善意の剥製   作:タロットゼロ

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先にお詫びします。
今回は残酷な描写がかなり多いですというより
残虐描写、および未成年・児童に対する惨烈な害意描写が含まれます。苦手な方は今回ばかりはブラウザバック推奨します



黒いドレスの蹂躙

 

Part1、その女、北国雪愛

 疾走する黒のセダン。その重苦しい静寂が満ちる後部座席で、隠身識は膝の上に置いたノートパソコンの画面に暗緑色の光を走らせていた。

 カタカタと無機質で無駄のないタイピング音が、微かに振動する車内に響く。

 画面に映し出されているのは、これから踏みにじる小学校避難所の見取り図と、リアルタイムで照合される警備ヒーローのデータベースだ。

「レディ。ターゲットである小学校の避難所警備についてですが……現在配置されているのは『ストーブヒーロー・ストウ』。個性は発光とわずかな熱を発する程度です」

 識は流れていく文字列と過去の活動記録動画を網膜に焼き付けながら、淡々と報告を続けた。

「過去の動画を一つ見ても、夜間の見回り中に自身の発光で街灯代わりに周囲を照らし、住民と笑顔で挨拶を交わすばかり……小悪党相手に微熱で場を濁すことしかできていません。せいぜい『動く街灯』程度の役目しか果たせておらず、まさにヒーロー飽和社会が生み出した膿のような三流です。ハッキリ申し上げてレディの手を煩わせるまでもなく、私が素手で挑んでも数秒とかからずに制圧できる程度です。奇襲は間違いなく成功——」

 キーボードを叩く指が一瞬だけ止まった。

 画面の端に割り込んできた最新のスケジュールログをスクロールし、眼鏡の奥の目をわずかに細める。

「……失礼いたしました。情報に更新があります。本日の朝礼には、地元で期待の若手女性ヒーローが訪れ、いじめ撲滅の講演を行うとのこと」

 だが、これから踏みにじる「三流ヒーロー」の存在も、これから行われる「おままごとの講演」という情報すらも、隣に座る真白才子には吹き抜ける羽虫の羽音に等しかった。

 漆黒のアフタヌーンドレスに身を包んだ彼女は、シートに深く腰掛けたまま、両手を膝の上で静かに重ねて瞼を閉じている。

 誰の言葉も、どんな情報も、今の彼女の耳には届くことはなく周囲の空気を凍りつかせるかのように、ただ静かに、深く——自らの精神と内に秘めた膨大な破壊衝動を研ぎ澄まし、集中力を限界まで高めていた。その白銀の髪と整いすぎた横顔に、一切の感情の揺らぎすらない。

「……さらに、補足です」

 識は指先を滑らせ、画面に表示された女性ヒーローの顔写真と詳細な実績データを呼び出した。

「なかなか優秀なようです。地方出身でありながら、高校在学中にプロヒーロー本免許を取得したとのこと」

 その言葉にも、才子の眉一つ動かない。白銀の睫毛は静かに閉ざされたままだ。才子にとっては、エリートだろうと落ちこぼれだろうと、自分を阻む者はすべて等しく「潰すべき障害」でしかなかった。

「……プロ名『スノーホワイト』。個性は『雪女』。主に猛吹雪の雪山における遭難者救助を主軸として活動しているようですが、戦闘においてもいくつか警戒すべき点があります。身体から冷気と雪を噴出させることで広範囲に疑似的な吹雪を起こし、敵の視界を奪うことが可能。さらに——」識は画面の戦闘記録動画を一度停止させ、眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げ報告を続ける「——至近距離で相手に組み付き、自身の極冷の体温を直接叩き込むことで、一瞬で重度の低体温症に陥らせる近接戦闘術も持ち合わせています。地方のヒーローにしては戦闘力も悪くありません。どうぞご注意を」

識の淡々とした忠告が車内に落ちる。

 だが、才子の精神はその警戒に何一つ傾くことはなかった。

(……だから何だというの?)

 心の奥底、凪いだ暗い海のような思考の中で、才子はただ静かに鼻で嗤った。

(近づかれる前に念動力で捉え、遠距離からあの学校の壁にでも叩きつけて骨を折れば済む話……何の問題もないわ)

疑似吹雪も、組み付きによる凍傷も、自らのサイコキネシスの前では発動する機会すら与えられずに終わる。

データ上の脅威など、彼女にとっては道端の小石をどう踏み潰すかという程度の雑音に過ぎなかった。次の報告を聞くまでは。

「……因みに、彼女の本名は北国雪愛というそうです」

 識が何気なく添えた、報告の最後のひとこと。

 ——ピキリ、と。

 重苦しい静寂に包まれていた車内の「空気の温度」が、明確に変貌を遂げた。

 ぴくり、と才子の長い白銀の睫毛が揺れる。

 これまでどんな危険度やスペックデータにも微動だにしなかった彼女の身体が、わずかに揺れた。

 ゆっくりと開かれた瞳。深く凪いでいたはずのその奥底に、暗闇の中で怪しく、禍々しく歪んだ光が灯る。

「……識」

 鈴を転がすような、けれど氷のように冷ややかな声が車内に落ちた。

「……さっき、いじめ撲滅がどうとか言っていたわね」

「……はい?」

 普段なら感情を表に出さない識の指先がピタリと止まり、一瞬だけキョトンと首を傾げた。

 ターゲットの戦闘力にも作戦の危険度にも一切の興味を示さなかった才子が、なぜ「いじめ撲滅の講演」などという些末なイベントに食いついたのか。

 急な興味の示し方にわずかな違和感を覚えながらも、識は即座にノートパソコンの時計とスケジューラーに視線を落とす。

「……現在時刻、午前7時45分。推測しますと、およそ十五分後。氷晶霧小学校の公式ホームページ上にて、その講演の様子が生放送として配信される予定です」

「そう」

 才子の薄い唇が、静かに、そして密やかな愉悦を孕んで歪んだ弧を描いた。

 膝の上で静かに重ねられていた白く細い指先が、抑えきれない昂ぶりに微かに震える。

「……その御高説、ぜひ生放送で全国に届けてもらいましょう」

 窓の外を流れる灰色の景色を見つめる才子の瞳には、先ほどまでの退屈さは微塵もなかった。

 かつて自分を見捨て、逃げ出したかつての親友。

 その女が、どのツラ下げて「正義」や「希望」という反吐が出るような綺麗な言葉を、安全な教壇の上から子供たちに説いているのか。

ヒーローという虚飾に守られた象徴を、世間が崇めるその絶頂の瞬間に無惨に叩き潰す。

『ヒーローなど、何の救いにもならない』

 そう悟った無力な民衆が、絶望の果てにすがる先はただ一つ――魔王、オール・フォー・ワンの絶対的な支配のみ。

 スノーホワイトは。社会の信頼を根本から崩壊させ、人々を導くための最高の駒なのだ。

 車内を満たす毒々しいまでの殺意と野心。破滅のカウントダウンを乗せた車は、静かに朝靄の中を駆け抜けていった。

 

 Part2、配置完了

午前七時五十分。

 目的地の小学校を見下ろすことができる、小高い丘の麓。木々に身を隠すような薄暗い側道で、黒のセダンが静かにタイヤを止めた。

「では、私はここで」

 識はノートパソコンを素早く閉じると、無言で車のドアを開けた。

 後部座席の足元から抱え上げたのは、黒革で覆われた重厚な樹脂製の長方形ガンケース。中に収められているのは、今朝がた精密な調整を終えたばかりの狙撃銃――『デザートテック SRS』だ。

バタン、とドアが静かに閉まる直前、半開きになった窓の奥から、才子の冷たく、けれど抑えきれない昂ぶりと甘やかな毒を含んだ声が降ってきた。

「識。……作戦開始の合図は、私が出すわ」

 それは単なる作戦の確認ではない。

 偽りのヒーローが教壇の上で言葉を紡ぎ、民衆の希望が最高潮に達した瞬間――最も効果的で、最も絶望的なタイミングでその言葉を惨めにはじき飛ばしてやるという、絶対的な悪意の宣言だった。

 識はその言葉の裏にあるどす黒い意図を正確に読み取りながらも、一切の表情を変えることなく車外で向き直った。

 迷いのない漆黒の瞳で才子を見つめ、ミリ単位のブレもなく深々と頭を下げる。

「勿論です、レディ。……合図をお待ちしております」

 恭しく一礼した識は、ライフルケースを提げたまま、足音一つ立てずに朝靄の残る丘の斜面へと登っていった。

 その背中を見送ることもなく、後部座席の窓が静かに上がりきる。

 獲物を狙う特等席へ向かう狙撃手をその場に残し、黒のセダンは再び重いエンジン音を低く響かせて滑らかに発進した。

 ヒーロー社会の終焉を告げるステージまであと僅か、破滅を乗せた鉄塊は、静かに、そして確実に獲物の喉元へと迫っていた。

――午前七時五十五分。

 黒のセダンは、目的地である氷晶霧小学校の正門前へと静かに滑り込んだ。

 本来であれば部外者の車を遮るべき門扉は大きく開け放たれ、広大なグラウンドは避難民の車両を収容するための臨時駐車場として開放されている。

 朝礼と講演の準備に追われているためか、この時間に車を整理・誘導する係員の姿は一人として見当たらなかった。不審車両を警戒する者の目すら存在しない、完全な無防備。

 才子は後部座席の窓越しに、朝靄の立ち込めるグラウンドへと静かに視線を滑らせた。

「……ざっと見て、30台というところかしら」

 整然と並べられた避難民たちの車。家を追われ、肩を寄せ合うように身を寄せる人々が残していった生活の痕跡。

 才子の白銀の瞳は、それらを慈しみも同情もなく、ヒーローへの信仰を破壊するための「弾薬」として冷徹にカウントしていた。

「ふふ……ちょうどいいわ。使わせてもらいましょう」

 唇から漏れたのは、見る者を凍りつかせるような美しい愉悦の声。

「指示通り、あそこの枠の中に車を収めなさい」

「は、はい……!」

 運転席でハンドルを握る巨漢・羆本は、手垢と脂汗でぬめる手で慎重にセダンをバックさせ、白線の中に寸分違わず車体を収めた。

 カチリ、とキーが回され、エンジンが停止する。重苦しい完全な静寂が車内を包み込んだ。

 完璧な駐車を確認すると、才子は椅子の背もたれに深く寄りかかったまま、冷淡な視線をバックミラー越しに向ける。

「羆本。……約束通り、貴方の役目はここまでよ。車を置いて、どこへでも消えなさい」

 その言葉は、用済みになった道具を捨て置くような無機質さに満ちていた。

「は、はいっ! ありがとうございます、失礼します……っ! あの……レディ、頑張ってくださいっ……!」

 解放された安堵と極度の緊張からか、羆本は取ってつけたような顔でぺこぺこと何度も頭を下げ、そんな薄っぺらい言葉を口にした。

(……逃げる奴が、頑張ってください?)

 その瞬間、才子の美貌がぴきりと凍りついた。

 白銀の眉が不快そうに跳ね上がり、瞳の奥にヘドロのような底知れぬ蔑視と不快感が宿る。

 自分は命惜しさに尻尾を振って逃げ出す分際で、これから世界を正し、新秩序を築こうとする者へ向けた、あまりにも浅薄で無神経なエール。その無知ゆえの図々しさが、才子の神経を酷く逆撫でした。

 アイスピックのように鋭く冷たい眼光が、羆本を射抜く。

「……消えろと言ってるのよ」

「ヒィッ……!!」

 車内に満ちた一瞬で押し潰されそうな殺気に悲鳴を上げた羆本は、弾かれたように運転席のドアを開けると、脱ぎ捨てた上着すら拾わず、脱兎のごとくグラウンドの向こうへ逃げ去っていった。

 残されたのは、無人の運転席と、開け放たれたままのドア。

 才子が小さく指先を揺らすと、その意を汲んだかのように、パタンと静かにドアが閉まり、再び密室の静けさが戻った。

 スマートフォンを取り出した才子は、生放送の開始時間を告げる画面を見つめながら、静かに、深く、その時を待っていた。

 

Part3拍手のかわりに鉄塊を

画面の中で教壇に立つのは、純白の和装に身を包んだスノーホワイトこと北国雪愛だ。

 マイクを握りしめ、体育館に集まった子どもたちや避難民、そして画面の向こうの全国の人々へ向けて、真摯な眼差しで「命の重み」と「希望」を語りかけている。

『……どうか、忘れないでください』

 画面越しに聞こえる、雪愛の通る澄んだ声。

 その言葉が耳に届いた瞬間、才子は鼻で小さくあざ笑うと、静かにスマートフォンの画面を伏せた。

 漆黒のエナメル地の肩紐付きハンドバッグ。その中にスマートフォンを優雅な所作で収めると、バッグを肩にかけ、後部座席のドアを開けて車外へと足を踏み出した。

 カツン、と朝の冷えた空気に高く響くヒールの音。

 車を降りた才子が、黒い絹手袋に包まれた右手をそっと空へと持ち上げ、細い指先を優美に翻や黒の大型セダンが浮き上がり始めた。

地面を離れ、重力を無視して宙へと静かに浮遊する重厚な鉄塊。才子の周囲の空気が、膨大なサイコキネシスの奔流によって歪み、異様な威圧感を放ち始める。

 黒いアフタヌーンドレスの裾を朝風にたなびかせ、才子は宙に浮かべたセダンを引き連れるようにして、ゆっくりと体育館の正面玄関へ向かって歩き出した。

 一歩、また一歩。

 その足取りに迷いはなく、その美貌には冷酷極まる悪意の笑みが浮かんでいる。

 ――そして、そこからちょうど一キロメートル離れた小高い丘の草むら。

 伏せた姿勢ライフルスコープを覗き込んでいた隠身識の視界に、その異様な光景が捉えられていた。

 高倍率のレンズの向こう、黒いドレスの少女が巨大な鉄塊を従えて悠然と歩いている。

(……相変わらず、規格外の力ね)

 識はスコープの十字(クロスヘア)をセダンの動きに合わせながら、心中で淡々と呟いた。

あの巨大な鉄塊を叩き込むだけで中の人間など容易に圧死させられる。まだ自分の出番など来るはずもないという絶対的な余裕。

 レディ・才子の圧倒的な暴力を前に、狙撃手としての自分が介入する余地など当分訪れないことを、誰よりも識自身が理解していた。

(合図は出すと言っていたけれど……本当に派手な合図になりそうだわ)

 スコープの奥で、才子が体育館の正面扉のすぐ手前まで辿り着くのが見えた。

 重厚な扉の奥から漏れ聞こえてくるのは、スピーチの終わりを告げる割れんばかりの『盛大な拍手』。

 人々の感動が絶頂に達し、温かな希望の余韻が会場を包み込んだ、まさにその瞬間、才子が掲げた手を前方へと振り下ろした。

 ――ドドォンッ!!!

 放たれた巨大な鉄塊――黒のセダンが、音速に近い勢いで正面玄関のガラス扉と両開きの重い扉を、壁ごと一瞬で粉砕しながら体育館内部へと叩き込まれた。

 響き渡る破砕音、吹き荒れる瓦礫と粉塵。

スコープ越しに、先ほどまでの温かな拍手が惨叫と悲鳴の渦へと塗り替えられていく地獄絵図を観察しながらも、識の引き金にかかった指先には一切の力みがなかった。

「……いつでも撃てますよ、レディ」

 冷ややかな呟きとともに、識は銃身を微動だにさせず、煙の巻き起こる体育館の奥を静かに見据え続けていた。

 

Part4、分不相応な虫けら

 煙塵と瓦礫が舞い散る体育館の出入り口。

 煙の向こうからゆらりと現れた漆黒のドレス姿を目にした瞬間、白の和装に身を包んだスノーホワイトが驚愕と戦慄に大きく見開かれた。

 絶望的な破壊をもたらした元凶。そのあまりにも見覚えのある白銀の髪と美貌に、雪愛は、吸い寄せられるように一歩前へ踏み出してしまう。

「才子ちゃん……っ!? 私よ、覚えている……!? 北国雪愛よ……っ!私ずっと貴女に謝りたくて!」

 動揺に震える声。かつての親友の名を呼び、何とか会話を成立させようと縋りつくような雪愛の横を、唐突に激しい怒声とともに駆け抜ける影があった。

「何をぼーっとしているんだ、スノーホワイトっ!!」

 地元警備ヒーロー、ストーブヒーロー・ストウだ。

 避難民の子どもたちが悲鳴を上げる惨状を前に、血の気を引かせながらも、彼はヒーローとしての正義感だけで前へ躍り出た。全身から眩い発光を放ち、申し訳程度の熱気を周囲に撒き散らしながら、一直線に才子へ向かって飛びかかる。

「指名手配犯がこんなところにやってきて、避難所に車を突っ込ませるなど……ふざけた真似をーーっ!!」

 ストウの「個性」による強烈な光が視界を焼き、放射された熱風が朝の冷気を吹き散らす。

 だが――才子は眉一つ動かさなかった。

 襲い来る光も熱も、彼女にとっては視界の端をかすめる羽虫の羽音にも等しい。

 才子が静かに漆黒の瞳を向けた瞬間、躍進していたストウの身体が、空中盤上でピタリと制圧・静止した。

「――っ!? ぐ……身体が、動か……!?」

 運動エネルギーを完全に死殺され、重力すら無視して宙に縫い付けられたストウが、喉を鳴らして喘ぐ。

 己に迫る光の光源を冷淡に見下ろしながら、才子は鈴を転がすような、けれど絶対的な拒絶を込めた声で呟いた。

「ふざける……? 何のことかしら」

 黒い絹手袋に包まれた左手が、だるそうに、優雅に左側へと翻る。

「これは――最初から決まっていた『計画』よ」

 ――ガァンッ!!!!

 次の瞬間、ストウの巨体が凄まじい速度でグラウンド側へと弾き飛ばされた。

 弾丸と化したストウは、破壊された正面玄関を勢いよく逆噴射するように突き抜け、朝靄の残るグラウンドへと一直線に突進し激突した先は、朝礼用に設置されていた重厚なスチール製の朝礼台。

 その鋭利な金属の角へ、ストウの腰骨が無防備に直撃した。

 ゴキッ―――!!

 体育館の中まで届くほどの、エグい骨折音が朝の空気に響き渡る。

「ガッ……ぁ……あ……っ!?」

朝礼台を歪ませて地面へ崩れ落ちたストウは、下半身の感覚を完全に失い、白目を剥いて泡を吹きながら痙攣を始めた。もはや街灯程度の光を放つ余力すら残されていない。

 

Part5、唾棄すべき卑怯者

倒れ伏したストウの惨状を目にし、雪愛は青ざめた顔で駆け寄ろうとした。

「ストウさん……っ!!」

 だが――一歩を踏み出すことすら許されなかった。

 どれだけ足に力を入れようと、膝から上が金縛りに遭ったかのようにピクリとも動かない。全身を不可視の巨大な手で強固に固定されているかのような、異様な圧迫感。

(……動かない……っ!? 一体、いつの間に……!?)

 それもそのはずだった。

 才子が左手でストウをグラウンドへ弾き飛ばしたまさにその瞬間、彼女の右手から放たれたサイコキネシスは、すでに寸分の狂いもなく雪愛の全身を完璧に捉えていたのだ。

 才子が右手の指先をゆっくりと持ち上げると、雪愛の身体がふわりと浮き上がり、そのままつま先がタイルから離れた。

「くっ……あ……っ! 才子ちゃん、やめて……っ!」

 空中で必死に身もだえしながら叫ぶ雪愛。

 その必死な訴えを聞いた瞬間、才子の足取りが止まった。

 透き通るような白銀の眉がピキリと不快そうに歪み、その瞳に底知れぬ氷の殺意が宿る。

「……才子ちゃん、ね」

 氷の刃のように冷徹な声が、静まり返った体育館に落ちる。

「……その名で呼ぶのはやめてくださる? 私をその名で呼んでいいのは――ただお一人だけよ」

 彼女の心の中に存在する、絶対的な存在――オール・フォー・ワン。そのお方以外の何者にも、己の本名を  呼ばせるつもりなど微塵もない。

 才子は浮遊させた雪愛を伴い、壊れた正面玄関から体育館の奥へと、ゆっくりとした足取りで歩みを進めた。カツン、カツンと響くヒールの音が、破滅のカウントダウンのように館内に反響する。

「……勿論、貴女のことは覚えているわ。唾棄すべき卑怯者……」

 才子の視線が、空中で囚われの身となった偽善者を冷たく射抜く。

「……そんな貴女に、今さら私の名前なんて呼べる義理かしら? ねぇ――スノーホワイト」

「っ……あ……!」

 才子が右手を前方へ押し出すと同時に、雪愛の身体が弾丸のような速度で後方へと滑走した。

 そのまま逃げ場のない体育館の一番奥の壁面へと力任せに押し付けられる。

 バァンッ――――!!

「がはっ……!!」

 背中を激しく強打し、肺の中の空気をすべて吐き出させられた雪愛は、壁に縫い付けられたまま苦痛に顔を歪ませた。

 避難民たちの悲鳴が遠くで上がる中、才子は優雅に黒いドレスの裾を揺らし、壁際で苦しむ偽りのヒーローへと静かに歩み寄っていく。

Part6才子の口撃

 才子は議論や対話など、端からするつもりなどない、ただ一方的に、泥のような毒を注ぎ込み、哀れな獲物の心を惨めに踏みにじるためだけに口を開く。

「……途中でおかしくなりそうになって観るのをやめたけれど、貴女のありがたい御高説……しっかり聞かせていただいたわ」嘲笑を孕んだ鈴のような声が、冷たく体育館の空間を叩く。

「……あの時、私を見捨てて逃げ出した貴女が……よくもまあ、あんな綺麗事を言えたものね? あまりの滑稽さに、涙が出そうだったわ、涙が出るほど吐き気がしたわ」

「……っ、あのときは……っ! あの時は、本当にごめんなさい……っ!!」

 舞台上の壁に叩きつけられ、不可視の力で貼り付けにされたまま、雪愛は痛痛しい表情で絞り出すように謝罪の言葉を口にした。

だが、そんな哀れな詫びの声など、今の才子の耳には届かない。

 才子は黒い絹手袋に包まれた指先で自身の顎をそっと撫で、優雅に黒いドレスの裾を揺らしながら、ゆっくりと舞台の手前——客席側のフロアへと足を進めた。

 一段高い舞台の上に無様に縫い付けられているプロヒーローを、舞台の下から冷酷に、けれど絶対的な優越感をもって見下ろすように見上げる。

「貴女の素晴らしい経歴も知っているわ。地方の高校に在学しながらプロヒーローの本免許を取得……ええ、本当にお見事だわ。……そうやって血の滲むような努力を重ねることで、『私はあの頃とは違う』と自分に言い聞かせ、惨めな自分を必死に慰めていたのかしら?」

「違う!! 私は、そんなつもりじゃ」

「いいえ、同じよ。……敵と命を懸けて戦う恐怖からは逃げて、感謝だけされる安全な雪山に引きこもり救助活動…

…。危なくなったら一番に逃げ出して、後から『私は人を助けるヒーローです』って顔をするのね。……昔から何一つ変わっていないじゃない」

「っ……あ……!」

「『ごめんなさい』? ふふ……免罪符みたいに安い謝罪を口にして、罪悪感を軽くした気でいるその図々しさ。……貴女が求めているのは私の赦しじゃない。謝った自分に酔って安心したいだけの、不潔な自己満足よ」

 休むことなく心の一番柔らかい部分を正確に抉り続けられ、雪愛の顔から血の気が完全に引いていく。

 才子はちらりと視線を巡らせ、壊れた客席の隅でガタガタと震える子どもたちや避難民たちを見やった。

「ねぇ、スノーホワイト。貴女が語りかけた子どもたちの顔が見えるかしら?」

「な……ッ!?」

「教壇の上で無様に宙吊りにされ、惨めに命乞いをする貴女を見て……あの子たちが今どんな顔をしているか想像できる? 『ヒーローなんて、誰も助けてくれないんだ』って……あの子たちの希望を殺したのは、他ならぬ貴女なのよ」

「あ……、あぁっ」

「プロヒーロー『スノーホワイト』……純白の雪、ね。……雪はとても良いわ。どんなに醜いものも、白く綺麗に覆い隠してくれる……。自己保身と欺瞞に満ちた貴女には、これ以上なくお似合いの名前じゃない? それに、その白い和装のコスチューム……過去の醜い傷跡を隠すための包帯としては少々大げさだけど、偽善者の貴女にはとてもよく似合っているわ」

「やめて!……お願い…もう、やめて……才子ちゃん……」

 溢れ出す涙とともに、舞台の上から懇願するように昔の愛称を呼ぶ雪愛。

 ——その瞬間。見上げていた才子の美貌から、一切の温度が消え失せた。

「……私をその名で呼ぶなと言ったはずよ」

 才子は掲げていた右手のその小指だけを、ほんのわずかに——ミリ単位で前方へと傾けた。

 サイコキネシスの出力を、ほんのチョッピリ——1パーセントにも満たない量だけ引き上げる。

 ――メリッ……グシャッ!!

「あッ―――――――――――!!!!???」

 舞台の壁に固定された雪愛の左手小指が、超高圧の不可視の万力によって見事に押し潰され、あり得ない方向へとへし折れた。

 骨が砕け、肉が潰れる凄惨な激痛に、雪愛は白目を剥きかけて激しく全身を痙攣させる。

 体育館の天井を突き破らんばかりの狂気的な悲鳴が、舞台の上から朝の冷気へと高く響き渡った。

 才子は、舞台の上で指先からダラダラと血を流し、絶叫する偽善者の惨状を、舞台の下からまるで道端の雑草でも眺めるかのような無関心な瞳で見つめていた。

 

Part7予期せぬ乱入者と甘い罠

「あがッ……ぁ……くっ……! はぁ……はぁ……っ!」

 左手の小指を潰され、激痛に身を捩りながらも、雪愛の意識はぎりぎりのところで踏みとどまっていた。

(……右手…… 才子ちゃん……才子の右手は、ずっと私に向けられたまま)

 猛烈な痛みに視界が白く霞む中、雪愛は必死に才子の動作を観察していた。

(あのサイコキネシスは、あの手が起点になっているはず……。もし、何とかして両手を拘束できれば……

 絶望的な状況下で、プロヒーローとしての生存戦略を必死に模索する雪愛。

 ――その時だった。

「やめろーっ!! スノーホワイトをいじめるなーっ!!」

 壊れた体育館の瓦礫の陰から、甲高い叫び声とともに幼い影が飛び出してきた。

 小学校の二、三年生ほどに見える男児だ。恐怖に顔を歪ませ、涙を流しながらも、大好きなヒーローを助けたい一心で、小さな拳を握りしめて一直線に駆け寄ってくる。

(……何事かしら?)

あまりにも想定外な無力な乱入者。才子はゆっくりと声のした方へと身体を向けた。だが、スノーホワイトへのサイコキネシスによる拘束を担当する右掌は依然として舞台上の雪愛に向けられたままだ。

 才子にとって、その男児の行動はあまりに常識外れで、隙だらけの暴挙だった。そのあまりの荒唐無稽さに、かえって才子の反射神経がわずかな遅れを生む。

「たあぁッ!!」

 ポンッ! ポンッ! ポンッ!

 男児の繰り出した無鉄砲なぐるぐるパンチが、才子の腹部と腰のあたりに三発、直撃した。もちろん、幼子の拳の威力など痛くも痒くもない。だが、至高なる絶対者・オール・フォー・ワンの下で洗練された真白才子の身体に、子供とはいえ直接叩いた——その事実だけで十分だった。

「だめっ! 来ないで!! 逃げてえぇっ!!」

 舞台の上から響く、雪愛の必死で悲痛な叫び声。

 その声で我に返った才子の瞳から、一切の感情が蒸発した。

「……鬱陶しいわね」

 才子がだるそうに左の掌を幼子へ向けると、男児の身体がピタリと動きを止めた。そのままゆっくりと宙へ浮き上がり、才子の目の高さまで吊り上げられる。

「ひっ……え……!?」

 足が地を離れた恐怖に怯える男児と、冷ややかな白銀の瞳が目と目で至近距離から交錯する。

(……けれど)

 才子は怯える幼子の顔を見つめながら、ふと薄い唇の端を吊り上げた。

大人たちすら恐怖で竦み上がり、プロヒーローすら無様に惨殺されかけているこの絶望的な場で、たった一人で自分に向かってきた愚かさ。無謀で滑稽極まりないが――見ようによっては、大衆の群れの中で唯一「牙」を見せた、稀有な勇敢さとも言える。

(ふふ……良い手下になりそうだわ。このまっさらで素直な芽をお父様へ捧げる忠実な信者にして差し上げましょう)

 そう思い至った瞬間、才子の殺意は歪んだ「慈愛」へと変貌した。

 才子は左腕をそっと回し、宙に浮かせた男児の身体を優しく抱き寄せるようにハグをした。

「……あ……」

 不意に包み込まれた男児の鼻腔を、才子の身に纏う高貴で濃厚な薔薇の香水の甘い香りがくすぐる。

 そして、顔のすぐ近くにあたる、アフタヌーンドレス越しの上品で柔らかな体温と感触。先ほどまで猛悪な敵だと思っていた相手からのあまりにも甘美で妖艶な抱擁に、幼い男児の思考は真っ白になり、思わずドギマギと胸を打ち鳴らしてしまうのだった。

 男児を優しく胸元に抱きしめたまま、才子は耳元で鈴を転がすような甘い声を囁いた。

「ねぇ……坊やは、スノーホワイトのことが好きなの? ……それは、どうして?」

 先ほどまでの凍りつくような殺意が嘘のように、慈愛すら感じさせる柔らかで優しい問いかけ。高貴な薔薇の香りと、優しく包み込まれる感触に顔を赤らめながら、男児は必死に拙い言葉を紡いだ。

「つ、強くて……優しくて……カッコいいから! だから……みんなを助ける、正義のヒーローだから……っ!」

 語彙力こそ乏しいものの、幼い胸の中に宿る純粋なヒーローへの憧れと信仰。

 才子は「ふふ……」と可愛らしく微笑むと、その頭を優しく撫でながら、自分の頬を男児の頬に優しく寄せて、甘やかな毒を含んだ言葉を静かに落とした。

「正義のヒーロー? ……じゃあ、どうしてその正義のヒーローがあんなことになっているのかしら?」

 才子の視線が、舞台の壁に凄惨な姿で貼り付けられている雪愛へと向けられる。

「え……?」

 男児は言われた意味が分からず、言葉に詰まった。憧れのヒーローは今、助けに来てくれるどころか、惨めに宙に吊るされ、血を流して苦しんでいる。幼い頭ではその矛盾を処理しきれず、男児はただ目を丸くして固まることしかできない。

そんな男児の耳元へ、才子は冷徹な世界の真実を言い聞かせるように、囁きかけた。これからあのお方の偉大なる世界を担う「未来の信者」へ、最初の教えを授けるかのように。

「……それはね、坊や。正義が勝つからじゃないの」白銀の瞳の奥に、怪しく禍々しい光が灯る。「……勝った者が、正義だからなのよ」

それは、弱者を救う「ヒーロー社会」の虚飾を根底から否定し、力ある者が全てを統べよという、あまりにも毒々しい洗脳の言葉だった。

「やめて……っ!! お願いだからやめてぇっ!!舞台の上から、狂おしいほどの絶叫が響き渡る。「子どもに……子どもにそんな悍ましい話を吹き込まないで……っ!!」

肉体の痛みなどとうに吹き飛んでいた。自分の無力さのせいで、未来ある子どもが目の前で「悪の教理」に染め上げられ、あのおぞましい組織の信者へと変えられていく絶望に、雪愛はボロボロと涙を溢れさせながら悲痛に叫び続けるのだった。

 

Part8逆鱗に触れる者たち

 舞台の上から響く雪愛の悲痛な絶叫。だが、才子はそんな負け犬の悲鳴などまるで耳に入っていないかのように、優しく男児を抱きしめたまま、その耳元で甘い毒を含んだ言葉を囁き続けた。

「……ねぇ、坊や。私はね、ちょうど坊やくらいの年齢の時に……一人ぼっちになったの」

 その声には、まるで本当の姉のように幼子を慈しむような、温かな響きすら混じっていた。

「でもね……オール・フォー・ワン先生が、行き場のない私を助けてくださって、大切に育ててくださったのよ。……きっと先生は、坊やのこともとても大切にしてくださるわ。……だから、坊やも私と一緒に、オール・フォー・ワン先生にお仕えしましょう?」

 それは、絶望の淵に佇む幼子の心を搦め捕り、悪の信仰へと引きずり込む狂気の勧誘だった。

 だが——男児の胸の中に残されていた純粋な強さが、その甘い罠を撥ね退けた。

「……嫌だっ!!」

男児は幼い全身の力を振り絞り、才子の胸を小さな手で力任せに押し返した。涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて叫ぶ。

「嫌だっ! 僕はそんな奴の言うことなんか聞かないっ!! お前の言うことなんか聞くもんか!! オール・フォー・ワンなんか……ヒーローに倒されるんだッ!!」

 幼子の無垢な叫び。

 ——その瞬間。

 才子の顔から、慈愛の微笑みが一切の痕跡を残さず消え去った。

 白銀の瞳から光が失われ、ただの無機質で底知れない「虚無」へと塗り替えられる。彼女にとって、絶対なる恩師・オール・フォー・ワンへの侮辱——それだけは、この世の何物であっても決して許されざる最大の逆鱗だった。

「……そう」

 鈴を転がすような声から、一切の感情の温度が失われていた。

「……私を叩いた無礼なら、許してあげてもよかったけれど。……先生への侮辱は、絶対にダメね」

才子の左手の人差し指がピクリと動いた次の瞬間、才子の抱擁から逃れようともがいていた男児の意思とは無関係に、サイコキネシスの不可視の力がその右腕を無理やり頭上へと跳ね上げる。

上空の壁に縫い付けられている雪愛は、才子のその異様な指の動きを目にし、彼女が次に何をしようとしているのかを察知した。顔から血の気が完全に引いていく。

(だめ……ッ! あんな小さな子が腕を折られたらッ!!)

 絶望的な拘束下、激痛で朦朧とする意識の中で、雪愛のプロヒーローとしての本能が警鐘を鳴らした。自分は動けない。力でも勝てない。ならば——どうやってあの子から才子の意識を逸らす?

雪愛は唇を噛みちぎるほど強く噛み締めて、冷酷な魔女の最大の禁忌へと自ら飛び込む決断をした。自分がどうなろうと構わない。この言葉を口にすれば、才子の敵意の牙がすべて自分一人へと向けられることを理解した上での、命を賭した『挑発』だった。

「やめて才子ちゃん!!」

 凄惨な体育館に、雪愛叫びが響き渡る

「私を恨んでいるんでしょう!? だったらその子じゃなく、私を壊せばいいじゃない!! だからお願い……やめて、才子ちゃん!!」

 あえて何度も連呼した、かつての愛称。

 ——ピキリ、と。

 宙に浮く男児へ向けられていた才子の左手がピタリと止まった。

 ゆっくりと、首が機械のように旋回する。白銀の瞳の奥で揺らめく殺意の炎が、凄まじい密度の黒い毒気となって雪愛を射抜いた。

「……私をその名で呼ぶなと、何度言わせるのかしら?」

 狙い通り、才子の苛烈な憎悪のすべてが自分へと向いたことを確信し、雪愛は痛痛しく歪んだ表情のまま、血と汗に濡れた顔で必死に訴えかけた。

「……ごめんなさい! もう呼ばないから! お願い、その子を放して! 折るなら、私を……私の腕を折って!!」

 涙と鼻水で顔を汚し、己の身を盾にして幼子の命を乞うプロヒーローの姿。だが才子は雪愛のその言葉の裏にある「子どもを庇うための意図的な挑発」を見抜いていた。自分を怒らせて矛先を逸らそうとした、ヒーロー特有の傲慢で惨めな自己犠牲。

それが、才子の神経を一層不快に逆撫でした。

「ふふ……自分を犠牲にして子どもを助ける、立派なヒーロー様のつもりかしら?」

 才子は冷酷な嘲笑を浮かべると、宙吊りにした男児をスノーホワイトの至近距離へと引き寄せて左手の親指と人差し指を静かにひねり、男児の右腕を、人体としてあり得ない方向へとグニャリと折り曲げた。

スノーホワイトの耳に嫌な音とともに、男児の口から引きちぎられるような絶叫が破裂する。

「嫌ぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」

 目の前で悲劇を防げなかったことに絶叫する雪愛を見上げ、才子は可憐な首をちょこんと傾げると、鈴を転がすような甘い声で嘲笑うように語りかけた。 

「……私、この子へのお仕置きは右腕だけにしておこうと思っていたのだけれど。私をその名で呼んで煽るなんて……貴女へのお仕置きも必要になってしまったわ」

 才子は左手をさらにゆっくりと持ち上げ、苦痛に泣き叫ぶ男児の左腕までも頭上へと強制的に引き上げる。

「……よく見ておくのね。この子の左腕が壊されるのはすべて貴女のせいよ」

「やめて!……やめてぇぇぇッ!!」

「ほらほら。子どもが泣いているわよ? 助けてあげなさい、ヒーローさん」

 冷酷な白銀の瞳が、惨めに宙吊りにされたプロヒーローを冷たく射抜く。

 次の瞬間、才子の左手の指先が再び静かにねじれ傾き——男児の左腕までもが、右腕と同じく曲がってはいけない角度へと容赦なく折れ曲がった。

またしてもスノーホワイトの耳に無惨な音が響く。

両腕を破壊された男児の痛ましい絶叫と、自分の浅知恵のせいで男児の左腕まで壊してしまったという致命的な罪悪感に苛まれたスノーホワイトの慟哭が、逃げ場のない体育館の天井へと虚しく響き渡るのだった。

 

Part9悪魔の慈悲

「……さて。次は何処が良いのか、選ばせてあげる」

 才子は両腕をへし折られ、苦痛に顔を歪ませる男児をサイコキネシスで自分の元へと引き寄せへ、白銀の瞳に冷ややかな光を宿したまま、鈴を転がすような甘い声で選択肢を突きつける。

「それとも……先ほどオール・フォー・ワン先生へ吐いた非礼を、素直に謝ってくれるかしら? そうしたら……やめてあげてもいいわよ?」

「あ……が……あぁ……っ!!」

だが、幼い子どもにそんな極限状態での選択などできるはずもなかった。男児はただ激痛と恐怖に支配され、顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶことしかできない。

「……はぁ」

 その惨めな叫び声を聞きながら、才子は心底失望したように、小さく薄い唇から溜息を吐き出した。

「……選びもしない、謝りもしない。これはもうだめね。……己の愚かさを後悔しなさい」

 才子の左手の手首が、静かに、そして緩やかに旋回し始める。

「やめてぇぇっ!やめてぇ! お願いだからやめてぇぇぇッ!!」

 頭上高く、壁に貼り付けられた雪愛から狂乱したような制止の声が何度も何度も響き渡る。だが、そんな負け犬の叫びなど、才子の氷のような心を一ミリたりとも動かすことはない。

 ギィ……と、人体からは発してはならない不吉な異音が混じり始め、男児の首がサイコキネシスの力によって、意志とは無関係にじわじわと旋回を始めた。

「待ってくださいっっ!!」

 その時——破砕された体育館の隅、身を寄せ合っていた避難民の人込みから、悲痛な叫びとともに男女二人が飛び出してきた。

二人は一直線に才子の足元へと駆け寄ると、躊躇うことなく冷たい床へ勢いよく膝と額を叩きつけた。あまりにも必死な、なりふり構わぬ土下座だった。

「お願いです……! その子を……その子を許してやってください……っ!!」

 男が床に額を擦り付けながら、声を枯らして懇願する。同時に、隣の女がなりふり構わず才子の漆黒のドレスの裾——その足元へと縋り付いた。 

「命だけは! お願いです、どうかあの子の命だけは助けてください!!」

 突如として足元に転がり込んできた男女。才子は首を少し傾げ、白銀の睫毛を軽く揺らしながら、足元で震える二人を見下ろした。

「……あなたたちは、この子のご両親?」

「そうですっ! この子の親です! あんな言葉、子どもが恐怖でパニックになって口走ってしまっただけなんです! その子に代わって、私たちが……私たちがいくらでも謝りますからっ!!」

「バロネス! どうか……どうかお慈悲を!!」

 男は涙と鼻水で顔を汚しながら、才子の公式な呼び名であるその称号を必死に口にし、平伏し続けた。

 才子は足元で惨めに伏せる夫婦を冷ややかに見つめると、ふと薄い唇の端を小さく持ち上げた。

「……私に懇願するのですか? ——其処の、『ヒーロー』に頼るのではなく?」

 才子の目線が、チラリと上空——壁に無様に張り付けられ、血と涙に濡れているスノーホワイトへと向けられる。

 父親は一瞬だけ上空のプロヒーローを見上げたが、すぐに視線を遮るように強く床へ額を押し付け、悲痛な叫びを上げた。

「あんなヒーローなんて、どうでもいい! 頼りになんかりません! 貴女にお縋りします! バロネス、どうか……どうかお慈悲を!」

 教壇の上で希望を説いていたプロヒーローの存在を、守られるべきはずの民衆自らが「どうでもいい」と切り捨て、悪の支配者へと命乞いをする。 

その瞬間、才子の胸の中に甘やかな愉悦が満ち渡った。

「……そう。この子は、良いご両親を持ちましたね」

才子が左手を軽く翻すと、首を捻られかけていた男児の身体がゆっくりと下降し、父親の目の前の床へと優しく降ろされた。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 父親は両腕の折れた我が子を抱き抱え、何度も何度も床に頭を打ち付けて感謝を述べる。

才子は肩にかけた漆黒のエナメルバッグへ上品に手を伸ばすと、その中から白い帯で留められた100万円の札束をひと掴み、取り出し、それを指先でそっと放すと、100万円の札束はサイコキネシスの力で宙を滑り、父親の目の前へと静かに差し出された。「……その子の治療代の足しにでもなさい」   

そう言葉を残すと、才子は一歩静かに足を引き、高級感あふれるドレスの裾にしがみついていた母親の手を、冷淡な動作で払いのけた。

命を奪う暴力から、一転して差し出された慈悲。そして、どれほど縋り付こうとも決して対等には交わらない、支配者としての冷徹な拒絶。

「あ……あぁ……っ……あぁぁ……」

 壁に押し付けられたまま、その光景のすべてを見下ろしていた雪愛の口から、掠れた嗚咽が漏れ出す。

 子どもは傷つけられ、ヒーローとしての存在価値は民衆自身の手によって完膚なきまでに踏みにじられ、最後はヴィランの気まぐれな金と慈悲によって救われる——。

 自分が信じてきた正義もプロヒーローという誇りも、踏みにじられ、何一つとして誰も救えなかったという残酷すぎる現実に、雪愛はただボロボロと涙を流し、絶望の嗚咽を漏らし続けることしかできなかった。

 

Part10愚かな動画配信

 どんな極限の絶望下であろうとも、再生数と知名度という浅薄な欲望のために動画を撮り続ける愚か者というのは一定数存在する。

 体育館の物陰。ガタガタと全身を震わせながらスマートフォンを向け続けている青年の配信画面には、あまりにもふざけたタイトルが躍っていた。

『【激ヤバ】バロネスエインズワースとスノーホワイトのキャットファイト!? 避難所にヴィラン襲来!』

 ――そして、そこからちょうど一キロメートル離れた小高い丘。

 草むらの中に身を潜め、ノートパソコンの暗緑色の光を見つめていた隠身識の眼鏡の奥で、流れるコメント欄の文字列が静かに映り込んでいた。

『バロネス強すぎるだろ……マジで恐ろしい』

『スノーホワイト……情けない、何もできてねぇじゃん』

『もうだめだぁ、おしまいだぁ……ヒーローなんて誰も助けてくれない』

『俺、今日からオール・フォー・ワンに従うわ』

 世間の混乱と絶望、そして絶対的な悪への屈服。

 画面をスクロールしながら、識の薄い唇から微かに掠れた呼吸が漏れる。

(……タイトルこそ見るに耐えない浅はかさですが。まぁ、ヒーローの信用が完膚なきまでに失墜したのですから、良しとしましょう)

 民衆自らがヒーローを見捨て、魔王の威光にひれ伏す。

 狙い通りの「絶望」が全国へ拡散されたことを確認すると、識は指先を滑らせ、ノートパソコンの画面を動画配信サイトから暗号化された情報モニタリング画面へと手際よく切り替えた。

 黒地に緑色のデータが高速で流れる画面。識の鋭い瞳が、赤く点滅し始めた幾つかのGPS信号と警察無線のデータを捉える。

(もうすぐ到着ね……)

 通信データとGPSの接近速度を瞬時に計算し、到着時刻を割り出した識は、胸元に付けた小型マイクへと静かに口元を近づけた。

「……レディ。お戯れはそのあたりで」

 冷静沈着な声が、通信の電波に乗って一キロ先の体育館へと飛ぶ。

「通報を受けた警察およびプロヒーロー数名が、あと三分で現場へ到着します」

 才子が漆黒のエナメルバッグの紐に繋いでいた小型トランシーバーから、識の淡々とした報告が届いた。

 才子は足元の親子に向けていた視線をゆっくりと外し、白銀の睫毛を静かに伏せた。

「……三分、ね」

 胸元に添えた白く細い指先でトランシーバーのスイッチを静かに切ると、才子はドレスの裾を揺らし、何事もなかったかのように優雅に向き直った。

 

Part11、ヒーローの意地

「ひっく……ぐすっ……」

 血と涙に濡れ、声を殺して絶望の嗚咽を漏らし続けるスノーホワイト——北国雪愛。

才子が優雅に右手の指先を小さく手前に手繰り寄せると、壁に張り付けられていた雪愛の身体が、抗う術もなくふわっと宙を滑り、才子のすぐ目の前まで引き寄せられた。

ボロボロと涙を溢れさせ、鼻を鳴らしながら嗚咽を漏らすその無様な姿。

それを見つめていた才子の脳裏に、ふと遥か昔の記憶が掠めた。

――あれは、まだ二人が幼く、友達になったきっかけの頃。

図書委員の仕事に慣れず、大量の本を前に右往左往していた、頼りなく情けない少女の姿。

目の前ですすり泣くプロヒーローの姿が、かつての哀れな少女の影と完璧に重なり合う。

「……プロヒーローなんて気取っているより、今のあなたのほうが、ずっと魅力的だわ」

才子は鈴を転がすような甘く冷ややかな声で、耳元へ囁きかけた。

「ねぇ……どうかしら? 貴女さえその気になれば、赦してあげてもいいのよ? ……私と一緒に、オール・フォー・ワン先生にお仕えする気はないかしら?貴女と一緒ならいい仕事が出来る気がするの」

悪魔からの甘い誘惑。だが、肉体を打ち砕かれ、精神を泥の中に突き落とされた雪愛の瞳の奥には、消え残った小さな熾火が宿っていた。

涙と血に汚れた唇を震わせ、雪愛は絞り出すような声で、プロヒーローとしての最後の意地を言葉に変える。

「……私は……たとえ殺されても……悪魔には、屈しない……」

その言葉を聞いた瞬間、才子の美貌から一切の温度が消え失せた。

「……そう。残念ね」

冷淡な一言とともに、才子が右手を勢いよく振り下ろす。

――ドォンッ!!

雪愛の身体は猛烈な速度で叩き落とされ、体育館の中央付近のフロアへと激しく叩きつけられた。床板が割れ悲鳴のような破砕音が響き渡る。

それだけに留まらず、才子は見向きもせずに左手を天井へと向けた。

バリバリと音を立てて体育館の天井構造が歪み、巨大な鉄骨の一本が強引にへし折られる。そのまま重力を無視して落下した巨大な鉄の塊が、横たわる雪愛の胴体を押し潰すように、ドスリと重い音を立てて上に落ちた。

「……そこで、おとなしくしてなさい」

才子は一度も振り返ることなく、崩れた正面玄関に向かって優雅に歩みを進めた。

逃げ惑っていた民衆たちが、黒いドレスの悪魔を前にして波が引くように左右へ割れ、道を開ける。才子はそんな哀れな群れを一瞥することもなく、冷たく言い捨てた。

「助けたいなら、好きになさい」

カツン、カツンとヒールの音を響かせ、崩れた玄関から外の朝空へと足を踏み出す。

ふと、才子は何か思い立ったように足を止め、わずかに首だけを傾げて後ろの体育館内へと視線を滑らせた。

そこには、才子が「ヒーローを見捨てた」と思っていた避難民たちが、十人以上集まり、雪愛の体を押し潰している巨大な鉄骨に必死で手をかけ、掛け声とともに持ち上げようとしている姿があった。

「ぐっ……せーのっ!!」

「スノーホワイト、しっかりしろ!!」

その予想外の光景を目にし、才子の完璧な美貌に、ほんのわずかだけ意外そうな色が差した。

だが、それも一瞬のこと。才子はすぐに興味を失ったように冷ややかに息を吐くと、朝靄の残るグラウンドへと静かに歩み去っていった。

Part12その頃の群牙山荘

 群牙山荘上空——重々しい雲が垂れ込め、殺伐とした熱気が大気を焼く最終決戦の最前線。

 漆黒の仮面を被った悪の帝王は、余裕を崩さぬ滑らかな声でエンデヴァーへと牙を剥く。

「……彼(長男)への虐待を続けるとは!」

 過去の業を抉り出す冷酷な煽り。エンデヴァーの胸中で真っ赤な炎が爆発的に跳ね上がる。だが、AFOの歪んだ愉悦はそれだけに留まらなかった。

「ところで——君達ももう分かってると思うがね」

 AFOはまるで世間話でもするかのように、悠然と両手を広げてみせた。

「バロネス・エインズワース。彼女は僕の可愛い教え子なんだけど……僕がさっき、緑谷出久君の元に現れた時、彼女は居なかったね? ……何故だと思う? 居ないんなら、彼女は一体どこに居るんだろうね?」

「……!?」

 ホークスの背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。

 分断作戦のターゲットリスト。当然、極悪なサイコキネシスを操るバロネスもまた、いずれかの戦場へと隔離・分断されたはずだった。……だが、思い返せば彼女が特定のワープ領域へ引きずり込まれたという確実な視認報告は、本部に届いていなかった。

(しまっ——!? 追撃の混乱に乗じて、最初からワープの枠を抜けていたのか……!?)

 ホークスが通信機へ指をかけた、その瞬間。

 戦場にいる全ヒーローの通信用インカムに、本部からの悲痛な叫びにも似た緊急通達が爆音で割り込んだ。

『——全ヒーローへ緊急連絡! 重大事態が発生!!』

 ノイズ混じりのオペレーターの声は、激しい動揺で完全に擦り切れていた。

『S市内にバロネス・エインズワースが出現! 避難所に攻撃を開始しました! ……繰り返す、S市に真白才子が出現! さらに——ッ!!』

 

『S市含め……全国十箇所にて、強力な「個性」を持つ潜伏ヴィランが一斉に蜂起! 避難民の防衛ラインが突破されつつあります!!』

 

『防衛戦力が足りない! 近くにいるヒーローは直ちに向かってくれ! 頼む、誰か——ッ!!』

 

 ——バチバチッ!!

 

 通信の向こうから響く市民の悲鳴と崩落音。

 エンデヴァーの目線が、わずかに揺らいだ。

 分断作戦によって戦力は全国の主要戦線へ限界まで分散されている。今、手薄になった地方や避難所に真白才子級の凶悪なヴィランと大規模な暴動を放たれれば、守るべき民衆はなす術もなく虐殺される。

 

(S市!? なぜそんな遠方に……いや、最初から俺たちの分断策を逆手に取り、ヒーローの手が届かない『手薄な場所』を狙い撃ちにする目論見だったのか……!?)

 

 動揺。焦燥。そして、守るべき対象を人質に取られたことによる致命的な隙。

 その空気を過敏に察知したAFOは、仮面の奥で心底悪意に満ちた笑みを深めた。

「おや? 何か不測の事態でも起きたかな?」

 AFOはわざとらしく首を傾げ、宙に浮いたままエンデヴァーとホークスを見下ろす。

「良いのかな、僕にばかりかかりきりで。……このままでは日本は大変だよ?」

 一歩踏み出そうとするエンデヴァーの足が、呪縛に囚われたかのように止まる。目の前の魔王を倒さなければ世界が終わる。だが、今この瞬間にも、真白才子によってS市がそして全国の避難所が血の海へと変えられていく。

 そんなヒーローたちの苦悩と葛藤を味わい尽くすように、AFOは甘く、毒々しい言葉を喉から滑り出させた。

「……まぁ、御子息を見捨てるくらいだから、関係ないかな?」

「貴様ぁぁ!!!!」

 エンデヴァーの全身から、天を突くほどの灼熱の炎が噴き出した。

 愛する家族を、そして無辜の民衆を天秤にかけさせ、踏みにじる悪魔の挑発。絶望的な状況下で、エンデヴァーチームの命をかけた死闘の火蓋が、いよいよ切って落とされた。




つくづく思うのですが私は文章の引き算が致命的に下手なのでしょう
一万字の2話構成にすれば良いものを切り方がわからずに莫大になってしまいました。



スノーホワイトは決して弱くありません、只々相手が悪すぎたんです

因みに十カ所に現れたヴィランで最強はぶっちぎりで才子です


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