく額を押さえながら吐き捨てた。

「だから言ったんだ! あの女をメディアに出し過ぎたんだよ!」

官邸スタッフが声を荒げる。

「連日、日本中に億からの善意をばら撒いた『聖女』を、世間は今、涙を流して心配しているんだぞ! そこで我々が会見を開き、『実は彼女は大量殺人容疑者で、今朝方、警察の包囲網を破って逃走しました』と発表しろと言うのか!?」

「では黙っていろと? すでに現場はマスコミに包囲されています。何も説明しなければ憶測が暴走する!」

怒鳴り合いの中、会議室後方で控えていた若い官僚が、小さく、しかし決定的な声を上げた。

「……問題は」

全員の視線が向く。彼は乾いた喉を鳴らした。

「問題は、我々が逮捕してから発表する予定だったことです」

空気が凍った。

誰も口にしたくなかった、前提の崩壊。

確保し、拘束し、動かかぬ証拠を提示して初めて、実は危険人物でしたと世間を納得させる筋書きだった。

だが、逃げられた。足取りを追うための「影(秘書)」すら掴めない。

今この手ぶらの状態で事実を発表すれば、それは政府とヒーローが、極悪人を世間に解き放ち、完全に取り逃がしましたと全世界へ宣言するのと同義だった。

「国民が大パニックになる……。政権への批判どころじゃない、ヒーロー社会への信頼そのものが崩壊するぞ……」

誰かが絶望的な声で呟いた。

「だから、時間を稼ぐんだよ!!」

沈黙を破り、内閣広報官がデスクを激しく叩いた。

血走った目で、会議室の全員を睨みつける。

「いいですか、幸いにもマスコミも大衆も、こちらの都合の良いように誤解してくれている。なら、政府の公式見解は一つだけだ。バロネス・エインズワース氏は現在、何らかの特異な事案に巻き込まれた可能性があり、プロヒーローが全力で“保護”に向かっている。……これで行く、これ以上の適訳がありますか! 外向きには被害者救出、内実としては全力での身柄確保だ。何が何でも、彼女の首にロープをかけてメディアの前に引きずり出すまでは、このお芝居を――」

「待て。広報官、その会見は却下だ」

低く、有無を言わせぬ声が広報官の言葉を遮った。

声を放ったのは、それまで腕を組んでモニターの凄惨な現場写真を見つめていた内閣危機管理監だった。

広報官が気圧されたように言葉を詰まらせる。

危機管理監はゆっくりと視線を落とし、冷徹な口調で告げた。

「後で『あれは嘘でした』では、余計に収拾がつかなくなる。対象の知性を甘く見るな。もし我々が保護などとぬるい嘘を発表した直後、奴の側から政府と公安に不当に命を狙われたと声明を出されたらどうする。その時点で、我が国の法治国家としての信用は完全に終わるぞ」

「しかし、では外の記者たちには何と……!」

「――10時だ」

危機管理監は手元の時計を鋭く見据えた。現在の時刻は、午前7時56分。

「10時まで奴らの足取りを追う。それまでは、記者たちは適当な理由をつけて待たせておこう。各交通網の網の目を最大まで絞れ。『存在障害』の個性だろうが何だろうが、物理的に移動している以上、どこかで必ず歪みが出るはずだ」

危機管理監は立ち上がり、警察庁幹部と公安委員会の代表を順番に強い眼差しで射抜いた。

「タイムリミットはあと2時間だ。死に物狂いで見つけなさい。あの女が本物の怪物として世間に牙を剥く前に、何が何でも、その首にロープをかけるんだ」

誰も、返事をしなかった。

ただ、冷房の効いた地下会議室に、国家の威信を賭けたタイムリミットの重圧と、泥のような焦燥感だけが沈殿していった。

時刻は、午前8時を回ろうとしていた

 

五月の青森港。津軽海峡を渡って吹きつける風は、初夏を迎えた東京のそれとはまるで異なり、肌を刺すような鋭い北の冷気を孕んでいる。

すぐ目の前には、白く巨大な船体が、まるで鉄の要塞のように岸壁に横付けされていた。

乗船開始のアナウンスが流れると、徒歩の乗客たちが一斉に、船の脇に斜めに架けられた剥き出しのスチール製タラップへと足を向け始めた。

カン、カン、と先行する識の靴音が、無機質に鉄の階段へ響く。

才子もまた、ダークネイビーのパンツスーツの裾を揺らしながら、手すりに触れることもなく、誂えたような確かな歩幅でそのステップを上っていく。一歩登るごとに、視界が地上の高さから離れ、冷たい海原へと近づいていく。

タラップの中ほどまで登ったとき、二人の視線が、自然と斜め下の地上へと向けられた。

ちょうど今、重低音を響かせる長距離トラックの列に混じって、一台の黒いセダンが、じりじりと車両甲板の巨大なハッチ(ランプウェイ)へと吸い込まれていくところだった。

泥を跳ね上げた大型車の群れの中で、そのセダンだけが、異質なほど静かに、完璧に手入れされた漆黒の塗装を鈍く光らせている。

スモークガラスの奥、運転席にいる大柄な男――羆本の姿を、二人は網膜に捉えた。

(予定通り。問題なし)

二人の間で言葉が交わされることはなかった。「羆本が来ている」とも、「予定通り車両甲板へ入った」とも、わざわざ口に出して確認するまでもない。

国家の網の目をすり抜けてここまで来た二人にとって、用意した駒が、用意した通りに機能していることなど、あまりに当然の事実に過ぎないからだ。ただ、事実だけが音もなく共有される。

才子は一度だけ、ターミナルへと視線を滑らせる。

雲の切れ間から、わずかに朝の光が差し込み始めていた。

「少し、潮の匂いが強いのね。……でも、良い天気になりそう」

独り言のような声。半歩後ろの識は、一度も振り返ることなく淡々と応じた。

「ええ、レディ。ただし津軽の海は波が高く、荒れることも多いそうです。どうぞ、お足元にご注意を」

それだけだった。

ゴォォォンと五臓六腑を震わせるような出港前の汽笛が、灰色の海へと響き渡る。

足元をすくわれたマヌケな国家も。

テレビの中の愚かな混乱も。

すべてを岸壁へと置き去りにしたまま、二人は静かに、フェリーの薄暗い内部へと姿を消していった。

 

案内板に導かれ、二人が足を踏み込んだのは、カーペットが敷き詰められた広大な大部屋(2等客室)だった。

すでに何十人もの乗客が、銘々に自分の領地を主張するように私物を広げている。横になって早々に眠りにつくトラックドライバー、おしゃべりに興じる老夫婦、長旅に退屈そうな家族連れ。そこは、旅情というよりも、生活の延長線上にある剥き出しの雑多さに満ちていた。

識は部屋の隅、外の景色が辛うじて覗く大きな窓の近くにある、変色したビニールレザーのソファー席へと才子を静かに誘導した。

お世辞にも座り心地が良いとは言えない固いシートに、才子はダークネイビーの身を深く沈める。周囲には、誰かが持ち込んだカップ麺のジャンクな匂いや、湿った潮の香りが低く漂っていた。

都内の一流ホテルの最高級スイートルームから、この泥臭い大部屋へ。

そのあまりに極端な落差にあっても、真白才子の気品が損なわれることはない。ただ退屈そうに、長い睫毛を伏せて指先を弄んでいる。

その隣では、識が背筋を伸ばしたまま腰掛けていた。膝の上には小さな手提げ鞄。

ダークネイビーのパンツスーツに、縁無し眼鏡。周囲から見れば、どこにでもいる「出張中の女性会社員二人組」にしか見えない。誰一人として彼女たちに視線を向けないのは、向ける理由がどこにもないからだった。

部屋の中央、天井から吊り下げられた大型のテレビモニターは、未だに「東京の事件」を流し続けていた。

『――現在もプロヒーローたちによるホテル内の確認が進められています。先ほど、関係者とみられる車両が――』

『バロネス・エインズワース氏の安否について、政府から正式な発表は――』

音量を絞られたスピーカーから、アナウンサーの切迫した声が漏れ出る。大部屋の住人たちの半分以上が、その画面を食い入るように見つめていた。

「おい、やっぱりヴィランの襲撃だってよ」

「心配だなあ……バロネスさん、無事だといいけどな。昨日あんなに良いことしてた人だろ?」

すぐ近くの敷布の上で、缶ビールを片手に持った男たちが、画面に向かって本気で眉をひそめている。その義憤に満ちた声、善良ゆえの哀れな祈りは、すべて才子と識の耳へダイレクトに届いていた。

自分たちが心配している当の本人が、目と鼻の先で、同じ部屋のソファーに腰掛けているとも知らずに。

東京の地下会議室で、国家の中枢が「10時」という泥縄のタイムリミットに怯え、必死に自分の首にロープをかけようと右往左往していることも知らずに。

日本中が、国家が、ヒーローが、まだ彼女を探している。

その事実だけが、まるで別世界の出来事のように遠かった。

才子は、その滑稽な光景に一度だけ冷ややかな視線を向け、すぐに興味を失ったように瞼を閉じた。その隣で、識もまた縁無し眼鏡の奥の瞳を静かに閉じる。

「……レディ」

識が目を閉じたまま、微かに唇を動かした。

「何かしら」

「到着まで四時間半ほどです」

「そう。……長いのね」

短い返事。それ以上の言葉はなかった。

船底から、地鳴りのような重低音が響いた。出航を告げる、最後の汽笛だ。

巨大な鉄の塊が、ゆっくりと岸壁を離れ、本州という檻から解き放たれていく。青森港のターミナルが、窓の外で少しずつ遠ざかっていった。

昨夜から続いた長い移動。追跡。工作。

ようやく得た、わずかな空白。

さすがに積み重なった微かな肉体の疲労が、心地よい重みとなって二人の意識を沈めていく。

遠ざかる波の音。

テレビから流れる、的外れな世界の喧騒。

それらすべてを子守唄代わりに聞きながら、二人は深くは眠らない。何かあれば即座に覚醒できる程度の、深く、浅い眠りへと、津軽の荒波の微かな振動に身を委ねていった。

テレビの中では、依然としてバロネス・エインズワースの安否が議論されていた。

その本人が数メートル先で眠り始めていることなど、誰一人として知らないまま、船は灰色の海原へと漕ぎ出していく。

 




この話で絶対に越えられると思っていたのに津軽海峡が超えられない
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