善意の剥製   作:タロットゼロ

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拠元々前話拠点への到着と一緒に続いていた話だったのですが、文字数が莫大になりすぎるので分けた話です


隠身識

二十時。

リビングの時計が、控えめな電子音を一度だけ鳴らした。

識はソファに腰を下ろし、膝の上のノートパソコンへ視線を落としていた。

画面には、東京を中心とした報道の一覧、錯綜する治安情報、そして水面下で蠢くヴィランたちの動向が並んでいる。世界の均衡が軋みを上げて崩れていく様を、彼女はただの数字と事実として淡々と脳内に蓄積し整理していた。

かつて行われた児童養護施設や老人保健施設への訪問。そして、夕方から急速に拡散し始めた真白才子という名前。

記事ごとに語調は違っていた。称賛するもの。戸惑うもの。過去を掘り返そうとするもの。

だが、識にとって重要なのは世論そのものではない。誰が、どの情報を流しているのか。どこに不自然な沈黙があるのか。公安やヒーロー側が、次にどのような動きを取るのか。

指先で画面を静かに送りながら情報を精査している、その時

リビングの奥、浴室の方から、ごくわずかな水音が止む気配がした。

続いて、カチャリと静かにドアノブが回る音に識は手を止めて視線を上げる。

湯気と共に開いた扉から白いバスローブ姿の才子が、リビングの入口へと歩み出てきた。

昼間まで纏っていたスーツも、ウィッグも、眼鏡もない。長い銀髪が、湯上がりの湿り気をわずかに残したまま肩へ流れている。

極めて無防備でありながら、しかしそれゆえにどこか神聖さすら感じさせる佇まいだった。眠気の残る顔であっても、彼女はどこまでも真白才子だった。

「レディ」

識が立ち上がろうとすると、才子は小さく手を上げて「いいの座っていて」とそれを制されて識はすぐに動きを止める。

才子はリビングを一度だけ見渡した。ノートパソコン。整えられたソファ。工程を終えて静まり返った室内。この家に漂う静けさを確かめるように、ゆっくりと息を吐く。

「先に部屋に戻るわ」

「承知しました。何か必要なものはございますか」

「いいえ。大丈夫よ」

才子はそれだけを告げた。柔らかな足取りでリビングの前を通り過ぎ、二階へ続く階段へ向かう。

途中で一度だけ、手すりに指先を添えた。それは疲労のためではない。これから部屋で始めること――個性の訓練へ、意識を切り替えるための仕草だった。

識はその背中を見送る。主寝室の扉が静かに閉じる音が、二階から小さく響いた。

「……今夜も、でしょうね」

誰に聞かせるでもなく、識は呟いた。

才子が行う個性の訓練。

出力を抑え、感覚を研ぎ澄まし、あの兵器級の質量を誇る力を精密に操っていく。あれは訓練というより、狂気の制御に近い

識はしばらく閉じた階段の先を見つめていたが、やがてノートパソコンを静かに閉じた。画面の光が消える。

リビングに残ったのは、天井灯の淡い明かりだけだった。

識は鼻梁にかけていた眼鏡を外し、ノートパソコンの脇へ丁寧に置く。視界がわずかに滲むが、この安全な隠れ家の中では、鋭い視覚など今は必要ない。

次に、ソファ脇へ置いていたバッグを開き、二階の客間から持ってきておいた着替え――清潔な下着と、薄手の寝間着――を丁寧に腕に抱えた。

「今夜はこれくらいにしておきましょう」

小さく確認するように言ってから、識は立ち上がった。

 

先ほど才子が出てきたばかりの浴室へと続く廊下は、まだ微かな熱気と、石鹸の清涼な匂いが残っている。羆本のいる客間からは、もう物音がしなかった。二階では、才子が再び自分の力と向き合っているのだろう。

識は足音を立てずに廊下を進み、まだ温もりの残る脱衣所の前で一度だけ振り返った。

誰もいないリビング。閉じられたノートパソコン。そして、明日にはまた別の緊張が訪れるであろう、静かな隠れ家。

主(レディ)が己を研ぎ澄ます夜の裏で、補佐官もまた、明日という戦場へ向けてその心身を深い休息の中へと委ねるべく、静かに浴室の扉を開けた。

浴室の扉を閉めた識は、まず室内を一通り見渡した。

洗面台。棚に揃えられたタオル。鏡。そして、浴槽。

「……湯は張っていないのね」

蛇口をひねる。湯が浴槽の底を叩き、やがて白い蒸気が静かに立ち上り始めた。

才子は、湯船に浸かるよりも短時間で済むシャワーを選ぶタイプなのだろう。識はそう考えた。あのレディにとって休息は、完全に力を抜くためのものではない。次に動くため、ほんの少しだけ自分を整える時間なのだ。

浴槽に湯を溜めたまま、識は淡々と衣服を脱いだ。

シャワーを浴びる。温かな湯が髪を濡らし、首筋を伝い、肩へ落ちていく。冷え切っていた身体の感覚が、ようやく少しずつ戻ってきた。

識は石鹸を手に取り、腕へと伸ばす。その時だった。

左の上腕。袖に隠れているはずの場所に残る、古い傷跡が目に入った。湯に濡れた皮膚の上で、その白くひきつった痕だけが妙に浮かび上がっている。

だが、彼女の身体に刻まれた「あの日」の記憶は、それだけではなかった。

識は濡れた手を背中へと回し、左の肩甲骨の下あたりに指先を這わせた。そこには、皮膚が歪に盛り上がった、もう一つの深い傷痕がある。

背後から心臓を狙い、命を奪おうとした刃の痕。

しかし、襲撃者の腕は決定的に悪かった。恐怖に震えていたのか、あるいは素人だったのか。突き立てられた刃はわずかに狙いを外し、肋骨を掠めて、彼女の命をギリギリのところで取りこぼしたのだ。

「……」

識の手が止まった。忘れたわけでも忘れられるようなものでもない、ただ、普段は思い出さないようにしているだけだった。

 

中学を卒業したばかりの春。まだ、次に通う私立高校の話をしていた頃。

 

父の会社は競争に敗れ、他社に強引に吸収された。生活は急に変転した。広かった家を手放し、家族三人で移り住んだ先は、以前よりずっと警備の甘い一軒家だった。

 

父は「すぐに立て直す」と言っていた。母は「大丈夫よ」と笑っていた。けれど、その言葉が本当に誰へ向けられたものだったのか、識には今でも分からない。

 

ある夜、その家に侵入者が入った。

 

記憶は途切れ途切れだった。乱れた室内。聞きたくなかった声。身体を走った鋭い痛み。そして、自分だけが残されたという事実。

 

警察とヒーローはは捜査をした。事情を聞き、記録を取り、何度か連絡を寄越した。だが、時間だけが過ぎた。犯人は見つからない。ヒーロー社会の光の当たらない路地裏で起きた悲劇など、誰も本気で解決しようとはしなかった。

 

だから、識は自分で答えを探すことを覚えた。

 

自らの個性を極限まで利用し、自らの手で過去に決着をつけた。

 

すべてが終わった雨の夜、彼女の前に一人の女が現れた。表の社会には名前を持たず、裏の世界の住人たちから恐れられていたプロフェッショナル。

 

その女は、血の海に立ち尽くす十五歳の少女を静かに見つめ、言った。

 

『いい目をしているね』

 

その声音には、哀れみも称賛もなかった。ただ、冷徹な値ぶみだけがあった。

 

『私の仕事を、少し手伝う気はないかい』

 

識は、その誘いを断らなかった。断る理由が、もうなかったからだ。

 

そこから先の十年。彼女は生き残るためのあらゆる技術を叩き込まれた。

誰かの隣に立つための立ち方。会話の中から必要な情報を拾う方法。相手が求めている言葉を選び、予定を組み、書類を整え、危険を遠ざけるための知識。

表向きは、最高の秘書として働くための教育。その裏側には、決して履歴書には書けない、血と硝煙の経験が積み重なっていき、そして十年後、識は独立した。

1年契約のフリーランス秘書として表と裏の世界を渡り歩き、自らの価値を証明し続けて3年。必要ならば護衛となり、交渉役となり、誰よりも早く危険を察知する影。

そうして多くの経験を終えた彼女が、今は真白才子のためにこの家にいる。

ふと、浴槽からお湯が溢れる音が聞こえ、識は目を閉じた。

シャワーを止める。浴室に残ったのは、湯の溢れる贅沢な音と、静かな蒸気だけだった。

「……もう済んだ話よ」

誰に言うでもなく、識は呟いた。けれど、その声は確信ではなかった。左腕の傷跡は、何も答えない。

識はゆっくりと湯船へ身を沈め、浴槽の縁に頭を預け、ゆっくりと瞳を閉じた。

真白才子と出会うより、少し前、まだ次の契約先を探していた頃の、東京の夜が脳裏をよぎる

夜のホテルは、昼間とは別の顔をしている。

最上階のラウンジ。窓の外には、遠くまで続く街の灯りが広がっている。窓際の席に座った識の前では、グラスに注がれた白茶が静かに湯気を立てていた。

識はテーブルの上のノートパソコンを静かに閉じた。画面に並んでいたのは、次の契約先候補だった。

表向きには、企業経営者や資産家の秘書業務。だが、その中には警備を必要とする者もいる。交渉の場に同席するだけでは済まない依頼もある。表の仕事と裏の仕事。その境界を理解した上で、自分の能力に見合う契約を選ぶ。それが、独立してからの識のやり方だった。

一年契約。必要以上に深入りしない。雇用主の秘密には触れるが、自分の秘密は渡さない。そして、契約が終われば、必ず次へ進む。そのために今夜も、彼女は次の仕事を探していた。

「相変わらず、堅実だな」

不意に、向かいの席から声がした。

人が近づく気配にはすでに気づいていた識は驚くことなく、ゆっくりと視線を上げた。

そこにいたのは、年齢の分からない、どこにでもいる会社員風の男だった。だが、その顔には「誰かの間に立つこと」を仕事にしてきた者だけが持つ、妙な軽さがあった。

表の仕事と裏の仕事の間を歩き、金と情報と人間を繋ぐ、仲介屋。

男は勝手に向かいの椅子へ腰を下ろすと、周囲の目を盗むようにして、一枚の小さな紙片をテーブルの上へと滑らせた。

「アンタの次の契約先について、少し面白い話を持ってきた。……アンタに、あの“オール・フォー・ワン”を紹介させてもらいたい」

一瞬だけ。識の指先が、白茶のグラスの縁で止まった。

ヒーロー社会の裏側に君臨する、生ける伝説にして絶対の魔王。その巨大すぎる影に触れることは、すなわち生還の保証のない深淵へ飛び込むことを意味していた。

識は冷徹な眼差しを男に向け、声音を一切変えずに問いかけた。

「……大物ですね。ですが、私がこの情報を警察やヒーローに持っていくとは思わないのですか?」

脅しでもなければ、探りでもなく、ただ、事実として確認しただけの静かな声音。仲介屋の男は浅く笑った。

「まさか。表の秘書としても、裏の始末屋としても、アンタの『完璧な口の堅さ』は折り紙付きだ。そんな真似をして、これまで築き上げた信用をドブに捨てるような愚か者じゃないことくらい、私が一番よく知っている」

識は答えなかった。無言の肯定だった。

裏社会を渡り歩く上で、信用こそが唯一最大の武器であり防壁。依頼人の情報を警察へ売る者に、次の仕事は来ない。沈黙を守ることにこそ、自分の価値がある。それを理解しているからこそ、男は確信を持ってこの怪物を提示してきたのだ。

識は紙片を静かに指先で手繰り寄せ、スーツの内ポケットへと仕舞い込んだ。

「四十時間後。ここへ行け」

書かれていたのは、山の名前と、簡単な地図だった。登山道から外れた先にある、古い洞窟の位置。

「面談ですか」

「さあな。会えるかどうかは、アンタ次第だ」

「条件は?」

「生きてやってくること」

「紹介料は?」

「会えたら、向こうが払う」

男はそれだけを言って立ち上がり、ラウンジの出口へ歩いていく。その背中を追わず、識は一瞬だけ、内ポケットの紙片に触れ誰にも聞こえない声で呟いた。「悪くない話ね」

 

――それから四十時間後。

 

都会の喧騒から遥かに隔絶された、険しい山岳地帯の麓に、識の姿はあった。

表の都会的なビジネススーツを脱ぎ捨て、機能的なアースカラーの登山服に身を包んだ識は、迷いのない足取りで山道へと分け入っていく。背負ったザックの奥には、いつでも抜ける状態で、小振りのサバイバルナイフが仕込まれていた。

山道を外れ、木々の密度が増した頃、識は足を止めた。

前方。木の陰に二人。さらに少し離れた岩場にも一人。武器を見せることで近づく者を警戒させる配置。オール・フォー・ワンの手下であるヴィランたちが、厳重な哨戒網を敷いていた。

「……歓迎されているわけではない、と」

識は巨岩の影に身を潜め、静かに呼吸を整えた。

自分の個性を使う前には、必ず残り時間を頭の中で確認する。

最大三分間。自分の存在を、相手の視界の死角へ強制的に滑り込ませる能力。

見えなくなるわけでも音が消えるわけでもない。ただ、相手がこちらを見るべき対象 として認識できなくなる絶対の隠蔽。ただし、使った時間と同じ長さだけ、次の発動まで再使用できないペナルティがある。 

識は思考を研ぎ澄まし、呼吸を止めるようにして個性を起動した。

世界から、彼女の輪郭が消える。

識のすぐ側を、軽武装したヴィランの足音が通り過ぎていく。彼らの視線は識の身体を完全に素通りした。識は一切の足音を殺し、秒単位で脳内カウントを進めながら、張り巡らされた哨戒網の隙間を滑るようにすり抜けていった。

 

一分。

 

二分。

 

木々の隙間を抜け、岩場の裏へ回り込む。個性の持続時間が切れる直前、識は大きな岩陰へ身を滑り込ませ、個性を解除した。

肺に溜まった息を静かに吐き出し、腕時計を見る。

 

一分五十二秒。

 

その時間だけ、今は次の個性が使えない完全な無能力者となる。周囲の風の音を聴きながら、じっと時を待つ。敵の陣地のど真ん中、この皮膚がヒリつくようなインターバルを耐えることも、彼女の武器だった。

やがて、脳内の時計が終了を告げると同時に、木々の向こうに黒い裂け目が見えた。山肌に口を開けた巨大な洞窟。

地図に記されていた、魔王の潜伏先。

中からは、冷たい空気が流れ出していた。湿った土の匂い。古い岩の匂い。そして、その奥にいる圧倒的な怪物の気配。

識は一度だけ目を閉じて意識を集中する

「――デッドスポット」

 

 

洞窟の奥は、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

剥き出しの岩肌。天井から垂れ下がる古い配線。ところどころに置かれた簡易照明が、湿った地面と暗がりをぼんやりと照らしている。

人が暮らすための場所ではない。けれど、ただの隠れ家とも違った。ここには明確な秩序がある。誰がどこに立ち、誰が何を見張り、誰が声を出してよいのか――そんな見えない規則が、洞窟の空気そのものに染みついていた。

岩肌を伝う水滴の音だけが不規則に響く闇の中、数歩引いた位置に立つスピナー――井口拓海は、男の横顔を見つめていた。

簡素な椅子に腰を下ろした男は、少し前から、声を出さずに愉快げな含み笑いを漏らしている。

(……何がおかしいんだよ、この状況で)

スピナーの胸に、小さな苛立ちと疑問が湧く。世界の崩壊を企む魔王の思考など、元引きこもりの自分に理解できるはずもない。だが、何もない闇を見つめて独りごちるその姿には、生理的な不気味さがあった。

その、次の瞬間だった。

スピナーのすぐ真横、文字通り肩が触れ合うほどの至近距離の空間が歪み視界の端に何かが見えた

「――ッ!?」

驚愕のあまり、スピナーの全身の鱗が逆立つ。

反射的に腰の巨大な合体剣へ手を伸ばそうとしたが、隣に立つ影のあまりの自然さに、脳の命令が一瞬遅れた。そこにいたのは、さっきまで影も形もなかったはずの、登山服に身を包んだ一人の女だった。

女はスピナーの動揺など視界に入れていないかのように、ただ前方の魔王だけを見据え、衣服の擦れる音すら立てずに深く一礼した。

「貴方がオール・フォー・ワンですね。紹介を受けて参らせていただきました。隠身識と申します」

取り乱すこともなく、震えることもない。冷徹で、極めて洗練された事務的な声音が、洞窟の壁に反響する。

スピナーは信じられない思いで女を凝視した。自分のすぐ隣だ。ほんの数秒前まで、そこには岩肌と空気しかなかった。物音ひとつ、風の動きひとつ感じなかった。まるで、最初からそこに生えていた植物が、突如として人間の声を放ったかのような錯覚。

暗闇の奥、チューブに繋がれた魔王が、ゆっくりと首を傾げる。

その顔に目はない。だが、確かに隠身識という存在を嬉々として見つめていた。

『いやあ、素晴らしいね。僕はかなり手前から君の接近に気づいていたけれど……まさか、そこに立つ井口くんの真横に滑り込むまで、彼に一切の違和感すら抱かせないとは。想像以上だよ』

オール・フォー・ワンの言葉に、スピナーは息を呑んだ。

魔王は知っていて泳がせていた。自分はこの女が存在を現すその瞬間まで、完全に肉眼の、そして本能の死角を突かれていたのだ。その事実が、遅れて背筋を冷たく撫でていく。

『歓迎するよ、隠身くん。君のような完璧なプロフェッショナルの訪問を、僕は心から待っていたんだ』

魔王の低い笑い声が、再び洞窟の奥へと満ちていく。

張り詰めた闇の中で、識はただ静かに、その深淵の言葉を真っ直ぐに受け止めていた。

識は、魔王の歓迎の言葉を受けても、すぐには頷かなかった。

 

洞窟の湿った空気が、わずかに冷たく頬を撫でる。

目の前にいるのは、裏の世界において名を知らぬ者のいない怪物だ。その怪物が、自分を待っていたと言う。だからこそ、識はほんの僅かもも浮かれなかった。

「……私を雇いたい、とのことですが」

静かな声だった。拒絶ではない。だが、安易な了承からも最も遠い声。

識は姿勢を崩さず、チューブに繋がれた男を真っ直ぐに見据える。

「失礼ながら、洞窟に潜んでいる現在の貴方の秘書として、私に役立てることがあるとは思えません。身の回りの雑務であれば、そこに立つ方でも事足りるはずです」

スピナーが、わずかに眉をひそめた。

普通ならば、その場で空気が凍りついてもおかしくない言葉だった。目の前の魔王に対して、役に立てる仕事がないと言い切ったのだ。

だが、オール・フォー・ワンは怒らなかった。むしろ、楽しげに喉を鳴らす。

『ふふ……なるほど。実に合理的だね。自分の能力を正しく把握し、雇用主の現状を見て、必要性を疑う。紹介屋が君を推した理由がよく分かるよ』

洞窟の奥で、低い笑い声が反響する。識は答えない、褒め言葉に反応するほど、彼女は若くなかった。

オール・フォー・ワンは、ゆっくりと首を傾げた。

『けれど、少し認識が違う。君を雇うのは、確かに僕だ。だが、君に働いてもらう相手は僕ではない』

「……では、どなたに?」

『明日、羽田へ到着する英国の女男爵だよ。バロネス・エインズワース。彼女の日本での活動を、君に支えてほしい』

識の瞳が、わずかに細められ洞窟の中に、再び水滴の音が落ちる。

スピナーには、その名前が何を意味するのか、何が企まれているのか分からなかった。

だが識は、すぐに続きを促さなかった。相手が自分から情報を出すのを待つ。それもまた、秘書として、そして裏の世界を生きる者としての習慣だった。

オール・フォー・ワンは、その沈黙を愉快そうに受け取った。

『表向きには、彼女の予定管理、対外折衝、情報整理、身辺の補佐。君がこれまでしてきた表の仕事と、大きくは変わらないよ』

「……護衛も含む、と」

『理解が早くて助かるよ。彼女はこれから、この日本で目立つ。望むと望まざるとにかかわらずね。そうなれば、彼女の周囲にはいろんなものがつきまとってくる、好奇心も、敵意も、彼女を利用しようとする鬱陶しい羽虫たちも集まってくるだろう』

識は、頭の中で即座に仕事の輪郭を組み立てていた。

海外貴族。羽田到着。日本国内での活動。表向きの補佐。そして、裏の顔。

「いざという時には」

識が確認するように言う。オール・フォー・ワンは、満足そうに笑った。

『そう。いざという時には、君の裏の顔の力も貸してやってほしいのさ。彼女の行く手にある障害を、静かに、確実に刈り取ってほしい。彼女には、表の世界で立つための手が必要だ。そして、表だけでは届かない場所に手を伸ばせる者もね』

識はしばらく、魔王を見つめていた。

バロネス・エインズワース。まだ顔も知らない、魔王の息がかかった新たな雇用先。

だが、その名を自分へ預けるということは、目の前の怪物が彼女を単なる使い捨ての駒として扱っていないことだけは分かる。あるいは――大切な駒だからこそ、最高の手を置くつもりなのか。

「契約期間は」

識は問いかけに『一年だ』と即答が返る。

『君の流儀に合わせよう。報酬も、表の仕事として不自然のない形で、破格のものを容易する。必要な経費、身分、住居、移動手段。それらもすべてこちらで整えるよ』

「業務範囲は、彼女の安全確保と活動補佐。必要に応じて、非公開の処理も含む」

『その通りだよ』

識は一度だけ、目を伏せた。そして、再び顔を上げる。

 

バロネス・エインズワース。まだ顔も見たことのない、英国の女男爵。明日、羽田へ到着するという女。

表向きには、予定管理と対外折衝。日本での活動を支える秘書。

だが、目の前の魔王が自分に求めているものは、それだけではない。表の世界では処理できない問題。彼女の行く手を塞ぐ者。彼女を利用しようとする者。そして、必要とあらば消さなければならない障害。

 識はゆっくりと顔を上げた。

「……そういう依頼内容、つまり表の秘書としてではなく、ヴィランの始末屋としての業務が多分に含まれるのであれば。――あらかじめ申し上げておきますが、私は高いですよ」

洞窟の湿った空気の中で、彼女の声だけが明確に一線を引くように、妙に明瞭に響いた。

スピナーの視線が、わずかに識へ向く。世界で最も敵に回してはならない男を前にして、平然と値上げを要求した女の不遜さに、その全身の鱗が強張る。

だが、オール・フォー・ワンはやはり怒らなかった。むしろ、楽しげに喉を鳴らす。

『ふふ……いいね。自分の価値を理解している者は嫌いじゃない。……していくらかね?』

 識は表情一つ変えず、即答した。

「一日、二百万円」

「……っ!?」

 スピナーが、ほんのわずかに息を呑んだ。

 一日二百万。単なる秘書の報酬ではない。護衛、情報収集、危険地帯への同行、そして表には残せない仕事。自分の能力と、自分が背負う危険のすべてに値札をつけた金額だった。

識はさらに淡々と続ける。

「契約期間は一年。休日の有無は、レディの予定に合わせます。ただし、危険度の高い案件、国外への同行、身元を偽る必要がある任務については、別途協議を」

『なるほど』

魔王の声には、値段への驚きも、不快感もなかった。

『一年で、七億三千万円ほどか』

「はい」

『安いね』

 識の瞳が、ほんのわずかに細められた。その言葉は、彼女を試すためのものではない。本心からの評価だった。

『一年分、先払いさせてもらおうかな』

 オール・フォー・ワンはジャケットの内ポケットから取り出したスマートフォンへ、細い指先を滑らせた。画面の淡い光が、目のない男の顔を不気味に照らし出す。

電子音が一度だけ、静かな洞窟の奥に冷たく響いたその直後

識の登山服のポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。洞窟の中に、不釣り合いな電子音が響く。

 識は一拍だけ動きを止めた。それから、ゆっくりとスマートフォンを取り出す。

 画面には、幾重もの暗号化を施した裏の仕事専用の口座から、着金完了の通知が表示されていた。

そこには、彼女が提示した額――否、オール・フォー・ワンによって端数が綺麗に切り上げられた、目も眩むような巨額の数字が並んでいた。

数字を見た瞬間、スピナーは思わず識の横顔を見た。

だが、識の表情は変わらない。驚きも、安堵も、欲望も、何一つ外へ漏らさない。彼女は数秒間、画面を見つめたあと、静かにスマートフォンを胸元へ戻した。

「……確認いたしました」

 短い返答。だが、その声には先ほどまでとは違う確かな重みがあった。

契約は、今この瞬間に成立した。

オール・フォー・ワンは、満足そうに笑う。

『では、隠身くん。明日から君は、バロネス・エインズワースの秘書だ。君のその死角が、僕の可愛い教え子の行く道を、美しく切り開くことを期待しているよ』

「承知しました」

 識は、衣服の擦れる音すら立てずに、これまでで最も深い一礼を施した。

「――契約期間中、私が仕えるのはバロネス・エインズワースただ一人です」

洞窟の奥で、魔王の笑みがさらに深くなる。

『ああ。それでいい』

 その言葉は許可ではなかった。

 最初から、それこそがオール・フォー・ワンの望みだった。

 暗い洞窟の中で。まだ顔も知らない女男爵と、彼女の隣に立つことになる女の契約が、静かに、そして完璧に結ばれた。

 

深い一礼を捧げ、隠身識の気配が再び洞窟の闇へと溶けていく。

 完全に『死角』へと滑り込んだ彼女の足音は、去り際の一歩すら、この洞窟の誰の耳にも届かなかった。

「……」

 静寂が戻った闇の中で、スピナーは未だに自分の喉がカラカラに渇いていることに気づいた。

 一日、二百万。

 元引きこもりで、社会の底辺からステインの思想だけを頼りに這い上がってきたスピナーにとって、それはもはや金額というより、ただの非現実的な数字の羅列に近かった。それをあの女は平然と要求し、目の前の怪物はスマホ一つで二つ返事で振り込んだのだ。裏社会のトップ層の取引というものの異常さに、ただただ圧倒されていた。

 だが、静まり返った空間に、再びあの男の低い笑い声が響く。

『ふふ、ふふふ……。一日、二百万か』

 オール・フォー・ワンは、手元で発光するスマートフォンの画面を消すと、実におかしそうに、心底愉快そうに首を振った。

『「高いですよ」とは、可愛いことを言うね』

「……っ」

 スピナーの肩が、びくりと跳ねる。

 可愛い、だと? 年間で億を軽く超える大金を、この男は今、路地裏の子供がねだる駄菓子のお小遣いか何かのように評したのだ。

『これだから、最近の若いプロフェッショナルは慎ましい。自分の命と技術にそれだけの価値があると思っているなら、いっそ国家予算の数%でも要求すればいいものを。裏社会の「相場」という小さな枠の中でしか算盤(そろばん)を弾けないあたりが、実に愛らしいじゃないか』

 男の言葉には、皮肉や侮蔑ではない、本物の「強者の余裕」が満ち満ちていた。

 彼にとって金とは、社会を、そして人間を飼い慣らすための家畜の餌に過ぎない。黎明期から数多の富を強奪し、企業を、時に国さえも裏から牛耳ってきた魔王からすれば、個人の出す「最高額」など、どれほど強気に見えても井の中の蛙にしか映らないのだろう。

 スピナーは、握り締めていた拳が小さく震えるのを止められなかった。      

 ――格が、違いすぎる。

 さっきの女(識)も十分に化け物だと思った。オール・フォー・ワンを前に一歩も引かず、自身の価値を叩きつけたあの胆力は本物だ。だが、その化け物の矜持を、この魔王はさらに上空から、慈しむような笑顔で、文字通り「買い叩いて」みせたのだ。

 スピナーは掠れた声を絞り出す。

「あの女を……本当に信じていいのか。金で動くような奴だ、もっと大きな金を積まれれば、いつでも裏切るんじゃ……」

『いいや、井口くん。それは逆だよ』

 オール・フォー・ワンは、目のない顔をスピナーへと向けた。その口元は、やはり歪なほど優しげに弧を描いている。

『金で動くプロというのはね、その金額分の仕事は絶対に完璧にこなすものさ。なぜなら、契約を違えば、次からその額で自分を売ることができなくなるからね。信用という名の価値を何より重んじる。狂信や忠誠なんていう不確かな感情より、よほど御しやすいし、信頼できるのさ』

 魔王の細い指先が、トントンと椅子の肘掛けを叩く。

『それに……仮にあの彼女を金で買収しようとする者が現れるとしてもだ。僕以上に金を積める人間なんて、この世界には存在しないのだけれどね』

 

英国貴族であり外交官としての身分を併せ持つ真白才子――『バロネス・エインズワース』が到着するのは、一般の観光客がごった返す通常の到着ロビーではない。

 外交特権や厳重なセキュリティが適用される要人のため、専用の『VIP用特別待合室』に直結した、一般立ち入り禁止区域の専用出口。そこが、今回の合流場所に指定されていた。

 白の手袋をはめ、隙のない黒のビジネススーツに身を包んだ隠身識は、微動だにせずその出口の前で待機していた。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、指先を揃えて体の前で重ねた、完璧な会釈の姿勢。

 彼女の脳内には、昨日オール・フォー・ワンから共有された、『バロネス・エインズワース』の経歴とプロファイルがすべて叩き込まれている。

 やがて、重厚な自動ドアが静かに左右へと開いた。

 数人の関係者や警備の間に守られるようにして姿を現したのは、洗練された仕立ての衣装を纏った、気品と傲然さを漂わせる若き銀髪の美女だった。

 周囲を圧倒するようなカリスマ。それが、これからの雇い主。

 識は滑らかな動作で上体をさらに深く傾け、最高礼の角度で声を紡いだ。

「――お初にお目にかかります、バロネス。貴方の『先生』であるあのお方に、貴方の秘書として派遣されました、隠身識と申します」

「……!」

 その瞬間、バロネス・エインズワースの完璧な貴婦人の仮面の奥で、一瞬だけ劇的に表情が変わった。

 美しい眉が微かに跳ね上がり、その瞳に驚きと、それ以上の歓喜の光が宿る。

(――さすがは先生。私の日本到着に合わせて、これほどの手回しを……!)

 緊迫する東京の情勢を縫い、降り立ったばかりのこの地に、すでに完璧な受け入れ態勢が整えられている。そのあまりの迅速さと底知れなさに、才子の胸は愛する師への深い畏敬と心酔で満たされた。

 そして、その先生が直々に選んで自分の元へ送り込んできた人材なのだ。一瞥しただけでわかる、識の無駄のない立ち振る舞い、一切の隙がない佇まい。

 才子は初対面であるはずの隠身識に対し、確固たる、そして絶大な信用をその瞬間に寄せた。先生の目に適った最高の手駒が、悪かろうはずがないのだから。

 才子はすぐにその動揺を優雅な微笑みの下へと覆い隠し、実になじんだ様子で頷いた。

「……先生に? ………そう。よろしくお願いするわ、識。期待しているわね」

「身に余る光栄にございます」

 識は顔を上げると、すでに一般駐車場ではなく、特別降車場に待機させてあった黒のリムジンへと才子を先導した。

 一般の目を完全に遮断したそのエリアで、識は後部座責の重厚なドアを静かに、滑らかに開け放つ。

「どうぞ、バロネス」

 才子は識が差し出した空間へ、その全幅の信頼を乗せた流れるような足取りで通り過ぎた。

 仕立ての良い衣服が擦れる音を残し、才子が車内へと乗り込むのを確認すると、識は不快な振動を一切与えない繊細な力加減でドアを閉める。

 カチャリ、と静かなロックの音。

 識はすぐさま車両の後方を回り込み、反対側の後部座席のドアを開け、自らもまた滑り込むように乗車した。主の隣、しかし決してパーソナルスペースを侵さない絶妙な距離感。

 バタン、と二つ目のドアが閉まり、遮音性の高い車内は一瞬にして静寂に包まれる。

 車窓の外、羽田の湾岸線へと滑り出し始めた景色。

 その窓越しに差し込む、燃えるような夕日の赤い光が、前を向いたままの識の冷徹な横顔を静かに、しかし鮮烈に照らし出していた。

 崇拝する魔王から与えられた極上の右腕を得て、新たな怪物の主従が、今、東京の地で動き出す。

 

「バロネス訪問予定の児童養護施設ですが既に物資は待機されております。」

 

 




今回は
隠身識が真白才子の秘書になるまでの話を描いてみました
過去回想にどうやって繋げるかなと考えてたら、昔目立たない場所に怪我をした→そんな怪我をどうやって意識させる→風呂場なら出来るな
と組み上げた話でした。暇つぶしの一助になったなら幸いです


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