善意の剥製   作:タロットゼロ

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善意という名の地雷

津軽海峡を渡ったフェリーは、定刻通り函館港へ到着した。

重いゲートが開き、北の大地のひんやりとした空気が流れ込んでくる。

乗客たちが次々と船内から流れ出していく。長距離トラックの運転手、観光客、帰省客。誰もがそれぞれの目的地へ向かって足を進めていた。

その人波の中に、黒髪の女性が二人。真白才子と隠身識もまた、何事もなかったかのように下船していた。

港のテレビや人々のスマートフォンからは、今もなお自分たちの全国指名手配のニュースが絶え間なく流れ続けている。だが港に集まる人々の視線は、己の荷物や待ち合わせ相手へ向いていた。

他者からの認識を阻害する識の『個性』、そして完璧な変装の前では、彼らの目はただ二人を風景の一部としてなぞるだけで、決してその正体へと行き着くことはない。

識は周囲を一度だけ見回すと、「こちらです」と短く告げた。

港の駐車場。一般車両が並ぶ一角に、一台の黒いセダンが停まっていた。

あらかじめ用意されていた偽造ナンバー。表の社会には存在しないはずの男。運転席のドアが開き、降りてきた巨躯の男――羆本が、無言のまま深く会釈した。

「お待たせしました」

「問題ありません」

識が答え、才子もまた静かに頷いた。それ以上の言葉は必要なかった。

羆本が後部座席のドアを開く。才子が乗り込み、その後に識が続く。

ドアが閉まると、外界の喧騒は完全に遮断された。

数秒後、黒いセダンは港の駐車場を静かに離れた。フェリーから吐き出されたトラックや乗用車が、唸るエンジン音と共に次々と北の大地へ流れ出していく。その鈍重な流れに紛れるように、セダンは一路、札幌方面へ向けて走り始める。

東京で日本政府が大々的な緊急会見を行い、世界中が大騒ぎを始めてから既に数時間が経過している。

だが車内には、その種の緊迫感はまるで存在しなかった。

エアコンの微かな送風音。タイヤが路面を擦る規則正しい振動。そして、膝の上でノートパソコンを開いた識が、キーボードを叩く指先の音だけが静かに続いている。

画面の中で明滅しているのは、日本政府、そしてアメリカ・イギリスの動向。世界が真白才子という一人の女を中心に、不格好に右往左往している。

窓の外では、道南の広々とした景色が流れていた。

どこまでも高い青空。遠くに見える牧草地。ゆっくりと動く雲。東京で起きている狂乱など、この土地には一切関係がないかのようだった。

午後一時を少し回った頃。

識は最後の画面を確認すると、静かにノートパソコンを閉じた。パチン、と乾いた電子音が車内に響く。

その音に反応するように、後部座席の反対側で窓の外を眺めていた才子が視線を向けた。

「確認は済んだのかしら?」

「はい」

識は眼鏡の位置を指先で整える。その口調は、まるで株価の確認でも終えたかのように淡々としていた。

「ひとまず、確認できる範囲は全て。世界は綺麗に右往左往しております」

識はパソコンを脇に置くと、そっと隣のレディへと視線を向けた。その横顔を見つめる識の瞳には、先ほどまで世界情勢の裏側を冷笑していた冷徹さは微塵もなく、主筋を心から労わる、慈愛に満ちた笑みだけが浮かんでいる。

銀髪は黒いウィッグの下へ隠されている。しかし、その白い肌には未だにわずかな疲労の色が残っていた。連日の暗躍に加えて、東京からの強行軍。超常の兵器とさえ思える彼女とて、肉体そのものは生身の人間だ。

識は小さく息を吐いた。

「レディ」

「何かしら」

「少しお疲れではありませんか?」

才子は微かに首を傾げ、深い紅の双眸を識へと向けた。

「すっかり時分時(じぶんどき)を逃してしまいましたが……これからの長い移動に備えて、この辺りで何かお腹に入れておきましょう」

識は道路標識を見上げながら、柔らかく微笑む。

「この先に、少し気の利いた和食のお店があります」

わずかな間。

どれほど世界を揺るがそうと、肉体を持つ人間である以上、飢えもすれば疲労もする。それを誰よりも理解し、先回りして手配してくれる忠実な影の気遣いが、今は心地よかった。

才子は肩の力を抜くように、小さく唇の端を綻ばせた。

「そうね。――貴女に任せます」

「かしこまりました」

識は軽く頭を下げると、フロントガラスのルームミラーへと視線を向けた。

「羆本、次の交差点を左へ。そのまま道なりに進んでちょうだい」

前方の運転席では、羆本がバックミラー越しにそのやり取りを静かに見ていた。

国家総動員で追われる指名手配犯。各国政府を巻き込んだ国際問題の中心人物。本来なら神経をすり減らしながら泥を這うように逃走していてもおかしくない立場だ。

だが、後部座席の二人はあまりにも肝が据わっており、いつも通り気高く、淡々としている。その完成された主従の姿に、羆本は言葉にできない男としての圧倒的な敗北感を覚えながら、何も言わずにただ一度だけ深く首を縦に振った。

分厚い手のひらがハンドルを滑らかに回し、車は速度を落とすことなく、国道から一本外れた静かな脇道へと滑り込んでいく。

数分後、道路脇に見え始めた木造の和食店へ向けて、車は静かに進路を変えた。

北海道の空は高く、どこまでも穏やかだった。

その頃、日本中のテレビ局では、依然として真白才子の名が、狂ったように絶え間なく連呼され続けていた。

木造の小さな和食店だった。

観光客向けというよりは、地元の人間が昼食を食べに来るような店だ。

磨き込まれた木のカウンター。壁に貼られた手書きの短冊メニュー。窓の外からは初夏の陽射しが心地よく差し込み、港町らしい穏やかな空気が流れている。昼時を少し過ぎていたこともあり、店内の客はまばらだった。

案内された四人掛けの席に腰を下ろす。しばらくして、お茶を運んできたエプロン姿の女将が注文を聞きにやって来た。

「ご注文はお決まりですか?」

羆本はメニューを一瞥する。そして迷いなく口を開いた。

「カツ丼。大盛りで」

「はい、カツ丼大盛りですね」

羆本は内心で小さく計算していた。千五百円。

この状況で財布を開く気などさらさらない。最悪、自分が払うことになったとしても構わないが、どうせ識が経費として処理するだろう。ならば遠慮する理由はなかった。

その羆本の現実的な打算を、隣に座る隠身識が眼鏡の奥の鋭い一瞥で見抜かないはずがなかった。

(何を小賢しい計算をしていますのやら。お仕事に関する経費、ましてやレディのお食事代を、そのような末端に支払わせるわけがないでしょうに)

識の手元には、あらかじめ管理している組織の潤沢な資金がある。全額そこから出す予定の彼女は、メニューを静かに閉じた。

「私は、刺身定食をお願いします。ご飯は少なめで」

「はい、刺身定食ですね」

二千二百円。金額など特に気にしていない。むしろ、これから長距離移動が続く以上、栄養の偏りの方が問題だった。

最後に、女将が才子へ視線を向ける。

「お客様は?」

才子は少しだけ考えた。そして、品書きの写真付きメニューを美しい指先で指差す。

「こちらをいただきましょうかしら」

「海鮮丼ですね」

「ええ」

色鮮やかな刺身が盛られた写真に視線を向けながら、才子は素直に、そして優雅に微笑んだ。

「とても美味しそうでしたので」

女将もその気取らない美しさに、思わずつられて笑顔になる。

「ありがとうございます。今日は良いのが入ってますよ」

注文を終えると、女将は手際よく伝票を書き、厨房へ戻っていった。

店内には、どこか懐かしい穏やかな時間が流れる。

遠くで鍋の蓋が鳴る音。包丁の小気味よい音。そして換気扇の回る低い駆動音。

羆本は黙ってお茶を飲んでいた。才子は窓の外を眺めている。

一方で識だけは、膝の上に置いたノートパソコンへ視線を落としていた。

画面にはニュースサイト、SNS、掲示板。世界中で飛び交う無数の情報。日本政府の会見、各国メディアの反応、ヒーロー公安委員会の発表。キーワードを追うたびに、新しい記事が明滅しながら増えていく。世界が真白才子という一人の女を中心に、不格好に右往左往している。

そんな識の張り詰めた横顔を見ていた才子が、不意に口を開いた。

「識」

「はい」

視線はまだ画面のままだ。才子は小さく笑った。

「こういう場所での食事くらいは、ゆっくり楽しみましょう?」

叱責ではない。ただ、どこまでも穏やかで、優雅な声音。

しかしその一言には、どれほど世界に追われようと、今目の前にある温かい食事と静かな時間を損なうことはさせないという、絶対的な強者の気高さが満ちていた。

識の指先がピタリと止まる。数秒の沈黙。

そして彼女は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。

確かに、今の日本政府のお粗末な捜索網を見るに、今さら数分早く情報を拾ったところで劇的に何かが変わるわけではない。既に主要な監視設定は終えている。指定した単語が引っ掛かれば、スマートフォンに自動で通知が来る手筈だ。わざわざ張り付いている必要はなかった。

識は苦笑を浮かべ、パタン、とノートパソコンを閉じた。

「そうですね、レディ。少々神経質になり過ぎていたかもしれません」

眼鏡の位置を指先で整え、いつもの柔らかな微笑みをその表情に戻す。才子は満足そうに頷いた。

その直後。

厨房の奥から聞こえてきた、シュワシュワという心地よい揚げ物の音に、羆本の耳がぴくりと動いた。どうやらカツ丼の準備が始まったらしい。

天井に設置されたテレビの中では、依然として自分たちの名がアナウンサーの引きつった声で連呼され続けている。世界中の政府機関とヒーローたちが血眼になって自分たちを追っている――そんな現実とは無関係に。

出汁の匂いが漂うこの小さな空間で、三人はただ、温かい昼食が運ばれてくるのを静かに待っていた。

 

一方、その頃。

真白才子という存在が社会の底流に注ぎ込んだ毒は、北海道から遠く離れた岡山の臨時避難所をも、確実に侵食しつつあった。

小学校の体育館。どんよりと澱んだ空気の中に、カビと汗、そして行政から配給された冷え切った乾パンの匂いが充満している。誰もが明日の見えない生活に疲れ果て、体育館の床に横たわっていたその時、スマートフォンの液晶画面を凝視していた若い男が、息を呑むような声をあげた。

「……おい、嘘だろ。広島の避難所には、今日も謎のトラックが物資を持ってきたってぞ」

その一言が、静まり返っていた体育館の空気を、一瞬で引き裂いた。

「は? 何言ってるんだよ。政府の緊急会見の後だぞ? 物資の支援ルートなんて全部止まったはずじゃ……」

「本当だって! ほら、SNSに写真が上がってる。看板も名前もない真っ白な大型トラックから、炊き出し用の大鍋、積み上げられた粉ミルク、毛布に医薬品、それに温かいシチューが山ほど運び出されたって、広島の奴らが大喜びしてる!」

男の掲げた画面を、周囲の避難民が飢えた獣のような目で覗き込む。そこに映っていたのは、湯気を立てる大鍋を囲む、自分たちと同じ被災者たちの、心底安堵した笑顔だった。

その瞬間、体育館のそこかしこから、低く地を這うような呟きが漏れ始めた。

「……名前を隠して、寄付だと?」

「今のこの日本で……行政もプロヒーローも機能してないこののド真ん中で、これだけの規模の物資を維持し、避難民に寄付をする奴なんて、一つしかねえだろ」

最初は小さな、しかし確信に満ちた囁きだった。

名指しされたわけではない。トラックには何のロゴも入っていない。だが、消去法で考えずとも答えは一つしかなかった。

「……バロネスさんだ。あの人、自分が指名手配されたから、活動に傷がつかないように正体を隠してまで、広島にだけはトラックを回したんだ……!」

「じゃあ、なんでだよ! なんで広島には届いて、うちには来ないんだ!?」

一人が呟き、二人が同調し、波紋のように広がっていくうちに、大衆の脳内で歪んだ飢餓感が急速に形を変えていく。

「……検問だ。警察やヒーローが、この県に入るルートを無駄に厳しく封鎖したからだろ」

「じゃあ何か? 政府が余計な指名手配なんてして、この辺りの警戒を強めたせいで、俺たちの分のトラックが警戒して来られなくなったってことかよ!?」

「冗談じゃねえぞ! あの人が名前を伏せてまで支援を続けようとしてくれてるのに、うちらの取り分が警察のせいで台無しじゃねえか!」

一度火がついた大衆の被害者意識は、もはや誰にも止められなかった。

彼らにとって、国際政治の思惑や法治国家の正義など、今日明日の空腹の前には一片の価値もない。ただ「目の前に届くはずだった温かい食事」を奪った、目に見える「邪魔者」への怒りだけが、黒々と膨れ上がっていく。

「おい、説明しろよ!」

一人の男がガタリと立ち上がり、体育館の入り口近くに控えていたプロヒーローに向かって怒声を浴びせた。

避難所の護衛任務についていたのは、地方ヒーロー事務所に所属する、まだ二十代前半の、コスチューム姿の青年だった。

「え、あ、いや……バロネス・エインズワースは国家転覆を企むヴィランの協力者でして、警察の検問は法に基づいて……」

若いヒーローが困惑し、お仕着せの正論を口にしようとする。だが、その弱々しい弁明は、避難民たちの地鳴りのような怒号にかき消された。

「法だの何だの知るかよ! だったらお前らが今すぐシチュー持ってこいよ!」

「あの人がせっかく正体を隠してまで飯を届けようとしてくれてるのに、お前らが網を張ってるから、こっちに回ってこねえんだろ!」

「市民を守るのがヒーローの仕事じゃないのかよ! 飢え死にしそうな俺たちのために、名前を隠して動いてくれる人を追い回して、俺たちを見殺しにするのがお前らの正義か!」

「違います、私たちは市民の皆さんの安全を――」

「うるさい! 帰れ!」

「お前らヒーローがここにいるから、物資のトラックが警戒して来られないんだよ! 邪魔なんだよ、出ていけ!」

次の瞬間、鋭い風切り音と共に投げつけられたハーフサイズのペットボトルが、若いヒーローの胸に鈍い音を立てて当たった。

中身の残ったボトルが床を虚しく転がる。

ヒーローは、自分を睨みつける何百人もの守るべき市民の、憎悪に満ちた白い目に射すくめられ、一歩、また一歩と後退りするしかなかった。

正義を行っているはずのヒーローが、市民にとっての飢えをもたらす悪へと反転した瞬間だった。

これこそが、真白才子が日本のヒーロー社会の足元に埋め込んでいた、最大にして最悪の地雷だった。

本人が北の大地で優雅に海鮮丼に舌鼓を打っている間に、従来の半分の場所に届けられた物資それが偶然だったのか必然だったのか、あるいは、そのどちらでもなかったのか。

少なくとも一つだけ確かなことがある。

真白才子が日本中へ撒いた物資は、今この瞬間も、人々の心を静かに塗り替え続けていた。内側から確実にこの国のシステムを腐らせ、引き裂き続けていた。

 

広島県内の避難所。

夕食の時間が近づき、体育館には温かなシチューの香りがまだ微かに残っていた。

昼過ぎに現れた白い大型トラックは、炊き出し用の食材、毛布、医薬品、そして子供用の粉ミルクを大量に残し、何も名乗ることなく去っていった。

避難所には久しぶりに笑顔が戻っていた。子供たちは温かい食事を口にし、大人たちは久々に空腹を忘れている。

だが。その安堵は長く続かなかった。

授乳スペースの片隅。

幼い赤子を抱いた若い母親が、配られた粉ミルクの缶を胸に愛おしそうに抱きしめながら、ぽつりと小さく呟いた。

「……ねえ」

その声は、独り言のようだった。

「来週も……来てくれるのかな」

周囲にいた数人が、一斉に顔を上げる。母親は慌てて首を振った。

「あっ、ごめんなさい。変なこと言って。だって、この子のミルク……本当に助かったから……」

腕の中の赤子が小さく寝息を立てる。母親はその顔を見つめながら続けた。

「もし来週は来なかったらって思ったら……ちょっと怖くて。また、あの冷え切った乾パンと薄いスープだけの日々に戻るの?」

静まり返る。誰も否定できなかった。

その不安は、そこにいる全員が胸の奥に抱えていたものだったからだ。

一度手に入れてしまった本物の温もりと安泰。それが来週には理不尽に奪い去られているかもしれないというカウントダウンの恐怖は、最初から飢えていることよりも遥かに残酷に、彼らの心を蝕み始めていた。

ある老人がぽつりと呟く。

「確かにな……今回は助かった。でも次は?」

体育館の空気が、ゆっくりと、しかし確実に重くなっていく。

誰もが理解していた。行政の支援だけでは絶望的に足りていない。だからこそ、あの送り主不明の白いトラックが救世主のように見えた。

だが、救世主とは、本来いなくても社会が回るから救世主(イレギュラー)なのだ。今の彼らは違う。既にその存在を前提に、生活を組み立てようとし始めていた。

「政府は何て言ってるんだ?」

「さあな。また来るって発表はない。そもそも、誰が運営してるかもわからん」

「じゃあ……突然終わるかもしれないってことか。テレビじゃ国やヒーローが、血眼になってバロネスさんの包囲網を広げてるって大騒ぎしてる。検問がもっと厳しくなったら、ルートは完全に潰されるぞ」

不安が波紋のように広がり、先ほどまで笑っていた人々の顔から、急速に笑みが消えていく。

受け取った毛布。食料。ミルク。それらが安心を与えたはずなのに、今度は逆に、失うかもしれないという爆発的な恐怖を生み始めていた。

彼らはもはや、物資をくれたことに感謝する段階を通り越し、自分たちを永久に生かし続けろという、引き返せない依存の泥沼に足を踏み入れていた。その姿は、優しく手を差し伸べてくれた見えざる怪物に、自ら首輪を差し出して飼い慣らされようとする、哀れな家畜のそれだった。

体育館の隅では、スマートフォンを握る男たちが必死に情報を探していた。SNS、掲示板、ニュースサイト。どこにも答えはない。ただ一つ確かなのは、今日現れた白いトラックが、明日も現れる保証はどこにもないということだった。

やがて誰かが、小さな、祈るような声で言った。

「……捕まらないでほしいな」

誰に向けた言葉だったのか、説明する者はいなかった。だが、その場にいた誰もが意味を理解していた。

もしあのトラックが来なくなれば、もし物資が途絶えれば、困るのは政府でもヒーローでもない。まず最初に飢えて死ぬのは、自分たちなのだから。

政府への不満、ヒーローへの不信、そして未来への飢え。

本人が北の大地で優雅に海鮮丼に舌鼓を打っている間にも、彼女が匿名でばら撒いた物資の寄付は、救われなかった岡山だけでなく、救われたはずの広島をも、内側から完全に腐らせ、引き裂き続けていた。

体育館の天井では、蛍光灯が冷たく光り続けていた。

 

その頃。

岡山県内の臨時避難所。

体育館の隅で、一人の男がスマートフォンを自撮りモードに切り替えていた。

照明の角度を確認する。

背景には怒号、避難民、地方ヒーロー。

完璧だった。

男は口元を引き締め、いかにも深刻そうなジャーナリストの表情を作る。

そして配信開始ボタンを押した。

「――はい、どうも皆さんこんにちは。Jチャンネルのジンです」

いつもの挨拶。だが、今日の数字は違う。

配信開始から数分、同時接続者数は既に三万人を超えていた。

男の胸が高鳴る。

今、日本で最も数字になる最強のコンテンツ。真白才子、バロネス・エインズワース、そして避難所への物資支援格差。その全てが、この狭い体育館に揃っていた。

「今、僕がいるのは岡山の臨時避難所です。画面の奥、見えますかね?」

スマートフォンを少し動かす。

遠くでは、警備の若いヒーローが避難民に囲まれ、怒号とペットボトルを浴びせられていた。現場は完全にカオスだ。

コメント欄が一気に濁流のように流れ始める。

《やべえ》

《マジじゃん》

《現地かよ》

《ヒーロー何してんの》

数字が伸びる。

脳の奥が痺れるような快感。ジンはパイプ椅子に深く腰掛けた。

お上が流した大本営発表をそのまま信じているピュアな一般層を、最高に美味いピエロにするための時間だ。

「今回の件なんですけどね」

声を落とす。コメント欄のスピードがさらに加速する。

彼は知っていた。人は事実では興奮しない。自分たちが信じたい物語にこそ興奮するのだ。

「皆さん、何か変だと思いません? 広島には物資が届いてる。岡山には届かない。そして政府はバロネスを指名手配した。――これ、本当に偶然ですかね?」

コメント欄が爆発した。

《来た》

《裏を話せ》

《俺も思ってた》

ジンは内心で嘲笑う。

証拠などない。裏付けもない。ただ人々が聞きたい話を、もっともらしく組み立てるだけだ。

「僕はね、政府とアメリカはバロネスを恐れて、強引にはめたんだと思います」

何の根拠もなく自信満々に断言する、だが、断言は強い。人は迷いのない言葉を信じる、いや信じてしまう。

「だって考えてくださいよ。ヒーロー社会の崩壊以降、日本の統治能力はガタガタです。そこに現れた完璧な聖女の英国の女男爵、行政が届かなかった場所に物資を届け、子供にミルクを配った。市民がどっちを支持するか、三歳児でもわかりますよね? 実際、広島じゃ神様みたいに感謝されてる」

画面の向こうの何十万という大衆が、ジンの言葉を息を呑んで見つめている。

「つまり、これ以上民心を持っていかれたら、米の傀儡である現政権の支配体制が終わるわけです。だから、適当なヴィランとの繋がりをでっち上げて、強引にテロリストに仕立て上げた。そうすれば、合法的に口座を凍結して、彼女の慈善活動の資金を没収出来ますからね、実際エインズワース財団からの配給はストップしてるんですよ」

ジンは体育館の天井を大仰に指さし、肩をすくめた。

「政府がいらないこと指名手配をしなけりゃ、僕たち岡山の避難民も、今頃は広島と同じように美味いシチューを食べて当分は安泰だったんです。それを、自分たちの権力を守るためだけに、国家権力がバロネスをはめて、僕たちの飯を人質に取った。僕たちを飢えさせている本当のヴィランは、指名手配された彼女じゃない。国家という名のシステムの方なんですよ」

もっともらしい。だからこそ、最高に危険な劇薬だった。

事実かどうかなど、もはや誰も確認しない。飢えと不安に狂う大衆は、真実よりも自分たちの怒りを正当化してくれる説明を求めている。そこへ差し出された答えは、あまりにも甘美で、あまりにも暴力的だった。

《政腐最低だな》

《うわ、点と線が繋がった》

《バロネスがかわいそう》

《俺たちの飯を返せ!》

画面を埋め尽くす盲信的なコメントの嵐。

ジンの口元が僅かに緩む。同時接続数はさらに跳ね上がっていた。五万、七万、十万。

彼にとって真実などどうでもよかった。避難民の未来も、ヒーロー社会の崩壊も、国家の行方も、一ミリも興味はない。必要なのは再生数、登録者数、そして広告収益だけ。

だが。

男が数字欲しさに軽い気持ちで投げ込んだそのチープな「陰謀論」は、既に彼の手を離れていた。

スマートフォンから、避難所から避難所へ。SNSから掲示板へ。コメントからリアルな肉声へ。

歪んだ正義は、飢えと不満を極上の燃料にして、猛烈な勢いで日本中を駆け巡っていく。真白才子という偶像は、大衆の心の中で、より完璧でより悲劇的な無実の聖女へと勝手に昇華されていく。

 

ジンの持つスマートフォンの画面の向こう。その背景の、ピントが僅かにぼやけた領域で、一人の若いヒーローが必死の形相で大衆の荒波に立ち向かっていた。

コスチュームは泥と投げつけられたゴミで汚れ、若者の額からは脂汗がだらだらと流れ落ちている。

周囲を囲むのは、飢えと不公平感に目を血走らせた何十人もの避難民だ。罵声と怒号が容赦なく浴びせられ、いつ掴みかかられてもおかしくない一触即発の状況。

身体能力を強化する『個性』を使えば、この程度の民間人を押し返すことなど一瞬でできた。威圧して、避難所の秩序を力尽くで取り戻すだけなら、そう難しい話ではない。

だが、彼は決して拳を握らなかった。個性の発動の兆候すら見せず、ただ両手を広げ、無防備に、誠心誠意その身を大衆の前に晒し続けていた。それをしてしまえば、本当に市民へ力を向けたことになってしまうからだ。

だから、彼は耐えていた。顔を強張らせながらも、一人ひとりの視線を受け止め続ける。

「聞いてください!」

掻き消されそうになる声を、喉が張り裂けんばかりに必死に張り上げる。

「お願いです! 話を聞いてください!」

避難民の一人が怒鳴り返した。

「だったら今すぐここにシチュー持ってこいよ! 綺麗事はいんだよ!」

冷笑と怒号が体育館に広がる。だが、青年は言い返さなかった。唇を噛み、震える拳を握り締める。それでも、決して逃げなかった。

「皆さんの不安は分かります!」

声が掠れながらも、彼は必死に叫び続けた。

「家族がいて、子供がいて、明日の生活が見えないことも分かっています! でも……あの女のやり方は、その不安を利用しているだけなんです!」

再び空気が張り詰める。

手前でスマートフォンを向けていたジンが、面白そうに片眉を上げた。カメラのピントが、背後のヒーローに微かに合う。

青年はそんなことには気づかない。ただ、目の前の人々だけを見ていた。

「温かい食事を配ること自体は悪いことじゃありません! 毛布も、ミルクも、本当に助かったと思います! でも皆さん、考えてください!」

一歩、前へ出る。その気迫に、誰もが息を呑んだ。

誰も答えない。

「再来週は!?」

沈黙。

「一年後は!?」

体育館を、圧倒的な静寂が支配する。青年は息を吸い、涙をこらえるように続けた。

「ありません! 最初から、そんな保証はどこにもありません! だから皆さんは今、失うのが怖くて不安になっているんでしょう!?」

その言葉は、残酷なほど正しかった。だからこそ、誰も反論できない。青年の額から、大粒の汗が床に落ちる。

「政府も! 自治体も! 俺たちヒーローも、完璧じゃありません!」

その叫びは、半ば悲鳴のようだった。

「遅いこともあります! 足りないこともあります! 失敗だってあります!」

悔しさが、声の震えとなって滲む。それは国からあてがわれた取り繕った演説ではなかった。彼の、一人の若者としての本音だった。

「でも! それでも俺たちは逃げません! 皆さんを見捨てません! 今日だけ助けて、明日には消えるような真似は絶対にしない! 泥を啜ってでも、俺たちはここに残り続けるんだ!」

避難民たちの表情が揺れた。

ほんの少しだけ。ほんの少しだけだった。だが、それだけで十分だった。

ジンの画面の向こう、同時接続数10万人のコメント欄が、初めて激しく爆発し、そして二つに割れた。

《洗脳きた》

《必死だな政府の犬》

《……でも、言ってることは正しい気もする》

《いや騙されるな》

《今日だけ助けて消える、か……》

《どっちが本当なんだよ》

《分からなくなってきた……》

画面の向こうで、無数の人間が好き勝手に品定めをする。

だが青年には見えていない。彼が見ているのは、今この体育館にいる、目の前の避難民だけだ。

「お願いです」

最後に、青年は深く頭を下げた。

ヒーローとしてではない。一人の人間として。

「信じてくださいとは言いません。ただ……諦めないでください。俺たちも、絶対に諦めませんから」

体育館は静まり返っていた。

誰も拍手しない。誰も称賛しない。だが同時に、先ほどまで体育館を包んでいた凶悪な怒号も、完全に止まっていた。

その不気味なほどの沈黙を。

スマートフォン越しに見ていた数万人の視聴者だけが、それぞれ別の意味に解釈し、ネットの海へと拡散していく。

 

洞窟の奥。

人工照明だけが照らす広大な空間に、生命維持装置の規則的な駆動音と、電子機器の作動音が静かに響いていた。

大型モニターに映し出されているのは、全国の臨時避難所の混乱、SNSの炎上、端正な顔で陰謀論を撒き散らすジンの生配信。画面の向こうでは、軽薄な言葉に踊らされる大衆と、泥に塗れて叫ぶ若いヒーローの不毛な衝突が、未だに尾を引いて燃え広がっている。

どのチャンネルに変えようと、日本中が真白才子の話をしていた。まるで世界そのものが、一人の少女を中心に回り始めたかのように。

玉座にも似た医療椅子へ深く身を預けた男――オール・フォー・ワンは、顔を覆う黒いマスクの奥で、ネットの海を駆け巡る無数の醜い声を、肌で、五感で浴びるように受け止めていた。

「ふふ……ふふふ、あはははは!」

不意に、暗がりに低く、愉しげな笑い声が響いた。

それは純粋な、極上のエンターテインメントを特等席で観劇しているかのような、心底からの愉悦の笑いだった。

傍らに控えるスピナーは、大型モニターを見つめたまま、苦いものを噛み潰したような顔で、呟いた。

「……何が、そんなにおかしいんだ」

「おかしいとも、スピナー。いや……見事という他ないな、レディは」

指先が肘掛けを叩く。規則的に、楽しげに。

「神野の時を思い出すよ。あの時、私は大衆の目の前でオールマイトを煽った。仲間を傷つけられた怒り、恩師を侮辱された怒り、市民を盾にされた怒り。面と向かって相手を煽り、言葉の刃でプロヒーローの精神に隙を作る――それは恐怖と絶対的な力による、実にもっともらしく劇的なエンターテインメントだった。だが……」

魔王は、マスクの奥で口元を大きく歪めた。

「僕のやり方は、少々生真面目で、直接的すぎたのかもしれないね。面と向かって敵を煽り、怒りや恐怖で社会を揺さぶるのなら僕の右に出る者はいない。だが、彼女は大衆を煽っていない。煽る必要がないのだ」

「……煽っていない? 現に、ネットも避難所もあの女のせいで大炎上して暴動寸前だぞ」

大衆の側にいたスピナーには、画面の向こうの熱狂が、ステインの残した大義とは似て非なる、もっとドロドロとした醜い何かに見えていた。

そんなスピナーの困惑を、魔王は優しく諭すように笑う。

「人は飢えるし感謝して、依存する。そして――失うことを恐れる。彼女は、その順番をほんの少し整えただけだ。誰も才子に命令などされていないのに、日本中が彼女の敷いたレールの上を、嬉々として地獄へ向かって走り狂っている」

オール・フォー・ワンは両手を広げた。まるで舞台芸術を称賛する観客のように。

「救われた広島は、与えられた甘い蜜を失う恐怖に怯えて、自ら進んで従順な家畜となり、救われなかった岡山は、ヒーローを逆恨みして暴動を起こす。怒りではない。恐怖でもない。人は『善意』と『飢えと依存』によって、ここまで容易く家畜に成り下がる。これだよ……これこそが、僕が弔に見せたかった真の社会崩壊の形かもしれないな」

「家畜、だと……」

スピナーの背筋に、冷たい戦慄が走る。生命維持装置の緑色の光が、男の歪んだ笑みを冷たく照らす。

ネットの向こうでは、今も十万、二十万という大衆が、勝手にバロネスを悲劇の聖女へと祭り上げ、国家への憎悪を募らせている。

「面と向かって相手を煽り、怒らせて隙を作る。それも悪くないが……」

本当に、心から楽しそうに、魔王は言葉を締めくくった。

「こと大衆扇動という一点においてのみ言えば――どうやら、彼女の方が一枚上手らしい」

 

 

液晶画面の光に照らされたオール・フォー・ワンの口元から、先ほどまでの純粋な感嘆が消え、わずかに不機嫌な、冷ややかな歪みが混じり始めた。

肘掛けを叩く指の動きが、ピタリと止まる。

画面の向こう、岡山の避難所では、ゴミに塗れた若いヒーローが必死の形相で頭を下げていた。泥を啜ってでもここに残り続けるという、若者の命がけの本音が、暴動寸前だった大衆の足を一瞬だけ、確かに止めさせていたのだ。ジンの持つスマートフォンのコメント欄も、初めて激しく割れ始めている。

「……だが、この若手はいただけないな」

生命維持装置の奥から、低く不満げな声が漏れる。

「これでは、せっかくのお楽しみが半減だよ。大衆の醜いエゴイズムが剥き出しになり、そのまま綺麗に自壊していく様を見届けたかったのだがね。これほど泥臭い正論で踏みとどまられると、些か興が削がれる」

付き人のスピナーは、大型モニターを見つめたまま、何が気に入らねぇんだ?怪訝そうに尋ねた。

魔王はマスクの奥で、ここ数日間の日本各地におけるヒーローたちの動向を脳内で繋ぎ合わせていた。

普通であれば、現場のヒーローたちは世間の激しい逆風と不条理な罵声に呑まれ、精神的に摩耗し、統率を失って自滅していくはずだった。しかし、そうはなっていない。現場の個々の対応はどこか泥臭く、しかし不気味なほどに足元が統制されている。

(――あのネズミの差し金か)

オール・フォー・ワンの脳裏に、雄英高校の校長である「根津」の、あの忌々しくも賢利な笑顔が浮かぶ。

(大方、世間の反応やバロネスという偶像の虚像に呑まれるな、感情的にならず、ただ目の前の職務を愚直に全うしろとでも、裏から全ヒーローへ緊急の通達を出したのかな。だからこそ、この若手も個性の暴力に頼らず、一人の人間として泥を啜る覚悟を決めているわけだ)

恐怖や悪意による煽りなら、ヒーローは心を折られて自滅する。だが、レディの仕掛けた善意による侵食に対して、根津はあえて不完全さを認めた上での誠実な原点回帰という最善の防波堤を築いてみせた。実に見事な、そして不快な抵抗の一手だ。

だが。

オール・フォー・ワンの口元に、すぐにいつもの、底知れない余裕の笑みが戻ってきた。

「遅すぎたね、根津」

暗闇の中で、彼は楽しげに、あるいは憐れむように静かに首を振った。

「僕の計画を本当に抑え込みたかったのなら、その指示はレディが慈善活動を開始したその初日に持たせるべきだったのさ。大衆が彼女のスープの味を占め、その温もりに完全に依存しきってヒーローを批判してしまう前にね」

「どういうことだ?」スピナーが画面から目を離さずに問う。

「簡単な算数の話さ、スピナー。根津がどれほど優秀な戦術を組み立てようとも、それを実行するための手駒が、この国にはもう絶望的に足りていないのだよ」

魔王は、顔を覆う装置の奥でクスクスと狂おしい愉悦の音を漏らした。

「バロネス・エインズワースという完璧な善が戦線に介入したあの瞬間から、社会の天秤は完全に狂っていた。行政の手が回らない領域を優雅に救い上げる彼女の活動と、それに伴う激烈なバッシングによって、自分たちの存在意義を根底から見失った数多くのプロヒーローたちが、この一ヶ月の間に次々と心を折られ、静かに戦線を去っていった」

モニターには、全国各地の疲弊しきった映像が映し出される。

「残ったヒーローたちは優秀だ。この土壇場で踏みとどまれるような強靭な理性を備えた者たちだ。彼らはそれを『精鋭』とでも呼んで自分たちを慰めているのかな? ――ふふふふふ、滑稽だね。精鋭と言えば聞こえはいいけれど、実態はただの『深刻な駒不足』というのだよ。優秀さは分身能力ではない。一人は一人だ。十人で回していた現場を五人で維持すればどうなると思う?」

答えは単純だった。

誰かを避難所へ回せば別の現場が薄くなる。検問を強化すれば救援が遅れる。現に、あの岡山の広い避難所を、あんな若手一人に任せざるを得ないほどに、ヒーロー社会の駒は底を突いている。

「今日、彼らはあの若手の必死さに絆されて踏みとどまったかもしれない。だが、来週物資が来なければ、その飢餓感と不公平感は今日の数倍の暴力となって、あの哀れな『精鋭』へと跳ね返る。点では守れても、面ではすでに崩壊しているのさ。根津の打った一手は、瀕死の病人に気休めのビタミン剤を打つようなものだ」

オール・フォー・ワンは再び深く背もたれに体を預けた。

「一手遅いんだよ、君たちは。いつでもね。さあ、次はどう動く、根津?」

圧倒的な物量と心理の罠で、敵が誠実であればあるほどそれを生贄にしてすり潰していく真白才子の戦術に、これ以上ない満足感を抱きながら、魔王は闇の奥で静かに笑い続けた。

 

店を出る頃には、昼の賑わいも少し落ち着き始めていた。

食後の器は既に下げられ、卓上には湯気の立つ湯飲みだけが残っている。窓の外では初夏の陽射しが静かに道路を照らしていた。

真白才子は両手で湯飲みを包み込み、小さく口をつける。ほのかな渋みと香りが舌に広がった。

(日本茶か)

静かに息を吐く。

(こうやって、しみじみと飲んだのは何年ぶりかしら)

英国で過ごした年月。社交界。晩餐会。絶え間ない政治と駆け引き。そんな日々を思えば、この小さな和食店で飲む一杯の茶は不思議なほど穏やかだった。才子は目を閉じ、わずかな食後の余韻を楽しむ。

その左前方では――。

羆本が豪快に湯飲みを傾けていた。ごくり、ごくり。

最後の一滴まで飲み干すと、「ふぅ」と短く息を吐き、自分で急須を取り上げる。そして再び湯飲みへ並々と茶を注いだ。まるで水でも飲むかのような勢いだった。

向かい側では、隠身識が一口だけ茶を口に運ぶ。

「ふぅ……」

小さく息を吐き、それからバッグを開いた。財布を取り出す。中から一万円札を数枚抜き取り、無造作に羆本の前へ置いた。

「精算しておくように」

それだけ言うと席を立つ。当然のように。羆本が払うものだと最初から決めていたかのように。

羆本は何も言わなかった。既に慣れていた。

その後ろで、才子も静かに立ち上がる。変装用の黒いウィッグが、初夏の陽射しに微かに揺れた。

識は椅子を整えながら、厨房の手前で待っていた女将へ微笑んだ。

「なかなか美味しかったですよ。ごちそうさまでした」

女将は嬉しそうに頭を下げる。

「ありがとうございます! お口に合って良かったです。道中お気をつけて、またお越しくださいね」

才子も穏やかに微笑んだ。

「ええ。――機会があれば、また」

その言葉に嘘はなかった。もっとも、その「機会」が訪れる頃には、日本政府も公安も発狂しているかもしれないが。

店を出た識はさりげない動作で腕時計へ視線を落とした。時刻は十三時三十八分。秒針が規則正しく進んでいる。

(S市郊外の拠点まで、おおよそ四時間)

頭の中で高速に計算する。道路状況、検問配置予測、休憩時間、代替ルート。

(十八時には確実に到着させたいわね)

表情一つ変えずに結論を出す。

その頃になって、ようやく羆本が立ち上がった。残っていた二杯目の茶を一気に飲み干し、空になった湯飲みを置く。預かった一万円札と伝票を大きな手で掴むと、何事もない顔でレジへと向かった。

数分後。会計を終えた羆本が店から出る。

店の前では、既に才子と識が待っていた。

北海道の空は高い。どこまでも青い。

遠く離れた本州では国家規模の捜索網が張られ、テレビでは真白才子の名が絶え間なく連呼され、避難所は依存と怒りで自壊を始めている。

だが、そんな騒動とはまったく無縁のように、三人は静かに車へ乗り込んだ。

羆本が運転席に収まり、エンジンが低く唸りを上げる。黒いセダンはゆっくりと発進した。

次の目的地へ向けて。

まるで、ごく普通の昼食を終えた旅行者のように。

上空には、どこまでも青く、残酷なほどに穏やかな北海道の空が広がっていた。

 




ここまで読んでいただきありがとうございます。
オール・フォー・ワンが根津校長の対策にそれでもこちらが有利だとほくそ笑むという描いておきたかったシーンを描くことができて一安心の回でした
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