スペシャルサンクスを捧げます
夕刻だった。
高層階の窓一面に、西日が赤く差し込まれた部屋の中、磨かれた床に長い影が伸び、室内の空気は静かすぎるほどに整っていた。
ヒーロー公安委員会上層執務室。
来客用のソファは用意されていたが、その前に立つ男は座らることなく立っていた。
大きな背が窓の光を遮り、金髪が夕焼けを受け燃えるように見えた。
オールマイトは拳を握ったまま、机の向こうの人物を見据えていた。
机の奥で書類に目を落としたまま、先代委員長はペンを置かない。
沈黙が続くなか、先に口を開いたのはオールマイトだった。
「……委員長」
低いが、抑えきれない熱が滲む。
「北海道の少女――真白才子さんの件です」
机の向こうの手が、そこで初めて止まる。
だが視線は上がらない。
「現在の報道の加熱、そして一家への過剰な追及……看過できません」
一歩前へ出る。
「彼女は目の前の命を救った」
声が強くなる。
「ヒーローが間に合わなかった数分を、九歳の少女が埋めたのです、結果として四人が助かった。それをなぜ、社会は責めるのですか」
静かな部屋に、その問いだけが真っ直ぐ響いた。
ようやく委員長が顔を上げる。
老いた目だった、だが感情は薄い。
「……貴方らしい言葉ですな」
淡々とした声だった。
「彼女の行為自体を否定しているわけではありません」
「ならば――」
「問題は」
言葉が被せられる。
「前例になることです」
オールマイトの眉が動く。
委員長は書類のページを動かし、真白才子の記録を開いて公安委員長としての所見を語り出す「九歳の未成年が無免許で高出力個性を使用し、人命救助を成功させた。それを社会が全面的に肯定した場合……明日から全国で、“自分も助けた”という未成年介入が発生する」机上で指が組まれる。
「一件の奇跡を肯定するために、百件の二次事故を容認するわけにはいきません」
理屈として破綻がない。だからこそ沈黙が重い。
だがオールマイトは引かなかった。
「では」
低く言う。
「委員会は何を守っているのです」
「命か」
さらに一歩。
「制度か」
部屋の空気がわずかに張る。
委員長は表情を変えない。
「両方です」
即答だった。
「制度が崩れれば守れる命が減る、感情で前例を許せば、次に制御不能な事故が起きたとき責任を取るのは誰です」
オールマイトの拳に力が入る。
「責任の話ではない!」
珍しく声が強くなる。
「今、全国の子どもが見ている!助けた子が責められる光景をだ!」
夕陽が肩を赤く染める。
「次に同じ場面で、“助けたら叩かれる”と知って誰が手を伸ばせる!」
委員長は静かに目を細めた。
「だからこそ」
わずかに前へ傾く。
「象徴である貴方が必要なのです」
その一言で空気が変わる。
「個人の善意ではなく、制度の中で救う英雄が必要だ。例外を許せば、“平和の象徴”の意味が揺らぐ。」
オールマイトは言葉を失う。
委員長は続けた。
「報道へ介入すれば言論統制と叩かれる、少女一人のために制度全体が傷つけば結果的に守れる命は減る。そんな事を認めることはできない…」
夕陽が机を半分だけ照らしている、部屋の半分はもう影が差していた。
長い沈黙のあと、オールマイトはゆっくり拳を解く。
だが表情は晴れない。
「……ならせめて」
かすれた声。
委員長が見る。
「せめて、あの子が」
一度だけ視線を落とす。
「自分は間違っていたと、そう思わぬように」
静かに顔を上げる。
「誰か一人くらい、伝えるべきだ」
委員長は答えない。
その沈黙が答えだった。
窓の外で、夕日が完全に沈む。
影が満たす部屋をオールマイトは一礼もしないまま背を向けた。
扉へ向かう足取りは重い。
閉まる直前、低い声だけが残る。
「……制度が正しくても幼い心まで守れるとは限らない」
バタン、と。
重厚なオーク材の扉が、静かに閉まった。
オールマイトが残していった圧倒的な熱量と、薄闇だけが取り残された応接室。
そこにはもう、平和の象徴を冷徹に拒絶した公安委員長ではなく、ただの、老いた一人の「人間」が座っていた。
「……」
委員長はしばらく動かなかった。
やがて眼鏡を外し、深く、深く、目頭を指で揉みほぐす。
その指先が、わずかに震えていた。
「……制度が正しくても、幼い心まで守れるとは限らない、か」
先ほど、オールマイトが絞り出すように残していった言葉が、耳の奥で冷えた鉛のように重く響き続けている。
(わかっている)
言われなくとも、そんなことは、誰よりも分かっている。
机の上に広げられた、真白才子の資料。
九歳の少女が白いマフラーを巻いて、怯えたようにこちらを見つめている顔写真。
人間としての、あるいは親としての心が、彼の胸の奥で確かに叫んでいた。
――守ってやるべきだ、と。
国を挙げて、その小さな手を、その純粋な善意を、泥の中から掬い上げるべきだ、と。
だが。
彼が握っているペンは、一人の少女を救うためのものではなかった。
この国に生きる、何千万という無力な大衆を、制度という目に見えない巨大なガラスの器の中で、辛うじて生かし続けるためのペンだ。
もし今、ここで感情に流され、特例を認めれば、明日にはガラスの器に致命的なヒビが入る。
そのヒビから溢れ落ちて死んでいく命の数は、四人どころでは済まない。
「……すまんな」
誰もいない部屋。
届くはずのない謝罪が、冷え切った空気の中に消える。
一個人の善意を殺さなければ、社会の正義が維持できない。
それが、この歪んだ超常社会を管理する、彼に課せられた絶対の呪いだった。
委員長は、深く、肺の底から泥のような溜息を吐き出した。
そして、
少女の顔写真から目を逸らすように、
ゆっくりと、しかし容赦なく、資料の表紙を掴んだ。
指先に、不自然なほどの力が籠る。
上質な紙が、彼の無念を代弁するように、みしりと音を立てて軋んだ。
本心を、人間としての良心を、その分厚い紙の間にすべて押し込め、圧殺するように。
――パタン。
静かな音が響き、真白才子の顔は、暗闇の中に消えた。
表紙に押された「要経過観察」の赤文字だけが、
夕闇の部屋の中で、まるで消えない血痕のように、いつまでも浮かび上がっていた。
窓の外では、街に灯りがつき始めていた。
千代田区の高層ビル群の窓に、無数の灯りが浮かんでいる。
その一室だけが異様に静かだった。
モニターが複数並ぶ執務机。
青白い光の中、数字と文字列が絶えず更新されている。
ニュースサイトの反応推移。
世論分析。
視聴率変動。
スポンサー動向。
まるで株価の暴落を監視する画面だった。
中央モニターには、一枚の静止画像。
病院から出る幼い少女。
俯いた横顔。
その下に並ぶ見出し。
“危険な個性児童”
“法を無視した救助は是か非か”
部屋の中央に立つ大柄な影が、その文字を睨んでいた。
オールマイトは珍しく声を抑えきれていなかった。
「ナイトアイ!」
机の向こう。
椅子に座った男は振り向かない。
眼鏡の奥の視線はモニターに固定されたままだ。
サー・ナイトアイは無言で次のデータを開く。
「頼む」
オールマイトの声が低くなる。
「君の知恵を貸してくれ。真白才子さんだ、彼女の周囲で起きているこの異常なバッシング――」
拳を握る。
「世論誘導でも、報道の流れでもいい。好転させられないか、彼女の善意が悪意に変えられようとしている」
数秒の間…キーボードを打つ音だけが続き、やがてナイトアイが口を開く。
「……お断りします」
あまりにも平坦だった。
オールマイトの目が見開かれる。
ナイトアイはようやく眼鏡を指で押し上げた。
「その案件に関わるのは、貴方にとっても、ヒーロー社会全体にとっても不利益が大きすぎる」
「不利益だと!?」
抑えていた声が上がる。
「目の前で少女の心が壊されかけているんだぞ!」
ナイトアイは視線を外さない。
「感情論は横に置いてください」
モニターのグラフを一つ拡大する。
急角度の上昇線。
「現在、彼女への否定意見は三日で六倍、擁護側は既に炎上対象です。ここで貴方が公に庇えば」
画面を切り替える。
今度はヒーロー支持率推移。
「“法を軽視するナンバーワン”という論調が必ず形成される」
「今の社会不安下で象徴の信頼が揺らげば地方治安の均衡が崩れる」
淡々とした声だった。
「一人の少女を救う代償としては釣り合わない」
オールマイトは机に手をつく。
「数字で命を切るのか」
「切っているのではありません」
ナイトアイは椅子を回した。
正面から見据える。
その目に情は薄い。
だが冷酷というより、徹底している。
「既に詰みに近い」
その一言が重かった。
「一度、大衆が“自分たちの正義を脅かす異分子”と認識した対象は、単なる説明では覆らない。」
「もし覆るとしたら、彼女が死ぬか、あるいは大衆が納得する犠牲を払うかをしたときだけです」
部屋の空気が止まる。
オールマイトの顔色が変わる。
「君は……」
「私の目には」
ナイトアイは遮る。
「このまま自然に受け入れられる未来は見えません」
その声は静かだった。
だからこそ刃物のようだった。
オールマイトは即座に返す。
「未来が見えないなら!」
拳を握る。
「作るのが我々の仕事だろう!」
その声だけが部屋に響く。
だがナイトアイは揺れない。
「いいえ」
即答だった。
「我々の仕事は最大多数を守ることです」
言葉の温度がさらに落ちる。
「……オールマイト」
初めて少しだけ目が細くなる。
「貴方は彼女の中に、自分と同じ種を見た」
「だから固執している」
「だが彼女は貴方ではない」
短く切る。
「ただの九歳の子供です」
オールマイトが黙る。
ナイトアイはさらに続ける。
「守るためのリソースを割くなら」
「地方治安維持」
「崩壊兆候のある区域対応が優先です」
静寂。
モニターの光だけが点滅する。
長い沈黙のあと、
オールマイトはゆっくり立ち上がる。
だが背は重い。
「……君まで」
それだけ漏れる。
ナイトアイは返さない。
去り際、
扉に手をかけたままオールマイトが低く言う。
「もし」
振り向かない。
「その未来の外に、まだ何かあるなら」
「私はそこを探す」
扉が閉まる。
静寂。
ナイトアイは一人残る。
モニターの少女の顔を見る。
そして小さく、
ほとんど誰にも聞こえない声で呟く。
「……あるなら」
眼鏡の奥で目を伏せる。
「最悪は、既に別の誰かが見つけている」
夜の雄英高校は静かだった。
昼間、演習場を揺らしていた爆音も消え、
窓の外では照明だけが人工的な白さを残している。
校長室の大きな窓からは、
訓練用グラウンドの輪郭が夜に沈んで見えた。
未来のヒーローたちが駆けた場所。
だが室内にある空気は重い。
机上のティーカップから細く湯気が立っていた。
向かい合う二つの影。
一方は背筋を張ったまま立ち続ける大きな体。
もう一方は椅子に浅く座る小柄な獣。
オールマイトは座る気配がなかった。
「……校長」
声は疲れていた。
それでもなお熱を失っていない。
「特例で――」
一度言葉を切る。
「彼女を雄英の保護下に置くことはできないだろうか」
机上のモニターには少女の顔写真。
氏名。
生年月日。
学年。
真白才子。
「推薦内定でも構わない、代金は私が出すホテルでもアパートでもそこから通えばいい。世論から隔離させて今の悪意から離す」
拳が静かに握られる。
「彼女の才能と何より優しさを、このまま沈めたくない」
対面で、
根津はティーカップを置いた。
小さな音だけが響く。
「……君の“正義の衝動”は」
紅茶の表面を見たまま言う。
「いつだって眩しいね」
声は柔らかい。
だがそこに苦味がある。
「けれど、教育機関にはどうしても越えられない壁がある」
短い手で画面を指す。
生年月日の欄。
「彼女はまだ九歳、小学四年生だ」
静かに目を上げる。
「もし中学三年生だったなら、あるいはせめて二年生でもいい彼女がその学年に達してくれていたなら私は“特待生候補”として法的保護の枠を作れたかもしれない。だが――」
そこで言葉が少し低くなる。
「十歳にも満たない子どもを個性を理由に高等教育機関が囲い込む」
モニターを閉じる。
「それは教育ではなく、“収集”と見なされる」
オールマイトの眉が寄る。
根津は続けた。
「世間はこう言うだろうね。雄英が強個性を私物化している
……あるいは」
紅茶を一口含む。
「未来の兵器を囲っている、と」
静かな言葉なのに重い。
「……そんな」
オールマイトがわずかに前へ出る。
「では、あと五年も六年も彼女はこのまま耐えろと言うのか」
根津はすぐには答えなかった。
ゆっくりと首を巡らせ、大きなガラス窓の向こうへと視線を落とす。
夜の演習場は、ただただ暗く、静まり返っていた。
昼間、生徒たちが未来を目指して土煙を上げ、眩い個性を爆発させているあの広大な敷地が、今は人工の照明すら吸い込むような、底なしの黒い空白と化している。
何も聞こえない。何も動かない。
その圧倒的な静寂と、光の届かない闇の深さは、どれほどの知性を以てしても今すぐには動かせない「制度」という名の巨大な壁、そして、その前でただ手をこまねいている自分自身の足元と、残酷なほどにシンクロしていた。
かつて理不尽な檻に囚われていた自分が、今や国内最高峰の学び舎の長となり、社会の仕組みを裏から動かせる立場にありながら、たった一人の九歳の少女が晒されている悪意の嵐を、この安全な窓の内側から眺めることしかできない。
どれほど思考を高速で巡らせても、導き出される公式の結末は「今は、法的に何もできない」という冷徹な事実だけ。
夜のグラウンドを満たす、すべてを拒絶するような暗闇と静けさは、根津の胸の奥にある、言葉にならない苦いもどかしさを代弁するように、どこまでも冷たく、ただ広がり続けていた。
冷めかけた紅茶の表面に、自身の瞳がが濁って映る。
やがて根津は、静かに息を吐いた。
「今の日本社会は君という完璧な象徴を頂点に置いているせいで驚くほど潔癖だ、不完全な善意を許さない」
視線が戻る。
「九歳の少女が無免許で一度ならず二度も社会のルールを乱した」
その一語ごとに、
制度が積み上がるようだった。
「これを“英才教育”という名目で守れば雄英の信頼は揺らぐ、そして」
わずかに目を細める。
「ここにいる他の子どもたちの居場所まで削ることになる」
オールマイトは黙る。
それが最も痛い。
目の前の一人を救うために、別の未来を危うくする。
根津は静かに息を吐いた。
「……残念だが今の私にできるのは、彼女の学籍が汚されないよう地元教育委員会へ働きかける程度だ」
その声に珍しく疲労が混じる。
「すまないね」
短い沈黙。
「私も君も」
紅茶の表面に灯りが揺れる。
「未来を救う準備はできる、だが今、壊れようとしている子どもの時間を法を越えて止めることはできない」
部屋が静まる。
外の夜だけが広がる。
オールマイトはしばらく立ったままだった。
やがて、
小さく息を吐く。
「……皆、同じことを言う」
その声はかすかだった。
「守りたくても守れない、と」
根津は否定しない。
ただ静かに見上げる。
オールマイトは扉へ向かった。
だが開く直前、
立ち止まる。
「もし」
振り向かない。
「その五年の間に、彼女が闇へと落ちてしまったなら」
その言葉に、根津の耳がわずかに動く。
「その時、社会は」
低い声。
「責任を取れるのか」
返答はなかった。
扉が閉まる。
静寂。
根津は一人、
冷めかけた紅茶を見つめる。
そして独り言のように呟く。
「……責任を取るのは、いつだって」
窓の外の暗闇へ目を向ける。
「遅れて気づいた側なのさ」
校長室に静寂だけが残った。
遠く、夜間設備の作動音が低く響く。
机の上では紅茶がもう湯気を失い始めていた。
根津はしばらく動かなかった。
小さな前足を組み、
背もたれに身を預ける。
視線は閉じた扉のまま。
「……九歳」
独り言のように漏れる。
短い指先で机を軽く叩く。
一定の間隔。
思考の癖だった。
「早すぎる」
そして目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、社会に正義の顔をして石を投げられ俯く銀髪の少女。
「教育制度」
小さく呟く。
「保護制度」
「推薦制度」
「個性特例条項」
一つ一つ、言葉が棚から並べられていくように整理される。
だがどれも、今の彼女には届かない。
年齢。
前例。
世論。
法的責任。
すべてが綺麗に塞がれていた。
まるで、
“救えないように設計されている”かのように。
そこで、根津の耳がわずかに動く。
目を閉じたまま椅子の上で静かに息を吐く。
「……なら」
声が低くなる。
「次は」
机上の指が止まる。
「拾えるように変えるしかない」
瞼は閉じたまま。
だが思考だけが高速で走っている。
特例保護枠。
低年齢個性保持者観察制度。
教育委員会外の推薦前登録。
非公開支援寮。
表向きは事故防止。
裏では先取り保護。
「同じ穴を」
紅茶の香りが冷えていく。
「二度は見逃さない」
その声音には怒りがなかった。
ただ静かな確定だけがある。
人間のような激情ではない。
もっと冷たく、もっと執拗な、設計者の意思。
「次に似た子が現れたなら」
そこで目を開く。
黒い瞳に灯りが映る。
「どんな形をとってでも…必ず、こちら側へ引き上げる」
窓の外では風がフェンスを鳴らした。
机の引き出しの中に置かれた申請書の束を取り出して視線を移す。
未提出の制度改訂案。
却下済みの草案。
眠ったままの条項。
その一番上を引き寄せる。
タイトル欄は空白。
ペンを取る。
そして迷いなく一行目に記す。
低年齢高危険度個性保持者に対する教育保護介入制度(案)
インクが紙へ染みる。
「……社会はいつも」
独り言のように、
わずかに口角を下げる。
「壊れてから、ようやく必要性を理解する」
だが、
今回は違う。
壊れた一例を、
彼は忘れない。
山あいの夜は早い。
山梨県の外れにある古びた平屋には、
風が木戸を鳴らす音だけが断続的に届いていた。
室内は狭い。
畳と古い木の匂い。
小さな卓上テレビの青白い光が部屋の隅を照らしている。
ニュース番組では、
少女の顔写真と見出しが何度も切り替わっていた。
“危険な個性児童”
“称賛から一転、問われる責任”
湯のみから立つ茶の湯気が、
その文字を揺らしている。
卓の向こうで、
グラントリノは杖を脇に置いたまま黙っていた。
対面には、
痩せた姿のオールマイト。
ここまで来る間に、
何人にも断られてきた顔だった。
それでも、
最後の一縷をまだ手放していない。
「……師匠」
声は低い。
「お願いがあります」
テレビの音が続く。
グラントリノは返事をしない。
オールマイトは続ける。
「北海道の……真白という少女です」
「どうか陰ながら見守ってやってはいただけないでしょうか」
わずかに息が詰まる。
「私が動けば目立ちすぎる」
「ですが、あなたなら」
「影に徹して――」
拳が膝の上で強く握られる。
「悪意からも」
「あるいは」
一瞬言葉が止まる。
「……奴からも」
その一語で、
部屋の空気が変わる。
オール・フォー・ワンの名は出さない。
だが二人には十分だった。
テレビの中でキャスターが何かを読み上げている。
その上から、
グラントリノが鼻で笑う。
短く、
乾いた音だった。
「……断る」
即答だった。
オールマイトが顔を上げる。
グラントリノは杖でテレビを指した。
「トシ」
その呼び方だけが昔のまま。
「お前はまだ分かってねえのか」
「俺が動くのは」
杖先が止まる。
「ワン・フォー・オールに関わる時だけだ」
「それ以外は」
湯のみを取る。
「ただの隠居したジジイだよ」
「しかし!」
思わず身を乗り出す。
「彼女はまだ九歳です!」
「このまま社会に食い潰されていいはずがない!」
グラントリノは茶を一口含む。
ゆっくり置く。
「才能か」
鼻で息を鳴らす。
「……ああ」
「ありゃあ確かに強ぇ個性だ」
そこで初めて、
鋭い目が正面から向けられる。
「だがな、トシ」
低い声。
「持ってるのは“強すぎる個性”だ」
「ヒーローの心じゃねえ」
静かだが容赦がない。
「今はまだ」
「運の悪い、お人好しのガキだ」
オールマイトの喉が詰まる。
だが反射的に返す。
「それでも!」
「一度助けたことで称賛され」
「二度目で叩き潰されている!」
「このままでは――」
「だからだ」
切るように言う。
グラントリノの眼光が鋭くなる。
「お前はあの子に」
杖先がわずかに揺れる。
「自分を見てる」
言葉が止まる。
「救けずにいられねえ狂気」
「それを重ねてる」
部屋の空気が冷える。
「だが違う」
短く断じる。
「一度目の称賛に揺れて」
「二度目の非難に怯えて」
「今は“助けてはだめなの”としょげている」
テレビの音声が、
ちょうどその瞬間、
少女の自宅映像を流す。
「それは」
グラントリノの声が重なる。
「普通のガキの反応だ」
「ヒーローじゃねえ」
オールマイトが黙る。
痛いほど分かる。
だから反論できない。
それでも絞り出す。
「……その普通の幸せが」
声がかすれる。
「奪われようとしているなら我々が――」
「いいか」
グラントリノが遮る。
「世界中の不運なガキを全部見張れるほど俺たちの命は長くねえ」
静かだった。
だが一言ずつ深く刺さる。
「お前が今やるべきは次を託せる奴を探すことだ。そして奴を仕留める準備をすることだ」
湯のみの中の茶が揺れる。
「その子を救うのは」
わずかに目を伏せる。
「俺たちの仕事じゃねえ」
長い沈黙。
「このクソッタレな社会の仕事だ」
テレビの報道だけが流れる。
「社会がその子を殺すと決めたなら」
目を閉じる。
「そこはもう」
最後の一言。
「英雄の手が届く場所じゃねえ」
静寂。
外で風が鳴る。
オールマイトはうつむいたまま動かない。
何も返せない。
ここまでで、
四度目だった。
法に拒まれ、
理に拒まれ、
枠に拒まれ、
そして使命に拒まれた。
やがて、
かすかな声だけが漏れる。
「……師匠」
それ以上続かない。
グラントリノはテレビを消した。
部屋が暗くなる。
そして、
見ないまま言う。
「もし本当に怖ぇなら」
低い声。
「今夜のうちに会いに行け」
オールマイトが顔を上げる。
「手遅れってのは」
湯のみを持つ。
「たいてい、理屈を並べてる間に来る」
夜の事務所は静かだった。
机上に積まれた資料の端を、
テレビの青白い光だけが照らしている。
流れていたのは地方ニュースだった。
北海道の住宅街。
赤色灯。
規制線。
そして、
聞き慣れた名前。
「本日夜8時、真白才子さんの両親が自宅で死亡しているのが発見され――」
画面には住宅の外観。
担架。
白布。
レポーターの声が続く。
「警察は外部から押しかけた何者かによる殺人事件として――」
「……ッ」
椅子が床を擦る。
立ち上がる勢いで机が揺れた。
画面が切り替わる。
病院名。
そこで、初めて声が出た。
「ホーリーシット!!」
反射だった。
理屈より先に、嫌な確信だけが全身を突き抜ける。
遅い。
もう遅いかもしれない。
細い腕に血管が浮く。
次の瞬間、服が裂ける音とともに巨躯へ変わる。
窓が開く。
夜気が吹き込む。
床が軋むほど踏み込み、
オールマイト は飛んだ。
病院の自動ドアが、悲鳴を上げるような勢いで開く。
巨体を揺らし、風を切って現れた黄金のヒーロー。だがその顔にあるのは、いつもの「平和の象徴」の笑みではなく、焦燥と、隠しきれない祈りだった。
「真白だ! 真白才子さんはどこだ!? 両親が襲われたと聞いた! 彼女は……彼女は無事なのか!?」
彼の咆哮に近い声に、深夜のロビーが凍りつく。看護師たちは恐怖と、そしてそれ以上に「深い同情」を含んだ目で彼を見つめた。
「……オールマイトさん。真白さんは、つい先ほどまで、あそこの椅子に座っていらっしゃいました。毛布をお貸しして、少し目を離した隙に……」
「……い、いない? どこへ行ったんだ! 警備は!? 警察はどうした!」
その問いに看護師は力なく首を振ることしかできなかった
「……分かりません。防犯カメラにも、誰かと連れ立って歩く姿も、一人で出ていく姿も、何も……。ただ、あそこに、お貸しした毛布だけが落ちていました」
3
オールマイトは、誰もいないパイプ椅子の前で立ち尽くす。
足元には、まだ温もりが残っているかもしれない灰色の毛布が、無残に崩れ落ちている。
震える手でその毛布を拾い上げ、絶望に顔が歪んでしまう
「……ああ……クソ……!! 私が……私がもっと早く、法も、立場も、何かもかなぐり捨てて、ここへ来ていれば……!」
窓の外では、まだ報道陣のライトが明滅している。
だが、その光が届かない「影」の中で、一人の少女が世界で最も甘く、最も毒に満ちた手を握ったことを、彼はまだ知らない。
彼が守ろうとした「九歳の純粋な手」は、今この瞬間、オールマイトが最も憎むべき男の掌の中に、吸い込まれるように消えていった。
「……以上が、この力の起源だ。緑谷少年、君にはこれを知る権利がある」
オールマイトは、語り終えると深い溜息をつき、痩せ細った体をパイプ椅子に預けた。
室内を支配する重苦しい沈黙。緑谷は、自分の掌に宿る熱を見つめながら、どうしても喉の奥に引っかかっていた「名前」を口にする決意をした。
「……オールマイト。一つ、聞いてもいいですか」
「何だい?」
「ステインが、最後に叫んだんです。自分を殺していいのは、あなたと……『真白才子』という人だけだって。飯田くんも、轟くんも、誰もその名前を知りませんでした。僕も、調べたけれど……データベースには、死亡か行方不明の記録しかなくて」
緑谷は顔を上げ、師の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「オールマイト、あなたは……その子のことを、知っているんですか?」
その瞬間、オールマイトの時が止まった。
いつもは穏やかな、あるいは力強い彼の瞳が、見たこともないほど深く、暗い絶望の色に染まったのを緑谷は見逃さなかった。
「……。ああ、知っているとも。忘れるはずがない」
オールマイトの声は、掠れていた。彼は震える手で顔を覆い、絞り出すように言葉を繋いだ。
「彼女は……私が、かつて救い損ねた『原石』だ。いや、私だけじゃない。このヒーロー社会そのものが、寄ってたかってその芽を摘み、泥を塗り、闇へと追いやってしまった……最大の過ちだ」
「過ち……?」
「十年ほど前だ。彼女はまだ九歳だった。事故現場で、免許も持たぬまま、ただ『助けたい』という衝動だけで数十トンの鉄塊を持ち上げた。本来なら、称賛されるべき勇気ある行動だ。……だが、世論は、そして法は、彼女を『管理外のイレギュラー』として断罪した」
オールマイトは、あの日、自分が病院に駆けつけた時に見つけた「灰色の毛布」の感触を思い出していた。
「私は動こうとした。だが、立場が、制度が、そして私の不甲斐なさが、彼女への手を遅らせた。私がようやく全ての柵(しがらみ)を振り切って彼女の元へ跳んだ時……そこにはもう、誰もいなかった。彼女の両親は暴徒に殺され、彼女自身も、何者かに連れ去られた後だったんだ」
「そんな……。じゃあ、ステインが言っていたのは……」
「……ステイン、いや赤黒血染は、その全過程をずっと見ていたんだろう。正義を成した少女が、社会に裏切られ、磨り潰されていく様を。彼にとって『真白才子』は、この社会の歪みを象徴する聖女であり、それを見過ごした我々プロヒーローは、全員が彼女への加害者なのだ」
オールマイトは自嘲気味に笑った。その笑顔は、血を吐くよりも痛々しかった。
「緑谷少年。君に引き継いだこの『ワン・フォー・オール』は、本来なら、彼女のような子供を絶望させないためにあるべき力だった。だが私は……彼女一人すら、掬い上げることができなかった」
緑谷は言葉を失った。
平和の象徴であるオールマイトが、これほどまでに打ちのめされ、己を呪っている。
ステインが抱いていた、狂気をも凌駕するほどの執念。その源泉が、一人の少女の悲劇にあったのだと知り、背筋が凍るような感覚を覚えた。
「……彼女は、今どこにいるんでしょうか」
「分からない。……だが、もし彼女が生きているとしたら。そして、あの男……オール・フォー・ワンの手に落ちているとしたら」
オールマイトは、窓の外に広がる夜の街を見つめた。
「彼女は、我々ヒーローにとって、最も正しく、最も残酷な『敵(ヴィラン)』として現れるだろう。……教育という名の呪いをかけられているだろう。」
緑谷は、握りしめた拳をさらに強く固めた。
まだ見ぬ「真白才子」という少女。
その名前が、これから自分が歩むヒーローへの道において、どれほど重く、暗い楔になるのかを、予感せずにはいられなかった。
お読みいただきありがとうございました。
今回は、真白才子という一人の少女を巡る、ヒーローたちの苦悩と敗北の記録です。
原作キャラたちの「動かない理由」を自分なりに掘り下げてみた結果、このような形になりました。
善意が否定され、世界に捨てられた少女が、AFOの元でどんな「淑女」へと仕立て上げられてしまうのか。物語はいよいよ本格的に動き出します。
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それはそうと、根津校長が打ち出していた低年齢高危険度個性保持者に対する共育保護介入制度制度ってエリちゃんに使えるんですよね。偶然って怖いな