善意の剥製   作:タロットゼロ

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進んでるんだから当たり前な話しながらようやく13話のラストシーンに時系列を戻せました


檻の外のバロネス

 

午前九時五十八分。

首相官邸の記者会見室は、異様な熱気に包まれていた。

最前列には全国紙。その後ろにはテレビ局。さらに海外メディアまでが席を埋め尽くしている。

昨日まで慈善活動の象徴として扱われていた一人の女性。その安否を巡る政府発表が行われる。それだけのために、会場は立錐の余地もなかった。

カメラの赤い録画ランプが無数に灯る。記者たちはノートパソコンを開き、ある者はスマートフォンを握り締め、ある者は生放送のイヤホンへ意識を集中させていた。

誰もが予想している。

保護状況の説明。捜索の進捗。あるいは誘拐事件の可能性。その程度だ。

まさか、その数分後に世界が反転するとは誰も思っていなかった。

「定刻前ですが始めます。会見は十一時までを予定しております」

スピーカーから流れた補佐官のそのアナウンスに、記者たちの間に微かな舌打ちが漏れた。定刻より2分早い開始。そして、わずか1時間強という時間制限。政府側がこの後に及んで、質問を強制的に打ち切るための防波堤をあらかじめ築こうとしているのは明白だった。

やがて、会場後方の重い防音扉が開く。

一斉に容赦のないフラッシュの嵐が走った。

官房長官が姿を現す。

その顔には、いつもの政治的な余裕や、マスコミをあしらうような冷笑は一ミリも残されていない。一晩中、地下の特別会議室で国家の危機と直面し続けていたその顔は土気色に濁り、徹夜を重ねた者特有の疲労と焦燥が深く刻み込まれていた。

だが足取りだけは乱れない。壇上へ上がり、無数のマイクが突き出された演台の前に立つ。

咳払い一つ聞こえない。カメラの駆動音だけが小さく響いていた。

官房長官は手元の、何度も書き直された形跡のある厚い原稿へ一度だけ目を落とす。そして顔を上げた。

その瞬間、日本中へ向けた生中継が始まる。

テレビ局。駅のモニター。空港。喫茶店。病院の待合室。

――そして、津軽海峡を渡るフェリーの、カップ麺の匂いが漂う大部屋のモニターまでも。

無数の視線が、その口元へ集中した。

日本中が、昨日あれほど優しく微笑んでいた「聖女」の無事を、涙を流して心配している。その善良な被害者を救い出すための、ヒーローたちの輝かしい凱旋報告を待っている。

そんな中、官房長官は低く、しかしはっきりと告げた。

「この度政府は、アメリカ政府から提供された情報および東都ホテルの監視映像を基に、バロネス・エインズワース氏を『ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)』に指定し、テロ準備罪で指名手配したことを報告いたします」

――誰も理解できなかった。

一秒。

二秒。

三秒。

会見室が、そして日本中が、完全な沈黙に包まれる。

記者たちの脳が、その言葉の意味を処理しきれない。

ペルソナ・ノン・グラータ。

指名手配。

テロ準備罪。

そして、バロネス・エインズワース。

昨日まで全国放送で賞賛されていた聖女の名前と、それらの不穏な単語が、どうしても結びつかなかった。

海外メディアが最初に反応し、椅子を軋ませて誰かが立ち上がった

次の瞬間、会見室は爆発した。

「待ってください!」

「今、何とおっしゃいましたか!?」

「テロ準備罪!?」

「政府は昨日まで何を把握していたんですか!」

「バロネス氏は被害者ではなかったのですか!?」

怒号。悲鳴。狂ったように鳴り響くシャッター音。

無数の質問が銃弾のように飛び交う、だが官房長官は微動だにしなかった。

震える指先で次の原稿へ視線を落とすその姿は、まるでこの後に続く、世界が崩壊していくほどの混沌を予期しているかのようだった。

「静粛に、静粛にお願いします! 質問は挙手をし、所属と氏名を明らかにしてからお願いします!」

演台の脇に控えていた補佐官が、割れんばかりの怒号を遮るようにマイクへ声を張り上げた。その声には、怒りよりも、今にも決壊しそうな防波堤を必死に支えるような切迫感が混じっている。

その制止の言葉が終わるか終わらないかのうちに、会見場は一斉に突き上げられた「手の海」で埋め尽くされた。全国紙、テレビ局、通信社、海外メディア。数十本の手が林立し、会場は狂乱に包まれる。

「長官! 説明を!」

「こちらをお願いします!」

官房長官の鋭い視線が、最前列で激しく手を挙げていた一人の男を指名した。

「――最前列、の紺のスーツの方」

指名された男は、立ち上がると同時に、震える手でボイスレコーダーを演台へと突き出した。興奮と困惑で、その顔は紅潮している。

「東都新聞の、佐伯です! 長官、本日早朝、都内の東都ホテルにシルキーパンサー氏やミスターファルコン氏、チェインスリンガー氏といった、対ヴィラン戦闘の最前線に立つ複数のプロヒーローが突如集結し、現場が完全に封鎖されるという異常事態が起きています! ネットやSNSではバロネス氏が襲撃されたのではないかと大騒ぎになっており、先ほど『要人保護やヴィランの襲撃は政府として確認していない』とのお話もありましたが……。では、あのヒーローたちの出動は、エインズワース氏の保護ではなくテロ容疑者としての身柄拘束のために動いていた、ということでしょうか!? ホテルの中で一体何が起きたのか、詳細を説明してください!」

一気呵成に浴びせられた質問。

会見場全体の視線が、再び官房長官の口元へと集中する。

官房長官はゆっくりと目を閉じ、一度だけ深く、重い息を吐き出した。そして、覚悟を決めたように目を開くと、マイクに向かって冷徹な声を響かせた。

「……ご指摘の通り、今朝方のプロヒーローたちの出動は、バロネス・エインズワース氏の身柄をテロ準備罪、および複数の最高重要容疑で拘束するための強制執行でした。しかし――」

官房長官は言葉を一度区切り、手元の原稿を握り締める指に、血がにじむほどの力を込めた。

「容疑者側による、極めて周到かつ残虐な抵抗に遭い、現場の監視要員が多数殺害されました。プロヒーローたちが現場へ突入した段階で、すでにバロネス・エインズワース、およびその共犯者ととされる同行者3名は、現場から逃走した後でした」

――その瞬間、会見場に、先ほどを遥かに凌ぐ絶望的な悲鳴と、言葉にならない衝撃が走った。

「多数、殺害……!?」

「ヒーローの包囲網を破って逃げたってことか!?」

カメラのフラッシュが狂ったように焚かれ、会場全体が白く瞬く。記者たちの脳が、その現実を処理しきれずにパニックを起こしていた。

「現在、警察庁、およびヒーロー公安委員会が全力を挙げて全容の解明と、容疑者四名の行方を追っています」

官房長官は、騒然とする記者たちを冷たく見据えながら、文字通り日本社会の前提を覆す事実を宣告した。

「国民の皆様に申し上げます。バロネス・エインズワースは、善意の支援者などではありません。我が国の安全保障を根底から揺るがす、極めて凶悪な、潜伏型の国際テロリストです。……彼女らの姿を目撃した、あるいは何らかの情報をお持ちの方は、決して近づくことなく、直ちに警察、またはお近くのヒーロー事務所へ通報してください」

昨日まで日本中が熱狂し、涙を流して感謝していた「聖女」が、一瞬にして、この国で最も危険なヴィランの一人へと反転した瞬間だった。

会見場の空気は、すでに限界まで張り詰めていた。

ペルソナ・ノン・グラータ指定。テロ準備罪による全国指名手配。その衝撃だけでも十分すぎるほどだった。だが記者たちは納得していない。いや、納得できるはずがなかった。昨日まで善意の聖女と呼ばれていた女が、一夜にして国家の敵へと変わったのだ。

「――次、中央の、あなた」

補佐官の声に促され、中段の席から立ち上がったのは、公共放送のベテラン記者だった。普段は冷静で客観的な報道を心掛ける立場でありながら、その男のマイクを握る指先は微かに震え、眼鏡の奥の目は怒りと戸惑いで血走っていた。

「MHKの、沼田です」

男は、絞り出すような、しかし会見場全体に響き渡る重い声で問いかけた。

「長官、今多数殺害と言われましたが、言葉が抽象的過ぎます。国民は今、言葉にできない恐怖と大混乱の中に置かれている。一体、ホテル内で何が起きたというのですか。犠牲になったのはどのような人たちで、現場はどういう状況なのか、隠さずはっきりとさせていただきたい。政府が全容を掴んでいるのであれば、その具体的な事実を、今この場でつまびらかにすべきです」

詰め寄る公共放送の問いに、会見場は水を打ったように静まり返った。誰もが、その具体的な事実を恐れながらも、耳を傾けざるを得ない。

官房長官は、机の上の演台を両手で強く突いた。その拍子に、手元の原稿がわずかにズレる。彼は前を向いた。その双眸に宿る影は、今この場で口にせねばならない国家の失態と怪物の残虐性への底知れない忌避感に満ちていた。

「……現在、遺体の身元確認と現場検証が続いておりますが、お答えできる範囲で事実を伝えます」

長官は乾いた喉を鳴らし、一文字ずつ、吐き捨てるように言葉を紡いだ。

「現場となった東都ホテル、およびその周辺において、バロネス・エインズワースの監視、および要人警護任務に当たっていた内閣情報調査室、公安警察の潜入捜索員、計六名が……全員、遺体で発見されました」

「六名……っ!?」

会場のあちこちで、息を呑む音が漏れた。プロの監視要員たちが、一晩のうちに、都心のど真ん中で完全に全滅させられたのだ。

「その、殺害手法についてですが……」

官房長官の顔が、目に見えてさらに一段、青ざめていく。

「発見された遺体は、全員が全く同じ手法で殺害されていました。死因は、頸椎の完全な破壊。……先行して現場に入った者の報告によれば、犠牲者全員が、頭部を180度真後ろへと無理やり回されていたとのことです」

「ひっ……!」

短い悲鳴が、会場のどこかから上がった。

「対象が宿泊していたスイートルームの階から三階降りた客室に詰めていた監視員が二名。地下駐車場の車の中に詰めていた配置員が二名。そして、道路を挟んだ向かいのホテルから望遠機器で監視を続けていた班が二名。……その全てです」

長官は一度言葉を切り、きつく奥歯を噛み締めた。

「いずれの現場も、抵抗した痕跡がほとんど見られません。無線による応援要請や、異常を知らせるアラートすら一切発せられないまま、次々と処理されたものと推測されます。向かいのホテルや地下駐車場といった、物理的に完全に離れた三カ所の拠点が、誰にも気づかれることなく、短時間で静かに潰されている。人間の肉体に対して、その首を180度回すという一点のみに、常軌を逸した能力と冷徹な殺意が執拗に行使されていました」

長官は再び原稿に視線を落としたが、その声は微かに震えていた。

「凄惨、という言葉すら生ぬるい。それは抵抗の機会すら与えられぬまま、一方的に処理された、明らかな屠殺です。プロヒーローたちが突入した段階で、現場に生存者は皆無でした」

――悲鳴のあと、完全な沈黙が会見室を支配した。

あまりにも冷徹で、あまりにも異常な凶行。

離れた三地点のプロたちを、声を上げる暇すら与えず順番に巡り、その細い指先で首を一本ずつ、無造作に真後ろへとねじ回していったという事実。

その無機質で圧倒的な残虐性に、記者たちはペンを握る手すら凍りつかせ、ただ呆然と演台の上の男を見つめることしかできなかった。

「――次、左前方の、グレースーツの女性の方」

補佐官の指名を受け、少し後ろの列から立ち上がったのは、中堅の女性記者だった。彼女の表情には恐怖よりも、報道陣としての執拗な疑念が勝っている。

「夕日テレビの、片桐です」

片桐は手元の資料に目を落とすことなく、真っ直ぐに官房長官を射すような視線で見つめた。

「長官、今お話しされた三拠点の惨状ですが、あまりにも不可解です。監視員が配置されていた場所は、ホテルの上下階、地下、さらには向かいのビルと、物理的に完全に分散しています。防犯カメラやホテルのセキュリティチェックを潜り抜け、誰にも気づかれずにこれほどの手際で六名を殺害するなど、本当に一人の人間に可能なのでしょうか。……お伺いします。それは本当に、バロネス・エインズワース氏単独の、あるいは彼女らによる犯行なのでしょうか? 犯行の瞬間を捉えた映像や、現場に残された遺留品など、彼女らが犯人であるという明確な客観的証拠はあるのですか!?」

矢継ぎ早の追及に、会見室の空気がわずかに張り詰めた。

昨日まで善意の聖女として日本中が熱狂していた人物を、国家が一夜にしてテロリストへ反転させたのだ。記者たちの誰もが、心のどこかで「あの聖女がそんな怪物のわけがない」「政府の言っていることは本当に正しいのか」という、否認と疑念の心理を捨てきれずにいた。その根拠を問うのは当然だった。

官房長官は演台を両手で掴んだまま、片桐の視線を正面から受け止めた。

その表情に走ったのは、苦渋、そして警察当局から報告を受けた際の、言いようのない無力感だ。

「……率直に申し上げます。東都ホテル、および周辺施設の防犯カメラは、犯行時刻と思われる時間帯、すべて、画角の歪みが生じており、容疑者が部屋を移動する姿も、犯行に及んでいる決定的な瞬間も、記録としては残されておりません。現場の遺留品からも、彼女らの指紋やDNAは一切検出されませんでした」

その回答に、会見室が一瞬、色めき立った。

「本当に証拠がないのか?」「政府の誤認じゃないのか?」という囁きが、波のように広がりかける。

だが、長官はそれを許さなかった。顔を上げマイクへ向けて、全カメラの向こうにいる国民へと釘を指すように一段と低い声を叩きつける。

「今朝方、プロヒーローが拘束のために突入した際、彼女らはすでに部屋から姿を消していた。もし彼女らが、今マスコミの皆様が疑うような『ヴィランに襲撃された無実の被害者』であるならば、なぜ包囲網を破ってまで行方を眩ませる必要がある。なぜ警察やヒーローに保護を求めず、自ら闇へと潜伏したのか」

長官の言葉が、鋭いナイフのように会見室の疑念を切り裂いていく。

「一切の足取りを残さず、国家の監視の目を完璧にすり抜け、この都心から忽然と消え失せてみせた。その超常的な逃走の事実そのものが、彼女らが常軌を逸した能力を持つテロリストであるという、何よりの証明です。無実の人間が、公安警察の精鋭六人の首を折り、痕跡を一つも残さずに逃げおおせることなど、断じて不可能です」

反論の余地を完全に圧殺する、冷徹な状況証拠の提示。

夕日テレビの記者はそれ以上言葉を繋ぐことができず、唇を噛み締めながらゆっくりと席へ戻った。

「――次、右側、其処の眼鏡の方」

補佐官の鋭い指名を受け、通路側にいた若手の男性記者が勢いよく立ち上がった。その手は、手元のスマートフォンを握りしめたまま小刻みに震えている。ネット上で錯綜する無数のデマや憶測を、その目で見てきた者の焦燥が隠せなかった。

「富士山テレビの、高梨です!」

高梨は前のめりになり、一切の前置きをせずに演台の上の長官へ言葉をぶつけた。

「長官、先ほどからテロ準備罪、国際テロリスト、多数殺害事件といった極めて重大な説明が続いています。しかし、国民が今一番知りたいのはそこではありません。バロネス・エインズワース氏は、現在どこにいるのでしょうか。政府は身柄を確保しているのですか、していないのですか。現在も国内にいるのか、すでに国外へ逃亡した可能性はあるのか。国民への危険は、現在進行形でここに存在しているのですか。現在の正確な状況を教えてください!」

矢継ぎ早の、しかし核心を突いた質問が発せられた瞬間、官房長官の背後に控えていた補佐官たちの表情が一斉に強張った。会見室の全カメラが、長官の顔を限界までズームする。

長官は原稿を持った手を静かに下ろした。

そして、一晩中、国家の中枢を窒息させてきたあの「泥のような絶望」を、ついに日本中の前で認めざるを得ない瞬間が来たことを、その重い沈黙で示していた。

「……率率に、現状をお伝えします」

長官の声は、驚くほど平坦で、それゆえに不気味な響きを帯びていた。

「現時点において、バロネス・エインズワース、および同行者三名の足取りは――完全にロストしています」

「ロス、ト……?」

高梨がオウム返しに呟き、会見室が一瞬、静まり返った。あまりにも想定外の、最悪の回答だったからだ。

「現在、首都圏のすべての鉄道、高速道路、航空網、および港湾施設に対し、検問および照会をかけ、主要な移動ルートは完全に封鎖されています。しかし、防犯カメラの顔認証システムや、各地の生体センサーに至るまで、彼女らの姿を捉えた形跡は、今朝の逃亡以降、一枚たりとも、一箇所たりとも確認されておりません」

長官は淡々と、しかし決定的な敗北を口にしていった。

「これは、物理的な包囲網をかい潜っているというレベルではありません。国家が持つすべての監視ネットワークの網の目から、彼女らの存在そのものが完全に消失している状態です。同行している共犯者が、他者からの認識やセンサー類の探知を極端に阻害する、極めて特異な隠蔽個性の保持者である可能性が高く、我々のあらゆる定石が通用していません。結論として、彼女らの現在の身柄がどこにあるのか、どの方向へ移動しているのかすら、政府としては把握できておりません」

信じられない、というように、多くの記者が持っていたペンを止めた。

一国の警察権力と、最前線のプロヒーローたちが束になって動きながら、東京のど真ん中から逃げた男女四人の影すら踏めていないという、致命的な無力。

「完全に潜伏された、と判断せざるを得ない状況です。国民の皆様には冷静な対応をお願いするとともに、対象を発見した場合は決して接触せず、速やかに警察またはヒーロー事務所へ通報してください」

怒号とフラッシュの嵐は止むことはなく、時計の針が十一時を回ってもなおざわつく会見室の空気の中長官のその言葉は、捜索の進捗報告などではなく、この国が姿の見えない巨大な脅威を完全に野に放ってしまったという、絶望的な敗北宣言に他ならなかった。

 

「予定の十一時を過ぎましたので次を最後の応答とさせてきだきます。では次は、後方におられるそのシャツを着た方で」

補佐官が苦渋に満ちた疲れた声で指名すると、会見室の最後列から、ノートパソコンを抱えた男が激しい勢いで立ち上がった。ネット部門の記者らしい、容赦のない、そして世論の怒りを代弁するような剥き出しの敵意がそこにはあった。

「毎読新聞、ネット部門の、沼尻です!」

男はマイクに怒声をぶつけるようにして、一気呵成に問い詰めた。

「長官、政府やヒーロー公安委員会は、彼女の危険性を前々から把握していたということですよね!? 彼女は何かにつけては日本のヒーロー社会を公然と皮肉り、世論を煽っていました。もし危険だと知っていたのなら、なぜそんな人物の国内での聖女としての欺瞞活動をここまで放置し、のうのうと大金をばら撒かせ、メディアに露出させていたのですか! これは政府とヒーロー公安委員会の、明らかな怠慢、重大な失政ではないでしょうか!」

怠慢という言葉が会見室に鋭く響き渡り、他の記者たちからも賛同の囁きが漏れる。

官房長官は、怒鳴りつけてきた記者を、ただ冷徹な眼差しで見据えていた。

その表情に走ったのは、激昂ではなく、ついにこの国家の最大級の恥部を曝け出さねばなくなり、自身の政治生命の終わりを悟った者の、ドス黒い諦念だった。

「……怠慢、ではありません。断じて放置していたわけではない」

長官はマイクへ向かって、地を親うような低い声を響かせた。

「警戒と犯罪立証は全く別の問題です。バロネス・エインズワースの日本ヒーロー社会に対する言動について、政府、および公安委員会が苦々しく思っていたのは事実です。しかし、彼女のこれまでの慈善活動、および資金の移動に違法性は認められず、国際的な外交特権という高い壁の前に、法治国家としての我が国は、疑念のみを理由に彼女の行動を物理的に制限する決定的な大義名分がなかった。……三日前までは」

長官は手元の原稿を裏返し、そこに記された、血の気の引くような外交文書の記録を見据えた。

「すべてが変わったのは、三日前です。……アメリカの最高峰プロヒーロー、スターアンドストライプ氏が、ヴィランの首魁である死柄木弔との戦闘により戦死された件は、記憶に新しいかと思います」

会見場が一瞬で静まり返る。世界最強のヒーローの死という、今なお続く混迷の元凶。

「あの戦闘の際、なぜ我が国のプロヒーローが彼女への正式な援護に向かえなかったのか。……それこそが、バロネス・エインズワースによる、イギリス外交官の立場を利用した卑劣な外交脅迫によるものでした。彼女は我が国に対し、日本が正式にスターアンドストライプを援護すれば、それは国際法違反となり、国交に重大な亀裂が入ると政府中枢を脅迫し、結果として我が国の足元を完全にすくってみせた」

長官の声に、剥き出しの怒りと悔しさが滲む。

「スターアンドストライプ氏戦死の原因の、実に7割が、このバロネス・エインズワースによる外交介入、および援護の妨害によるものです。この事態にアメリカ政府が、独自に対象の徹底調査を敢行。その結果――本日の未明に米国側から決定的な証拠が我が国へ提出されました。バロネス・エインズワースの正体は、我が国のみならず世界を滅ぼさんとする最凶の敵、オール・フォー・ワンの直属の部下である、と」

「――ッ!!」

会見室全体が、今度こそ声にならない大絶叫に包まれた。

オール・フォー・ワン。その名が出た瞬間、全ての点と線が繋がり、記者たちの顔から一斉に血の気が引いていく。

「アメリカ政府からは、事実上の最後通牒として『直ちに真白才子を拘束し、我が国へ差し出せ』との極めて強い要求を受けました。政府が本日早朝、多大なリスクを承知の上でプロヒーローによる身柄確保の強制執行に踏み切ったのは、この国際社会を揺るがす決定的な裏切り行為が発覚したためです。結果として、最悪の惨劇を招き逃亡を許してしまったことについては、政府として弁解の余地はありません。しかし――」

長官は、騒然とする記者たちを、そしてカメラの向こうの日本中を、強い口調で射抜いた。

「彼女は、ただ法律の網の目を潜り抜けていただけではない。最初から、この国を、世界のヒーロー社会を内側から崩壊させるために送り込まれた、オール・フォー・ワンの凶刃だったのです。政府は現在、アメリカ当局とも連携し、総力を挙げてこの怪物の追跡を行っております。……以上をもちまして、本日の緊急記者会見を終了いたします」

沼尻は席へ戻らなかった。顔を真っ赤にしたまま、再び声を張り上げる。

「待ってください!」

会見終了を告げたはずの官房長官の足が止まる。無数のカメラのレンズが、一斉に再び沼尻へ向けられた。

「それでは国民はどうなるんですか!」

会見室の空気が再び破裂しそうなほどに張り詰める。沼尻は怒りとも困惑ともつかない、一人の騙されていた人間としての悲痛な叫びをぶつけた。

「昨日まで日本中が彼女を称賛していました! 子供たちは憧れ、大人たちは寄付に感謝し、テレビも新聞も彼女を『聖女』として扱ってきた! それら全部が、我々をあざ笑うための嘘だったということなんですか!? 国民はあの女に騙されていたと、政府はそう言うんですか!?」

会見室のあちこちで、力なく頷く記者たち。それは、日本中の誰もが今まさに抱き、混乱している感情そのものだった。

官房長官はしばらく答えなかった。

そしてゆっくりと振り返る。徹夜による疲労で泥のように落ち窪んだ目が、会場全体を見渡した。その双眸にあるのは、激昂ではなく、ドス黒い諦念と苦味だった。

「……その問いに対して、政府は軽々しく答えるべきではないと思っています」

意外な返答に、沼尻も一瞬言葉を失う。長官はマイクへ向かって、地を這うような低い声で続けた。

「児童養護施設への寄付が存在しなかったわけではありません。被災地支援が行われなかったわけでもありません。実際に彼女の手によって救われた人々がいたことも、動いた資金の額も、すべて否定しません。その事実まで嘘だと断定するつもりは、政府にはありません」

数秒の沈黙。そして官房長官は、重く言葉を落とした。

「しかし。善行が存在したことと、その人物が犯罪者ではないことは、全く別の問題です。たとえ百人を救ったとしても、一人を殺してよい理由にはなりません。たとえ十億円以上の金額を寄付したとしても、それが国家への裏切りや、公安職員六名の殺害を免罪することはありません」

誰も声を出せない。ただカメラの駆動音だけが響く中、長官はゆっくりと会場を見回した。

「国民が騙されていたのか、と問われれば――。我々自身もまた、騙されていた可能性を否定できません」

その瞬間、会見室全体が凍り付いた。国家機関の完全な失態を認めるに等しい発言だった。

「だからこそ我々は今、この状況を招いた責任を負っています。繰り言になりますがアメリカ政府から、『直ちに真白才子を拘束しろ』という決定的な証拠と共に、事実上の最後通牒とも言える極めて強い要求を受け、本日早朝にプロヒーローによる強制執行に踏み切ったのは事実です。結果として、最悪の惨劇を招き逃亡を許してしまったことについては、政府として弁解の余地はありません」

長官の声はどこまでも静かだった。だがそこには、先ほどまでのマスコミをあしらうような政治家の声音ではなく、一人の敗者の苦味が混じっていた。

「少なくとも私は、昨日テレビで子供たちに微笑みかけていた彼女の姿を見ていた国民を、責めるつもりはありません。なぜなら――我々国家機関ですら、彼女が世界を内側から崩壊させるために送り込まれたオール・フォー・ワンの凶刃であったことを、つい昨夜まで、完全には見抜けなかったのですから」

その言葉は、回答というより、この国が姿の見えない巨大な脅威に敗北したという、重い宣告だった。

政府は現在、アメリカ当局とも連携し、総力を挙げてこの怪物の追跡を行っている。

そう言い残し、フラッシュの嵐を背中で浴びながら

 

フラッシュの嵐と、飛び交う怒号のような質問を背中で浴びながら、官房長官は一度も振り返ることなく、足早に演台を去っていった。

時刻は、午前十一時十五分。

聖女の正体は、オール・フォー・ワンの懐刀という、世界中を巻き込む破滅的なニュースが世界中へと流される。

広島市民体育館を改装した臨時避難所。

時刻は午前十一時半。昼食前の時間帯だった。

ステージ脇のテレビの前には、十数人の避難民が集まっている。だが、誰も喋らない。

官房長官の会見が、たった今終わったばかりだった。

画面には、繰り返し流れる臨時ニュースの速報。

【バロネス・エインズワース全国指名手配】

【テロ準備罪】

【オール・フォー・ワン直属】

不気味な赤いテロップだけが、何度も、何度も明滅している。

その文字をただ見つめながら、一人の老人がぽつりと呟いた。

「……嘘だろ」

誰も、返事をしない。

体育館の隅には、大量の段ボールが山積みにされている。そのほとんどの側面に、同じ美しい紋章が印刷されていた。

エインズワース財団。

ここにいる子供たちは、みんなその箱を知っていた。毎日食べる菓子も、学校へ行くためのノートも、今履いている靴も、全部あの箱から来たのだ。

「今日……来るのよね」

若い母親が、膝の上の子供をきつく抱きしめながら呟く。隣の女性は顔を背け、答えることができない。

本来なら正午前、校庭にあの白い大型トラックが入り、今週分の支援物資が到着する予定だった。

米。缶詰。粉ミルク。生理用品。

行政の配給が滞り、完全に不足していた命綱が、綺麗に補充される日。

だがテレビは言っている。その支援者は、世界を滅ぼそうとした最悪のヴィランの手先であり、国際テロリストだった、と。

「来ないよね……もう。財団がそんなことになったなら、資産も物資も、全部国に差し押さえられて凍結されちゃうんでしょ……?」

母親の震える言葉に、体育館の空気がさらに冷たく重くなる。誰も否定できなかった。

テレビが正しいなら、輸送は止まる。支援は終わる。考えたくなくても、明日の配給がどうなるかなど分かってしまう。

「政府が、代わりに出すんじゃないのか?」

壁際に座り込んだ男が、縋るように言った。だが、その声に力はない。

この避難所の人間は全員、知っていた。家を失ったあの日、ここへ最初に物資を持ってトラックを走らせてきたのが誰だったか。

行政でも、大企業でも、プロヒーローでもなく。あの銀髪の女だった。

雨の激しく降る日、凍えるような体育館に温かいスープを運ばせて「大丈夫ですわ」とテレビで今朝まで流れていたのと同じ、あの穏やかな声で、一人一人の手を握ってそう言っていたのだ。

老人が、顔を伏せて頭を抱えた。

「じゃあ、あれも全部……俺たちをハメるための演技だったのか……?」

誰にも分からない。本当に彼女がテロリストなのか。政府が正しいのか。何が真実なのか。

そんなことより、今ここにいる人間たちには、もっと原始的で、明日の生存に関わる切実な問題があった。

腹が減る。子供は泣く。薬はなくなる。現実は、待ってくれない。

テレビの中では、避難所の事情を知らないコメンテーターたちが、保身のために中身のない言葉を濁し続けている。その薄っぺらな声だけが、静まり返った体育館の天井に、虚しく響いていた。

 

アメリカ大使館、大使執務室。

大型モニターに映っていた日本政府の緊急記者会見が終わり、室内には数秒の重い沈黙が落ちた。

画面の中で、疲れ果てた日本の官房長官が演台を去っていくところだった。

大使は背もたれへ身体を預ける。机の上には冷めかけたコーヒー。窓の向こうには、冬の東京の空が広がっている。

そしてテレビ画面の隅では、未だに不気味な速報テロップが流れ続けていた。

【バロネス・エインズワース全国指名手配】

【テロ準備罪】

【オール・フォー・ワン直属の部下】

大使は無言でそれを眺め、やがて、

「……ふん」

小さく鼻を鳴らした。満足とも不満とも取れない、冷徹な声音だった。

側に控えていた政務参事官が口を開く。

「いかが見られますか、閣下」

大使は即答した。

「五十点だ」

参事官が眉を動かす。

「低いですね」

「本来なら今頃、身柄を無傷で確保されているはずだった」

大使は吐き捨てるように言った。

「身柄を拘束し、ワシントンへ移送する。それが百点だ。東京のど真ん中で精鋭を殺され、逃がした時点で大失態だと言わざるを得ん」

テレビ画面には、行方不明、捜索継続といった言葉が並んでいる。大使は肩を竦めた。

「だが――」

その視線が再びテロップへ向く。

「少なくとも、日本政府は庇わなかった。スターアンドストライプを失った我が国の世論を宥めるための、格好の生贄としては十分機能する」

参事官が静かに頷いた。

「ええ。これで真白才子は、表の社会での『イギリス外交官』という最強の盾を完全に失いました。慈善家としての資金源も、メディアを使った世論誘導の牙も、日本政府自身の手によってへし折られた形です。彼女はもう、ただの追われるテロリストに過ぎません」

「そうだ。泥をかぶる役目は、すべて日本人にやらせればいい」

しばらくして、大使はデスクの上の受話器を取った。厳重な暗号化が施された、秘書を介さない本国への優先直通回線だった。

短い呼び出し音の後、すぐに接続される。

「こちら東京」

数秒。相手の声を聞く。大使は感情を排し、簡潔に報告した。

「日本政府は公式に切り捨てました」

沈黙。

「ええ。現時点では全国指名手配。ペルソナ・ノン・グラータ指定も確認済みです。……はい」

さらに、長い沈黙。

受話器の向こうから、地球の裏側の意思が返ってくる。大使の表情はほとんど変わらない。やがて短く答えた。

「了解しました。――『しばらく静観しろ』、ですね」

電話が切れる。受話器を戻す大使の動作は、恐ろしいほど落ち着いていた。

参事官が尋ねた。

「ホワイトハウスは?」

「静観だ。日本側にやらせろ、とのことだ。今こちらが前に出れば、日本国内の余計な反発を招く。彼女は今や、日本政府自身の問題になった。日本警察とプロヒーローどもが、血眼になってあの怪物を追い回し、勝手に消耗していくのを眺めていればいい」

参事官は黙る。大使もまた、窓の外の東京を見つめたまま黙った。

部屋に流れるのは、テレビの音声だけ。コメンテーターたちが混乱した声で中身のない議論を続けている。だが大使の興味は、そんな国内の喧騒にはなかった。

問題は一つだけだった。

あの怪物は、日本の包囲網に捕まるのか。それとも――この世界から完全に消えるのか。

机の上で、スマートフォンが激しく震え始める。各国大使館からの照会、同盟国からの問い合わせ、本国からの追加分析要求。

世界はすでに、真白才子という存在を中心に動き始めていた。

大使は再びテレビへ目を向ける。

画面の隅には、昨日まで世界中が聖女と称賛していた、あの銀髪の女の写真が静かに映し出されていた。

 

在日英国大使館。

重厚な執務室には、ただ静寂だけが満ちていた。

壁掛け時計の秒針が、規則正しく時を刻む。

ステージ脇のモニターでは、日本政府の緊急会見が終わったばかりだった。

画面下を、無機質な赤い速報テロップが這うように流れていく。

【バロネス・エインズワース 全国指名手配】

【テロ準備罪】

【オール・フォー・ワン直属】

その文字列をただ見つめながら、英国大使は最後の一口を飲み干した。

最高級のダージリン。香りは申し分ない。だが、今は少し苦く感じられた。

カップをソーサーへ戻す。カツン、と小さな音が響いた。

「……ふん」

短い鼻息。怒声ではない。机を叩くこともない。しかし、長年外交の最前線にいた者なら、その一音だけで彼が極めて不機嫌であることを理解できた。

日本政府が予想以上に踏み込んだ。あのアジアの小国が、こちらの許可も得ず、勝手に彼女をテロリストと断定し、その外交特権を剥ぎ取ってみせたのだ。

真白才子。バロネス・エインズワース。

彼女が英国貴族の称号を得た理由。外交官資格を持って日本へ送り込まれた理由。

それは彼女の人格や功績への褒賞などでは、断じてない。

すべては、あの『オール・フォー・ワン』という最悪の災厄が、ドーバー海峡を渡って我が国へ牙を向けぬよう、日本を終の戦場として縛り付けておくための――都合の良い「防波堤」であり、貢ぎ物だった。いつでも切り捨てられる、使い捨ての手札(カード)の一枚。

だが、極めて有用なカードだった。それは事実だ。日本が勝手にそのカードを握り潰したということは、英国の安全保障の計算を狂わされたことに他ならない。

大使は無言で受話器を取った。暗号回線、ロンドン直通。

数秒後、時差を越えて応答が入る。

「こちら外務省」

大使は感情を排し、簡潔に報告した。

「日本政府が動きました。全国指名手配。ペルソナ・ノン・グラータ指定も確認」

「……承知している。確認済みだ」

受話器の向こうの、短い返答。淡々としてはいるが、向こうも面白く思っていない気配が伝わる。

「我々の手札が一枚、完全に潰されました」

「そうだな」

数秒の間、回線の向こうで協議する気配がし、やがて結論が下される。

「現時点で、英国政府として日本への公式抗議は行わない」

大使は眉を僅かに動かした。予想通りだった。

「理由は」

「アメリカが先に動いている。スターアンドストライプを失った、ワシントンの激怒だ。今回の情報開示の圧力もすべてアメリカ主導。今ここで我が国が前面に出れば、余計な摩擦を生む。利益がない」

「では」

「――静観しろ。日本政府にも、そしてエインズワース本人にも接触するな。捜索支援も一切行わない。今は誰も動くな」

「承知しました」

受話器が切れる。室内に再び、重苦しい静寂が戻った。

大使はゆっくりと椅子へ身体を預け、窓の外の初夏の東京の街並みを見つめた。

一転して追われる身となった銀髪の女が、今どこにいるのか。

外交特権を失ったエインズワースなど、ただの賞味期限切れの肉だ。それに、彼女を指名手配したということは、日本は自らの手で「防波堤」を壊したのだ。これからあの国が、オール・フォー・ワンという本物の怪物の怒りをまともに食らうことになる。

問題は、その手札がどこへ消えたのか。そして、消えた本人が、今この瞬間何を考えているのか。

特等席から、極東の島国が燃え盛る様を眺めるのは、さぞ良い退屈しのぎになるだろう。

大使は静かに目を閉じた。

机の上には、冷めかけた空のティーカップだけが、冷たく残されていた。

 

東京から遠く離れた、地方都市の寂れた雑居ビル。

その三階にある小さなヒーロー事務所の空気は、官邸やテレビ局のパニックとは、全く違うベクトルの熱を帯びていた。

ガタガタと不快な駆動音を立てる旧式のエアコン。黄ばんだ壁紙。

壁には災害救助や迷子の保護といった、誰も見向きもしない地方ヒーローの、色褪せた活動写真が並んでいる。

かつては十人以上のプロヒーローが所属し、手狭なほど活気のあったオフィスだった。だが今や、事務机のほとんどが空席となり、主を失ったパイプ椅子が虚しく並んでいる。誰も座らない椅子、使われなくなったロッカー。それが、彼らの突きつけられた現実だった。

原因は、あの銀髪の女だった。

バロネス・エインズワースがメディアを使って執拗に繰り返した、地方ヒーローや底辺ヒーローへの「税金泥棒」「自己満足の暴力」という痛烈な批判。それに扇動された市民からの容赦のないバッシングと嫌がらせに耐えかね、若手たちは次々とコスチュームを脱ぎ、事務所を去っていったのだ。

十人いた仲間は、いまや、わずか三人。

「――っ、ひ、ひひ……!」

静まり返った事務所に、低く、押し殺したような笑い声が漏れた。

デスクに足を乗せ、テレビの臨時ニュースを凝視していた所長の荒木は、ニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべていた。

四十代半ばの中年男性。万年ビルボードチャート圏外。輝かしいスポットライトとは無縁の泥臭い治安維持を続けてきた男の顔には、無精髭と、ここ数週間、真白才子のヒーロー批判にひたすら胃を焼き続けられてきた者の、ドス黒い怨念が刻まれている。

その荒木の背中に、一人の若い女性が冷ややかな視線を投げかけた。

「……随分と嬉しそうですね、所長」

二十代前半の女性ヒーロー、アキだ。

残った数少ないメンバーの一人である彼女は、手元で装備のメンテナンスを続けながら、あからさまに呆れたような声を出す。

テレビの画面には、赤い速報テロップ。

【バロネス・エインズワース全国指名手配】

【テロ準備罪】

【オール・フォー・ワン直属】

聖女の皮を剥がされた真白才子の顔写真が、凶悪な国際テロリストとして大々的に報じられていた。

「ああ、嬉しいさ。嬉しくて堪らんねえ!」

荒木は缶コーヒーを開け、大仰に両手を広げて背伸びをした。その目は、ここ数年で一番ギラギラと輝いている。

「これで天下晴れて、あの女に思い知らせてやれるんだからな。昨日まで聖女様のお言葉とやらを聖書みたいに崇めて、俺たちを非難していたバカ市民ども、今頃全員、自分がヴィランの手先を拝んでたって気づいて、泡食ってやがるだろうよ!」

「……不謹慎ですよ。公安の人が六人も殺されてるんです。それに、もしあの女が本当にオール・フォー・ワンの直属なら、私たちみたいな弱小事務所が太刀打ちできる相手じゃ……」

「そんなことは関係ねえんだよ!」

荒木はアキの言葉を遮り、鋭い目付きでテレビの画面を指差した。

「強かろうが、魔王の凶刃だろうが、指名手配されたってことは、あの女はもう保護対象の要人じゃねえ。ただの『ヴィラン』だ。ヒーローを散々オモチャにして社会を腐らせてくれたツケを、今度は俺たちが合法的な暴力で取り立ててやれるんだよ!」

荒木は立ち上がり、壁に掛けられた古びた自身のコスチュームを見つめた。

市民からどれだけ罵倒されようが、収入が減らされようが、意地だけで維持してきた事務所だ。

「おい、アキ。残ったもう一人を起こしてこい。今週分のパトロールのルートを倍にするぞ」

「倍に!? 本気ですか? 人手が足りません!」

「見つけ出すんだよ。東京をロストしたってんなら、こんな地方のクソ田舎に紛れ込んでくる可能性だってゼロじゃねえ。もし運良く俺たちの網にかかったら……」

荒木は拳をガチリと固め、狂おしいほどの執念を込めて笑った。

「その時は、万年圏外のヒーローの泥臭さを、あの高貴なバロネス様に骨の髄まで教えてやる。行くぞ、仕事だ」

大国が見捨てる中、メディアが怯える中、被災地が絶望する中。

バロネス・エインズワースへの純粋な「復讐心」と「ヒーローとしての意地」を燃やす地方の狩人たちが、静かに牙を研ぎ始めていた。

事務所のテレビだけが、冷たく昼のニュースを流し続けていた。

津軽海峡を北へと進むフェリーの、二等大部屋。

カーペットが敷かれただけの雑魚寝の空間には、平日の昼前ということもあって、数人の長距離トラックの運転手や、目的地の見えない気怠げな旅行者が数人、まばらに横たわっているだけだった。

漂うカップ麺の匂いと、エンジンが低く立てる重い振動。

その部屋の片隅、他の乗客から少し離れた壁際で、真白才子は深く眠っていた。

黒髪ウィッグのロールはわずかに乱れ、白い肌には隠しきれない濃い疲労の影が差している。

公安警察の精鋭たちを「処理」し、東京を脱出するまでの緊迫。それから(おそらく)一度も取れずにいたと思われる、まとまった仮眠。超常の兵器とさえ思える彼女とて、肉体は一人の人間だ。睡眠不足からくる限界の疲労が、彼女を泥のような深い眠りへと引きずり込んでいた。

その傍らで、午前十時を少し過ぎた頃に目を覚ましていた隠身識は、背もたれに身体を預けたまま、壁に取り付けられた古いモニターをじっと見つめていた。

時刻は午前十一時四十五分。

画面の中では、日本政府の緊急記者会見の報道特番が、今なお狂ったように続いていた。画面下を、赤い速報テロップが何度も、何度も這うように流れていく。

【バロネス・エインズワース全国指名手配】

【テロ準備罪】

【オール・フォー・ワン直属】

識は乱れた髪を指で払いながら、その画面を感情の消えた目で見つめた。まさに今、自分たちの顔写真と本名が最凶のテロリストとして、世界中に放流されている瞬間だった。

だが――。

識が視線をテレビから外し、同じ大部屋にいる他の乗客たちへ向けた時、彼女の薄い唇に冷ややかな笑みが浮かんだ。

「へえ、あのバロネスって女、ヴィランだったんだな」

「テレビじゃあんなに良いこと言ってたのになぁ。まぁ、俺らみたいな田舎の人間には関係ない話だけどよ」

週刊誌をパラパラとめくりながら、トラック運転手の男が退屈そうに呟く。別の男は、画面のテロップを一瞥しただけで、すぐに興味を失ったようにゴロリと寝返りを打った。

数秒後には、昼飯がどうだとか、港の天気がどうだとか、そんな別の話題に移っている。

緊迫感など、ここには一ミリも存在していない。

首相官邸をパニックに陥らせ、アメリカやイギリスを冷酷な政治ゲームに走らせ、被災地の人々を飢えの恐怖に突き落としたあの「国家の崩壊」も、この部屋の人間たちにとっては、映画の予告編か、どこか遠い異国のゴシップニュースと同レベルの、完全な他人事でしかなかった。

(……所詮、この手の連中は、自分に直接の被害が及ぶまで本気には考えない)

識は、冷え切った思考で彼らを査定した。

明日、自分の町にあの怪物が現れるかもしれない。自分の家族が巻き込まれるかもしれない。そして、自分自身が死ぬかもしれない――そこまで想像する人間など、ここにはほとんどいないのだ。

人は危機を言葉で理解するのではない。危機に直接触れて、初めて理解する。識は二十八年という年月の中で、人間という生き物のその本質を嫌というほど学んでいた。

(まぁ……そのおかげで、私たちの活動(お仕事)がやりやすくなるのだけれどね)

平和を享受するだけの輩にとって、本当に危険なのは、全員が警戒している世界ではない。誰もが「自分には関係ない」と白けた目をしている世界だ。その方が、遥かに隙だらけになる。

テレビの中でどれほど「真白才子」と連呼されようが、乗客たちの目は、すぐ隣で眠る黒髪の美しい女性と、画面の中の銀髪の「聖女」を脳内で結びつけることが絶対にできない。

この愚鈍な無関心がある限り、国家の全捜査網などただのザルだ。

「……ん」

微かな衣擦れの音と共に、才子が小さく身じろぎをした。

まだ眠りは深い。自分が会見で何を言われたのか、今、日本中でどんな大騒ぎになっているのか、それすら知らないまま、静かな寝息だけを立てている。

識は、その無防備な主の寝顔を見つめ、肩が冷えないよう、そっと毛布の端を首元まで引き上げてやった。

「まだ起きなくて大丈夫ですよ、レディ」

誰も聞いていない声で、識は静かに呟く。

「世界は計画通り、勝手に転がっていますから」

テレビの中では、事情を知らないコメンテーターたちが、保身のために中身のない言葉を必死に紡ぎ続けている。

その滑稽な雑音を背景に、フェリーは灰色の海を引き裂きながら、誰にも気づかれることなく、北の大地へと向かって進み続けていた。

 

 

 




10話の不毛な舌、に続き真白才子が直接関与しない幕間劇の第二弾です

日本政府の事実上の敗北宣言、切り捨てに動くアメリカとイギリスの冷徹な政治思惑、バッシングに耐え忍んできた地方ヒーローの静かな執念、そしてすべてを冷笑しながら北へ向かう識と眠っている才子の不気味な静けさ。それぞれの視点における温度差や情報のグラデーション楽しんでいただけていれば幸いです。
聖女の皮を剥ぎ取られたバロネスと、彼女を追う世界。
物語はここから最終局面へと向かいます。
感想をいただけると励みになります。


本編ではゆっくり眠らせてやりたいので自没した展開なのですが
アナザーストーリーとしてお楽しみいただけたら幸いです

津軽海峡の重い波濤を受け、フェリーが微かに揺れていた。
あまりに深い泥のような眠りの底から、真白才子の意識を引きずり上げたのは、不快な二つの雑音だった。
一つは、まだ言葉も持たない赤ん坊の、火がついたような高い泣き声。
そしてもう一つは、それを完全に圧殺せんばかりの、粗野で、濁った、中年の男の怒鳴り声だ。
「うるせえんだよ! いつまで泣かせてんだ、クソアマが! 周りの迷惑ってモンを考えやがれ!」
うっすらと開いた才子の視界の中で、まず映ったのは、隣に座る隠身識の横顔だった。
いつも冷静な識が、あからさまな嫌悪と軽蔑をその双眸に宿し、前方の通路を睨みつけている。その視線を追うように、才子もまた、重い瞼を完全に持ち上げた。
そこには、泣き叫ぶ赤ん坊を抱いて平身低頭に謝り続ける、若い母親の姿があった。
その母親の頭上から、顔を真っ赤に上気させ、指を突きつけて怒号を浴びせかけているのは、小汚いスウェット姿の中年男性だ。
周りの乗客たちは、巻き添えを食うのを恐れるように視線を逸らし、見て見ぬふりを決め込んでいる。
才子の形の良い眉が、不快げにピクリと跳ね上がった。
(……浅ましい)
才子の胸に湧き上がったのは、正義感などという高尚なものでは断じてない。純然たる「不快」だ。
彼女を育てたのは、世界を統べる闇の魔王オール・フォー・ワンであり、大英帝国の高貴なるエインズワース卿である。彼らは、自らの美学を持った非の打ち所のない「紳士」だった。
その彼らの庇護下で育った才子にとって、己の感情を制御できず、力の弱い女子供を大声で恫喝するような男は、人間ですらない、ただの「言葉を喋る家畜」に過ぎなかった。それを放置する周囲の臆病者どもも含めて、反吐が出るほどに醜悪だった。
一瞬、東京での監視員たちのように、あの男の首を真後ろへねじ回してやろうか、という思考が脳裏をよぎる。
だが、今は隠密移動の身。ここで派手に血を流して目立つわけにはいかない。
――ならば、目立たぬように躾を施せばいい。
才子は毛布の中から、そっと左手を覗かせた。
ちょうどその時、フェリーの船底を大きめの波が叩き、船体が不規則に傾いた。乗客たちの身体が、一瞬だけふわリと浮く。
その完璧なタイミングの刹那。
才子は、左手の小指を視認できないほどの速度で、クイッと小さく動かした。
『個性』による不可視の波動がピンポイントで男の足元を捉え、その足を掬わせ、おっと、と男の巨体が不自然にバランスを崩した。
間髪入れず、才子は左手の薬指をクイッと動かす。
男の意思とは無関係に、その右肘が強制的に自らの右肋の真下へと引き寄せられ、ガチリと固定された。
仕上げに、中指をクイッと内側へ折り曲げる。
本来の地球の重力による自由落下ではない。サイコキネシスの強烈な指向性推進力が、男の身体を床へと猛烈な勢いで叩きつけた。
「ぶ、ふぇっ――!?」
短い、豚のような悲鳴。
自分の肘を右肋に挟み込んだ姿勢のまま、男は通路の硬い床へと、まるで上空から叩きつけられたかのように激突した。
――ギチ、と鈍く嫌な音が男の耳に響く。
自重と超常の加速が加わった己の肘が、男の右肋骨を容赦なく圧迫し、綺麗にヒビを入れた音だった。
「あ、が……っ!? ぁ、は、ぁ……っ!!」
男は床にのたうち回り、文字通り声も出ないほどの激痛に顔を白くさせた。大声を上げようと息を吸うたびに、折れた肋骨が内臓を突き刺す。男は脇腹を押さえたまま、脂汗を流してただガチガチと震えることしかできなくなった。
船内は一瞬にして静まり返る。周りの乗客には、男が単に波の揺れで運悪く足をもつれさせ、 派手に転んだようにしか見えていなかった。
才子は、何事もなかったかのように左手を毛布の中へと戻した。
隣の識だけが、すべてを察して、その薄い唇の端を愉快そうに吊り上げている。
男の怒号が消えたことで、赤ん坊の泣き声も、どこかトーンを落として収まりつつあった。
まだ震えている母親が、なぜか男が自滅してくれた状況に困惑しながらも、周囲に向けて「騒がせてすみません……」と消え入るような声で頭を下げた。
その母親の視線が、ふと、すぐ近くで横たわる才子と交錯する。
変装の黒髪ウィッグの隙間から、才子は冷徹だが、どこか酷く超然とした視線を母親へと向け、静かに唇を開いた。
「赤ん坊は泣くのが仕事なのですから、仕方がありませんわ」
鈴の鳴るような、しかし有無を言わせぬ気品に満ちた声。
「――けれど。早く泣き止ませなさいね」
それだけを冷たく、しかし確かに告げると、才子は母親の返事を待つこともなく、再び静かに目を閉じた。
躾は終わった。雑音は消えた。
再び訪れたフェリーの微かな振動に身を委ねながら、銀髪の聖女――いや、黒髪の美しいヴィランは、何事もなかったかのように、再び深い、深い眠りの底へと落ちていった。
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