一階のリビングへと戻った隠身識は、テーブルに置いた銀の盆の脇へ置き手慣れた動作でノートパソコンを引き寄せたると、カタカタカタっと小気味よい打鍵音が、リビングに小さく響き渡る。画面のブルーライトが、彼女の切れ上がった瞳を冷ややかに照らし出している。
魔王の言う通り、明日、この国は終わる。
それは比喩でも誇張でもない。ワンサイドゲームの果てに社会のシステムそのものが機能停止に陥れば、当然の帰結として、日本円という通貨の信用は1日にして地に堕ちる。市場は恐慌をきたし、銀行は混乱し、海外投資家は一斉に資金を引き揚げるだろう。
(――日本円基準で抱えている私の資産は、まず間違いなく、近いうちにただの紙くず同然になるでしょうね)
識は冷徹に、自らの今後に備え始めた、相場は感情ではなく事実で動く。
いくら一日二百万の一年先払いで七億以上という破格の報酬を受け、総資産を十億近く貯蓄していようと、価値を失った紙切れであっては、何の意味もない。勝負が決する前に、誰よりも早く泥船から財産を運び出さなければならなかった。
彼女は裏のプロファイラーや始末屋たちが利用する、徹底的に暗号化された海外のプライベート・バンキングの口座へとアクセスを行い画面に表示された、これまで血と硝煙の中で積み上げてきた「日本円」の莫大な数字。
「さて。どこへ逃がすべきかしらね……」
識の指先がキーボードの上を滑る。
単一の通貨に一極集中させる愚は冒さない。リスクを分散し、明日の崩壊後も確実に機能する「世界の力」へと、自身の資産を分解していく。
まずは基軸通貨たる米ドル。世界の警察がどれほど揺らごうとも、その圧倒的な流動性は変わらない。資産の主力をここへ。
次に、欧州の経済権を握るユーロ。
さらに、資源国としての強みと安定性を持つ豪ドル。
そして最後に、東アジアで台頭し、来るべき新しいパワーバランスの中心となるであろう元。
「円から、ドル、ユーロ、豪ドル、そして元へ――」
為替レートの推移を冷徹に見極めながら、いくつかのペーパーカンパニーと経由口座を複雑に挟み、資金を移転していく。世界中が明日の決戦に目を奪われ、激動の予兆に揺れている今この瞬間こそ、巨額の資金移動をただの日常的な為替取引のノイズに紛れ込ませる絶好の好機だった。
カタ、と最後のエンターキーが静かに叩かれる。
画面の中で、これまで築き上げてきた「円」の資産がみるみる目減りし、代わりに四つの外国通貨の数字が、確固たる質量を持って口座を満たしていった。
「ふう……」
識は椅子の背もたれに深く身体を預けた。ふと窓の外へ視線を向ければ、夕日に染まる空の向こうに、幻視して明日には戦場となる街の景色が広がっている。
「……レディは世界を変える」
ぽつりと、誰もいないリビングに落とされた静かな独り言。
「私は、その変化で損をしない」
そこには忠誠も、正義も、悪意もない。あるのは契約と利益だけ。いつこの国がひっくり返ろうとも、自分の足場だけは決して崩れない。
二階では、魔王の娘としての産声を上げたばかりの哀れなレディが、狂信的な恍惚に浸って涙している。そしてこのリビングでは、一人の狡猾なプロフェッショナルが、自らの生存を完璧に担保して静かに微笑んでいる。
決戦前夜。嵐の前の静けさの中で、識は美しく整えられた己の盤面を眺めながら、極めて満足そうに、冷ややかな息を吐き出し、すぐさま次のタスクに移るべく再び手元の専用端末へと指を走らせた。
画面に映し出されたのは、二日前に拳銃を調達したばかりの、裏社会で深いコネクションを持つ馴染みの武器商人の連絡先である。
プロとしての迅速かつ簡潔なビジネスライクを意識しながら、識は慣れた手つきでメッセージを打ち込み始めた。
『たびたびで申し訳ないのですが』
前置きはそれだけで十分だった。続けて、彼女が明朝までにどうしても手元に揃えておきたい本命のスペックを正確に打ち込んでいく。
要求したのは、デザートテック SRS(Stealth Recon Scout)。
アメリカ製のコンパクトなブルパップ式ボルトアクション・スナイパーライフルである。
機関部をグリップより後方に配置するブルパップ方式ゆえに、全長は驚くほど短く抑えられている。隠密性と機動力を何より重視する識にとって、これ以上ない理想的な機能美だった。それでいてバレル長は十分に確保されており、何より彼女が最も高く評価したのは、そのサイズ感からは想像もつかない「最大有効射程1500メートル」という圧倒的な遠距離精密能力だった。
(明日の盤面、地方の避難所を巡る混乱の中での狙撃ポイントの選定……。この取り回しの良さと、1500メートルのアウトレンジからヒーローたちの個性の外側から一方的に狙い澄ませる性能、素晴らしいわ)
識はリビングの壁掛け時計へと視線を向けた。
長針が十分の位置を指している。18時10分。明日へのカウントダウンはすでに始まっており、一刻の猶予もない。通常のルートであれば、今からの発注など文字通りお話にならないタイミングだった。
彼女は再び端末へと視線を戻し、具体的な時間と場所、そして裏社会の交渉における最も確実な潤滑油(マネー)を提示した。
『明朝、朝6時にエイトトゥエルブの駐車場にて受け渡しを希望します。突発的な夜間および短時間での調達に伴う、時間への割増料金(特急料金)はこちらで全額負担いたします』
メッセージを送信し、識は端末をテーブルに置いて静かに待った。
部屋には時計の秒針だけが静かに時を刻む。十秒、二十秒。
三十秒と待たずに、端末が一度だけ短く震えた。
『了解代金500万円』
たったそれだけの返信。
(……定価なら諸々込みでも150万そこらでしょうけど、この状況で明朝までに揃うなら500万なんて安いものね)
識の唇に、冷徹で満足げな笑みが浮かんだ。
法外な特急料金だが、先ほど外貨に変えたばかりの莫大な資産からすれば微々たる経費でしかない。確実な道具を、確実な時間に手に入れることこそがプロの鉄則だがタスクはまだ終わらない。
武器商人との交渉を終えるや即座に次なる思考の海へと潜り込んだ。
(ほぼ間違いなく、オール・フォー・ワン陣営が勝つでしょうね。……けれど、「絶対」は存在しない)
それが、幾度も修羅場をくぐり抜けてきた識の、不動のリスクマネジメントだった。プロは「勝つ」と「必ず勝つ」を混同しない。勝率九十九・九パーセントと百パーセントの間には、取り返しのつかない断絶がある。その〇・一パーセントの不確定要素のために準備することこそが、生き残る者の流儀なのだ。
最悪の確率を引き当て、もしも魔王が敗れるようなことがあれば、この国はヒーローたちの手によってオール・フォー・ワン陣営の残党狩りが行われる。あるいは、魔王が勝利した後の日本が、想像を超えるレベルで生存に適さない焦土と化す可能性だってある。勝ち馬に乗るのは当然だが、その馬が狂い死にした時のための「非常口」を確保しておくことこそは、一流のプロとしての当然の嗜(たしな)みなのである。
識は再びノートパソコンを操作し、さらに深層の、国際的な闇のネットワークへと繋がるブラックリストをスクロールし始めた。狙うは、この崩壊寸前の日本から自身を安全に国外へ連れ出せる、極めて優秀な運び屋だ。
いくつかの候補を弾き、暗号化された名簿をスライドさせていく中で、識の指先がピタリと止まる。
(……このコードネーム。まさか、北海道に来ていたなんて)
画面に表示されていたのは、かつてヨーロッパの裏社会でその名を知らない者はいないと言われた、伝説的な超一流トランスポーターのコードネームだった。どんな荷物であろうと、どれほど不可能な包囲網であろうと、契約を交わせば必ず目的地へ届ける男。
識は即座に、彼が指定している暗号化アドレスへ新規メールを作成した。
『荷物 女一人』
簡潔にそう打ち込んだところで、識はふと指を止め、無意識にリビングの天井――二階の才子の部屋がある方向へと視線を向けた。
頭をよぎるのは、魔王との間に交わした「真白才子の警護」の契約内容。自分の安全が第一だが、もしもの時、彼女を連れて脱出するシナリオも想定に入れておくべきだ。
識はキーボードを叩き、文字を追加する。
『(二人になる可能性あり)』
その時、ソファのほうから「ギャハハハ!」という下品で、間の抜けた笑い声が響いてきた。
テレビの大袈裟なバラエティ番組を観ながら、スナック菓子を片手に馬鹿面を晒している羆本がいた。
(……まあ、こいつはどうでもいいわね。勝手にここで野垂れ死ねばいいわ)
その巨体をトランクに押し込むスペースもなければ、高い金を払ってまで救い出す価値もない。識は冷淡に羆本を「粗大ゴミ」として思考の外へ弾き捨てると、メールの核心部分を淀みなく打ち込んでいった。
『合流地点:氷晶霧神社駐車場
合流時間:三日後の午前8時
移動先:小樽港(そこから日本国外へ脱出)
正式な契約に向け、今夜23時59分、ススキノのバーにて面談を希望する』
送信ボタンを押し、識はすぐに別の作業へと移行した。
三日後の小樽港から先。目指すは、独自の巨大な裏社会の権益を持つ「パンダの国」。そこへの不法入国、いわゆる密航ルートの手配と、向こうでの偽造身分証の発行手続きを、現地のアングラ組織を通じて手際よく進めていく。為替コンバートしたばかりの「元」の出番は、思ったよりも早く来ることになるかもしれない。
いくつもの海外サーバーを経由させ、密航の段段取りをほぼ完了させた頃。数十秒前に送信したばかりの、あのトランスポーターへのメールに「新着」のマークが灯った。
開封すると、そこには極めてシンプルで、プロフェッショナルな返信が刻まれていた。
『了解。ススキノで待つ』
「ふふ……やっぱり、話が早くて助かるわ」
識の薄い唇に、この上なく満足げな笑みが浮かんだ。
資金、武器、そして万が一の際の脱出路。すべての退路を完璧に塞ぎ、かつ確保した。この世の誰もが明日の「正義と悪の決戦」に命を懸けている中で、彼女だけは、その先の世界を生き抜くための自分だけの盤面を完璧に整えてみせたのだ。
ノートパソコンをパタンと静かに閉じ、識が深く息を吐き出した、まさにその時。
トツ、トツ、と。
階段を降りてくる、静かで、しかしどこか異様な重みを含んだ足音が、静まり返ったリビングに響き渡った。
その足音が、階段の踊り場の途中でぴたりと一旦停止する。
リビングを見下ろす位置で足を止めた少女の影から、先ほどまでの情緒不安定な揺らぎを完全に削ぎ落とした、ひどく冷徹で、それでいて不可思議な全能感を帯びた聲音が鼓膜を叩いた。
「――識、羆本。少し話があります」
指先の動きでテレビのコンセントを引き抜きながら階段を降りてきた才子は、当然のように、リビングの上座へと静かに腰を下ろした。その一連の動作には、これまでとはまた一味違う違う、支配者としての傲然たる風格さえ漂っている。
それは、己の血に流れる狂気と憎悪を、魔王の手によって冷徹な意志へと鋳直された者が放つ、絶対的な序列の提示だった。
才子の口から、明日の総攻撃に関する作戦の全貌が紡がれる。内容自体は必要最低限だったが、それだけで十分に致命的だった。
すでに大まかな流れを把握している識は、終始、腕を組んだままそれを極めてクールに聞き流した。彼女にとって重要なのは、戦術の美しさではなく、そこから生じるリスクの確率だけだ。すでに幾つもの最悪を想定し終えている彼女にとっては、予定表を確認する程度の話でしかなかった。
一方で、状況の急転についていけない羆本は違った。ポテトチップスを握った手を小刻みに震わせ、あからさまに動揺の色彩を浮かべている。額には脂汗が滲み、唾を飲み込む音が静まり返った部屋に小さく響いた。
一通り話し終えた才子は、組んだ膝の上に気品ある両手を置き、静かに識を見据えた。
「――協力してくださるかしら?」
鈴を転がすような、穏やかな声音。だが、そこには明確な「踏み絵」の重みがあった。
識はディスプレイから顔を上げ、ミリ単位のブレもないビジネスライクな微笑を浮かべて即答した。
「それは元々の契約に含まれておりませんので。追加の危険手当として、別途料金をいただきます」
「いくらかしら?」
「百万ドル」
日本円にして約一億数千万円。吹っ掛けた自覚はある。だが、世界を敵に回す魔王の娘の片棒を担ぐのだ、これでも安いくらいだ。
「承知したわ」
才子は眉一つ動かさず、手元の端末を流れるような指付きで操作した。直後、識のプライベート口座に、先ほどコンバートしたばかりの米ドル建てで、正確に百万ドルが着金した通知が跳ねる。話が早くて実によろしい、と識は内心で目を細めた。
この淀みのない圧倒的な意思決定と実行力を前に、プロとしての深い満足感が識の胸を満たす。
才子は視線を横へスライドさせ、未だに冷や汗を流している巨漢を捉えた。
「それで? 羆本、貴方はどうするの?」
「お、俺は……やめときます! いくら金を積まれたって、そんな国家転覆の特攻片道切符に付き合ってらんねぇ 俺は降せてもらいてぇです」
羆本は顔を青くしながら、拒絶の言葉を吐き出した。
その様子を横目で見ていた識は、冷淡極まりない視線を彼に向ける。
(……やれやれ、リスクの一つ取れないとは本当につまらない男。羆じゃなくて負け犬ね。ここまで臆病だと、無理に誘ったところでただの足手まといにしかならないわね)
プロとして危険を恐れること自体は理解できる。だが、目の前に莫大な案件が転がっていても、一歩を踏み出せない者は結局どこへ行っても三流止まりだ。
才子は羆本の取り乱しぶりを、哀れむような、あるいは興味を失ったような眼差しで見つめ、小さく息を吐いた。怒るでも失望するでもない、他者への期待を完全に捨て去った者の、静かな微笑だった。
「そう。それなら仕方ないわね。明日、私たちを指定の場所まで運び終わったところで、貴方の役目は終わりとしましょう」
「――ッ! 『終わり』って、まさか……用済みになったら、そこで始末するってんじゃ!?」
羆本が弾かれたように立ち上がり、椅子をガタつかせて身構える。
口封じを恐れて完全に怯えきっている男に、才子はただ優雅に首を横に振ってみせ「そんなことはしません。安心なさい」と言うその言葉に嘘は無い。ただし、魔王の娘が「何もしない」と言ったところで、明日崩壊するこの国で、すべての後ろ盾を失ったただの犯罪者がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
識はそれをすべて理解した上で、ただ黙って、哀れな粗大ゴミのカウントダウンを冷ややかに見届けていた。 そんな張り詰めた空気を自ら弛めるように、才子はふっと小さく息を吐いて「――さて、食事にしましょう」その一言で、重苦しい場の空気は事務的なそれへと切り替わっる。
誰も余計な会話はしない。皿を並べる手間すら省いた、湯煎しただけのレトルトパックの非常食。明日の決戦を前にした晩餐としては酷く味気ないものだったが、味など誰も気にしていない。ただ明日に備え、肉体を動かすための最低限の栄養を補給しているだけだった。
十分も経たないうちに食事は終わる。
才子は空になったレトルトパックを軽い指先のわずかに動きでふわりと虚空へ浮かばせ、不可視の力――サイコキネシスによって導かれたゴミは、音もなく正確に、蓋の開いたゴミ箱の中へと吸い込まれていった。
カタン、と小さなプラスチックの音だけが静かな部屋に響く。
才子はナプキンで上品に口元を整えると、ゆっくりと立ち上がった。
「識。明日の細かな相談をしたいので、上へ」
「承知しました」
識も無言で椅子を引き、静かに立ち上がる。ここからは支配者と本物のプロの領域であり、三流の負け犬が立ち入る隙間はない。
二人はそのまま階段へ向かった。
才子が一段目へ足を掛けると同時に、テレビへ向けて人差し指をすっと向けた。
二段目へ足を進めた瞬間。床に抜かれたまま転がっていたコンセントが、見えない糸に引かれるように滑り、壁のソケットへ「カチッ」と吸い込まれるように差し込まれ、テレビの待機ランプが赤く灯り、バラエティ番組の乾いた喧騒が再びリビングに流れ出す。
そして三段目で、才子は一度だけ足を止めた。
肩越しに、リビングに取り残された羆本をチラリと一瞥する。
「羆本」
「……は、はい」
「明日の朝、この家は引き払います」
それだけ告げると、一拍置いて、凪いだ海のように穏やかに続けた。
「最後の夜くらい、好きなものでも注文なさい。」
声音は終始穏やかだった。そこには皮肉や嘲りすら含まれていない。
それがかえって、他者への興味を完全に失った者だけが持つ、絶対的な断絶となって羆本の胸を深く突き刺した。
才子は返事を待つこともなく、そのまま階段を上っていく。
その後に続く識は、階段を上りきる直前、一度だけ羆本へ冷淡な視線を向けた。
そして、ポケットから無造作に取り出した一万円札を、ひらひらとリビングのテーブルへ向けて投げ捨てた。
「……私の奢りにしておくわ。好きなものを食べなさい、羆本」
それが、これまでの仕事への感謝ではなく、ただの「香典」のような、憐れみに満ちた冷徹な施しであることは明白だった。
識はそれだけを言い残すと、才子の待つ薄暗い二階へと消えていき、二人の足音が完全に遠ざかり、天井の軋みが消える。
後に残されたのは、煌々と光るテレビの画面と、一人の大男だけ。
「――チッ、馬鹿にしやがって……! 俺なんかにゃ聞かせられねぇってかよ……!」
羆本は苛立ち紛れにリモコンを掴むと、テレビの電源を乱暴に切った。
部屋から一瞬で音が消える。
ドスン、と巨体をソファへ投げ出すように深く沈め、羆本はただ、テーブルの上に残された1枚の紙切れと、不機嫌そうな天井を交互に睨みつけるしかなかった。
静まり返ったリビングには、時計の秒針だけが、決戦前夜の残された時間を淡々と刻み続けていた
主寝室へと足を踏み入れた才子は、部屋の中央に置かれた一脚の椅子へと静かに腰を下ろした。
その後を追うように入室した識は、音もなく背後のドアを閉めると、手慣れた動作で小脇に抱えていたノートパソコンを開きながら、一歩前へ進み出た。その眼差しは、始末屋としての冷徹な輝きを帯びている。
「まず確認したいのですが。レディは明日、具体的にどのような行動をとろうと考えているのですか?」
識の端的な問いかけに、才子は膝の上で重ねた指先に視線を落としながら、淀みのない声で応じた。
「先生は私に、氷晶霧の人たちへ向けて、先生に従うように呼びかけることを望まれたわ。だから、まずはそこから始めようと思っているの」
静かな決意。その「先生」という言葉の響きに込められた、歪でいて強固な狂信を肌で感じながら、識は無言のままキーボードを叩いた。画面に映し出されたのは、彼らが潜伏している地域周辺の詳細な3Dマップと精密な衛星地図だ。
「――ならば」
識はノートパソコンのディスプレイを才子の方へと軽く傾け、画面上の特定のポイントを細い指先でトントンと叩いた。
「やはり、氷晶霧小学校の避難所を使うのが最もよろしいかと存じます。避難民となった地元住民が多数収容されている上、構造的にもプロパガンダの舞台として利用しやすい。ヒーロー側も、ここを拠点に確実にレディへと接触を試みてくるでしょう」
才子が画面を覗き込むのを見届けながら、識はタッチパッドを滑らせて地図の縮尺を広げ、周辺の起伏を立体的に表示させていく。そして、そこから遥か遠く離れた、山林に囲まれた高台の森林地帯へとカーソルを合わせ、赤いマーカーを灯した。
「私は、この地点を確保いたします。こちらから、レディと対峙することになるであろうヒーローたちを狙撃し、盤外――アウトレンジから援護させていただきます」
才子は画面に表示された二点間の等高線と距離を正確に読み取り、わずかに切れ上がった美しい眉を動かした。
「ここから狙うの? ……直線距離でも、ゆうに一〇〇〇メートル(一キロ)はあるわね。本当に可能なの?」
超人的な身体能力や「個性」を持つヒーローたちを相手に、一キロ先からの狙撃。風速、気圧、重力、あらゆるブレが生じる、常人の技術ではおよそ不可能な領域の芸当だ。
しかし、識は液晶の青白い光に照らされながら、この上なく冷徹で、自信に満ちた微笑を唇の端に浮かべた。
「正確には一〇四六メートルですが。――どうぞ、安心してお任せください。私はプロですので」
明朝手に入るデザートテック SRSの最大有効射程は1500メートル。そのスペックと自身の腕をもってすれば、一キロ先の標的の脳天を撃ち抜くなど、物理法則の計算式の通りにトリガーを引くだけの単純作業に過ぎなかった。そこには誇張も虚勢もない。
才子は小さく頷く。
「……頼もしいわね」
暗い寝室の中で、モニタの青い光が二人の女の顔を冷ややかに照らし出す。一階に置いてきた哀れな粗大ゴミの存在など、すでに二人の頭の中には微塵もない。明日の作戦を確実なものにするため打ち合わせが、極めて事務的に進められていく
「少々お待ちください」
識はそう言い残すと、音もなく主寝室を退出した。
およそ一分後、戻ってきた彼女の手には、無駄な装飾を削ぎ落とした、プロ御用達の重厚な艶消しブラックの小型トランシーバーが握られていた。識はそれを、才子の前のテーブルへと恭しく差し出した。
「明日のお互いの連絡用に、こちらをお持ちください」
軍用にも耐えうる、強力な暗号化回路が組み込まれた傍受不可能な超一級品。どんな通信障害が起きようとも、この街の範囲内であればノイズ一つなく繋がる信頼の塊だ。
明日の戦場は、いつ携帯網などの通信インフラが遮断されてもおかしくないカオスな状況になる。そんな極限状態においても、一〇四六メートル離れた観測者と実行者を確実に繋ぐ生命線だった。
「……有難く使わせてもらうわ」
才子は躊躇いなくそれを手に取った。その瞬間、彼女の手元にあったスマートフォンの液晶画面が、識のプロとしての視線に捉えられた。
画面には、網の目のように細かく、鋭いヒビが入っている。
誰かに叩きつけられたのか、あるいは何かを拒絶するように自ら握り潰したのか。才子が内に秘める歪んだ激情の痕跡が、その痛々しい画面に刻まれていた。
識の指先が、ほんの一瞬、コンマ数秒だけ動きを止める。
だが、プロフェッショナルである彼女は、クライアントのプライベートに無粋な興味を示す愚は犯さない。何事もなかったかのようにすぐさま視線を戻し、淡々と説明を続けた。
「すでに私の方の端末と周波数は固定してあります。レディがそのスイッチを押しさえすれば、いかなる混沌の中であっても、私の声が貴方をナビゲートいたします」
「ええ。頼りにしているわ」
才子は冷たく、滑らかなトランシーバーの感触を確かめるように指先で撫でた。
これで、声すらも繋がった。
そして打ち合わせは次の局面を迎えていく
ブォン、と重苦しいエンジン音が夜の静寂を破り、やがて遠ざかっていく車の発進音が窓越しに聞こえてきた。
羆本が最後の夜の食でも探しに出かけたのか、あるいはこの張り詰めた空気に耐えかねて夜の街へ逃げ出したのか。だが、主寝室の二人にとって、そんな粗大ゴミの動向など文字通りどうでもよかった。外からのノイズなど意識の片隅にも留めないほど、部屋の中では極めて重要な、そして容易には妥協できない話し合いが行われていた。
二人の意見が真っ向から衝突したのは、明日の決戦における才子の衣装についてだった。
「レディ。明日の盤面は瓦礫と硝煙の戦場になります。機動性と隠密性、あるいは突発的な近接戦闘への対応力。そのすべてにおいて、パンツタイプのビジネススーツを着用して活動するべきです。これがプロとしての私の推奨です」
識はノートパソコンから顔を上げ、自身の完璧に着こなした黒のスーツに軽く視線を落としながら、実戦を見据えた冷徹なトーンで主張した。ヒーローたちの個性が乱れ飛ぶ混沌の中で、ひらひらと裾の広がる服など自殺行為に等しい。いざとなれば即座に遮蔽物へ滑り込める衣服こそが、生存率を上げる絶対の鉄則だった。
しかし、対面する椅子に座った才子は、優雅に首を横に振った。その瞳には、魔王の娘としての、絶対に譲れない傲然たる意志が宿っている。
「いいえ、識。私はドレスを着るわ」
「命がかかっているのですよ」
「分かっているわ。けれど、これはただの殺し合いではなく、新世界への幕開けの儀式なの。私は、先生が望まれた『魔王の娘』としての美しさを世界に体現しなければならない。恐怖と絶望、そして崇高さを人々に植え付けるための造形美を損なうような妥協は、絶対に認められないわ」
才子の声には、狂信に裏打ちされた特異な気品が宿っていた。彼女にとって、明日の戦闘は生存競争ではなく、自らを完成させるための舞台なのだ。どれほど合理的な生存戦略を説かれようとも、その美学だけは一歩も譲る気はなかった。
実理を説くプロフェッショナルと、象徴としての美を求める魔王の娘。
水と油のような互いの主張は完全に平行線をたどった。
「……では、こちらの戦闘服ベースのものは」
「却下よ」
「ならば、これでは」
「それも違うわ。造形が美しくない」
識がどれほど戦術的なリスクを並べ立て、代替案を提示しても、才子は氷のような微笑を浮かべたまま即答で切り捨てていく。静かな口調のまま火花を散らす攻防は、実に二時間もの長きに及んだ。
壁掛け時計の針が重なり、夜がさらに深く沈んでいく。
「……はぁ」
最終的に折れたのは、識の方だった。
クライアントである才子のこの狂った頑固さを覆すことは不可能だと悟ったのだ。これ以上時間を浪費するのは、明日のコンディションにも関わる。識は深くため息を吐き出すと、ノートパソコンに新たな衣装のサンプルを表示させ、譲歩の限界線を提示した。
「分かりました。レディの美学を尊重しましょう。……ただし、私の妥協案を呑んでいただきます」
識は画面を才子に向け、厳かに指し示した。
「ドレスの着用は認めます。ですが、夜会服(イブニングドレス)のような過度な露出や、無駄に裾を引きずるようなデザインは却下です。せめて、肌の露出面積が少なく、洗練された格式を持ちながらも比較的足捌きの良い『アフタヌーンドレス』にしてください。これなら、激しい動きにも最低限は耐えられますし、私の援護もしやすくなります」
提示されたデザインは、クラシカルな美しさと気品を保ちながらも、戦場での最低限のプロテクションと機動性を考慮した、識なりの限界の譲歩だった。
才子は画面に映るドレスのシルエットをじっと見つめ、やがて満足そうに薄い唇を綻ばせた。
「ええ。これなら私の求める造形としても申し分ないわ。識の提案を呑みましょう。私の美学と、貴方の実利……悪くない妥協点ね」
ようやく決着を見た衣装の選定。二時間の攻防を経て、明日の戦場に立つ「魔王の娘」の輪郭が、より一層鮮明に、そして恐ろしく決定づけられた。
「……それでは、レディ。今夜は早めにお休みください。明日は長い一日になります」
二時間に及ぶ衣装の攻防を終え、識はノートパソコンを静かに閉じると、一礼して主寝室を後にした。
「ええ、おやすみなさい」
一階のリビングへと戻り、壁掛け時計へ視線を向けると、短針は十を回り、長針は六を指していた。二十二時三十分過ぎ。ススキノのバーでの面談は二十三時五十九分。そろそろ移動を始めなければ、プロとしての時間厳守に狂いが生じる。
識はスマートフォンを取り出し、配車アプリを操作した。隠れ家の前までタクシーを呼ぶような愚は犯さない。最寄りのコンビニを乗車地点に指定する。裏社会で長く生き残ってきた彼女にとって、自宅や拠点を運転手へ知られるような真似は三流のやることだった。
最低限の荷物をまとめ、音もなく隠れ家を出る。外の冷たい夜気に身を晒しながらふと振り返ると、二階の主寝室の灯りが静かに消えるのが見えた。魔王の娘も、ようやく明日への眠りについたのだろう。それを見届け、識は足早にコンビニへと向かった。
予定通りに到着したタクシーへ滑り込むように乗り込み、目的地を短く告げる。
「ススキノまで」
夜の車窓を流れる景色を眺めながら、識は思考のスイッチを切り替えていた。これから会うのは、ヨーロッパの裏社会を震撼させた伝説のトランスポーターだ。生半可な態度では交渉の主導権を握れない。
やがてタクシーは、金色や紫のネオンが眩くきらめく北の歓楽街、ススキノへと滑り込んだ。車を降り、目的のバーへと向かって、人々の笑い声と呼び込みの声が入り乱れる夜の雑踏を歩く。金と欲望が乱れ飛ぶこの街の夜は、明日の世界崩壊を前にしているとは思えないほど、いつも通りの猥雑さに満ちあふれていた。
「おい、そこのお兄さん! パイオツカイデーなチャンネーいるよ! 安くしとくからどう!?」
威勢のいい下品な呼び込みの声が識の鼓膜を叩く。
(……まあ、ススキノだし)
歓楽街ならどこにでもある、ありふれた日常のノイズ。何気なく声のした方へ視線を向けた識は、一瞬だけ足を止めた。
ネオンの光に照らされた無料案内所の前に、見覚えのある、締まりのない巨体が立っていた。羆本だった。
最後の夜くらい好きなものでも注文しろと才子に言われ、一万円札を施されて隠れ家を飛び出した男が、行き着いた先がこれだった。明日、この国が、自らの足場が崩壊するというのに、男の欲望とはこれほどまでに目先のことしか見えないものなのか。
(……ふふふ)
識の薄い唇から、冷ややかな吐息が漏れる。
それを不潔だとか、見損なったなどと考えるほど、識の精神は清純にはできていない。ただ、本物の「三流の限界」を目の当たりにしたことで、乾いた滑稽さだけが胸を過った。
(本当に……正直、どうでもいいわね。好きに野垂れ死になさい)
明日への特攻片道切符からは逃げ出したが、だからといって新しい世界を生き抜く智慧も覚悟もない粗大ゴミ。彼が今夜、どれほど下品な快楽に溺れようとも、明朝の運転手の役目さえ果たしてくれれば知ったことではない。渡した一万円が、ちょうどいい彼への「香典」になった。ただそれだけのことだ。
識は完全に興味を失い、羆本から視線を外して前を向いた。
そして、伝説の男が待つ地下のバーへと続く、薄暗い階段を静かに降り始めた。
目的のバーへと続く薄暗い階段を降り、重厚な木製の扉を静かに押し開ける。
カラン、と控えめなドアベルの音が店内に響いた。約束の二十三時五十九分に対し、時計の針は五分前を指している。プロとして早めの行動は鉄則だ。
地下特有のひんやりとした空気の中に、静かなジャズの旋律が低く漂っている。隠れ家的な佇まいの店内を見渡すと、先客は店の奥にあるテーブル席に腰掛けている男が一人きりだった。磨き上げられたカウンターの向こうでは、白いシャツに黒いベストを纏ったバーテンダーが、ただ無言でグラスを磨いている。プロ同士の逢瀬を邪魔せぬよう、完全に気配を消していた。
男は、手元に置かれたインペリアル・スタウトの漆黒のグラスを静かに傾けていた。
その姿を一瞥した瞬間、識の背筋に微かな緊張が走る。
男の頭部には髪の毛がほとんどなく、綺麗に剃り上げられていた。しかし、そのことが彼の男としての魅力をいささかも損なっていない。むしろ、仕立ての良い漆黒の高級スーツに包まれた彫刻のように強靭な肉体、そしてその佇まいから網の目のように滲み出る圧倒的な色気と凄みが、髪の薄さなどという些末な要素を完全に、強烈なアドバンテージへと昇華させていた。
(――セクシーな男ね)
数々の修羅場をくぐり抜けてきた識をして、内心でそう呟かせるほどの絶対的な存在感。映画のスクリーンから抜け出してきたかのような、寡黙にして苛烈な「プロの香り」がそこにはあった。
だが、識はそんな感嘆を眉一つ、まつ毛一本におくびにも出さない。ミリ単位のブレもない、いつもの冷徹なビジネスライクの仮面を貼り付かせたまま、音もなく男のテーブルへと近づいていった。
「――ジェイソン・マーティンですか?」
識の鈴を転がすような、しかし芯の通った問いかけに、男はグラスを置き、彫りの深い顔をゆっくりと上げて、鋭い眼光で識を捉えた。
そして、その薄い唇が僅かに弧を描く。
「時間ぴったりだな」
低く、地鳴りのように落ち着いた声だった。
それだけで、この男がただ者ではないことを確信させるには十分だった。店内には再び、ジャズの旋律と、バーテンダーが磨くグラスの乾いた音だけが響いていた。
「相席させていただいてもよろしいかしら?」
識の問いかけに、ジェイソンは言葉では答えず、ただ無言のまま口元に微かな微笑を浮かべた。拒絶ではない。プロ同士の簡潔な肯定だった。
識は滑らかな動作で、男の対面の席へと腰を下ろした。ちょうど気配を消していたバーテンダーが注文を取りに近づいてくる。
「マスター。私にはシンデレラを」
これから交渉をまとめ、明朝の作戦へと備えなければならない身だ。アルコールで脳を鈍らせるわけにはいかない。オレンジ、レモン、パイナップルジュースをシェイクしたノンアルコールのショートカクテル――それが、この修羅場で彼女が選んだ、ささやかな清涼剤だった。
バーテンダーが音もなく下がると、識はジェイソンの鋭い視線を受け止めながら、本題を切り出した。
「改めて――荷物は女一人、あるいは二人よ」
ジェイソンは漆黒のグラスを弄びながら、低く、重みのある声で応じた。
「二人の場合の総重量は?」
トランスポーターにとって、積載物の重量はマシンの挙動に直結する絶対のファクターだ。識は脳内で瞬時に、自身と二階で眠るレディの体躯を計算に掛けた。
(私の体重が四十九キロ。レディは私より少し背が低いけれど、あのプロポーション……認めきれないけれど、スタイルは私よりやや上かしらね。それを加味して、彼女の体重を五十五キロ前後と想定するなら……)
識はミリ単位の狂いもないプロフェッショナルの目線で算出した数字を、端的に告げた。
「……二人合わせても、百十キロはないわね」
「合流場所は?」
「氷晶霧神社の駐車場よ。時間は三日後の午前七時から九時の間。もし九時を過ぎても私たちが姿を現さなかった場合は、その時点で契約は自動的にキャンセル。そう扱ってもらって結構よ」
「運ぶ場所は?」
「小樽港。そこから先は私の手配した別ルートに引き継ぐわ」
ジェイソンは表情を変えないまま、スーツの内ポケットから一冊の小さな手帳を取り出した。そして、慣れた手つきで独自の不変化の約束事(ルール)が記された半券を、手書きで滑らかに記入していく。万年筆が紙を擦る静かな音が、テーブルの上に響く。
ペンを止め、男は再び識の瞳を覗き込んだ。
「代金は十万ユーロだ」
「結構よ。今ここで先払いさせていただくわ。もしさっき言った通り、私たちが時間までに来なかった場合は、その十万ユーロをそのままキャンセル料として没収して構わないわ」
識はテーブルの下で手元の専用端末を操作した。先ほど「円」からコンバートしたばかりの莫大な外貨資産の中から、ユーロ建ての隠し口座を呼び出し、ジェイソンが指定する暗号化アドレスへと瞬時に十万ユーロの送金手続きを完了させる。
直後、男の手元の端末が、着金を示す微かな振動を伝えた。
「…………契約成立だな」
ジェイソンは手書きした半券を、指先で滑らせるようにして識の前へと差し出した。
そして、まだ少し残っていたインペリアル・スタウトを一気に飲み干すと、音もなく席を立った。そのままカウンターへと歩み寄り、自分の飲み代をスマートに支払うと、振り返ることもなく、地下のバーの重厚な扉の向こうへと音もなく消え去っていった。完璧な引き際。やはり、本物の超一流だった。
男が去ったのと入れ替わるようにして、バーテンダーが透き通った黄色い液体が美しい「シンデレラ」を識の前へと運んできた。
識は残された半券を丁重にポケットへ収めると、ガラスの脚を持ち、カクテルをゆっくりと口に含んだ。
柑橘類の爽やかな酸味と甘みが、乾いた喉を潤していく。世界がどれほど激動しようとも、このバーの中に流れる時間と、一流のプロたちの契約だけは不変のまま機能している。その事実に、識は深い満足感を覚えていた。
五分と経たずにグラスを空にすると、識もまた立ち上がり、自身の代金をカウンターに置いて、伝説のトランスポーターが去っていった薄暗い階段を静かに上り始めるのだった。
決戦前夜。彼女の盤面は、これで完成した。
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