Part1始動の朝
午前5時30分。スマートフォンのアラームが鳴る寸前、隠身識の意識は完全に覚醒していた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、まだ薄暗く冷たい。識は寝具から音もなく抜け出すと、冷水で顔を洗い、いつも通りの乱れのない黒のビジネススーツに身を包んだ。髪を整え、ミリ単位の狂いもない始末屋としての佇まいを鏡で確認する。
今日、この国が終わる。
だが、いや、だからこそ彼女の朝のルーティンは何一つ変わらない。
「5時50分、識は隠れ家を静かに出ると、武器商人と約束した指定の合流地点、コンビニ『エイトトゥエルブ』の駐車場へと向かった。
肌を刺すように冷え込んでいた朝の空気の中、歩くこと徒歩数分で目的地へ到着すると、約束の5分前だというのに、駐車場には1台の黒いワンボックスカーがハザードランプを点滅させて停まっていた。
識が近づくと、運転席の窓がスライドし、無言のまま重厚な樹脂製のガンケースが差し出される。
「毎度」
「割増料金分は先ほど振り込みました。確認を」
「……確かに。良い買い物をしたな、お嬢さん」
短い事務的な会話。それだけで、500万円の取引は完了した。
ケースの重みを片手に感じながら、識は車が見えなくなるのを見届けると、足早に隠れ家への道を引き返した。
静まり返った早朝の住宅街。隠れ家の敷地内へと足を踏み入れた瞬間、識はふと上空からの視線を感じて仰ぎ見た。
2階のベランダに、一人の若き乙女が立っていた。
真白才子だ。朝の冷たい空気が漂う中、彼女は薄手で気品あるネグリジェ姿のまま佇み、静かに目を閉じて深呼吸を繰り返している。朝靄の中で白い息を吐き出すその姿は、どこか浮世離れした美しさと、同時に底知れぬ凄みを漂わせていた。
ふと才子の瞼が開き、下で見上げる識と視線が交差する。
識はミリ単位のブレもない動作で、片手に重厚なケースを下げたまま、静かに目礼を交わした。才子もまた感情の読めない凪いだ瞳で微かに頷いて見せる。
それ以上の言葉交わさず、識は音もなく隠れ家のドアを開け、中へと滑り込んでいった。
午前6時20分。隠れ家へと戻った識は、即座に2階の主寝室の窓枠に身を潜めていた。
手元にあるのは、先ほど受け取ったばかりのデザートテック SRS。アメリカ製のブルパップ式ボルトアクション・スナイパーライフル。その鈍い艶消しの銃身は、朝の光を吸い込んで不気味な機能美を放っている。
識は手慣れた手つきで、銃身に精密なスコープを装着した。
狙うは、ここから遥か遠く、約一キロ先の山林に生い茂る、一本のブナの木だ。
「……風速、西に0.5。気圧、問題なし」
カチャリ、と金属音が静かな寝室に響き、初弾が薬室へと送り込まれる。識の指先がトリガーに触れ、呼吸が完全に同調した。
――バシィン!!
強烈な、しかし消音器(サプレッサー)によって低く抑えられた重低音の破裂音が、隠れ家の2階から山へと抜けていく。
一キロ先、スコープの十字線が捉えていたのはブナの幹の中心だった。だが、遥か遠方で巻き上がった木屑は、狙いよりも僅かに右――幹の「縁」を削り取っただけだった。
「……チッ」
識は眉根を寄せ、短く舌打ちを漏らした。
新品の銃器独特の微妙なクセか、あるいは微小な風の影響か。気に入らないと言わんばかりに冷酷な瞳でライフルを睨みつけると、識の手指が素早くエレベーション(高低)とウィンテージ(左右)の調節ダイヤルへと伸びる。
カチ、カチ、とミリ単位の精度でスコープの目盛りが刻まれていく。
カチャ、とボルトを弾き、空薬莢が床に落ちて硬質な音を立ててすぐさま次弾を装填する。
――バシィン!
2発目。狙いは幹の縁から内側へと大きく寄った。
――バシィン!
微調整を済ませて放たれた3発目。スコープの中心点、ミリの狂いもない「真芯」へと着弾が吸い込まれていく。
そして、呼吸を完全に整えて放たれた4発目――。
――バシィン……。
ブナの木の幹、3発目が穿った穴と全く同じ一点を、4発目の弾丸が寸分違わず撃ち抜いた。一キロの距離を隔ててなお、同じ弾痕へと弾丸を重ねてみせる領域。
スコープ越しにその完璧な着弾を確認し、識の唇の端がようやく満足げに微かに持ち上がった。
同じ頃、2階の別の部屋では、その規則的な重低音を背景にしながら、才子が静かに衣服を脱ぎ捨てていた。
ベランダで身に纏っていたネグリジェを脱ぎ捨て、彼女は本来の舞台衣装へと変貌を遂げようとしていた。
識の妥協案を受け入れ、選ばれたのは、肌の露出を極限まで抑えながらも、クラシカルな気品と格式を保った漆黒の「アフタヌーンドレス」だ。
――バシィン
壁を隔てて、識のライフルが唸りを上げる。
その、この世の誰かの命を奪うための音を聞きながら、才子は姿見の前で、ドレスの背中のファスナーを、サイコキネシスの見えない力で器用に、そして静かに引き上げていく。
鏡の中に映るのは、絶対的な支配者としての「魔王の娘」の造形美。
才子はドレスの裾を軽く整え、戦場に咲く一輪の毒花のような微笑を鏡の中の自分に向けた。
「……う、ううおっ!? な、なんだぁ!?」
そして1階のリビングでは、地響きのようなライフルの銃声と、天井から響く不穏な軋みによって、ソファに沈んでいた巨体が跳ねるように飛び起きた。
羆本だった。
昨夜、ススキノのサウナで欲望ののままに散財し、深夜に帰ってきた男は、極上の快楽の余韻から、一瞬にして冷酷な現実の地獄へと引きずり戻された。
寝ぼけ眼のまま、脂汗をダラダラと流して天井を見上げる。
――バァンッ!!!
「ひ、ひぃっ!?」
まただ。2階から、明らかに「ヤバい道具」を調整している硬質な銃声が、規則正しく響いてくる。そして、そのすぐ後に聞こえる、才子の優雅な足音。
決戦の朝。時計の針は、容赦なく午前6時半へと向かって進んでいく。
Part2氷晶霧小学校校長室での挨拶
午前七時ちょうど。
北国の冷たい朝の空気が校舎の廊下に満ちる中、静かな足音が一直線に伸びていた。
カツン、カツン、と規則正しく響く草履の音。それを纏うのは、生地の端々に細やかな氷晶の刺繍が施された、朝の光を弾くような純白の和服――彼女のヒーローコスチュームだ。
肩で切り揃えられた艶やかな銀髪と、冬そのものが人の姿を得たかのような静謐な佇まい。
『個性・雪女』を持つプロヒーロー、スノーホワイト。本名、北国(きたぐに)雪愛(ゆきえ)。
地方校で卒業と同時にプロ免許を取得した雪愛は、北海道では稀有な存在だった。母校の誇りそのものだった。
彼女は現在、S市中央区にある大手事務所の期待の若手サイドキックとして多忙を極める身でありながら、この二年間、ある一つの行動を毎月欠かさず続けている。
全校生徒の前に立ち、いじめ撲滅を訴える朝礼の挨拶だ。かつてこの校舎で学び、今や「ヒーロー」として立つ先輩のその凛とした言葉は、生徒たちにとっても特別な意味を持っていた。
「おはようございます、北国さん」
「おはようございます」
準備を進める教職員やすれ違う生徒たちと、ごく自然に挨拶が交わされる。それは単なる「有名な卒業生」への対応ではない。まるで今もこの学校の一員を温かく迎えるような、温かな空気だった。
二階の突き当たり。校長室の重厚なドアの前で立ち止まると、雪愛は背筋をすっと伸びやかに伸ばす。帯を締め直すように軽く呼吸を整えると、白の手袋に包まれた拳で、コン、コン、コン、と節度の格調高いリズムで三度扉を叩いた。
「失礼いたします。卒業生でプロヒーローの北国雪愛です。今月の朝礼講話の件でお伺いいたしました」
「おお! 北国くんか! 入ってくれたまえ!」
室内から響いたのは、この学校を長年支えてきた校長の、歓喜に満んだ弾んだ声だった。
雪愛が静かにドアを開けると、エアコンの暖気が和服の裾を優しく揺らした。重厚な応接セットの向こうで、校長がまるで我が子の帰省を迎える父親のように、嬉しさを隠しきれない笑みを浮かべて立ち上がっていた。
「おはようございます、校長先生。今月もよろしくお願いいたします」
「やあ、おはよう! いやあ、相変わらず素晴らしい姿勢と身だしなみだね。毎月毎月、多忙なサイドキック業務の合間を縫って後輩たちのために時間を割いてくれて、本当に頭が下がるよ。君のような立派な卒業生を持って、我が校も鼻が高い」
校長は心底誇らしそうにそう言いながら、雪愛を上座のソファーへと手招きした。
「どうぞ座りたまえ。今朝は冷え込んだからね、温かいお茶でも淹れさせよう。君が来てくれる日は、学校全体の空気が心地よく引き締まるんだ」
「滅相もございません。私などまだまだ駆けだし……今の私にできる恩返しは、このくらいしかありませんから。ですが、この母校から一人でも多く、傷つく生徒や間違った道へ進む生徒を出したくないという思いだけは本当です。本日も、心を込めてお話しさせていただきます」
「その『このくらい』が、子どもたちには何より大きいのですよ」
白の和服の裾を美しく整えながら、雪愛は静かに腰を下ろした。
窓の外では、避難所の体育館から登校する生徒たちの明るい声が少しずつ増え始めていた。
Part3北国雪愛オリジン
「――ときに、北国さん。噂では、君もそろそろ今の事務所から独立を考えているのではないかね?」
湯気の立つ湯呑みを運んできた校長が、上機嫌な笑みを浮かべながら身を乗り出してきた。
「我が校から、初の完全独立を果たしたプロヒーローが誕生するとなれば快挙だ。学校の評判はもちろん、この避難所の円滑な運営や自治体からの予算確保にも大きな追い風になる。いやあ、君のような素晴らしい卒業生が母校の誇りになってくれて、私は本当に鼻が高いよ」
「……恐縮です」
雪愛は和服の膝の上で静かに手を重ね、薄い微笑を返した。
表向きは純粋な賞賛と激励。しかし、その言葉の裏に透けて見えるのは、「母校の誇り」という名目で自分という存在を学校や避難所の運営権益に都合よく利用しようとする、大人の狡猾なおべっかだった。
(……ああ、やっぱりこの人は変わらない)
胃の奥が静かに冷えていくような感覚を覚えながら、雪愛の意識は自然と、過去の記憶へと遡っていった。
大人の顔色を窺い、事なかれ主義で場を収めようとする「学校」という閉ざされた空間。
その歪んだ構造を初めて突きつけられたのは、彼女が小学四年生の時だった。
忘れもしない、親の仕事の都合でこの小学校に転校してきた一学期の始業式の日。
新しいクラスの朝の学級活動で紹介され、借りてきた猫のように緊張しながら席についた直後に行われたのは、係決めだった。
『はいはーい! 図書委員の女子枠、白髪(しらが)コンビでいいんじゃないでーすかぁ?』
クラスの男子児童が、せせら笑いながら底意地の悪い声を上げた。指指されたのは、生まれつき真っ白な髪を持つ転校生の雪愛と、もう一人――席が隣同士だった、同じくどこか周囲と馴染めずにいた銀髪の少女だった。
幼い子供特有の、悪意のないフリをした無邪気な異物排除。
教室の中にクスクスという不躾な笑い声が広がり、転校初日の雪愛は恐怖と恥ずかしさで固まった。助けを求めて視線を向けた担任の教師は、面倒事に巻き込まれたくないと言わんばかりに困り顔で苦笑いを浮かべ、事態を放置していた。
誰もがその不気味な沈黙に耐えかねていた、その時。
『……わかりました。私、やってみます』
隣の少女――真白才子が、静かだがまっすぐな声でそう言葉を返したのだ。
からかわれても怒るわけでもなく、ただ静かに引き受けてみせた同い年の少女の素直な強さ。その声に勇気をもらうようにして、引っ込み思案だった雪愛も「わ、私も……」と小さく頷き、ふたりで図書委員を務めることになったのだった。
しかし、その災難こそが、彼女の人生の分岐点だった。
初仕事の日。
返却された大量の絵本や児童書を前に、要領の悪い雪愛はパニックになり、一冊見つけては棚へ走り、また戻ってはウロウロと図書室内を往復するばかりで全く仕事が進まなかった。
そんな雪愛の横で、才子は床や作業台の上に本を並べ始めていた。
文学、歴史、図鑑、絵本――手際よくジャンルごとに分類してから、一気に棚へ収めていく。無駄のない動きで、才子は雪愛の何倍もの仕事量をあっという間にこなしてみせた。
『こうやって最初に仲間分けをしてから動くと、とっても楽になるのよ。……慌てず、急いで、正確にね』
呆然と立ち尽くす雪愛に、才子は少し照れくさそうに、けれど心底優しい微笑みを浮かべてそうコツを教えてくれたのだった。
その温かい言葉と、小さく差し出された手。
あの日から二人は、他人が踏み込めない特別な友達になった。
『白髪コンビ』と揶揄された二つの白い影は、放課後の図書室の静寂の中で寄り添い合い、10ヶ月という時間の中で、誰よりも深く、固い絆を育んでいったのだ。あの『個性』の悪夢が、すべてを切り裂いて壊してしまうまでは――。
小学四年生の冬休みの最終日。あの日が、すべての暗雲の始まりだった。
氷点下の雪が舞う街角で起きた、大型タンクローリーと軽乗用車の衝突事故。つぶれた車内に閉じ込められた家族四人の悲鳴が響く中、たまたま通りかかった才子は、幼い身でありながら自身の『個性』を発動させた。
悲鳴を上げる圧倒的な念動力。彼女は押し潰されかけた軽乗用車から巨大なタンクローリーの巨体を強引に持ち上げ、間一髪で家族四人の命を救い出したのだ。
翌日、三学期の始業式。才子は一躍「幼き英雄」として『時の人』となった。
教室は才子を取り囲むクラスメイトたちのチヤホヤする声で溢れかえり、手のひらを返したような称賛の嵐が巻き起こった。だが、どれほど周りが騒がしくなろうとも、才子の態度は何一つ変わらなかった。
『雪愛ちゃん、一緒に行こ?』
群がる人波を抜け出し、いつものように穏やかな微笑みを浮かべて自分の手を取ってくれる才子。
(ああ……私、この子と友達になれて本当に良かった)
雪愛は誇らしさと嬉しさで胸をいっぱいにし、二人の温かな日々はこれからもずっと続くのだと、疑いもしなかった。
――だが、その幸福はわずか一ヶ月で粉々に打ち砕かれた。
それはタンクローリーの件とは全く別の、街頭で起きた惨劇だった。
青信号の横断歩道を渡ろうとしていた老人に、暴走した一輪の車が迫っていた。それに気づいた才子が間一髪で車を念動力で弾き飛ばしたのだが――不幸にも、弾け飛んだ車は交差点で交通整理にあたっていたプロヒーローへと直撃してしまったのだ。
『許可なき個性の使用が招いた惨事』『ヒーローの救助活動を妨害した危険行為』――メディアは裏事情を無視して才子の行動を一斉に激しく叩き始め、世間の空気は一夜にして冷酷なバッシングへと一変した。
その影響は、容赦なく教室の中へと波及した。
昨日まで才子を持ち上げていたクラスメイトたちは一斉に彼女から離れ、冷ややかな視線を向けるようになった。そして、その刃は才子の唯一の親友であった雪愛にも向けられたのだ。
主導したのは、かつて二人に図書委員を押し付けたあの男子生徒だった。
『おい、お前もあいつの仲間かよ?』
『ヒーローの邪魔をするような奴と一緒になって、気取ってんじゃねえよ!』
雪愛の机には、底意地の悪い落書きと誹謗中傷が殴り書きされた。
休み時間のたびに囲まれ、責め立てられ、追い詰められていく日々。事なかれ主義の担任はまたしても見て見ぬふりを決め込み、教室内は完全な地獄と化した。
そんなある日の放課後、才子がそっと雪愛の席へと近づいてきた。
その手には、折りたたまれた一枚の算数のプリントが握られていた。
『ねえ、雪愛ちゃん……この問題の解き方、教えてほしいんだけど……』
伏せられた瞳、わずかに震える声。
(二十歳になった今なら分かる。あの時の才子ちゃんは、勉強のことなんてどうでもよかった。追いつめられて、世界中から孤立して……ただ必死に、私に助けを求めていたんだ)
だが、連日の嫌がらせで極限まで恐怖とプレッシャーに追い詰められていた当時の幼い雪愛には、そのSOSを受け止める心の余白などなかった。
『……もう、私に話しかけないで!』
雪愛は震える声で、叫ぶように言葉を吐き捨てた。
『才子ちゃんのこと、嫌いになったわけじゃない……嫌いになったわけじゃないけど……! あなたと一緒にいたら、私までいじめられるの……っ!』
――ハッと息を飲み、絶望とショックで凍りついた才子の顔。
見開かれた瞳から光が消え、世界が崩れ落ちたかのようなその表情を、当時の雪愛はとても直視することができなかった。
胸を刺す猛烈な罪悪感と恐怖に耐えきれず、雪愛は机の上の荷物をひったくるように抱えると、才子から逃げるように夢中で教室を飛び出し、そのまま家まで逃げ帰ってしまったのだ。
あんなにも無残に傷つけた唯一の親友を、たった一人で暗い教室に残したまま――。
翌朝のホームルーム。
隣の席で、才子は声もなく静かに肩を震わせ、涙を流し続けていた。ぽつぽつと机の上へこぼれ落ちていく透明な雫。
それなのに、教壇に立つ担任の教師は、才子の異変に気づいていながら面倒事に巻き込まれたくないと言わんばかりに見て見ぬ振りを決め込み、ただ淡々と出席を取り進めていく。
(なんで……!? なんで無視するの!? 才子ちゃんが泣いてるのに……っ!)
大人たちの事なかれ主義と冷酷さに、激しい怒りがこみ上げた。
――だが、それ以上に雪愛の胸を焼き焦がしたのは、自分自身に対する猛烈な苛立ちと吐き気だった。
(担任を責める権利なんて、私にあるわけない……! 昨日才子ちゃんを拒絶して、あの顔をさせて逃げ出したのは私だ! なのに……周りの目が怖くて、立ち上がることすらできない……助けに入る勇気すらない……!)
指先が白くなるほど机の下で拳を握りしめ、ただ下を向いて震えることしかできない自分。
担任の薄汚い保身と、自分の不甲斐ない保身。何も変わらない自分の醜さに、胸の奥が千切れるほどの激痛が走った。
――そして、その日の夜。
時計の針が午後九時を回った頃、テレビの画面に緊急のニュース速報が流れた。
『――本日午後七時頃、S市内の真白邸に自称・世直しの男が侵入し、住人を激しく暴行する事件が発生しました』
アナウンサーの引きつった声が、リビングに重く響く。
『警察によりますと、搬送先の病院にて真白才子さんのご両親の死亡が確認されました。真白邸の門扉は凄まじい衝撃で破砕されており――さらに、病院へと搬送されていた十歳の真白才子さんが姿を消し、現在行方不明となっております』
画面に映し出されたのは、門扉が吹き飛び、悲惨な破壊痕が残された真白家の映像。
雪愛の手から、持っていたものが力無く床へ落ちた。絶望が全身の血を凍りつかせる。
自分を救ってくれた唯一の友達を、保身と弱さから見捨ててしまったという激しい後悔。鏡に映る不甲斐なく惨めな自分に対する猛烈な憎悪。
(こんな惨めな自分は、もう嫌だ……! 強くなりたい……誰かを守れるくらい、自分を恥じない人間になりたい……!)
ボロボロと涙をこぼしながら、彼女はプロヒーローの道を目指すことを誓った。
いじめを許さず、間違った世間の空気から誰かを守れる強さを得るために。
そしていつの日か、あの夜に消えてしまった才子に、もう一度胸を張って向き合い、「ごめんなさい」と謝るために。
Part4中学生活
あの日、真白才子を失ってからの雪愛の日々は、己を徹底的に痛めつけるような努力の連続だった。
惨めで、弱くて、保身のために大切な友達を見捨てて逃げ出した自分――鏡に映るその醜い姿を消し去りたい一心で、彼女は中学に上がると生活のすべてをヒーローへの道へと捧げた。
毎朝午前六時、まだ街が薄暗い北国の街へ駆け出し、一時間のジョギングから一日が始まる。
学校へ行けば、授業の一秒一秒に死に物狂いで集中してノートを執り、放課後帰宅すれば即座に復習と明日の予習に没頭した。
夕食を済ませた夜、風呂に入る前のひとときは一時間の猛烈な筋トレの時間に充てられ、風呂上がりには関節をほぐすストレッチ。そして午後十時を迎える頃には、完璧に整えられたスケジュール通りに就寝する――。
そんな修道士のようにストイックな日々は、やがて周囲からの評価をガラリと変えていった。
『北国さんって、いつ見ても隙がないよね』
『文武両道だし、なんか凛としててかっこいい……』
かつての引っ込み思案で頼りなかった少女の面影は消え去り、誰をも寄せ付けない孤高の気品と己を磨き続ける真摯な姿勢に、いつしか周りは彼女を「学年一の優等生」と呼び、一目を置くようになっていた。
自分を裏切った過去の罪悪感を打ち消すために必死で磨き上げた心身は、皮肉にも彼女の醸し出す佇まいを、どこか浮世離れした美しさへと昇華させていたのだ。
可憐な少女から美しく凛とした姿へと成長していくにつれ、彼女の元には自然と惹きつけられた男子生徒たちが集まるようになった。
中学二年生の時には、時期こそまちまちだったものの、同級生の男子五人、そしてその年の卒業生である先輩男子一人から告白を受けた。
さらに三年生になると、勢いは衰えるどころか同級生三人、さらには下級生の男子一人からも真っ直ぐな想いを伝えられた。
思いを寄せてくれた男子生徒たちに対し、雪愛は逃げ出すことも、軽くあしらうことも決してしなかった。かつて大切な存在から目を背けた自分への戒めのように、彼ら一人ひとりの目を見つめ、可能な限り誠実に言葉を返し続けた。
『気持ちは、とても嬉しいです。ありがとう。……でも、今の私にはヒーローになるという目標があって、それ以外のことはどうしても考えられないの。ごめんなさい』
その背筋の伸びた言葉と真摯な瞳には、一切の媚びも嘘もなかった。
彼女にとって「ヒーローになること」は、単なる将来の夢ではなく、あの夜散っていった才子への唯一の罪滅ぼしであり、生きる目的そのものだったからだ。
雪愛のあまりにも凛とした姿勢と誤魔化しのない拒絶に、思いを寄せた男子生徒たちも皆、変に粘ったり嫌がらせに転じることもなく、潔く引き下がっていった。
『そっか……応援してるよ』『無理するなよ』と、最後は申し合わせたように爽やかな言葉を残して去っていった。
己を磨き、誠実であり続けること。
そんな健全で、けれどどこか透き通るように孤独な青春の日々を積み重ねながら、北国雪愛という少女はヒーローとしての道を歩み続けていた。
Part5進路相談
そんなストイックで高潔な日々を重ね、中学三年生の秋を迎えた頃。
誰もが自分の将来と向き合う「進路相談」の季節が訪れた。
進路指導室の重々しい引き戸を開けると、担任教師は手元の成績表と体力測定の記録、そして日頃の行動評価が記された書類を何度も見比べ、感心と興奮の入り混じった熱い溜息を漏らしていた。
「北国さん……君の成績も学力も、そして『個性』の熟練度や体力面における評価も、我が校の歴史の中で群を抜いている。正義感を含め、どれをとっても全国レベルだ。……正直に言おう。君ならどこだって学校推薦を出すことができるぞ!」
教師はそう言って熱っぽく身を乗り出すと、デスクの上に二枚のパンフレットを恭しく並べた。
表紙に躍るのは、全国から選りすぐりの英才が集う超名門——『雄英高校』と『士傑高校』の文字だった。
「雄英でも、士傑でも……君なら全国最高峰の舞台へ送り出せる。全国のプロヒーロー事務所からの注目度も、設備の充実度も、地元の高校とは桁が違う。どうだね?」
教師の眼光には「我が校から全国屈指の難関名門校への合格者を出す」という学校の名誉と、自身の実績への期待がギラギラと満ち満ちていた。
だが、差し出された華やかな名門校のパンフレットを前にしても、雪愛の澄んだ瞳には一切の揺らぎも迷いもなかった。
「……お気遣い、ありがとうございます」
雪愛は背筋をぴんと伸びしたまま、丁寧かつ静かに頭を下げた。
そして、並べられた名門校の資料には一切手を触れず、自分のかばんから一枚の願書を取り出してデスクの上に置いた。
「ですが私、地元の『氷晶霧高校・ヒーロー科』を単願で受験いたします」
「な……っ!? 氷晶霧を……単願で!?」
予想外すぎる答えに、担任教師は驚きで目を見開いた。
「なぜだ北国さん! 地方のヒーロー科が悪いとは言わないが、君ほどの器があれば東京や大都市圏の名門校で最高の環境と設備、超有名ヒーローからの指導を受けるべきだ! 雄英や士傑の推薦枠を蹴るなんて、あまりにも勿体なさすぎるぞ……!」
興奮して身を乗り出し、語気を荒らげる教師に対し、雪愛は微風すら通さぬ凪いだ佇まいのまま、静かだが鋼のような硬度を秘めた声を返した。
「極論を申し上げれば……『誰かを守れる本物のヒーロー』になるために、どこの高校を出ているかは関係無いと私は思います」
「……っ」
「私はこの北国の街で生まれ、この街で育ちました。この街の空気と、ここに暮らす人々を守りながら、地元一筋で生きていきたいのです。だからこそ、全国の名門ではなく、この街のヒーロー科で学びたいと考えております」
その言葉には、上辺だけの謙遜や若者ゆえの青臭さなど微塵もなかった。
この街で友達を見捨て、この街で泣かせ、この街で失ってしまった——あの冬の夜の後悔。才子が消えてしまったこの北海道の地に留まり、この街の惨劇と向き合い続けることこそが、自分に課せられた贖罪なのだという、揺るぎない覚悟。名声も、エリートとしての華々しいキャリアも、今の彼女には何の意味も無い、ただ地元の冷たい風の中で、二度と守るべきものから目を背けない本物の強さを磨くことだけを欲していた。
教師は何かを言い返そうと口を開かけたが、雪愛の射抜くようなまっすぐな白銀の瞳に圧倒され、ぐうの音も出ずについに言葉を詰まらせた。
「……本気なんだな?」
「はい。ですから推薦辞退の件、よろしくお願いいたします」
雪愛が静かに一礼し、迷いのない足取りで進路指導室を後にしようとしたその背中に、教師はしばらくの沈黙の後、小さく息を吐いてぽつりと呟いた。
「……君だからこそ、その学校の価値を高めるのかもしれないな」
全国の名声も、華やかなスポットライトも要らない。
ただ、地元の雪の中で冷たく澄んだ意思を燃やしながら、北国雪愛は自身の歩むべき道を選び取ったのだった。
Part6決着と卒業
そして迎えた、三月。中学校の卒業式の朝。
薄氷の張る体育館の裏手、日陰の冷気が溜まる場所で、雪愛は一人の男子生徒と向かい合っていた。
校舎に入る直前、「最後にちょっと話がある」と呼び出されてついてきてみれば、そこに立っていたのは——あの日々の元凶だった。
小学四年生の時、転校初日の自分と才子に「白髪コンビ」と蔑称をつけて笑いものにし、図書委員の仕事を押し付け、才子がバッシングを受けた時には真っ先に調子に乗ってクラス中を煽り、雪愛の机に誹謗中傷を書き殴ったあの男。
同じ中学に進学してからも、成長し凛とした美しさを纏っていく雪愛の姿を、遠巻きに粘ついた視線で見つめていた男。
(……こいつだけは、今日ここでハッキリと決着をつけなきゃいけない)
男はどこか上から目線の、なめくさったヘラヘラとした笑みを浮かべ、ポケットに手を突っ込んだまま口を開いた。
「おい、北国。お前、地元の氷晶霧のヒーロー科に行くんだろ? ……実はよ、俺も氷晶霧の普通科に受かったんだわ」
「……だから何ですか」
雪愛の声は、完全に温度を失っていた。だが男はその冷たさに気づきもせず、調子に乗って鼻を鳴らした。
「いやさ、昔からお前のこと、まあ悪くないと思ってたんだよな。小学校の頃から腐れ縁だしよ。……だからさ、高校に入ったら、俺の女になれよ。ヒーロー科の彼女がいるってなら、俺も顔が立つしな」
——俺の女になれよ。
その言葉が耳に届いた瞬間、雪愛の頭の中で、何かがパツンと音を立てて弾け飛んだ。
(……ふざけるな!!!!)
胸の奥底から、ドロリとした純粋な憎悪と激怒が湧き上がってきた。
これまで自分に想いを寄せてくれた男子生徒たちには、どんな相手であろうと誠実に向き合い、感謝を込めて断ってきた。だが、目の前のこの男に払う誠意など、ミジンコ一粒分すら存在しなかった。
この男は……自分が過去に何をしたのか、何一つ覚えていないのか?
才子ちゃんを言葉の暴力で追い詰め、居場所を奪い、私を絶望の淵に突き落とした張本人が。自分が踏みにじった他人の人生のことなど綺麗さっぱり忘れ去り、成長して都合の良くなった自分を自分の「所有物」にしようと笑っている。
存在そのものが不快で、汚らわしい。図々しいにも程がある。
「……何か言えよ、北国。断る理由なんて——」
「黙りなさい」
バシッ、と空気が凍りついた。
雪愛の口から漏れ出たのは、普段の彼女からは想像もつかない、地獄の底から響くような極冷の声音だった。
抑えきれない怒りに呼応するように、足元の地面からシャリシャリと薄氷が広がり、周囲の気温が急激に氷点下へと叩き落とされる。
「ひ……っ!?」
あまりの冷気と殺気に、男は身をすくませて後退った。
雪愛の白銀の瞳は、まるで害虫を見るかのような、冷酷極まりない蔑みと嫌悪で男を射抜いていた。
「図々しいにも程があるわ。自分が過去に何をしてきたかも忘れて、よくもそんな世迷言が口から出せたものね。……虫酸が走って吐き気がする」
「な……っ、お前、昔のことなんか——何年前の話してんだよ!」
保身のために逆切れ気味に言い放った男のセリフに、雪愛の瞳から最後の温度が消え去った。
「そう。……あなたにとってはそんな認識なのね。だが私には、一生忘れられない出来事よ」
氷の刃のような一言で男の言い訳を容赦なく叩き斬ると、雪愛はさらに一歩を踏み出し、怒りをそのまま叩きつけた。
「二度と、私に話しかけないで。近づくな。私の視界に入るな。あなたの声を聞くのも、その顔を見るのも、存在そのものが不快でたまらないの。……二度と、私の前にその汚らわしい面を見せないで!!」
「ひぃぃっ……!!」
思いつく限りの拒絶と罵詈雑言。
普段の凛とした優等生の面影など微塵もない、剥き出しの殺気と憎悪に溢れた言葉の連打に、男は顔面を蒼白にして腰を抜かさんばかりに震え上がると、悲鳴を上げて逃げるように体育館の裏から走り去っていった。
雪愛は一瞬たりとも男に慈悲の視線を向けることなく、制服の裾を翻した。
男への激しい嫌悪感と同時に、こんな男の嫌がらせに屈して才子を見捨ててしまった過去の自分の不甲斐なさに、再び激しい悔恨が胸を刺す。
(才子ちゃん……私、あいつらを絶対に許さない。二度と逃げない。二度と、あんな奴らに折られたりしない……!)
過去という呪縛に一つ決着をつけた雪愛は、一度も振り返ることなく、卒業式が始まる体育館へと迷いない足取りで歩み去っていった
Part7極冷の研鑽
地元の期待を一身に背負い、念願だった『氷晶霧高校・ヒーロー科』へと進学した雪愛。だが、入学から数ヶ月が過ぎた頃、彼女の胸中には小さな、けれど無視できない違和感が燻り始めていた。
(……ぬるい)
周囲の生徒たちのどこか悠々自適で、「卒業後にどこかの事務所に拾われればいい」という甘えの混じった空気。地方の高校ゆえの事なかれ主義な訓練内容と緩やかなカリキュラムに対し、雪愛の焦燥感は日増しに募るばかりだった。
このままでは、本物の強さなど到底手に入らない。自分はただの「井の中の蛙」で終わってしまう。あの夜、暗闇の中に消えてしまった才子に追いつき、二度と誰かを救い損ねない「強さ」を得るためには、今のスピード感では到底足りないのだ。
そんなある日の放課後。気分転換に立ち寄った街の大型書店で、雪愛の白銀の瞳が一冊のヒーロー専門誌の特集記事に吸い寄せられた。
『雄英・士傑 卒業生トップヒーロー座談会』
誌面で語られていたのは、全国最高峰の二大名門校が誇る、桁外れの教育環境と徹底されたカリキュラムの全貌だった。中でも雪愛の目を釘付けにしたのは、在学中からインターンで凄惨なまでの実戦経験を積み上げ、高校生でありながら『プロヒーロー本免許』を現役取得した者たちの壮絶な鍛錬と圧倒的な覚悟だった。
(——そうよ)
誌面を凝視したまま、雪愛は自身の甘さを痛烈に恥じた。
(インターンで少し社会勉強をしながら、卒業後にのんびり本免許を取ればいいなんて……そんな甘い道のりの何が『地元一筋』よ! 地方出身者が陥りがちな『地元で満足する』言い訳に、私もまんまと甘んじていただけじゃないの!)
名門校に行かなかったことを後悔したのではない。名門校の生徒たちが背負っている「覚悟の重さ」を、己がまだ持っていなかったことに激しい苛立ちを覚えたのだ。環境のせいにするのは終わりだ。環境がぬるいなら、自ら極限の環境を作り出せばいい。
(誰もやっていないのなら……私がここで、やってみせる!!)
翌日、雪愛は自ら雄英や士傑のカリキュラムを分析・再構築して作成した膨大な提案書を抱え、ヒーロー科の学年主任のもとへと直談判に向かった。
「北国……正気か!? これは一体何だ?」
「私が考案した、特別強化カリキュラムです。現在の学校の訓練メニューでは、現役での本免許取得には到底届きません。放課後および休日の自習訓練の承認、ならびに提携事務所での実地実習の早期前倒しを申請します」
「な……っ!? うちの学校の設備と日程で、在学中の本免許取得を目指すなど前例がない! 無理だ、授業や実習の負荷も今の比ではないぞ!」
「前例がないなら、私が最初の前例になります」
デスクを叩いて困惑する教諭に対し、一切の退路を断った白銀の瞳で、雪愛は静かに、けれど断固とした口調で言い放った。
「学校の設備が足りない部分は、自修と独学で補います。地方だから、氷晶霧だからという言い訳は一切いたしません。私は、この氷晶霧から、雄英や士傑のトップ層に一切見劣りしない本物のヒーローになってみせます」
その鬼気迫る気迫と圧倒的な熱量に押し切られる形で、教師陣もついには首を縦に振るしかなかった。
それからの高校生活は、まさに壮絶を極めた阿修羅の道だった。
通常の授業と実技を完璧にこなしつつ、早朝と深夜には特設訓練場に一人籠もり、己の『個性』を限界突破させる極限の高負荷トレーニングを重ねた。休日には早朝からプロヒーローの事務所へ足繁く通い詰め、過酷な現場実習で実戦経験を泥だらけになりながら叩き込んだ。
そして——高校三年生の秋。
北国雪愛は数々の厳しい試験を一発で突破し、『氷晶霧高校ヒーロー科』創立以来初となる**【現役でのプロヒーロー本免許取得】**という偉業を成し遂げた。
高校生でありながら本免許を持つ「氷晶霧のスノーホワイト」の名は、地方レベルを超えて瞬く間に業界へ知れ渡った。
「北国さん。少し、お時間をいただけますか?」
卒業を控えたある日の放課後。進路指導室には数通の封筒が並べられていた。
「函館の『ノースガードヒーローズ』。旭川の『ホワイトウルフ事務所』。……さらに津軽海峡を越えた青森県からも一件来ている。どこも正式な採用希望だ。破格の条件で即戦力として迎えたいそうだよ」
担任は感心したように苦笑しながら封筒を差し出した。
どの事務所も待遇は申し分なく、若手エースとしての輝かしい将来が約束されたオファーばかりだった。
「……ありがたいお話です。」
雪愛は一通ずつ丁寧に目を通すと、静かに封筒を閉じ、迷うことなく横へ揃えた。
「ですが、すべてお断りいたします。」
「やっぱり、そうか。」
「私は、インターン時代からお世話になったS市の事務所へ就職いたします。」
頭に浮かぶのは、高校二年間お世話になったS市最大手事務所での日々だった。
初めて現場へ連れて行ってくれた先輩。失敗して落ち込んだ時に叱り、励ましてくれた主任。避難誘導、救助活動、防災訓練……すべてを一から教えてくれ、本免許取得まで自分を支えてくれた人たちへの深い恩義があった。
そして何より——。
(函館も、旭川も、青森も素晴らしい街……けれど、私が守るべきは、才子ちゃんを失ってしまったこのS市だ)
名声や好条件に惹かれて街を去る気などサラサラなかった。自分の原点であり、罪と向き合い続ける場所はこの街以外にあり得ない。
雪愛にとって「地元一筋」とは、狭い世界に閉じこもることではない。全国へ出なくても全国レベルになり、その力を故郷へ還元することだった。
「私は、この街を守ると決めました。必要としていただける限り、私はここで戦い続けます」
迷いのない白銀の瞳で一礼する雪愛に、教師は静かに頷いた。
こうして数々の華やかな誘いを辞退し、弱冠十八歳にしてプロヒーロー「スノーホワイト」としての第一歩を踏み出した雪愛。
彼女の手には、地方の氷晶霧高校の歴史上初となる、『現役プロヒーロー本免許』が確かに握られていた。
全国の名門校の生徒たちにも決して見劣りしない、真の強さと不退転の覚悟。
過去の愚かな自分と決別し、いつか巡り会う「彼女」と対等に向き合うための白銀の甲冑を、彼女はついに完璧な形で纏い上げたのだった。
Part8壇上の言葉
「——我が校からの独立ヒーロー誕生となれば快挙だ。避難所の円滑な運営や自治体からの予算確保にも大きな追い風になる。君のような素晴らしい卒業生が母校の誇りになってくれて、私は本当に鼻が高いよ」
「……恐縮です」
身を乗り出して雄弁に語り続ける校長のおべっかを適度に向き直りながら受け流し、雪愛は校長室の壁に掛けられた振り子時計へとさりげなく視線を滑らせた。
針は、すでに午前七時五十分を指している。朝礼開始まで、あと十分。
「……そろそろ、良い時間ですね」
落ち着いた声で滑らかに言葉を挟み込み、熱弁を振るっていた校長の会話の腰を静かに折る。
「おっと、引き止めてしまってすまない!」と苦笑いを浮かべる校長に対し、雪愛はデスクの湯呑みにそっと手を伸ばした。
冷めかけてはいるものの、出していただいたお茶を残すのは礼儀に反する——。
そう心に決めている彼女は、湯呑みを両手で優しく包み込むと、こくり、こくりと一口ずつ、最後の一滴まで丁寧に飲み干した。静かに茶托へ戻すと、純白の和服の裾を美しく整えながらソファーから立ち上がった。
「ごちそうさまでした。それでは、体育館へ向かわせていただきます」
「うむ。今日もよろしく頼むよ、北国くん」
背後に送られる校長の視線を振り払い、雪愛は静かに校長室をあとにした。
廊下には朝の柔らかな陽光が差し込み、体育館へ向かう凛とした足取りだけが静かに響いていく。
午前八時ちょうど。
全校児童と教職員が静まり返る体育館。その冷たく凛とした空気の中に、規則正しい草履の音が響き渡った。
ステージへと続く階段をひとつ足元を踏みしめるように上り、中央の演台へ。
白の手袋を重ね、雪愛は集まった全児童に向けて、寸分の乱れもない佇まいで深々と一礼した。銀髪と純白の和服が、朝の光を受けて静かに輝く。
「皆さん、おはようございます。スノーホワイトです」
「「「おはようございます!!!」」」
体育館の天井を揺らすような、子どもたちの元気よく澄んだ大歓声。その弾けた声を受け止め、雪愛は白銀の瞳をほんのりと細め、愛おしそうに目を和ませた。
——だが次の瞬間、彼女の表情から僅かな甘やかしが消え、プロヒーローとしての、そして誰よりも痛みを経験してきた者としての真剣な眼差しへと変わる。
「……この中に、いじめなんてやってる人は居ないと、私は信じています」
マイクを通した彼女の声は、低く、けれど体育館の隅々にまで透き通るように響き渡った。
一瞬で体育館のザワつきが消え去る。児童たちだけでなく、後ろに控える教諭たちまでもが、息を呑んでプロヒーローの背中を見つめている。
「しかし——もし万が一それをやってしまっている人がいるのなら、どうか一度立ち止まって考えてみてください。その言葉が、その行動が、どれほど深く相手の心を傷つけているのかを」
彼女の脳裏にふと過ぎる、かつて自分たちの机に書き殴られた悪意の言葉や、冷たく拒絶されたときの才子のあの絶望に満ちた瞳。
「いじめをする人は、誰かを踏みつけることで自分が周囲より上に立ったような……強くなったような優越感に浸っているのかもしれません。……ですが、そんなものは何の自慢にも、誇りにもなりません。いじめをする人は『自分は強い』と思っているのかもしれませんが、それは大きな間違いです」
雪愛は白の手袋に包まれた拳を、胸の前で微かに、けれど強く握りしめた。
それはかつて、目の前で親友を見捨て、傷つけ、守れなかった愚かな自分自身への激しい悔恨と、だからこそ命がけで辿り着いたひとつの「答え」だった。
「他人の痛みを理解し、困っている人に手を差し伸べ、傷ついた誰かを守ってあげられる人こそが……本当に強い人なんです」
一拍置き、雪愛は一人ひとりの胸の奥を射抜くように、真っ直ぐに視線を注いだ。
「皆さんも、どうか忘れないでください。本当の強さとは、誰かを傷つけることではありません。自分の持つ力を、世の中や誰かの笑顔のために役立てられる人こそが、本当に強い人なのです」
体育館には、雪愛の澄み切った声と、その言葉に込められた圧倒的な覚悟の重みだけが、静かに満ちていた。
Part9破滅の来訪
「ご清聴、ありがとうございました」
深く一礼する。
白銀の髪がさらりと肩を流れ、純白の和服の袖が静かに揺れた。
一瞬の静寂。
やがて――。
パチン。
最前列の児童が小さく手を叩く。その音を合図にするように、拍手と歓声は波のように体育館中へと爆発的に広がっていった。
「ありがとうございましたー!」
「スノーホワイトさん、かっこよかった!」
子どもたちの無邪気な歓声。避難生活を送る保護者たちもあたたかな笑みを浮かべながら手を叩き、教職員も深く感動した様子で頷いている。
雪愛はその光景を白銀の瞳に映し出し、胸の奥で小さく息を吐いた。
(……今日も、少しだけ伝えられたかな)
温かな熱気が空間を満たした——その瞬間だった。
――――ドゴォォォォンッ!!!!!
鼓膜を破壊するような爆音と凄まじい衝撃が、体育館全体を叩き割った。
「きゃあああっ!」
「な、何だ!?」
正面玄関の頑丈な二重扉とガラスが爆発したように四散する。
木片と強化ガラスの破片が白煙とともに豪快に舞い散る中、一台の重厚な黒のセダンが暴走する鉄塊となって体育館のフロアへと強引に飛び込んできた。
火花と焦げ臭いゴムの匂いを撒き散らし、パイプ椅子や跳び箱をなぎ倒しながら滑走するタイヤ。
甲高いスキール音が鳴り響き、阿鼻叫喚のパニックに包まれる空間で、雪愛の鋭い一閃のような声が響いた。
「全員、下がって!!」
児童たちは悲鳴を上げて教諭たちの陰へ身を縮め、教諭たちも子どもたちを庇うように覆い被さる。
雪愛だけは微動だにしない。
和服の裾を静かに整えて演台の前で身構え、全身からプロヒーローとしての極冷の殺気を立ち昇らせながら、白銀の瞳を正面玄関へと向けた。
車体のフロントはひしゃげ、煙を噴き上げて止まっている。
崩れ落ちた玄関の向こう側――舞い散る粉塵と、壊れたフレームから差し込む朝の光の破片の中。
朝靄の立ち込める校庭の真ん中に、一人の女が静かに立っていた。
光を吸い込むような、漆黒のアフタヌーンドレス。
白い手袋。
冬の陽光さえ呑み込むような、美しい銀の髪。
溢れ返る混乱と悲鳴の中で、そこだけ時間が止まったかのような禍々しくも幻想的な静寂を纏っている。
遠く離れていても伝わる圧倒的な気品、威圧感、そして底知れぬ存在感。
女は静かにこちらを見つめている。ただそれだけで、体育館の空気が凍りついていくのが分かった。
雪愛の瞳が、大きく見開かれる。
信じられないものを見たように、その唇が震えた。
「バロネス・エインズワース?……いや、まさか……」
十年もの間、罪悪感と後悔の中で、夢に出ては何度も追い続けた面影。
忘れたことなど、ただの一度もなかった。
「……才子ちゃん…?」
かつての面影を残しながらも、全く違う存在へと変貌を遂げた親友。
黒衣の女は何も答えない。
ただ静かに、薄く微笑んでいた。
本編では尺の都合上描けなかったスノーホワイトのヒーロー活動の様子を少しだけ。暇つぶしの一助になれば幸いです
スノーホワイトこと北国雪愛の持つ『個性・雪女』は、単に氷や雪を操る攻撃性能だけにとどまらない、むしろ真価が発揮されるのは、冬の極寒地帯や猛吹雪の雪山。
『雪女』という特性上、人間なら数分で凍死するような過酷な環境であっても彼女自身は体温を奪われることがなく、常人なら視界が完全に奪われるようなホワイトアウトの中でも、まるで晴天の昼間のように「どこに誰がいるか」を驚くほどの精度で捉えることを可能にし。
救助ヘリが出動できず、地元の山岳救助隊すら二次災害を恐れて足止めを食らうような絶望的な悪天候。そんな現場にすら、彼女は単身で疾風のごとく駆けつけ、あっという間に遭難者を救出していく。
昔から「雪山で雪女に遭遇したら命はない(死亡フラグ)」という恐ろしい言い伝えがありましたが、今ではその意味がすっかり変わってしまいました。
「猛吹雪の中で『雪女(スノーホワイト)』に逢えたなら、絶対に生きて帰れる」
荒れ狂う吹雪の向こうから現れる彼女の真っ白な和装姿は、絶望の淵にいた遭難者にとってまさに「救世主」そのもの。
救助された登山客がテレビのインタビューで、
「視界ゼロの極寒の中で、白銀の瞳をした美しすぎる雪女が現れて優しく抱きかかえられた……天国かと思った」
と涙目で語った映像がSNSで大バズりしたことも、一度や二度では無い。……と、ここまでは非常に素晴らしいヒーロー美談なのだが。
「……また、無計画な登山者の遭難ですか」
ある日の、事務所のデスクで救助要請の書類を受け取った雪愛は、白銀の瞳を深々と曇らせ、盛大な溜息をつくことになってしまった。
「『どうせスノーホワイトが助けてくれるから大丈夫』だなんて……そうやって準備も知識も怠った無謀な人が増えてしまうのは、本末転倒です」
自分の活躍が、皮肉にも人々の警戒心を緩め、軽装や悪天候下での無謀な入山を増やしてしまうというジレンマ。
完璧に遭難者を救出した後、病院のベッド脇で毛布にくるまる彼らに対し、雪愛がプロヒーローとして、そして誰より命の重みを知る者として、
「……装備も知識も甘すぎます。命は一つしかありません。どうか自分の命を軽視しないでください」
と、氷点下の冷ややかな眼光で小一時間こんこんとお説教をかますのは、今や地元の山岳救助隊や警察の間ではすっかりお馴染みの「裏名物」となっていた。
(※なお、その極冷のお説教すら「美人に真顔で叱られたい」と一部のコアな層で妙な需要を生んでいることに対し、本人は至極真面目に頭を抱えている模様。)
プロヒーローとして働き始めて、初めて迎えた夏のこと。
まだサイドキックとして現場の空気に必死に順応しようとしていた私のもとに、思わぬ来客が訪ねてきた。
大手ヒーローグッズメーカーの社長と企画部長。業界の重鎮とも言える二人が、直々に我が事務所の応接室へと足を運んできたのだ。
「新進気鋭! 若手女性ヒーロー・水着フィギュアシリーズ第2弾!!」
熱弁を振るう社長はテーブルの上に、すでに大ヒットを記録している第一弾――Mt.レディの艶やかな1/7スケールフィギュアの写真を並べ、意気揚々と語った。
「第1弾のマウントレディ様は大ヒットとなりました! そして栄えある第2弾……この『清楚と静寂』を体現する枠は、北国さん、君しかいないんだ!」
「そうです! 猛暑を吹き飛ばす涼やかな白銀の美貌! 18歳での本免許取得という実績と圧倒的なスタイル! 売れない理由がない!」
事務所の所長やマネージャーたちは、莫大なロイヤリティと知名度アップのチャンスに目を輝かせ、「ぜひ前向きに!」と二つ返事で頷いている。
新人に過ぎない私に、会社としての決定を覆す権限などなかった。
(……拒否はできない)
私は膝の上で手袋をはめた拳を固く握りしめ、せめてもの抵抗として、顔をかすかに赤らめながら消え入りそうな声で言葉を絞り出した。
「……わかりました。ですが、あまり過激な水着や、下品なポーズだけはお許しください。私は、見せ物になりたいわけではないのです……」
「もちろんですとも! 君のプロとしての意向は最大限に尊重しますよ!」
力強く頷く社長だったが、ビジネスマン特有の計算高い目が裏で光っているのを私は見逃さなかった。
彼らの腹のうちは透けて見えていた。
(最初は清楚ぶらせておけばいい。採寸さえ済ませれば、あとはファンが喜ぶギリギリの露出と過激なビキニで仕立て上げれば売れる!)――大人たちはいつだってそうやって、こちらの感情を置き去りにしていく。
――数日後、非公開のスタジオで行われた精密な採寸作業。
そこで、メーカー側の目論見は良い意味で大きく裏切られることになった。
「……な、なんだこのスタイルは……!?」
3Dスキャンデータと計測数値を確認した企画部長が、息をのむ音が聞こえた。
過剰な主張のないしなやかな筋肉、雪のように白い肌、そして無駄な肉が一切ない完璧なプロポーション。
第一弾のMt.レディのような「分かりやすいダイナマイトボディ」とは異なり、私の身体にはどこか神聖ですらある、触れてはならないような美しさが備わっていたのだ。
「社長……考えを変えましょう! 露出で押すんじゃない! 下手に過激なビキニを着せたら、この子の持つ『本物の質感』が死にます! 『清楚の極み』で勝負だ!!」
大人たちの商魂は、皮肉にも私の「素材の良さ」によって別の方向へと昇華された。
そうして夏が終わる頃、全国で予約が開始された『スノーホワイト・サマーメモリー 1/7スケールフィギュア』。
そこに映し出されていたのは、過激なビキニなどではなく――透け感のある白地に控えめな水色の大輪が咲く、清楚なパレオスタイルの水着姿。
砂浜の上でキュッと膝を抱えて座る「三角座り」のポーズで、つばの広い麦わら帽子の隙間から見えるその表情は、どこか遠く……二度と戻らない季節を思わせるような、切なくも澄み切った瞳で微笑んでいた。
『隠されているからこそ際立つ美しさ』
『清楚の暴力』
『部屋に飾るだけで室温が3度下がる(精神的に)』
過激さを一切削ぎ落としたからこそ、見る者の胸を締め付けるような「圧倒的な美」を誇るそのフィギュアは、発売と同時に全国で爆発的な売り上げを記録し、即完売となった。
◇
「おい見たかよ緑谷ぁぁーッ!! スノーホワイトさんの限定フィギュア、奇跡的にオークションで落札できたぞ!!」
雄英高校の男子寮。峰田実の部屋で、悲鳴に近い歓声が上がっていた。
「ご、5万円……!? 峰田くん、いくら何でもお小遣いや貯金を全部注ぎ込みすぎじゃないかい……!?」
ドン引きするデクの横で、峰田はプレミア価格で競り落としたアクリルケース入りのフィギュアを、最上段の神棚でも拝むような目で見つめていた。
「バカ言え! たった5万でこの『至高の芸術』が手に入るなら安いもんだろ!! 見ろよこの三角座り! パレオの隙間からチラッと見える太もものライン! そしてこの麦わら帽子と、どこか寂しそうな横顔……! エロいとかそういう次元を超えて尊いんだよコンチクショー!!」
限定版の特典付きフィギュアが男子寮で神のように祀られていることを、私本人はまだ知らない。
今回登場した女性ヒーロー、12話拭えぬ残滓の悪夢のなかに登場した女子生徒を膨らませて構成しました。
キタキツネの個性を持った北木常子とどちらにしようか迷ってたのですが、北国雪愛を採用して完成した話です
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