善意の剥製   作:タロットゼロ

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死柄木弔が回復する二日前と1日前の夕方までの間

朝風呂楽しんでる羆とか、拳銃受け取りに行った識とか
才子が2階で寝てて識が調達に行ってる間に小遣いでウーバー注文しようとしてるところを後頭部に拳銃突きつけられて中止する羆とか、夜中にこっそり羆が抜け出すのを2階のベランダから見ていた才子とか。
他愛ない話ばかりなので自没にして昼食迄キング・クリムゾン。


決戦前日

 

 昼食を終え、ノーブルレディ――真白才子が「少し休むわ」と二階の自室へ戻っていくと、リビングには途端に重苦しい沈黙に支配される中、残されたのは、隠身識と羆本の二人だけである。

 羆本はソファに深く腰掛けたまま、点けっぱなしのテレビニュースを凝視していた。画面には、ヒーローたちによる捜査の進捗や、錯綜する目撃情報がアナウンサーの硬い声で読み上げられている。

「……チッ、群馬までは足取りが割れてやがる」

 羆本はリモコンを握る手に力を込め、忌々しげに呟いた。警察やヒーロー側の追跡が、自分たちの予想よりも早く背後に迫っているのではないかという焦燥が、その横顔にありありと浮かんでいる。

 だが、その傍らでノートパソコンを操作していた識は、視線すら上げずにただ淡々と指先を動かしていた。

(その程度、当然でしょうに)

 彼女の脳内にある冷徹な算盤からすれば、国家規模の捜査網が群馬周辺まで到達していることなど、驚きにも値しない「想定内」の事実に過ぎない。むしろ、ここまでこちらの本拠を特定させていないことこそが、自分たちの隠蔽工作の成果だとさえ言えた。羆本の焦りは、表の社会で追われる側になった経験の浅さゆえの、些末な動揺でしかなかった。

 識にとって、テレビの中のヒーローなどよりも、遥かに優先すべき案件が今まさに手元に届いたばかりだった。

 数分前、徹底的に暗号化された裏の専用端末に滑り込んってきた一通のメール。

 送信元の名は、ない。だが、その一風変わった、しかし絶対的な支配力を感じさせる文面だけで、送り主が誰であるかは明白だった。

『レディの実家が、現在の隠れ家の隣にある「氷晶霧(いらむ)区」に存在する。

 識くん、彼女に対して、さりげなくその実家のことを思い出して気にかけるように水を向けてもらいたい。

 これは、レディが今後活動していくために必要な心構えを整えるための、極めて重要なステップだ。僕が直接それを指示して仕向けたのでは、彼女の教育としての意味がない。あくまでもレディ自身が自主的に過去と向き合い、調べることにこそ価値がある。そのための舞台裏を、君に依頼したい』

「……」

 識の指先が、キーボードの上で小さく止まる。

 オール・フォー・ワンからの、依頼。

 一日二百万という破格の報酬に見合いレデイの今後の活動に必要とあっては断るという選択肢は無い。

実に細工の難しい、確かな技術を要求される案件だった。同時に、そこには魔王らしい悪趣味さと、合理的かつ歪な教育論がこれでもかと詰まっていた。

 レデイに、自分の意志で実家を調べさせる。

 そのためには、こちらから「先生からの伝言です」などと言うのは論外であり、それどころか「実家を調べてみては?」という直接的な提案すら、聡明な彼女には不自然な誘導として勘繰られる恐れがある。完璧な秘書として、彼女の思考のタイムラインに、あたかも「本人が自発的に思いついた」かのように、その動機を滑り込ませなければならない。

(隣の、氷晶霧区……。そこにある、真白才子の『原点』か)

 識は腕を組み、窓の外へ視線を向けた。午後の穏やかな日差しが、静かな庭を白く照らしている。

 プロとしての思考の海へ深く潜りながら、彼女は自らに課す行動原則を頭の中で冷徹に組み立てていった。

(――情報を与え、――だが、答えは決して与えない――考える切っ掛け(種)だけを、レディの視界に滑り込ませる)

移動中の車窓から見える景色、あるいは日常の些細な会話の端々。

 どこに、どのような形でその種を蒔けば、あの鋭すぎる主の知性を、こちらの意図を一切悟らせずに実家というキーワードへと収束させられるか。

 識は小さく、誰にも気づかれないほどの息を吐き、思考の刃をさらに研ぎ澄ます。

(……さて。我がレディは、何に最も鋭く反応されるお方かしら)

 

 トントン、と控えた音量で主寝室の扉が叩かれ、

「レディ。食後のお茶をお持ちいたしました」

 二階の自室で思考を巡らせていた真白才子が「入りなさい」と短く応じると、鍵の開く音と共に、銀のトレイを携えた隠身識が滑るように入室してきた。

 デスクの上に、静かに、そして完全に均一な動作でティーカップが置かれる。立ち上る湯気と共に、才子が好むダージリンの、爽やかな香りが室内に広がった。

「これより、羆本に車を運転させ、ここの周辺一帯の状況確認に行ってまいります。レディはどうぞ、ここでおくつろぎください」

「そう。気をつけてね」

「恐れ入ります。では、失礼いたします」

 識は流れるような所作で一礼すると、足音を完全に殺したまま部屋を退出した。

 一人残された才子は、温かなカップを手に取り、静かに口を付ける。ダージリンの繊細な味わいが喉を潤していく。

 しばらくして、静まり返った家の中から、一階のガレージが開く低い重低音と、セダンのエンジンが始動するかすかな振動が伝わってきた。タイヤが砂利を噛み、遠ざかっていく。その発進音を見送るようにして、才子は飲み終えたばかりのティーカップを、手からそっと離した。

 ――ふわり、と。

 自重を失ったかのように、磁器のカップが空中でピタリと静止する。

 才子は視線すら向けず、ただ感覚だけでその『質量』を捉えていた。出力を極限まで絞り、ミリ単位で、狂気とも言える精密さで己の力を制御する。これが彼女の日常であり、呼吸と同じ次元で行われる訓練だった。

 浮遊するカップの軌道を指先ひとつ動かさずに操りながら、才子はただ、静かに流れる時間を潰していた。

 やがて――遠くから、聞き覚えのある車のエンジン音が近づき、ガレージへと収まる気配がした。

 才子が壁の時計に目をやると、出発してから正確に三時間が経過していた。

 ほどなくして、再びドアが叩かれる。戻ってきた識が、役目を終えたティーカップの回収に現れたのだ。宙に浮いていたカップは、彼女が入室する直前、何事もなかったかのようにデスクの定位置へと音もなく着地していた。

「おかえりなさい、識。……街の様子はどうだった?」

 トレイにカップを収める秘書の背中に、才子は何の気なしに問いかけに、識の手元が一瞬だけ、本当に一瞬だけ止まる。だが、振り返ったその顔には、いつもの完璧な秘書の微笑が張り付いていた。

「ええ、レディ。一言で申し上げるなら、街は変わらず機能停止の状態を見せております」

 識は淡々と、しかし極めて具体的な事実だけを並べ始めた。

「各地の体育館が避難所として開放されて利用されています、最寄りでは氷晶霧小学校も同様です。物資の搬入は始まっているようですが、現場は混乱している様子です。それ以外の一般の通りは驚くほど閑散としており……住宅地に入っても、すでに県外や遠方へ避難されたのか、空き家が目立つ状態です」

「……そう」

 才子の顔から表情が消える。

 氷晶霧小学校。その、何気なく秘書の口から告げられた具体的な地名が、彼女の脳内の奥底にある古い記憶の箱を、ほんのわずかに揺さぶった。

「よく分かったわ。……下がって良いわよ, 識」

「かしこまりました。何か御用がございましたら、いつでもお呼びください」

 再び深く一礼し、識は部屋を出ていった。閉まったドアの向こう、秘書の足音が完全に消え去るのを待ってから、才子はベッドの脇に置いてあった自身のスマートフォンを手に取って地図アプリを起動した。

 現在地を示す青いドット。そのすぐ隣に広がるエリアに、『氷晶霧区』の文字が液晶の光の中に浮かび上がる。

 画面に表示された「氷晶霧小学校」のマークに、才子はそっと人差し指を触れさせた。

 そこから、二キロと離れていない距離。

 才子は微かな記憶の糸を手繰り寄せるように、滑らかな軌跡で画面をスライドさせていく。同じ氷晶霧地区内の、とある一点。かつて自分が生まれ育ち、そして捨てたはずの「真白家」があるはずの位置まで地図はスクロールされて、液晶の光が、才子の瞳を冷たく、どこか哀しげに照らし出す。

 画面の中でスライドしていく地図。かつて自分が呼吸をし、理不尽に耐えながら、その揚げ句に両親を殺された「真白家」のあった場所。

 だが、その座標に表示されていたのは、見慣れた家屋のマークではなかった。

 アプリの航空写真へと切り替える。そこに映し出されたのは、ただの歪な、灰色の四角形。

「……更地」

 ぽつりとした呟きが、静かな部屋に落ちた。

 家は、影も形もなく消え去っていた。建物が取り壊され、ただ乾いた土と雑草だけが残された空間。それが、かつて真白才子という人間が日本に存在した唯一の足跡の、現在の姿だった。

 ――誰も住もうとしなかったのなら、こうもなるでしょうね。

 最初に胸を去来したのは、凍りついたような達観だった。あの忌まわしい事件の舞台となり、気味の悪い「真白才子」という怪物を生み出した事故物件だ。買い手がつくはずもなく、借り手など現れるわけがない。時の経過と共に朽ち果て、取り壊されるのは、経済的な合理性から言えばあまりにも当然の結末だった。

 けれど、その冷めた思考の裏側から、どろりとした暗い感情が這い上がってくる。

 ――世の中というのは、私という存在を、こうやって無かったことにしたいのだわ。

 それは、深い諦観だった。世界は自分を、自分の苦しみを、そしてかつてここで確かに生きていたはずの少女の時間を、綺麗に削り取り、砂をかけて埋め立てようとしている。不都合なものは見なかったことにする。それがこの、ヒーロー社会という「光」が支配する世界の、いつものやり口だ。

 達観と、諦観。その二つの冷徹な諦めの底から、マグマのような質量を持った、どす黒い熱情が爆発的に噴き出した。

 ――よくも、こんな真似を。

 それは、世界に対する純然たる怒り、勝手に自分を祭り上げ、危険物扱いして、弄び、今度は何事もなかったかのように原点を踏み荒らし、消し去っていくヒーロー社会という歪な世間そのものへの、ドス黒い怨嗟だった。都合よく私を透明人間に仕立て上げ、綺麗事で蓋をしようとする世間の傲慢さへの、激しい嫌悪と、言葉にならない憤怒。

 達観、諦観、そして怒り。

 相反する三つの感情が、才子の胸中で制御を失って激しく、ぐちゃぐちゃにないまぜになり、無意識のうちに感情の濁流に引きずられスマートフォンの筐体を握る、その白く細い指先に、ほんのわずかに――本当に、ほんのわずかだけ、出力の制御を忘れた力が籠もる。

 パキ、と。

静寂の中で、小さく、しかし酷く不吉な硬い音が響いた。

才子がハッとして視線を落とすと、自身の手の中にあるスマートフォンの強化ガラスの表面に、蜘蛛の巣のような白い亀裂が美しく、そして残酷に走っていた。

「……私としたことが……」

 ぽつりと、割れた画面の傷へ向けられた、呟き。感情一つで個性の制御を乱してしまった己への、冷徹な評価。

 だが、その手元に広がるヒビ割れた『氷晶霧区』の文字は、歪んで、世界への宣戦布告のように鋭く尖って見える割れた液晶の冷たい感触をポケットの奥へ押し込み、才子はゆっくりと文机(ふづくえ)の前へと腰を下ろした。

 椅子の上で背筋を美しく伸ばし、机の上で白く細い両手を静かに重ねる。そして、その重ねた手の甲へ、祈るように額を当てた。

(――クールになりなさい、どんなときでも、優雅さを忘れてはならないわ)

 それは、地獄の底から救い出してくれた先生から授かった絶対の戒律。英国で学び、叩き込まれた淑女の矜持。大衆を従わせるための、崩れない目線、正しい姿勢、完璧なレディとしての誇り。剥き出しの怒りなど、あの浅薄なヒーローたちと同レベルに墜ちる愚行でしかない。

 落ち着くのよ、と己に言い聞かせる。

 だが――そうやって理性的であろうと抗えば抗うほど、心の底に沈めていた泥のような記憶が、せきを切ったように脳裏でリフレインし始める。

 押し寄せるのは、世界が自分に行った仕打ちの数々。

 ――カシャカシャカシャと、家の前に幾つも並んだ不快なシャッター音。夕闇を不吉に切り裂くテレビカメラの赤いランプ。幾度も幾度も、こちらの神経を狂わせるように執拗に鳴り響くインターホンの音。

 そのすべてから小さな自分を庇うようにして、玄関のドアを背に、疲れ果てた声で「帰ってください」とただ繰り返していた父親の、あの小さくなっていく背中。

翌日の教室の机に突っ伏し、堪えきれずに嗚咽を漏らしていた幼い才子のことを、確実に気づいていながら、誰一人として見ようとしなかった。教壇に立つ担任教師は、才子と目を合わせる恐怖と、これ以上トラブルに巻き込まれたくないという保身の顔を隠そうともせず、ただ淡々と出席簿をめくっていた。

「……真白さん」

返事はない。

教壇の教師は一度だけ視線を上げ泣いている少女を見た。

だが何も言わない。

「……桃香(もものか)さん」

 あの、事務的に切り捨てられた瞬間の冷たさが、今も鼓膜にこびりついて離れない。

 ――そして極めつけは、あの最悪の夜。

 両親を襲った暴徒の男を、咄嗟のサイコキネシスでコンクリート塀ごと吹き飛ばした直後の光景。

 男が悲鳴を上げて逃げ去ったあと、玄関先には、もう動かない「おとうさん」と「おかあさん」が横たわっていた。才子は二人の身体にすがりつき、「おとうさん、おかあさん」と泣き叫んでいた。

 近所の家の窓には、いくつも明かりが灯っていた。カーテンの隙間から、自分を見る大人の目が確かにあった。なのに、誰も、ただの一人も玄関を開けて駆け寄ってはくれなかった。手を差し伸べてはくれなかった。

 静まり返った住宅街。ただ、夜の奥底から、遠く、遠くから、他人事のように近づいてくる救急車のサイレンの音だけが、虚しく響き渡っていた――。

「……っ……」

 重ねた手の甲に押し当てた額から、じわりと冷たい汗が伝う。

 目を閉じているというのに、網膜には今も、地図アプリが示したあの「灰色の四角形」が焼き付いて離れない。

 あのとき、私を見捨てた世界は今度は、私の家も、私の原点も、両親が生きた証すらも、すべて綺麗に削り取って更地にしたのだ。

 優雅に、クールに。先生の言葉を反芻しようとする頭の裏側で、ヒーロー社会という歪な世間そのものへの激しい嫌悪と、抑えきれない怨嗟の濁流が、才子の華奢な身体を内側から激しく揺さぶり続けていく。

そのとき、静寂を裂いて、文机の上に置かれたもう一台の端末が、低く重々しい呼び出し音を鳴らした。

 それは羆本や隠身識と共有しているものとは違う。この世でただ一人――彼女を地獄の底から救い出し、気高きノーブルレディへと仕立て上げてくれた「先生」こと、オール・フォー・ワンとの直通端末だった。

 才子は迷うことなく、音もなく椅子から滑り降りた。

 端末の前へ進み出ると、ドレスの裾を払って流麗に床へ片膝をつく。背筋を厳かに伸ばし、頭(こうべ)を垂れる。片手をそっと胸へ添えた。目の前に魔王の姿はなくとも、彼女が取るのは完璧な「臣下の礼」であった。

 才子が端末の通話ボタンを押すと、スピーカーから、あの慇懃無礼で、しかし絶対的な威厳を湛えた声音が響いた。

『やぁ、レディ』

「先生。本日もお健やかそうで何よりです」

『ありがとう。――おや?』

 親愛を込めた呼びかけの途中で、魔王の声が微かに弾んだ。小さく首を傾げるような、わずかな間。

『どうしたのかね? ……ふむ、何やら、ずいぶんと心が乱れているようだね?』

 その言葉に、才子の背中に冷たい戦慄が走った。

 画面越しですらない。電波を伝うほんのわずかな呼吸の揺らぎだけで、先生は自分の動揺を正確に見抜いてみせたのだ。

(しまった……! 先生の前に、このような無様な姿を晒すなんて……!)

 感情に振り回され、個性の制御すら乱してスマートフォンを壊してしまったなど、レディとしての最大の恥辱。それ以上に、先生の最高傑作でありたいと願う狂信的な忠誠心が、彼女の精神に強烈なストッパーをかけた。

 深く一呼吸。強固な理性の鎖が瞬時に己を縛り付け、彼女の精神状態は、凍りついたように平時の完璧なレディのそれへと急速に戻っていった。

「……いいえ。何でもございません、先生。些細な感傷に囚われていただけです。お見苦しいところをお見せいたしました。もう、処理いたしましたわ」

『そうかね? なら良いのだけれど。君は僕の自慢のレディだからね。あまり無理はしないでほしいな』

 受話器の向こうの魔王は、すべてを察した上で、それ以上は追及しないという風に優しく、そして本題へと切り替えた。

『――いよいよ明日、僕の長年の悲願を叶える戦いが始まるわけだが。レディ、君には其処のS市で活動してほしいと思ってね』

「……!」

『そうだな……例えば、君の故郷である氷晶霧(いらむ)区で、僕の意志に従うよう、大衆へ向けて呼びかけてはくれないかね?』

 心臓が、跳ねるような感覚があった。

 ほんの数分前まで、憎悪と共に地図で見つめていたあの『原点』の地。あまりにも絶妙なタイミングで告げられたその指示に、才子の瞳が揺れる。だが、それ以上に彼女の胸を占めたのは、先生と離されることへの一抹の寂寥と、純粋な焦燥だった。

「先生……。私を、あなたのお側で戦わせてはくださらないのですか?」

 才子は深く垂れていた顔を上げ、縋るように端末を見つめた。声を荒らげることはしない。あくまで優雅に、しかしその言葉には隠しきれない情念が乗っていた。

「私は……先生の、お側に立てないほど、頼りになりませんか?」

 死柄木弔の傍へ、あるいは先生自身の傍へ。自分もその「光」をすべてへし折る最終決戦の最前線に立ち、先生の盾となり矛となりたかった。そのために力を磨いてきたのだ。

 才子の哀願のような問いに、オール・フォー・ワンは、子供をおねだりを宥めるかのように慈愛に満ちた、低い含み笑いを返した。

『まさか。そんなことがあるはずがないじゃないか、我がレディ。君の力も、その聡明さも、僕が誰よりも高く評価しているとも』

 ふっと、魔王の息遣いが近づく。スピーカーの向こうで、魔王が楽しげに、至高の甘言を紡ぐ。

『僕のために活動してくれるというのなら。例え場所はどれほど離れていようとも、僕たちは共に同じ戦場(ステージ)で戦っていることにはならないのかね?』

 その一言は、才子の胸へ静かに、しかし絶対の救いとして落ちた。

 迷いを責めるでもなく、命令で押さえつけるでもなく。彼はただ、弟子の忠誠心を完全に肯定し、その向かう先だけをそっと示したのだ。

 

「……はい、先生。御心のままに、わがままを言って申し訳ありませんでした」

 才子は再び深く頭を垂れ、その言葉を胸の内で静かに反芻した。

 魔王の完璧な掌の上。自分の意志でその地へ赴くと決めた才子の瞳には、先ほどまでの迷いは消え去り、ただ冷徹で美しい忠誠の炎だけが灯っていた。

 

『分かってくれたらいいんだよ。――そうだね、君にだけは僕の本心を少し話しておこうか』

 スピーカーの向こうで、魔王が楽しげに、まるで秘密の悪戯を共有する少年のような声音で言葉を弾ませた。親しい友人にだけ、とっておきの秘密を打ち明けるように。

『青山くんという僕の素晴らしい友人のおかげでね、この計画はもう成功が決まっているのだよ。勝率は百パーセント、盤面はすでに詰んでいる。そこに君のような優秀なレディまで最前線に居てはね、ワンサイドゲームになりすぎてつまらないじゃないか。僕もどうせ勝ちが決まっているなら、少しは娯楽として楽しみたいのさ。――チェスで言うところの『フォーク』だよ』

「……フォーク」

 才子は垂れていた顔をわずかに上げ、そのチェスの戦術用語を反芻した。

 一つの駒で同時に二つ以上の敵駒を攻撃し、どちらか一方の犠牲を確実に強いる、逃れようのない両天秤の戦術。先生の意図が、彼女の明晰な頭脳の中で瞬時に一本の線へと繋がっていく。

「……つまり、ヒーローどもが私に対処するために戦力を割けば、先生の悲願を叶える戦場の均衡は崩れ、達成が容易になる。逆に、先生のいる本陣へ戦力を集中させれば、日本社会は地方の避難所を見捨てたという、致命的な欺瞞を全国へ晒すことになる……と?」

 受話器の向こうから、心底満足そうな、深い肯定の気配が伝わってきた。

『流石は僕のレディ、理解が早い。本当に君は僕の自慢だよ。盤面を俯瞰してこそ、ノーブルレディだ。――わかってくれるかね?』

 先生は、自分をただの捨て駒にするつもりなど毛頭ないのだ。大衆に絶望を植え付け、ヒーロー社会の根底にある正義のシステムそのものを内側から崩壊させるための、唯一無二の楔。

 その事実が、才子の胸を満たしていた焦燥を、極上の高揚感と甘美な使命感へと昇華させていく。

「――全て、承知いたしました。この真白才子、完璧に役割を果たしてみせますわ」

 床に突いた膝の痛みなど、とうに忘れていた。

 才子は誇り高く、気高く、その身に宿るすべての憎悪を美しい微笑の裏へと完全に格納して、もう一度深く頭を垂れた。

 世界を揺るがすフォークの片翼。魔王の掌の上で、彼女の忠誠は今や、何者にも揺るがせない絶対の確信へと変わっていく。

『……さて、もう一つ。隠身くんのことなのだがね』

 用件は済んだとばかりに一度途切れかけた魔王の声が、思い出したように、しかしどこか試すような響きを帯びてスピーカーから滑り出てきた。

『彼女のように、こちら側でも表の社会でも独自の地盤を持つプロフェッショナルは、リスクの捉え方が人一倍シビアでね。とりわけ危険度の高い仕事に関しては、その都度個別の協議と契約を交わす手筈になっている。――そこでだ、レディ。今回のS市における君の活動へのサポート、失敗しても構わないから、まずは君自身の言葉で彼女を説得してみたまえ。これもトップに立つ者としての、良い勉強だよ』

「……っ」

 それは、ただの教育を越えた、一種の試練の提示。

 海千山千の裏稼業人である隠身識を、まだ若い自分が「主」として真に掌握できるか否か。先生は、自分が名実ともに大衆を従える指導者へと脱皮するための舞台を、あえてこの土壇場で用意してくれたのだ。

 才子は震える胸を抑え、決意に満ちた声を返した。

「はい、先生。……全力を尽くします」

『うん、頑張りたまえ。――何せ君は、僕の『クイーン』なのだからね』

 ――クイーン。

 その一言が耳朶を打った瞬間、才子の脳裏に激しい衝撃が走る、チェスにおける最強の駒。盤上を縦横無尽に駆け巡り、あらゆる戦局を支配する、王の傍らに立つ最高位の存在。

 先生の壮大な野望の広さからすれば、自分などただ前進して消費されるだけのポーンであっても何らおかしくはなかった。いや、例えポーンとして使い潰される運命であったとしても、自分を地獄から救ってくれた先生のためであれば、喜んでその身を捧げる覚悟は疾うにできていたのだ。

 それなのに、先生は自分を、その他大勢の有象無象とは明確に違う、唯一無二のクイーンだと評価してくれた。

 じわじわと全身の血液が沸き立つような、背筋が粟立つほどの甘美な恍惚感が、才子の心を極彩色に染め上げていく。胸の奥から突き上げてくる狂おしいほどの歓喜と全能感に、視界が歪む。

 ただの一言で、少女の魂を永遠の主従へと縛り付ける。魔王の歪な愛情という名の鎖は、今や才子にとって、何よりも誇らしい至高の勲章だった。

 才子は息を呑み、溢れそうになる至上の幸福を噛み締めるように、震える声で言葉を紡いだ。

「……っ、光栄の至りに存じます、先生……!」

 深く、深く床へ頭を垂れる。

 その瞳には、先ほどまでのドス黒い怒りなど微塵もなく、ただ魔王から与えられた極上の称号にふさわしい存在であらんとする、狂信的で、どこまでも美しい忠誠の光だけが爛々と輝いていた。

 

一階のキッチンで手際よく夕食の準備を終えた隠身識は、銀の盆に湯気の立つティーカップを載せ、静かな足取りで二階へ上がった。

 主寝室の前へ辿り着き、いつものように規則正しいリズムでノックをしようとした、まさにその時である。

 防音の施された厚いドアの隙間から、わずかに漏れ聞こえてきた『声』に、識の指先がピタリと空中で静止した。

『――チェスで言うところの『フォーク』だよ』

 その独特の響きを持つ、しかし絶対的な支配力を宿した聲音。裏の専用端末から響く魔王オール・フォー・ワンの声に重なるようにして、才子の張り詰めた台詞が追従する。

「……ヒーローどもが私に対処するために戦力を割けば、先生の悲願を叶える戦場の均衡は崩れ、達成が容易になる。逆に、先生へ戦力を集中させれば、日本社会は地方の避難所を見捨てたという、致命的な欺瞞を全国へ晒すことになる……と?」

 ドアの向こうで繰り広げられている、恐るべき戦略の開示。

 識は微動だにせず、盆を抱えたままその会話に耳を澄ませた。

(……フォーク。中央と地方の同時攻撃、ですか。ヒーロー社会は、その正義というプライド故に、この悪魔の二択から決して逃れることはできない)

 プロの暗殺者であり、冷徹な現実主義者である識の脳内で、その戦略の持つ意味が瞬時に計算されていく。

 内通者による完璧な情報アドバンテージを握った上で、どちらを選んでも確実に敵をすり潰す非情の両天秤。これでは、ヒーロー側に対策の余地など残されているはずがない。

これは、魔王が手塩にかけて育て上げた最高傑作に、最後の仕上げを施している時間。ということなら話の腰を折るわけにはいかないわね……)

 識はそっと息を吐くと、ノックの手を静かに下ろした。気配を完全に消したまま、音も立てずに階下へ引き返していく。

 一歩、また一歩と一階へ降りる足取りの中で、識の胸中にあったのは、恐怖ではなく、冷厳なビジネス上の確信だった。

 ――勝負は、始める前から決している。

 明日始まるという決戦。世間はヒーローとヴィランの死闘に固唾を呑むのだろうが、その実、舞台裏ではすでに魔王によって完璧な詰みの盤面が構築されている。ならば、自分のような始末屋に出来ることなど僅かしか残っていない。後は、それぞれの駒が決められた位置で役目を果たすだけ。

(オール・フォー・ワン側の完全な『勝ち』……この大波に乗っておけば、私も安泰でしょうね)

 リビングへ戻り、銀の盆をテーブルへと下ろした識の唇には、自身の破格の取り分と今後の安全を確信した、極めて理性的で冷徹なプロの微笑が浮かんでいた。

 

『……さて、僕からの指示は以上だ。それでは明日は頑張ってくれたまえ、我がレディ』

 用件をすべて告げ終え、今度こそ通信を終えようとする魔王の気配。スピーカーの向こうでかすかな切断音が鳴りかけた、その刹那だった。

「先生――っ」

 才子は深く垂れていた顔を跳ね上げ、思わずといった風に、しかし切実な響きを帯びた声を端末へと滑り込ませた。床に突いた指先が、感情のままに床を強く掴む。

 完璧な淑女(レディ)の仮面を脱ぎ捨てた、一人の剥き出しの少女としての懇願。それは、彼女の胸の奥底でずっと燻り続けていた、最も純粋で、最も飢えたたった一つの祈りだった。

「先生、最後に一つだけ……我が儘な、不躾なお願いがございます」

『おや? 何だい、レディ。僕に出来ることなら、何でも聞いてあげるよ』

 唐突な呼び止めにも、魔王の声はどこまでも優しく、慈愛に満ちていた。その温かさに背中を押されるようにして、才子は胸に手を当て、震える息と共に言葉を紡ぎ出す。

「私を……あなたのお側で、父のように慕わせてください。そしていつの日にか……いつの日にか、この私を、先生の『娘』にしてください……」

 それは、世界にすべてを否定され、原点を更地にされた孤独な少女の、魂の叫びだった。

 一瞬の静寂ののち、受話器の向こうの魔王は、ひどく愛おしそうに、そして少しだけ困ったように小さく吐息を漏らした。

『……ふふ、寂しいことを言うね、才子』

 先生が、自分の名を呼んだ。レディではなく、剥き出しの『才子』という名前を。

『僕はね、あの夜病院での待合室で九歳の君をこの手で預かった、まさにその時から――ずっとそのつもりだったのだよ。君を僕の、本当の家族にするつもりでいたのさ』

「あ……」

 脳裏を襲うあまりの幸福感に、才子の重ねた手の甲へ、ぽたぽたと熱い涙が滴り落ちていく。

 九歳の夜、絶望の泥濘から引き上げてくれたあの日から、先生はすでに自分を娘として見ていてくれた。その事実だけで、彼女のこれまでの苦難のすべてが報われたような気がした。

『勿論だとも。そうだね……明日の夜には、僕たちの長年の悲願もすべて終わっているだろう。だから、明後日の朝は、才子の好きな場所で、新しい世界の夜明けを共に迎えようじゃないか』

「先生……っ、はい……! はい……!」

『その、約束の証しとして――死柄木(しがらき)の姓を、受け取ってくれるかな?』

 不意に提示されたその響きに、才子は涙に濡れた瞳をまたたかせた。

「死柄木……それは、弔さんの名字、ですか?」

『いいや、違うよ。あれは元々、僕の名字なのさ』

「――ッ!」

 その瞬間、才子の全身を、先ほどの『クイーン』の衝撃すら遥かに凌駕する、激烈な落雷のような衝撃が貫いた。

 死柄木。それは弔の固有の名ではなく、オール・フォー・ワンという存在の『本姓』。彼が世界で唯一、己の家族と認めたものにしか与えない、血の繋がりを超えた絶対的な絆の証。

 真白才子という、世界に消されかけた忌まわしい名は消え去る。自分はただの優秀な駒であるだけではなく、名実ともに、この世界の王の血脈に連なる『死柄木才子』になるのだ。世界に拒絶され、居場所を消された少女は、今ここに、世界の支配者の愛娘としての真の原点を与えられた。

 じわじわと全身の血液が沸騰し、全能感と至上の狂喜が精神を極彩色に塗り潰していく。あまりの幸福の質量に、胸が苦しいほどに高鳴り、呼吸を忘れる。

 才子は溢れる涙を拭うことすら忘れ、至上の恍惚に身を震わせながら、極上の忠誠を捧げた。

「……っ、光栄の至りに存じます、お父様……!」

 深く、深く床へ頭を垂れる。

 その瞳に宿る光は、もう迷うことも、傷つくこともない。世界を滅ぼす魔王の娘として、完璧に、優雅に、目の前のすべてを蹂躙するための、狂信的で、どこまでも美しい絶対の輝きを放っていた。

 

『――お父様……!』

 受話器の向こうで、狂おしいほどの恍惚と全能感に身を震わせる愛娘。その極上の忠誠を耳の奥で転がしながら、魔王は満足げに、 ミニチュアの箱庭を眺めるような声音で最後の言葉を掛けた。

『うん、良い返事だ。……では明後日、新しい世界の夜明けに、また会おう』

 静かに、通話切断の電子音が室内に落ちる。

 薄暗い部屋の奥、数多の計略を巡らせてきた魔王――オール・フォー・ワンは、手元の専用端末をそっとデスクへと置いた。

 ふ、と。その一切の表情を奪われた異形の顔から、低く、愉しげな笑い声が漏れ出る。

「娘を持つ父親の気分というのは、こういうものなのかな? ……弟を持つ兄とは、また趣が違うね、ままごととしては、悪くない」

 その声音には、先ほどまで少女に注いでいたものと同じ、底知れない温かさと、それ以上に冷徹な『娯楽』としての冷ややかさが、歪に混ざり合っていた。

 真白才子を救ったのも、淑女として育て上げたのも、その知性をチェスの『クイーン』に見立てて配置したのも。そして、己の死柄木の姓を惜しげもなく与えたことすらも。すべては、この退屈な世界を詰ませるための一手であり、極上の「おままごと」に過ぎない。

 魔王のあまりにも残酷で、それでいてあまりにも無邪気な独白。

 その言葉が落ちた部屋の隅、影の中から這い出るようにして姿を現したのは、全身を継ぎ接ぎの皮膚で覆われた男――荼毘だった。

「……ハッ、へえ。おままごと、ねぇ」

 荼毘は部屋の壁に背を預けたまま、ポケットに両手を突っ込み、ひどく冷めた、それでいて隠しきれない激しい嫌悪を孕んだ瞳で魔王をねめつけていた。

「そいつは随分と、お熱い『家族ごっこ』じゃねえか。反吐が出る。……自分の名字まで大盤振る舞いして、手塩にかけた最高傑作の脳ミソを完全に焼き尽くす。相変わらず、あんたのやることは最高に悪趣味だな」

 荼毘の脳裏には、先ほどまで端末越しに聞こえていた、少女のあの狂信的な「お父様」という台詞が、悍ましい残響としてこびりついている。

 血の繋がり。家族。父親。そのワードの一つ一つが、荼毘という男の肉体と魂を焦がし続ける、最も呪わしい憎悪の原動力だ。

 父親の執着を今なお引きずり、そのすべてを燃やし尽くそうとしている自分。

 一方で、世界に家を更地にされ、すべてを奪われたからこそ、目の前の魔王に新しい「父親」を見出し、誇らしげにその人形になろうとしているあの女。

 どちらも歪みきった、しかし決定的に質の違う父と子の在り方が、狂おしいほどに滑稽で、同時に、腸(はらわた)が煮えくり返るほどに不快だった。

「別に構わないさ」

 荼毘から向けられた鋭い毒舌を、オール・フォー・ワンはまるで心地よい夜風でも浴びるかのように、寛大に受け流した。

「君は数字や効率、あるいはお父さんへの執着にしか興味がないかもしれないがね。大衆を真に絶望させるのは、暴力の数でも、情報の遮断でもないのだよ。――彼らがかつて自らの手で排斥した、純粋な善意が、完璧に美しく調教され、今度は牙を剥いて戻ってくるという、その物語の美しさ。さ」

 魔王は、優雅に背もたれに体重を預け、天井の闇を見つめた。

「かつて自分たちが石を投げつけた少女が、気高きノーブルレディとして、自分たちの欺瞞を優雅に糾弾する。そのとき、愚かな大衆は気づくのさ。自分たちを殺しに来た怪物を育てたのは、他ならぬ自分たちの正当性だったのだとね。自分で撒いた毒を、自分の喉元へ突きつけられる。これ以上の娯楽が、どこにあるのかね?」

「……フン、趣味の悪さは世界一だな」

荼毘はチッと小さく鼻を鳴らし、それ以上の言葉を放棄するように興味なさげに目を逸らした。

 家族という呪縛にどれほど縛られようとも、それをどう扱おうとも、この魔王の盤面の上ではすべてが等しく、世界を壊すための燃料に過ぎない。才子とて、地方の避難所を揺さぶるために各地へ同時多発的に配置した、数いる狂信者(こま)の一人に過ぎないのだ。

「さて、次は……」

 魔王は手元で静かにスマートフォンを滑らせた。

 何も映さない眼窩のまま、ただ画面の冷たい感触と記憶だけを頼りに、流れるような指捌きで液晶を操作していく。スクロールされる画面の最上部、たまたま最初にその指先が触れ、目についた名前に向けて、薄い唇が再び不気味に吊り上がる。

「血羅野(ちらの)君に連絡しようかな」

 ぽつりと、闇の中に落とされた新たな凶報。

 真白才子というクイーンの配置を終え、魔王は早くも、次の盤面を血で染めるための駒へと手を伸ばし始めていた。

 暗い部屋の中、魔王は満足そうに、明日崩壊する世界へ向けて、静かな、しかし最も深い闇のような微笑を浮かべ続けていた。

 




自没にした話を自没にするのに諦めるのと、いかり狂いそうで狂わない才子の匙加減で完成に時間がかかりました。
その代わり後半は作成当初から構想していた展開なのでサクサク脚本を作れました、
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血羅野サウルス君。個性はティラノサウルス真白才子の入国から20日遅れでカナダからの貨物船利用して密入国してきた日系三世です

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