とりあえず間を取る感じでR15にしておきます
Part1。他責にしかしない男
夕闇が迫る惨劇のグラウンド。泥と血の匂いが充満する絶望の死角で、男は自撮り棒を握り締め、ニヤニヤと歪んだ下卑た笑みを浮かべながら、音もなく歩みを進めていた。
視線の先にあるのは、中央の最も巨大な鉄の十字架に吊るされ、血と泥に塗れて力なく項垂れている一人の女性ヒーロー——スノーホワイトの姿だった。
(……思えば昔から、この女のことが気に入らなかった)
だらりと垂れ下がった白銀の髪、かつて完璧な優等生として自分たちを見下ろしていたあの佇まいを視界に収めながら、男の胸底で長年くすぶり続けていたドス黒い陰湿な情念が、じわじわと鎌首を持ち上げていく。
男の脳裏に、数年前の不快な記憶が鮮明に蘇る。中学校の卒業式の日だ。教師からも生徒からも一目置かれ、常に完璧な生徒会副会長としてチヤホヤされていたこの北国雪愛に、俺はわざわざ足を運んで声をかけてやった。『俺の女になれよ』てな。
男としては、最大限の情けと好意を伝えてやった。学校の頂点に立つ女を手に入れ、己のプライドを満たすための軽薄な打診。だが——返ってきたのは、男の自尊心を完膚なきまでに粉砕する冷酷な拒絶だった。
(あの時、この女はなんて抜かした? 感謝して頷くどころか……薄汚いゴミでも見るような瞳で俺を見下し、全身から凍りつくような冷気を放って威圧しやがったんだ)
肌を刺す刺烈な寒気と圧倒的な個性の威圧。恐怖で足が竦み、何も言えなくなった男に向かって、彼女は虫ケラでも見るような視線を投げつけ、言い放ったのだ。
『——存在そのものが不快でたまらないの。……二度と、私の前にその汚らわしい面を見せないで』
お高く止まり、自分の存在そのものをゴミのように切り捨てて見下したあの冷酷な声。あの日の屈屈とプライドを粉々に踏みにじられた激痛は、何年経とうとも男の魂に消えない焼印として残り続けていた。
(高校に入ってからもそうだ。風紀委員の腕章を巻きやがったこの女は、まるで俺のことを目の敵にでもしているかのように、どこへ行こうが鬱陶しく首を突っ込んできやがった)
下級生に少しばかりの『金の相談』をしている現場に突如として現れ、正義感を振りかざして割り込んできたこともあったし、さらには同級生の女を強引に体育倉庫へ連れ込み、二人きりで楽しく甘い時間を過ごそうとしていた最中にまで、鍵を叩き壊して踏み込んできたことすらある。
男の記憶の中では、自分の行なった悪行の数々はすべて「ちょっとした相談」や「二人きりで楽しもうとしただけ」という身勝手な言葉にすり替えられている。自分が害をなした被害者のことなど微塵も頭にない。
(クソが……ッ! この女の余計なお世話のせいで、俺が何度停学処分を食らったか分かりやしない……! 俺の青春を台無しにしやがって)
醜い妄執の逆恨みを募らせる男は、過去の出来事を次々に思い起こす
(そして……極めつけは高校三年の時だ『プロヒーロー現役合格』なんていう華々しい功績に肩書きをのっけて、いい気になりやがって。噂じゃ正式な『風紀委員長』に推薦されていたらしいが、ヒーロー活動と学業で多忙を極めるからと、本人は一平委員の立場に留まっていた。だが、蓋を開けてみればどうだ。委員長の職を辞退しておきながら、要領の良さで、役立たずの委員長以上に仕事をこなしてみせた。その結果、校内では誰からともなく彼女を『風紀会長』なんて称える呼び名が定着し、全校生徒から神聖視されやがったそれだけじゃねえ! あの女の威光を笠に着て、下級生の風紀委員のガキどもまで調子に乗って俺を舐めた目で見てきやがったんだ!)
忘れもしない、3年時のあの事件だ。ちょっと服装を崩して廊下を歩いていただけだというのに、下級生の女風紀委員の生意気なガキがしゃしゃり出てきて、えらそうに注意してきやがった。あの『風紀会長』の虎の威を借る狐のくせに、自分が偉くなったと勘違いして調子に乗りやがって。腹が立った俺は、世間の厳しさってやつを骨の髄まで叩き込んでやろうとしてほんの脅しのつもりで指を刃物にしてやったんだ。
——だが、その時だ。突如としてあの女がが姿を現し、間に割り込んできやがったのだ。
『すでにプロヒーローの本免許を取得している』という威光を誇示するように、あの女は躊躇なく個性を発動した。肌を刺す圧倒的な冷気が俺を襲い、手に軽い凍傷を負わされたのだ。
『生徒に怪我をさせただろ!』と俺は学校側に猛抗議してやった。当然だ、プロの資格を持ってる奴が一般生徒を攻撃して傷を負わせたんだからな! だが、学校側の対応はどうだ。俺の被害を一切聞き入れないどころか、下級生への脅迫と暴行未遂を理由に、結局俺のほうに停学処分を下しやがった。
おまけに……停学処分が明けて学校に戻った時、俺を待っていたのは何だ? 仲間だと思ってた連中からハブられ、害虫みたいに避けられる惨めな日々だ。それもこれも、全部あのアバズレが裏で手を回して俺を悪者に仕立て上げたからに決まってるッ!
学校中の注目を集め、いい気になって歩む雪愛の存在そのものが、陰湿な男の自尊心を日々激しく苛み続けていたのだ。
(だが——何より許せなかったのは、あの高校の卒業式の日だッ!)
男の目から、血走った憎悪が迸る。己の人生を決定的に破滅させたあの「最悪の一日」の記憶が、怒りとともに鮮明にフラッシュバックした。
式が始まる前、体育館の裏手で一本のタバコを楽しんでいたところを、運悪くあの女に見咎められた。そのまま職員室へ報告に行こうとする女の背中に向かって、プライドを捨てて頭を下げてやったのだ。
『今日で最後じゃないか、頼むから見逃してくれ! これで報告されたら、俺は卒業式当日に退学になっちまうんだよ!』
この俺がだ。格下の女に頭を下げ、情けなく乞うてやったのだ。それなのに、この女はどうだ。振り返りもせず、ただゴミクズ——いや、道端の害虫でも見るような冷淡な一瞥を投げかけると、何事もなかったかのようにさっさと歩き去ろうとしやがった。
怒りで頭が沸騰した。自分の指先を刃物に変形させる『個性』を発動し、背後から襲いかかって服を切り刻み、裸にして写真を撮り、一生脅して奴隷にしてやろうとした——その瞬間だ。
女は『個性』の冷気すら使うまでもないとばかりに気取りやがって、手慣れた護身術か何かでこちらの腕を取り、無様に地面へ叩きつけて見せたのだ。
ろくに相手にもせず、土埃に汚れた俺を一瞥しただけでそのまま職員室へ向かった。俺はあの女のせいで高校の卒業式当日に退学処分となり、人生を完全に狂わされた。
(……退学になってからの俺の人生は、何をやっても裏目に出続ける最悪の連続だった)
コンビニでバイトを始めれば、ちょっとしたことでグチグチと文句を並べるクソみたいな店長。スーパーの品出しに鞍替えすれば、言いがかりをつけて喧嘩を売ってくる嫌みな客。どいつもこいつも、俺の本当の価値や凄さをちっとも分かりやしない。
業を煮やしてゲーム系の動画配信者に転身してみたものの、チャンネル登録者は10人にすら届かない有様だった。たまにつくコメントといえば、俺の巧みなゲームテクニックに嫉妬したアンチどもの不快な批判ばかり。やってられるなくてすぐに辞めた。
だが、発想を変えてヴィランの悪行を叩きのめす『炎上系配信者』へと路線変更したことで、ようやく風向きが変わり始めた。再生数は伸び、コメント欄も盛り上がり、ようやく俺の時代が来ると確信した——その矢先だ。
あのオール・フォー・ワンが脱獄し、世の中はパニックと混沌に包まれた。そして俺自身も、街に溢れかえった『ダツゴク』とかいう凶悪犯の連中に目をつけられ、返り討ちにあって半殺しにされるという憂き目に遭った。
どん底まで叩き落され、この世のすべてを呪っていたまさにその時だった。自宅のベッドで恨み言を呟きながら眺めていたスマホの画面。たまたま目に入ったのが、あの有名配信者・テツロウが『ノーブルレディ』へ突撃インタビューを敢行している狂乱の生放送映像だった。
(……画面の隅に映った光景を見た瞬間、俺は歓喜で震えた
。神様って奴は本当に存在するんだと、心の底から確信したね)
画面の中で、鉄の十字架に惨めに縛り付けられ、血と泥に塗れて無残に曝されていた女。かつて自分を見下し、人生を狂わせた風紀会長、北国雪愛
(あの高慢ちきな北国雪愛が、無様に磔にされてやがったんだ。動画で雪愛の姿を確認した瞬間、俺の頭の中に最高のアイデアが打ち上がった)
俺は即座に行動を起こした。スマートフォンを握り締め、荒れ狂う思考のままに『緊急生配信』のセンセーショナルな予告タイトルを打ち込んでネットへ放流したのだ。
『【神回】若手人気ヒーロー・スノーホワイトのストリップショー生配信』
狙いは完璧だった。
今やネット全体がテツロウの突撃配信によって社会現象レベルの熱狂と狂騒に包まれている。検索トレンドも、アルゴリズムも、人々の関心もすべてがこのグラウンドの惨劇に集中していた。テツロウが燃やし上がらせたその巨大な炎に乗っかり、さらにはノーブルレディの「同志」発言によって理性のタガが外れた数百万の野次馬どもを丸ごとジャックしてやる。
テツロウの配信からあふれ出た無数の野次馬や、より過激で醜悪な見せものを求めるネットの群衆が、俺の仕掛けた極上のエサへと一気に群がり、雪崩を打って押し寄せてきた。
案の定、配信開始のカウントダウンが進むにつれ、待機画面の数字はけたたましい勢いで跳ね上がり、あっという間に10万人を超える人間が俺の配信を固唾をのんで待つ事態になった。
(10万人だぞ!? 登録者10人すら届かなかった俺の配信に、10万人の観客が群がってんだ! これで俺の成功は確定した。俺の価値を理解しなかった世間も、バカにしてきた奴らも、全員俺の前にひれ伏すんだよ……!)
肥大化した承認欲求と狂乱のなかで、刃物に変形させた指先をギラつかせながら、男はゆっくりと十字架の足元へと踏み込んだ。
テツロウのカメラ越しではなく、目の前に吊るされた「高嶺の花」の惨めな姿。
かつて自分を冷酷に見下し、人生を狂わせた風紀会長が、いまや自分の指先一つで世界中に裸を晒されようとしている。
悲惨に傷つき、息も絶え絶えに吊るされたかつての風紀会長を見下ろしながら、男の口元が心底ねっとりとした愉悦とともにニヤリと吊り上がった。
スマホのカメラを自撮り棒で固定し、配信開始のボタンを叩き込む。
男はポケットから手を取り出し、どこまでも軽薄で、嘲笑と醜悪な欲望に満ちた声を雪愛の耳元へ向けた。
「よぉ……スノーホワイトさん。まぁ俺には『風紀会長』の、方が馴染み深いけどな」
Part2、最低最悪な提案
血と泥に汚れ、首を垂れていた視界の中で、泥を踏みつける耳障りな足音がピタリと止まった。
耳元へと滑り込んできたのは、忘れるはずもない——思い出すだけで吐き気を催す、あの不快極まる軽薄な声。
「よぉ……スノーホワイトさん。まぁ俺には『風紀会長』の、方が馴染み深いけどな」
「……っ!」
雪愛は力なく項垂れていた首をゆっくりと持ち上げた。
ぼやける視界の先に立ち、自撮り棒に固定したスマートフォンを手にニタニタと不気味な歪んだ笑みを浮かべていたのは——二度とこの視界に入れたくもなかった、あの日々の不快な記憶そのものだった。
自らの過ちを省みることもなく、他者を傷つけ、踏みにじり、注意されれば逆恨みで暴れるだけだった最低の男。
(……こいつっ!)
胸の底から、冷や汗をすべて吹き飛ばすほどの激しい不快感と憎悪が沸き立つ。
「……貴方……」
かすれ切った声とともに、雪愛の瞳の奥で青白い冷たい光が燃え上がり、目の前の男を射殺さんばかりの鋭い眼光で睨み据えた。
だが、男はその氷のように冷たい視線を前にしても、反省する素振りも怯える素振りすら微塵も見せなかった。
それどころか、かつて自分を一瞥で叩き伏せた完璧な風紀会長が、いまや傷つき、泥に塗れ、逃げ場のない十字架に晒されているという現実に、どこまでも品性に欠ける歪んだ全能感を加速させていく。
「ははっ、いい目だな。相変わらずお高く止まりやがって……だがよぉ、お前のおかげで俺は高校を追い出されてから、本当にろくなことがなかったんだよ」
己の犯した悪行や身勝手な振る舞いはすべて棚に上げ、男は自己憐憫に満ちた被害者ぶった言葉を、ペラペラと一方的に吐き散らし始めた。
「バイトをやればクソみたいな店長、客は嫌みな奴ばかり、配信を始めればアンチどもが俺の才能を批判して邪魔してくる……。俺の人生がこんな惨めな目になり続けてきたのはな、全部お前が俺の始まりを狂わせたからなんだよ」
泥を擦りつけるような身勝手すぎる言いがかり。雪愛は弁明としての言葉を交わす価値も認められずに、ただ無言でその底知れぬ見下しの瞳を男へ向け続ける。
(……乗せられちゃダメ。)
呼吸を乱すことすら必死に耐え、男の動向と周囲の状況を研ぎ澄まされた思考で観察し続ける。
だが、その冷淡な侮蔑の視線すらも、今の男にとっては極上の酒の肴でしかなかった。男はスマホの画面に踊る「10万人突破」の数字を誇らしげに雪愛に見せつけるように掲げると、下卑た舌なめずりをしながら、耳元へさらに顔を近づけて囁いた。
「だからよ……今日はお前に、俺の狂わされた人生の分までたっぷり『償って』もらおうと思ってさ」
男はポケットから指先を刃物へと変形させた右手を取り出し、チカチカと肉を削ぐような金属光沢をギラつかせた。
「緊急生配信の超目玉企画に、ゲスト出演してもらうぜ。……題して『若手人気ヒーロー・スノーホワイトのストリップショー』だ。」
Part3女性の尊厳とヒーローの矜持
男は狂気に満ちた下卑た笑みを浮かべたまま、スマートフォンの画面をぐるりと裏返し、青白い光を雪愛の至近距離へと突きつけてきた。
「見ろよ。みんなお前に期待してるぜ……まあ、綺麗事を並べる奴らとで賛否は半々ってところだがな」
勝ち誇ったように言い放つ男の指先の下、暴走する激流のように目にも留まらぬ速度でスクロールしていくコメントの群れ。雪愛は不本意ながらも、そこに映し出される文字へ鋭い視線を走らせた。
user_8821: スノーホワイトのフィギュア買った甲斐があったわwww超楽しみwww
Justice_Hero: おいマジでやめろ!! 通報したからな!!
K_yamada: 俺もスノーホワイトのフィギュア持ってるけどこれは流石に違うだろ……最低すぎる
匿名希望:頼むから誰か早く助けてくれ
V_fanatic: 一万円払ってでも見たい! 早く脱がせろ頼む!!
Snow_guard: 磔にされて動けない女を辱めるなんて恥をしれ!!
9999_zero: 通報完了。配信運営も早く枠BANしろよ
miso_soup: これマジの犯罪じゃん……見てる俺たちも同罪になるぞ離脱しろ
guest_404: きたあああああ!! スノーホワイト終了のおしらせwww
hero_otaku: スノーホワイトさん負けないでくれ……!!
bb_1122: 人の尊厳踏みにじって何が配信者だ胸糞悪い
tatami_01: アカンこれマジなやつや……運営仕事しろ
男は「半々だ」などと己に都合よく膨れ上がった妄想を口にしていたが、雪愛の冴え渡る観察眼は瞬時にその本質を見抜いていた。
下劣な欲望や野次馬根性に狂喜しているのは、声が大きいだけのほんの一握り——せいぜい三割程度。残りの七割近くを占めていたのは、この卑劣な狂行に対する激しい憤り、通報の報告、そして危機に瀕した自分を案じる悲痛な叫びだった。
(……まだ、世界は狂いきってなんかいない……)
オール・フォー・ワンの脱獄、社会の崩壊、そしてノーブルレディによる圧倒的な暴力。暗闇に落ちかけていた雪愛の胸の奥底に、静かで温かい救いが広がっていく。
自分が命を懸けて守ってきた「社会」は、決してこの男のように腐り切ってなどいなかった。人々の胸に灯る「良識」と「正義」はまだ死んでいなかったのだ。
画面の向こうで自分を案じる見知らぬ人々の理性に触れ、折れかけていた胸の奥で誇りの焔が静かに息を吹き返す。
(ありがとう……。私たちが守ってきたものは、間違っていなかった……!)
絶望の淵で人々の声に勇気を与えられた雪愛の思考は、しかし、プロヒーローとしての冷徹なまでに冴え渡る計算へと即座に切り替わった。
(——落ち着いて、雪愛。ここで感情に任せて動いちゃダメ……)
内側からの氷柱の膨張によって、手首と身体を縛り上げる針金はすでに断ち切られている。冷気による偽装固定のおかげで外見上はガチガチの拘束に見えているが、力を込めて弾き飛ばせばいつでも跳び出せる状態にある。
いま目の前で下卑た笑みを浮かべるこの男一人を叩きのめすだけなら、今この瞬間にでも可能だ。だが、男の更に後ろにはあの才子が控え、識という狙撃手も合流しつつある。
(ここで私が拘束を解いて、この男を撃退しても才子ちゃんに厳重に拘束されて致命的な措置を施される……!そうなったら、今度こそ本当に逃げ場も、勝ち目もなくなってしまう)
たった一度きり、才子本人が完全に油断する究極の「隙」を突いて肉薄できる最後の切り札。それを、この下劣な男相手の怒りに任せて無駄に切るわけにはいかないのだ。
(耐えるのよ、北国雪愛……! どんな辱めを受けても……爪を隠して耐えて、本気の『一撃』を叩き込めるその一瞬が来るまで、死んでも耐え抜いてみせる……!)
屈辱と拘束の痛みに歯を食いしばり、雪愛は溢れ出る怒りも脱出の兆候もすべて完璧に隠し通す。
「……何がおかしいの」
垂れ下がった白銀の髪の隙間から、雪愛は静かに男を睨みつけた。
絶望に打ちひしがれた犠牲者の振りを装いながらも、その瞳には、どんな不当な暴力にも決して屈することのないプロヒーローとしての氷の覚悟が宿っていた。
Part4卑劣な男と下劣な男
テツロウの「突撃インタビュー」という大仕事は、一通り終わっていた。
本来なら、周囲を囲む怪しげなヴィランや野次馬の視線から逃れ、避難所として使われている体育館へと戻るべきだった。だが——テツロウの足は、どうにも体育館へとは向からなかった。
一度味わってしまった爆発的な閲覧数と、世界中から注目されているという麻薬のような万能感。そして何より、「歴史的危機の現場に自分はいる」という異常な興奮と、現場の中央で圧倒的な存在感を放つノーブルレディ——才子の側にいることへの、正体不明の安堵感と好奇心が足を止めさせていたのだ。
だが——その野次馬としての高揚感は、自撮り棒を掲げた男の不快な声によって一気に冷や水へと変わる。
「『若手人気ヒーロー・スノーホワイトのストリップショー』だ」
男が叫んだそのセンセーショナルで下劣極まりない企画名が、ネットの海をリアルタイムで汚染していく。10万人を超える観客が群がるスマホの画面をチラつかせ、ねっとりとした下卑た笑みを浮かべる男の姿に、テツロウの背筋を不快な冷や汗が伝った。
(おいおい……いくら何でも、あれはまずいだろ。胸糞悪すぎる……………いや、俺だって今朝、スノーホワイトが打ちのめされる凄惨な現場を『バロネスとスノーホワイトのキャットファイト』なんて煽りタイトルで配信したさ。でも……でもあれは勝負の決着の延長だろ!?)
己のやった倫理外れの配信を棚に上げ、テツロウの脳内で都合のいい「一線」が引き直される。暴力の鑑賞と、裸を晒し上げる性的蹂躙。そこには、明確に越えてはならない一線が存在するように思えたのだ。
(止めなきゃ……いや、でもあいつ、指を刃物に変える『個性』だぞ? 刺激して俺に刃先を向けられたら溜まったもんじゃない……)
男の狂気と凶暴性が怖くて、とても自分から直接制止に入る度胸などない。一歩踏み出せば自分が標的になりかねない恐怖で、テツロウはその場から動くことができなかった。
日和り、保身に走るテツロウの視線が向かったのは、豪華な革張りの応接椅子に深く腰掛け、磁器のカップから立ち上る湯気を優雅に楽しむ才子の姿だった。
その重厚な革張り椅子に身を委ねる圧倒的なカリスマ性と、気品すら漂わせる佇まい。テツロウは己の恐怖と無力さを誤魔化すように、才子の矜持や情を揺さぶって代わりに止めさせようと、おそるおそる腰をかがめて声をかけた。
「……あの、レディ。黙って見ていてよろしいんですか?」
才子は優雅にティーカップを口元から離し、薄い唇に可憐な笑みを浮かべたまま、静かにテツロウへと視線を向けた。
「何のことかしら? 」
「何のことって……あの男ですよ! あいつがスノーホワイトにやろうとしている配信です! 確かにヒーローとヴィランは敵同士かもしれませんけれど……同じ『女性』として、あんな下劣な方法で全世界の前で辱められるのを、貴女は黙って見ていらっしゃるつもりなんですか……!?」
まるで同じ女性としての尊厳を守るべきだと義憤に駆られた正義漢のような言い草。自分では男を止める勇気がないからこそ、丁寧な言葉遣いの裏で才子のプライドや立場を利用して思い通りに動かそうとする、透けて見える浅はかな水向け。
だが、才子は、そんなテツロウの薄っぺらい打算など、最初からすべてお見通しだった。
カチャリ、とティーカップをソーサーに置く小さな磁器の音が響く。
革張り椅子の背もたれにゆったりと体を預けたまま、才子は憐れみすら含んだ可憐な笑みを崩さず、まるで道端の虫ケラでも見るかのような、氷のように冷ややかな声を紡いだ。
「テツロウ……貴方、自分ができないことを私にやらせるの?」
「っ!」
凛とした一言が、鋭い刃となってテツロウの喉元を突き穿つ。
「自分が傷つく恐怖からは逃げ出し、安全な高みに立ったまま、他人の倫理観を煽って自分の思い通りに動かそうとする……。朝の配信で煽り立てていた時と、何一つ変わってないわね」
手元で完全に自分の底浅い卑怯さを見抜かれ、テツロウは喉を鳴らして一歩後ずさることしかできない。才子はフッと小さく鼻で笑うと、もはや彼など視界に入っていないかのように冷たく興味を失ってみせた。
「観客なら観客らしく、黙って惨劇を特等席で見物していなさい。……それとも、あなたも出演者になりたいの?」
「い、いえ……申し訳ありません……っ」
背筋に氷を突っ込まれたような恐怖に射抜かれ、テツロウは顔を真っ赤にし、青ざめた表情で引き下がるしかなかった。男を止めることもできず、才子には心底蔑まれ、己の無力さと卑屈さだけが浮き彫りになる中で、男の凶刃は刻一刻とスノーホワイトへと迫っていくのだった。
Part5愚か者の末路
ピロン、とスマートフォンからけたたましい効果音が響き渡り、画面上に鮮やかな漆黒と金色の枠で彩られた高額投げ銭——『スーパーチャット:100,000円』の通知が大きくカットインした。
『脱がせろ!! 応援料だ!!』
『神配信確定! 早くやってくれ!!』
コメント欄が狂喜の叫びで埋め尽くされ、通知の金額を凝視した男の顔が、歓喜と興奮で激しく歪んだ。
「ひょ、ヒョヒョッ……! 10万!? 10万入ったぞ!! サンキューなリスナー共! よーし、期待に応えて……いよいよ始めまーす!」
男の醜悪な欲望と万能感が、十万円という現金によって極限まで跳ね上がる。自撮り棒を握り直し、これ見よがしにカメラへ向かって下卑た笑みを浮かべると、わざと焦らすようにゆっくりとスノーホワイトへと歩み寄った。その指先は鋭利な刃物に変形したまま、怪しい光を放っている。
(耐えるのよ! どんな屈辱を受けても、チャンスが来るまで!)
雪愛は激しく跳ね上がる鼓動を必死に抑え込み、身動きの取れない枷の中で、せめて心だけは絶対に折るまいと男を冷たく睨み据え続けた。
その時、画面上に新たな赤色の高額スパチャが連続で躍り出た。
V_fanatic: 『【10,000円】ゆっくり脱がすところを楽しみたいから個性は使わないで生手でやってくれ』
hero_otaku: 『【5,000円】お願いだからやめてくれ!スノーホワイトさんを辱めないでくれ!』
男は両方のスパチャをチラリと見比べると、ニタついた口元を歪め、指先の刃物をチチッと音を立てて元の皮膚へと戻してみせた。
「へへッ、1万くれた『V_fanatic』さんよぉ、分かってるねぇ! 俺はリスナー思いの優しい配信者だからよ、リスナー様の『お願い』は断れねぇんだよ、オッケー、ゆっくり生手で楽しませてやるぜ!」
すっかり「サービス精神旺盛な人気配信者」気取りで鼻腔を膨らませる男。だがその直後、男の眼光は「やめてくれ」と切実に訴えかけてきた『hero_otaku』のコメントを捉え、心底不快そうに唾を吐き捨てた。
「あぁん!? なんだこの『hero_otaku』ってクソアンチはよぉ! 『お願いだからやめてくれ』だぁ!? ふざけんな、金払えば何でも要求が通ると思うなよボケが!! 配信の邪魔すんな!!」
わずか数秒前に「リスナーのお願いは断れない」と宣った舌の根も乾かぬうちに、自分に都合の悪いお願いには「身勝手な要求」と一蹴して罵倒する。あまりにも目も当てられないダブルスタンダードをドヤ顔で曝け出し、男は画面に向かって唾を飛ばしながら勝ち誇った。
「俺に指図して良いのは1万以上払った上客だけだ! 貧乏人の説教なんざ聞く耳持たねぇんだよ! よーし……邪魔者も叩き潰したし、本番といこうじゃねぇか!」
自分勝手な理屈で自己正当化を完了させた男の両手が、ねっとりとした不気味な動きで雪愛の首元——白銀の髪に隠れた和装の襟元へと伸びていく。
(……くっ……)
目の前に迫る男の汚らわしい指先。粘着質な吐息。
プロヒーローとしての覚悟をいくら固めていようとも、一人の女性としての本能的な生理的嫌悪と恐怖が、容赦なく雪愛の理性を削り取っていく。
あと数センチ。
指先が、自分の肌と生地の境界線に触れようとしたその瞬間——
「っ……!」
雪愛は耐えきれず、ぎゅっと固く目をつむり、悔しさに唇を噛み締めながら顔を横へ背けてしまった。
そして——ついに、男の冷たい指先が己の襟元に触れた、その感触を覚えた直後のことだった。
「ぎゃあああああああああああああああッ!?!?」
グラウンド全体を震わせるような、凄惨極まりない男の絶叫が夕空に響き渡った。
「え……?」
あまりの叫び声に、雪愛は思わず弾かれたように目を開け、正面を向いた。
視界に飛び込んできたのは、あまりにも異様で、凄惨な光景だった。
「ひぃっ、あぎゃあああッ!? 手が、俺の手がぁぁぁッ!!」
男は自撮り棒もスマホも泥の中に叩き落とし、地面に膝をついて狂ったようにのたうち回っていた。
雪愛の襟に触れようとしていたその両腕は——まるで不可視の巨大な万力で強烈に挟み潰されたかのように、左右の手首と腕が磁石のごとく強固にへばりつき、肉体そのものを容赦なく破壊していく。『ミチミチミチッ』『メリメリッ』という骨と肉が重機で叩き潰されるような生々しい不気味な音が響き渡り、両腕は原形を留めないほど無残にひしゃげ、皮膚の下でドス黒い血が急速に鬱血していく。
「ヒッ……あガっ、お、俺の……腕がぁぁぁッ!?」
激痛に泡を吹き、涙と鼻水を撒き散らして絶叫する男。
その背景、豪奢な革張り椅子に深く腰掛けたままの才子が、背中越しに冷ややかな瞳で男を見下ろしていた。
黒い絹手袋に包まれた才子の左手。それがまるで小さなハエを指先で握り潰すかのように、空中でキュッと強く固く握りしめられ、徹底的な侮蔑を込めて告げられた「下劣なハエが……」
「あ……あぐぁぁッ……! 俺の……俺の腕がぁぁぁッ!!」
骨を粉砕された両腕を抱え、泥にまみれて絶叫する男。そのすぐ傍ら、泥の中に無惨に叩き落とされたスマートフォンからは、なおも青白い光が漏れ出し、猛烈な速度でコメントの濁流を吐き出し続けていた。
画面に踊っていたのは、先ほどまで男を煽り立て、金を出していた群衆による身勝手な罵詈雑言と、劇的な逆転に対する狂喜乱舞だった。
user_8821: おい10万返せよクソ配信者!! 何も始まってねぇだろ!!
V_fanatic: ふざけんな金をドブに捨てさせたな詐欺師が!! 返金しろ返金!!
tatami_01: ザマァァァァwwww自業自得すぎて草wwww
miso_soup: ノーブルレディ様神すぎるwwwハエ扱い最高www
guest_404: 結局何もできずに腕潰されて終わりかよ不甲斐ねえwww
Justice_Hero: スノーホワイトさん無事で良かった……! 本当に良かった……!!
hero_otaku: 助かった……! まじで耐え切ったスノーホワイトさん凄すぎる!!
K_yamada: ざまぁみろ犯罪者! そのまま一生刑務所入ってろ!!
Snow_guard: 良かった……無事だ……神様ありがとう……!!
bb_1122: 欲望に狂ったバカの無惨な末路wwwメシうまwww
期待外れの結末に腹を立てて「金を返せ」と暴言を吐き散らす者、自業自得な無残な姿を「ザマァ」と嘲笑する者、
間一髪で無事だった雪愛の安全を涙ながらに喜ぶ声。
そして——
ピコン、という機械的な無機質な電子音とともに、激流のように流れていたコメントがぴたりと静止した。
画面中央にデカデカと表示されたのは、赤く太いシステム警告の文字。
『【利用規約違反】この配信アカウントは過激な暴力および脅迫行為が確認されたため、無期限の利用停止となりました。』
暗転する画面。
10万人の観客も、跳ね上がっていた再生数も、栄光の全能感も——すべては一瞬にして漆黒の闇の中へと消え去った。
「ひ……ひぃ……っ、BAN……? 俺のチャンネルが……俺の10万人が……ッ!?」
両腕の激痛と、命より大切だった承認欲求の崩壊。
泥にまみれて漆黒の画面を凝視する男の目から、ダラダラと惨めな涙と鼻水が溢れ出す。
「嘘だ……嘘だろ……! 俺の……俺の成功が……俺の天下がぁぁぁッ!!」
かつて高校時代に雪愛を逆恨みし、世間を恨み、己の過ちから目を背け続けた男の「最後の悪あがき」は、何一つ残らず、あまりにも無惨な失意と嘲笑の中で完全な終焉を迎えたのだった。
嘘だ……嘘だろ……! 返せ! 俺の成功を返せぇぇぇッ!! ああああッ、腕が、チャンネルが、俺の天下がぁぁぁッ!! 痛い痛い痛い、助けてくれぇぇぇッ!!」
泥を捏ねくり回しながら、パニックと惨めな叫び声をグラウンド全体に撒き散らす男。
その耳を刺すような見苦しい喚き声に、革張り椅子に腰掛ける才子は心底不快そうに眉をひそめた。
(——うるさいわね。どこまでも私を苛つかせる男…)
才子にとって、男の挫折も、絶望も、そして生死すらもどうでもよかった。
死んだら死んだでゴミがひとつ片付くだけ。生きていようが死んでいようが、彼女の心には波風ひとつ立つことはない。
ただただ、耳障りな雑音が自分の空間を汚していることだけが許せなかった。
才子は優雅に添えていた左手を、煩わしそうに横へ一振りしてみせた。
「ひがッ!?」
男の体がまるで蹴飛ばされた空き缶のように宙へ弾き飛ばされ、そのまま一直線に、十数メートル先にある校舎の強固な外壁へと激突する。
『ゴガァンッ!!』
凄まじい衝撃音とともに壁面に亀裂が走り、男はコンクリートへ打ち付けられた反動で、だらりと糸の切れた人形のように地面の泥の中へ落っこちた。
「…………」
校舎の壁を背にして崩れ落ちた男は、ピクピクと身体を痙攣させたのち、白目を剥いて完全に意識を失った。
絶叫と喚き声はぴたりと止み、グラウンドに再び重苦しい静寂が戻る。
(……これで少しは静かになったわ)
地獄のような狂乱が唐突な静寂によって断ち切られたのを前に、雪愛は強張っていた全身の力をわずかに抜いた。
(助かった……の……?)
悪夢のような辱めの脅威が一瞬にして去ったという安堵。
そして何より、男の暴挙を圧倒的な暴力で粉砕したのが、他ならぬ才子であったという事実。
雪愛は血と泥に汚れた顔をゆっくりと上げ、革張りの応接椅子に優雅に腰掛ける才子の背中へと視線を向けた。己を打ちのめし、絶望の渦中に叩き落とした元凶。それなのに、間一髪のところで自分の尊厳を護る形になったという事実の混濁に、雪愛の唇がかすかに震える。
「……あり、が……」
かすれ切った声で、無意識のうちに感謝の言葉が喉元まで出かけた——その瞬間。
(……つ、……っ)
雪愛の思考が、氷のような冷や水で一気に殴りつけられたように冴え渡る。
(……いいえ。違う……違うわ…)
言いかけた言葉を力任せに飲み込み、雪愛は激しい自己嫌悪とともに奥歯を強く噛み締めた。
才子が自分を護るために動いたわけなど、ハナからあるはずがなかったのだ。
彼女が動いたのは、ただ単に自分の目の前で不快で品性のない「雑音」を撒き散らされたからに過ぎない。あるいは、自分という獲物をこんな下劣な男に横取りされたり、安易に傷つけられたりすることに対する嫌悪感、それ以上でも、それ以下でもないのだ。
(勘違いしちゃダメ。今の才子ちゃんはどこまでもヴィランで、私の敵! 私に救いを与えるつもりなんて、微塵もない……)
自分の甘さを心の中で激しく叱責する。才子は依然として自分を縛り付け、この惨惨たる状況を作り出している元凶そのものなのだから。
男の襲来という不測の事態で、精神的に疲弊し、身体には激しい疲労感が重くのしかかっていた。
雪愛は悔しさと脱力感に苛まれながら、諦めたかのように力尽きた様子で、再び深々と首を垂れて項垂れてみせた。
(……でも、これで邪魔者は排除された……)
項垂れた白銀の髪の陰で、雪愛の青い瞳は静かに、そして鋭く光を宿し直す。
男という不確定要素が消え去り、才子もまた下劣なハエを片付けたことでわずかに気を緩めている。絶望の犠牲者を完璧に演じ切りながら、雪愛は、集中を静かに研ぎ澄まし切り札を切る時を待ち続ける。
Part6才子の真意
実際、北国雪愛の考察は当たっていた。
才子が男の腕を躊躇なく握り潰したのは、スノーホワイトを辱めから救おうという優しさや同情などでは、断じてない。
言うなれば、スノーホワイトという存在は「初任給で父親のオール・フォー・ワンへ贈るために買った、特別なネクタイ」のようなものだ。そして彼女が身に纏う和装は、その至高の品を念入りに包み込んだ美しい包装紙に他ならない。
いずれ敬愛する父へと捧げるべき極上の貢ぎ物。その丹精込めて包まれた品を、あんな下劣な輩が泥まみれの汚い手で勝手に剥がそうとした——才子にとって、男の行いはただそれだけの、到底許しがたい暴挙に過ぎなかったのである。
】
静寂を取り戻したグラウンドで、才子は磁器のカップにわずかに残っていた紅茶へと静かに視線を落とした。
男が撒き散らした醜悪な雑音はすでに消え去り、今やこの場を支配しているのは優雅で冷徹な支配者の息遣いだけだった。
ゴールデンアワー
才子は黒い絹手袋に包まれた指先で持ち手を優雅に支えると、そっとまぶたを閉じ、ゆっくりとカップを傾けた。
口内に広がっていくのは、厳選された茶葉が醸し出す重厚で芳醇な香りと、深く上品な渋み、そして仄かな甘香の余韻。外気で冷えかけながらもなお残る温もりと風味のすべてを、舌の上で慈しむように確かめ、静かに喉の奥へと滑らせていく。
(……今よっ!!)
鉄の十字架に惨めに磔にされていたスノーホワイトの全身に、爆発的な緊迫が走る。
才子が両目を閉じ、最後の一滴を味わうために意識を集中させている——まさにこの瞬間こそ、最初で最後の好機。身体を縛りつける拘束に抗い、縛めを引き千切らんと歯を食いしばった。
しかし——
カチャリ、と繊細な磁器の音とともに、才子がソーサーの上にカップを置いたその瞬間。
「ただいま到着いたしました」
背後から滑り込むように響いた、抑揚のない静謐な声。
スノーホワイトの全身が、ピタリと固まった。
解き放とうとした全身の強張りを、土壇場で必死に押し殺す。冷や汗が頬を伝い、傷口を濡らした。
いつの間にか才子のすぐ隣に佇んでいたのは、隠身識。
一切の足音も気配もなく、まるで最初からそこに影として存在していたかのように立ち現れた彼女の登場に、スノーホワイトは奇襲を中止せざるを得なかった。
才子は応接椅子の背もたれにゆったりと身を預けたまま、可憐な笑みをたたえて微かに振り返る。
「早かったのね」
才子へ深々と頭を垂れていた識は、言葉を返す際、視線だけでチラリと十字架に拘束されているスノーホワイトの姿を見下ろした。
鋭い観察眼を持つ識の眼をもってしても、密かにスノーホワイトの拘束が緩み始めているという決定的な違和感にまでは気づくことはできなかった。ただ、絶望のなかで身を強張らせた微細な体勢の揺らぎが見えただけに過ぎず、彼女にはそれが「捕らわれた獲物の哀れな悪あがき」にしか映らなかったのだ。
(……無駄な足掻きを)
口にする価値すらないと鼻で笑うように切り捨てると、識は淡々と才子の問いに応じた。
「……はい。封鎖線が、ほとんど機能していませんでしたので」
警察やヒーローが周囲に敷いていたはずの警戒網は、押し寄せたヴィランや荒れ狂う自警団の手によって力ずくで食い破られ、半ば機能不全に陥っていた。
そんな崩壊した現場の混乱に乗じて、自身の『個性』——『デッドスポット』で監視の死角を容易く通り抜けてきた識にとって、そんな薄っぺらな封鎖など何の意味もなさなかったのだ。
「そう」
短く、だがすべてを肯定するような一言。才子は満足げに目を細めると、ゆっくりと視線を前方へと戻した才子は、世界を金色に染め上げる黄金時間——ゴールデンアワーの圧倒的な美しさにふっと目を細めた。
地平線の彼方へと落ちてゆく沈む夕日の、最後の一筋の残光。
赤黒く燃え尽きようとするその輝きは、陽の光の下で輝いていた——そして今や崩壊へと向かうヒーロー社会の終焉を静かに暗示しているかのようだった。
「……っ」
その突き刺さるような西日の猛烈な眩しさに耐えかね、スノーホワイトは思わず顔を大きく横へ背けた。
才子はもはや、スノーホワイトが眩しさで顔を背けたことすら気にも留めていない。完全に無力化された哀れな敗者として切り捨て、ただうっとりと沈みゆく夕日を見送っていた。才子の中で、スノーホワイトに対する警戒は完璧にゼロへと瓦解していた。
だが——項垂れ、夕日から顔を背けた白銀の髪の陰で。
スノーホワイトの瞳には、折れることのない静かな氷の意志がなおも脈打っていた。
(……いいえ。まだ……終わってなんていない!)
奇襲の決行は未遂に終わった。だが、「不意打ちに失敗したという事実」を才子たちに悟らせていない以上、自分の切り札はまだ何一つ潰れていない。
識の合流によって状況はより過酷になった。しかし、相手が自分への興味すら失い、警戒を完全に解いた今こそ、本当のチャンスが生まれる。
(失敗していない以上、チャンスは必ずまた来る……! 爪を隠して耐え抜いて……絶対に成功してみせる!……)
ゴールデンアワーの光芒が黄金から深い紫紺へと移ろいゆく中、沈む夕日を見送る才子の絶対的な余裕と、その足元で絶望を装いながら牙を研ぎ続けるスノーホワイト。二人の間の見えない緊迫感は、忍び寄る夜の闇とともに静かに深まっていくのだった。
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