個室病棟の廊下は静かだった。
夜の面会時間ぎりぎり。
病院側が特例として通した訪問者に、
看護師たちもどこか緊張している。
白い花ではなく、
真白才子が手にしていたのは、
編み込まれた上質なバスケットだった。
中には、
艶のある林檎、
葡萄、
柑橘、
丁寧に薄紙で包まれた高級果実が隙間なく収められている。
いかにも“善意”の形。
病室の扉が静かに閉まる。
ベッド上の男は、
最初にその姿を見た瞬間、
露骨に顔をしかめた。
「……誰だよ」
才子は柔らかく微笑む。
昼間テレビで見せる、
あの慈悲深い顔のまま。
「突然ごめんなさい。療養中とうかがって、お見舞いだけでもと思いましたの」
返答はない。
代わりに視線だけが刺さる。
警戒、
苛立ち、
そして、
“なぜ自分のところへ”という戸惑い。
才子は気にした様子もなく、
ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
バスケットは膝の上。
「復帰なさってからも、何度も現場へ戻られていたでしょう?」
男は眉をひそめる。
「……それが何だ」
「簡単なことではありませんわ」
穏やかに、
静かに、
逃げ道を与える声。
「怪我のあと、誰も以前と同じようには扱ってくれない」
わずかに、
男の視線が止まる。
そこへ才子は続ける。
「結果だけ見られて」
「失敗だけ切り取られて」
「努力は、すぐ忘れられる」
沈黙。
男の喉が一度動く。
図星だった。
「……あんたに何が分かる」
「少しは」
才子は微笑みを崩さない。
「存じています」
柔らかい声。
だが、
次の一言だけ角度が変わる。
「それでも——どうして結果が出なかったのですか?」
空気が止まった。
男の肩がわずかに強張る。
「……は?」
「復帰戦も、その次も」
才子は手元の果物籠に指を添えたまま、
まるで確認するように言う。
「期待に届かなかった」
「スポンサーも離れた」
「市民の声も厳しかった」
「違います?」
「……」
「努力しても届かないのは」
そこで、
初めて少しだけ目を細める。
「才能が足りなかったから?」
ベッドの柵が軋む。
男の手が握られる。
「黙れ」
「皆さま、そう仰るのでしょう?」
「黙れ!」
「怪我を理由にしている、と」
その瞬間だった。
堪えていたものが切れた。
男が勢いよく立ち上がる。
点滴台が揺れる。
そして、
目の前の細い肩を、
感情のまま強く突き飛ばした。
鈍い音。
才子の身体が後ろへ流れる。
椅子が傾き、
手にしていたバスケットが宙を舞った。
次の瞬間、
床へ果物がぶちまけられる
病室の静寂を破ったのは、
果物が床を跳ねる乾いた音だった。
林檎が一つ、
白い床を転がり、
ベッド脚に当たって止まる。
柑橘は薄い紙をほどきながら散り、
葡萄の房がほどけて小さく弾けた。
倒れた椅子。
乱れたバスケット。
そして、
突き飛ばされた勢いのまま床へ手をついた真白才子。
ほんの一瞬——
時間が止まったように見えた。
だがその短い静止の中で、
彼女の思考だけは冷静だった。
(……この程度)
もし本気なら、
両手がふさがった隙だらけの体勢からでも十分だった。
相手の腕一本、
反射だけで折れる。
触れられるより先に、
念動で関節を逆へ持っていくこともできる。
病院の壁へ叩きつけ、
二度と立てなくすることすら難しくない。
だが、
それをしなかった。
しない方が価値がある。
むしろ——
(よく我慢しましたわ、わたくし)
胸の奥で、
ほんのわずかに自分を褒める。
計画通り。
完璧に、
ここまでは予定通りだった。
喉元まで込み上げる笑いを、
才子は歯の裏で噛み潰す。
唇が上がりそうになるのを、
震えへ変える。
肩を細かく揺らし、
呼吸を浅く乱す。
その震えは、
事情を知らぬ者から見れば、
恐怖に耐えているようにしか見えない。
あるいは、
泣くのを必死に堪えているように。
次の瞬間、
廊下から足音。
「何の音だ!」
看護師より早く、
病室で療養してる方に大人数で押しけるのは無礼だと待機させていた記者が駆け込んでくる。
後ろからカメラマン。
扉が大きく開く。
レンズが即座に状況を捉えた。
床へ散乱した果物。
倒れた椅子。
病衣姿で荒い呼吸をするヒーロー。
そして、
床に崩れたままのバロネス・エインズワース。
絵として完成していた。
「……っ、違う!」
男が先に叫ぶ。
自分でも何をしたか理解しきれないまま、
声だけが荒くなる。
「こいつが……!」
記者のマイクが向く。
「何があったんですか!?」
「煽られたんだよ! 挑発された!」
顔が赤い。
呼吸が乱れる。
点滴台が揺れている。
自分で自分の言葉を整えられない。
「こいつ、わざと……!」
そこへ、
床に手をついた才子がゆっくり顔を上げた。
髪が少し乱れている。
白い袖口に果汁が滲む。
震える指先。
唇を噛み、
言葉を絞るように。
「ひ……酷い……」
声はか細い。
今にも途切れそうなほど弱い。
だが、
カメラは逃さない。
「私は……ただ……」
一度、
言葉を詰まらせる。
肩が震える。
さきほど押し殺した笑いは、
完全に嗚咽へ変換されていた。
「私なりに……激励を……」
そこで、
一粒だけ涙が落ちる。
絶妙なタイミングで。
まるで堪えきれなかったかのように。
記者の空気が一変する。
「激励に来ただけで?」
「療養中の方を訪ねて?」
「何を言われたんですか?」
男はさらに焦る。
「違う! そいつが——」
だが、
もう遅い。
自分の声が大きいほど、
追い詰められて見える。
才子は顔を伏せる。
涙を指先で押さえる仕草すら、
あまりに自然だった。
女優より巧い。
いや、
この場では誰よりも“信じられる被害者”だった。
「……責めるつもりなんて」
震える声。
「ありません……ただ……少しでも前を向いていただけたらと……」
カメラマンがさらに寄る。
床の果物を踏まないよう、
慎重に角度を取る。
転がる林檎。
泣く女。
怒鳴るヒーロー。
誰が見ても、
一枚で意味が決まる。
男は息を切らしながら、
ようやく理解し始める。
何かがおかしい。
だが、
どこで間違えたのかもう戻れない。
病室の白い光の中、
才子は伏せた睫毛の奥で、
誰にも見えないほどわずかに、
口元を押し殺していた。
翌朝。
まだ通勤電車が混み始める前から、
その映像はすでに各局へ渡っていた。
病院の白い廊下。
散乱した果物。
倒れた椅子。
涙を流すバロネス・エインズワース。
そして、
取り乱した声で何かを訴える療養中のヒーロー。
切り取られた数十秒は、
あまりにも分かりやすかった。
朝の情報番組では、
冒頭から大きく字幕が出る。
慈善訪問中のバロネスに療養中ヒーローが暴行か
激励訪問の最中に何が
スタジオでは、
司会者が困惑気味に眉を寄せる。
「これは……かなりショッキングですね」
コメンテーターが慎重に言葉を選ぶ。
「療養中で精神的にも不安定だった可能性はありますが……それでも」
「訪問を受けた側としては看過できません」
「バロネス側は処罰を望んでいないとのことです」
そこへ、
才子本人のコメントが短く差し込まれる。
『どうか責めないでください。苦しんでおられたのだと思います』
この一言が、
さらに火を強くした。
昼前にはニュースサイトの見出しが並ぶ。
“責めない”バロネスの寛容に称賛の声
再び問われるヒーローの資質
感情を制御できない現場復帰に疑問
だが、
本当に加速したのはネットだった。
匿名の投稿が、
映像の数秒ごとに切り抜かれて拡散される。
「またヒーローかよ」
「善意で来た相手にこれは無い」
「療養中だからって許される話じゃない」
「果物ぶちまけてるのが生々しい」
「怖すぎる」
「しかも泣かせてるじゃん」
「バロネス普通に気の毒」
別の投稿。
「最近ヒーローってこういうの多くない?」
「内部腐ってるんじゃないの」
「スポンサー離れる理由分かった」
「結局プライドだけ高い人いるよね」
さらに、
過去の軽微な問題行動まで掘り返される。
古い会見映像。
現場での語気の強さ。
切り取られた短い動画。
一つひとつは小さい。
だが、
今は全部つながる。
“元々危うかった人物”
という物語に変わる。
一方で、
才子への反応は真逆だった。
「処罰望まないの強すぎる」
「ここで相手を庇えるの凄い」
「品が違う」
「本当に育ちが出る」
「泣いてても相手責めないの偉すぎる」
海外アカウントまで反応し始める。
英語字幕付きの映像。
Baroness stays calm after hospital incident
Grace under attack(女男爵、病院での事件後も冷静さを保つ)
慈善家としての印象はさらに強化される。
午後には、
老人ホーム訪問時の別映像まで再拡散された。
笑顔で高齢者の手を握る才子。
子どもへ膝を折って目線を合わせる才子。
今回の病院映像と並べられ、
対比が完成する。
“優しい側”と“壊れた側”。
夕方、
ホテル最上階。
大型モニターには、
ネットの反応が流れていた。
数字が増えていく。
支持率。
検索数。
海外記事。
寄付口座への流入。
秘書が淡々と報告する。
「本日午前中だけで関連好意的投稿、推定三百二十万件」
「批判的投稿は対象ヒーローへ集中」
「所属事務所は謝罪文準備中です」
真白才子は、
窓辺で紅茶を口にしたまま、
一度だけ画面を見る。
そこには、
床へ散った果物の静止画。
林檎。
葡萄。
涙。
よく撮れていた。
「……綺麗に転がりましたのね」
小さく呟く。
秘書は反応しない。
才子はカップを置く。
表情は穏やかだ。
だが、
目の奥だけが冷えている。
「次は?」
秘書が次の資料を差し出す。
まだ、
候補は残っている。
一度成功した印象操作は、
繰り返すほど強くなる。
そして世間は、
一度覚えた失望を簡単には忘れない。
モニターの中では、
まだ誰かが言っていた。
「またヒーローか」
その短い言葉が、
何より深く、
静かに社会へ沈んでいった。
午前十時。
高層ホテル最上階のラウンジには、まだ昼前の穏やかな静けさが残っていた。
窓際の席では、バロネス・エインズワース——真白才子が白磁のティーカップを指先で支え、静かに紅茶を口にしている。
護衛の黒服が二人、少し離れて控えていた。
その静寂を破ったのは、足早に近づいてきた男の声だった。
「バロネス・エインズワース様、お時間を少々——」
肩から機材バッグを提げたフリージャーナリスト。
黒服の一人が即座に前へ出る。
「失礼ですが、事前の——」
「かまいませんよ」
才子が穏やかに言った。
黒服が振り返る。
「五分だけなら」
許可が下りると、男はすぐ向かいの席へ腰を下ろした。
録音機を卓上へ置き、軽く会釈する。
その様子を、少し離れた席の宿泊客たちが気づかぬふりで見ていた。
新聞の陰から。
スマートフォン越しに。
誰かは動画を回し始めている。
最初の質問は柔らかかった。
「昨日の児童施設訪問ですが、大変評判が良かったそうですね」
「皆さまが喜んでくださるなら幸いですわ」
「医療支援への関心も高いと伺っています」
「必要なところへ届けば、それで十分です」
穏やかで無難な応答。
空気はまだ和らいでいた。
だが、男はそこで声色を少しだけ変える。
「——失礼を承知で、お尋ねしますが」
黒服の肩がわずかに動く。
宿泊客のスマートフォンがさらに向けられる。
「あなたほど影響力を持つ方が、なぜこれほど日本のヒーロー制度へ厳しい視線を向けられるのか」
才子はティーカップを置いた。
「厳しいつもりはありませんわ。ただ——制度が救えなかったものを知っているだけです」
記者の目が鋭くなる。
「では、その“救えなかった時間”に、あなたへ手を差し伸べた人物がいた?」
一拍。
ラウンジの空気が静かに締まる。
男は録音機をわずかに押し出した。
そして核心へ踏み込む。
「単刀直入に伺います。バロネス、あなたは……あの『オール・フォー・ワン』と関係があるのですか!?」
周囲が息を呑んだ。
誰かの指がスマートフォン画面の録画ボタンを押し込む。
才子は白磁のカップをソーサーへ戻した。
音は小さい。
だが、その静けさがかえって場を支配した。
そして、微塵の揺らぎもない声で答える。
「ええ、関係はございますわ」
記者の表情が止まる。
想定していた否定も、取り繕いもない。
才子はそのまま続けた。
「私がこの国で石を投げられ、孤独に死を待っていた時、真っ先に手を差し伸べてくださったのはあの方でした」
遠巻きの宿泊客の間でざわめきが起きる。
「エインズワース卿との縁を繋いでくださったのも、あの方です」
一瞬遅れて、記者の顔に驚愕と興奮が混じる。
「正気ですか!?」
思わず声が上ずる。
「相手は世界規模の大犯罪者ですよ! そのような人物との接点を堂々と認めるのは、道義的に——」
「恩人を、恩人と呼んで」
才子が静かに遮った。
その瞳は澄み切っていた。
一欠片の怯えもない。
「何が悪いのですか?」
記者が言葉を失う。
そのまま才子はまっすぐ見据える。
「この国には、苦境の自分を救ってくれた方を、世論に迎合して足ざまに罵らねばならない法でもあるのですか?」
ラウンジの空気がさらに重くなる。
「……わが英国には、そのような卑しい不文律はございませんわ」
宿泊客の誰かが小さく息を呑んだ。
カメラのレンズが増える。
誰も止めない。
いや、止められない。
才子は視線を少しだけ周囲へ向けた。
まるでその場にいる全員へ語りかけるように。
「私にとって、あの方は『救い』でした」
そして次の一言を落とす。
「一方——皆様が誇る『平和の象徴』やヒーローの方々は」
その一拍が妙に長く感じられた。
「私の家が壊され、両親が殺される間、どこで何をしていらしたのかしら」
空気が凍る。
「制度を守るために、九歳の私を一人で放置された……それが皆様の誇る『正道』なのですか?」
今度こそ、記者は言葉を返せなかった。
誰も即座に否定できない。
なぜなら、それは反論ではなく“空白の事実”だったからだ。
動画はその瞬間から一気に拡散を始めた。
「AFOとの関係を本人が即答」
「でも言ってること反論できなくない?」
「恩人を裏切らないだけでは?」
「九歳を救えなかった側が何言うんだ」
公安庁舎。
大型モニター前で、公安部長が机を叩いた。
「馬鹿な……!」
怒号が響く。
「認めるだと!? AFOとの繋がりを認めれば普通は終わるだろうが!」
隣の担当官が青ざめた顔で端末を見る。
「……部長、もう逆です」
「何?」
「ネットでは今、“正直すぎる貴族”“ヒーローに裏切られた聖女”として支持が急増しています」
画面には投稿が流れ続ける。
「隠さないの逆に誠実」
「悪にしか救われなかった子供って重すぎる」
「ヒーロー社会の方が説明責任あるだろ」
「AFOとの関係を認めたことで、逆に“隠し事をしない誠実さ”として受け取られています」
部長の顔色が変わる。
準備した“暴露”が、
相手の武器になっていた。
ホテルラウンジ。
才子はまだ席に座っていた。
紅茶は少し冷めている。
ガラス越しに映る自分の口元だけが、
わずかに動いた。
誰にも見えない角度で。
(……先生)
心の中でだけ囁く。
(日本の方々は、“美談”がお好きなようですわね)
その微笑みは、
次の一手まで読み切った者の静けさだった。
職員室は、昼前だというのに妙に静かだった。
窓の外では訓練場からかすかな掛け声が聞こえている。
だが、その一角だけは別の空気に沈んでいた。
デスクの上に置かれたスマートフォン。
小さな画面の中では、ホテルのラウンジで優雅に微笑む一人の少女——が、整った声で問い返している。
「恩人を、恩人と呼んで何が悪いのですか?」
画面越しでも、その一言は鋭かった。
静かで、冷たく、美しい。
まるで刃のように。
その前に座る——八木俊典の指が、机の上で強く握りしめられる。
かつて巨大な瓦礫さえ軽々と砕いたその手は、
今では骨ばかりが目立ち、
皮膚の下に浮いた筋が痛々しい。
痩せた指先が小さく震えた。
スマートフォンの中では、
才子が穏やかな表情のまま続けている。
「制度を守るために、九歳の私を一人で放置された……それが皆様の誇る『正道』なのですか?」
八木の喉から、掠れた息が漏れる。
「……ッ、なぜだ」
絞り出す声は、
かつて“平和の象徴”として街全体を安心させた声とは思えないほど弱かった。
「なぜ私はあの時、あと一歩を踏み出せなかった……!」
握った拳が机に沈む。
骨が軋む。
「制度だ、世論だと……言い訳を並べている間に、彼女はすべてを失っていたんだ……!」
その声には怒りがあった。
だが向け先は誰でもない。
自分自身だった。
画面の中の少女は、
世界中へ向けて整然と言葉を並べている。
救われなかった事実を、
責め立てるでもなく、
泣き叫ぶでもなく、
ただ否定不能な形で差し出してくる。
それが何より重かった。
「『個性使用の罪』というなら……」
八木は唇を噛む。
血の気のない顔がさらに沈む。
「彼女はあの日から、居場所を奪われ、平穏な生活を壊され……充分すぎるほどに罰を受けてきたじゃないか……!」
掠れた声が震える。
「それをさらに追い詰め……挙げ句の果てに宿敵の手を取らせるまで放置した」
拳がゆっくりほどける。
力を失うように。
「これは——」
その言葉だけが、重く落ちた。
「私の……我々ヒーローの敗北だ……」
ついに机へ突っ伏す。
両腕の間へ額を押しつけるようにして、
頭を抱える。
かつて巨大だった背中は、
今は驚くほど小さい。
制服の肩越しに、
わずかな震えだけが見えた。
その背後へ、
足音もなく一人の男が立つ。
。
黒い捕縛布を首に巻いたまま、
いつもの無表情で画面を見る。
そこにはまだ、
才子の穏やかな横顔が映っていた。
「……今さら過去を悔やんでも不合理です、八木さん」
乾いた声だった。
慰める色はない。
だが、
冷酷なだけでもなかった。
捕縛布を握る手に、
わずかに力がこもっている。
彼なりに押し殺した感情がそこに滲んでいた。
「過去の不作為を並べ立てたところで」
視線は画面から外さない。
「今あの娘が振りかざしてる“正論の刃”は止まりません」
才子が一礼する映像。
宿泊客たちのざわめき。
流れるコメント欄。
相澤は無言でスマートフォンの画面を消した。
光が途切れる。
職員室の空気だけが残る。
「彼女は今、外交官特権と世論という二つの盾を持って、この国の喉元にナイフを突きつけてる」
短く言い切る。
そこに誇張はなかった。
現実として。
「感傷に浸る時間は終わりだ」
相澤が振り返る。
「これ以上野放しにすれば、生徒たちの——これからのヒーローたちの居場所が、社会から完全に消えます」
八木はゆっくり顔を上げた。
頬に疲労が刻まれている。
目の下は深く沈み、
絶望の色が消えてはいない。
だが、
それでも。
「……行きますよ」
相澤の声が促す。
「緊急職員会議が始まります」
八木は数秒だけ動かなかった。
やがて、
痩せた指で机の端を押し、
静かに立ち上がる。
膝がわずかに揺れる。
だが倒れない。
その瞳には、
深い後悔がまだ残っていた。
消えない影のように。
それでも、
かすかに宿る。
逃げられないと知った者だけが持つ、
悲壮な決意が。
会議室の扉が開く。
廊下の光が差し込む。
その向こうで、
次の現実が待っていた。
薄暗い部屋だった。
照明は最低限。
古びた壁に埋め込まれた大型モニターだけが、青白い光を落としている。
その中央で流れているのは、昼の速報番組だった。
ホテルラウンジ。
群がる記者。
遠巻きの宿泊客。
そして、静かに微笑みながら問いを受ける一人の少女——。
「恩人を、恩人と呼んで何が悪いのですか?」
その音声が部屋に響くたび、
椅子に深く身を沈めた男の肩が、わずかに揺れた。
笑っている。
男は、指先で肘掛けを軽く叩きながら、口元にゆっくりと笑みを広げていた。
「……素晴らしい」
低い声が、静かに落ちる。
怒りでも興奮でもない。
純粋な愉悦。
まるで丹念に育てた花が、想像以上に美しく咲いたのを眺める園芸家のようだった。
画面の中で、才子は穏やかな声音のまま続ける。
「制度を守るために、九歳の私を一人で放置された……それが皆様の誇る『正道』なのですか?」
その瞬間、
男が愉悦の笑みを浮かべる
「そうだ」
小さく呟く。
「それだよ、才子」
問いの形をしていながら、
答えを許さない一撃。
感情へ訴え、
しかも事実から逃がさない。
否定しようとすればするほど、
“救えなかった側”の責任だけが浮き上がる。
その構図を、
彼女は一切取り乱さずに完成させた。
「正義とは実に不自由だ」
背もたれに頭を預ける。
モニターの光が顔の輪郭を淡く照らす。
「救えなかった事実ひとつで、何年積み上げた信頼も崩れる」
口元の笑みが深くなる。
そして、
彼の脳裏には、鮮明な光景が浮かんでいた。
。
かつて世界の中心に立ち、
絶対の象徴だった男。
その男が今、
痩せた指で机を握り、
スマートフォン越しにこの映像を見ている。
言葉を失い、
喉を詰まらせ、
“もしあの時”を何度も繰り返している姿。
容易に想像できた。
いや、
想像するまでもない。
「今ごろ、机に拳でも落としているかな」
喉の奥で笑う。
「なぜ救えなかった、と」
「なぜあと一歩踏み出せなかった、と」
指先が肘掛けを一定のリズムで軽く叩く。
「違うだろう、」
その名を呼ぶ声音だけが、妙に柔らかい。
長年の宿敵へ向けるには、
あまりにも穏やかだった。
「君はいつだって“すべてを救う象徴”を演じすぎた」
「だから一人取りこぼしただけで、自分自身を許せなくなる」
モニターの中では、
才子が最後に一礼していた。
礼儀正しく。
完璧に。
そしてそれがまた、世論に“誠実さ”として刺さっている。
速報欄にはすでに文字が踊る。
“正直すぎる告白”
“恩人を否定しない高潔さ”
“ヒーロー制度への重い問い”
男はそれを眺めながら、
口角が上がる。
「実に美しい」
言葉そのものに満足しているようだった。
「力ではなく言葉だけで象徴を揺らし、暴力ではなく記憶だけで社会を裂く」
その中心にいるのが、かつて石を投げられていた小さな子どもだという事実が、何より甘美だった。
「君はよく育った」
誰へともなく呟く。
そこには珍しく、偽りでない満足があった。
次いで、ゆっくりと笑みを深める。
「そして今、彼は理解している、君が私の側にいる理由を」
暗い部屋の中、モニターの青白い光だけが揺れる。
想像の中では、八木俊典が頭を抱えていた。
自分の不作為。
制度の限界。
救えなかった過去。
その全部を突きつけられ、
ようやく“敵に渡った理由”を理解する。
その顔を思い浮かべるだけで、
胸の奥が静かに満たされる。
「悔しいだろう」
椅子の肘掛けに置いた手が止まる。
「だが、それでいい」
笑みは消えない。
むしろ静かに澄んでいく。
「悔恨は、人を鈍らせる」
「迷いは、次の一手を遅らせる」
モニターがニューススタジオへ切り替わる。
識者たちが議論を始める。
だが彼にとって必要なのはそこではない。
もう十分だった。
種は蒔かれた。
象徴は揺らぎ、
社会は自ら疑い始める。
そしてその最中に、
一人の少女だけが美しく立っている。
重苦しい沈黙が、雄英高校の作戦会議室を支配していた。
かつては希望に満ちた戦略を練ったこの場所も、今は外壁を覆う強固な防壁と、窓の外から微かに聞こえる避難民たちの怒号に縁取られ、まるで巨大な棺桶の底のような閉塞感に満ちている。
円卓の端で、相澤消太が片方の目でホログラムを睨みつけた。隣にあるはずの席——香山睡(ミッドナイト)が座っていた場所は、あの日以来、埋められることのない空白としてそこにある。
「……まずは、現状の再確認だ」
相澤の乾いた声が、室内の重い空気を切り裂いた。
「米国の『星条旗(スターアンドストライプ)』が、死柄木……否、オール・フォー・ワンとの死闘の末、散った。彼女が最期に遺した『新秩序(ニューオーダー)』による拒絶反応は、奴の内部を修復不能なまでに掻き乱している。脳無を介した自己修復も、今は機能していないようだ」
ホログラムが、衛星から捉えたと思われる、荒廃した海域と黒い霧に包まれた死柄木の予測潜伏地点を映し出す。
「奴の肉体が完全な適応を終えるまで、最短で一週間。……これが、彼女が命を賭して我々に買い与えてくれた『猶予』だ」
その言葉に、デスクを囲むプロヒーローたちの間に、微かな、しかし悲痛なまでの緊張が走った。
「一週間か……。あまりに短すぎるな」
ブラドキングが、絞り出すように呟いた。
「世論は完全に冷え切っている。避難所(シェルター)内の不満は限界だ。その上、例の『バロネス』が撒き散らした毒のせいで、我々への協力体制は瓦解寸前……。この一週間を、ただの『回復待ち』で終わらせるわけにはいかん」
「……ああ」
相澤が、会議室の隅で影のように立ち尽くすオールマイトへ視線を向けた。八木俊典は、血を吐くような思いで、愛弟子のような存在だったスターの最期を反芻しているようだった。
「奴が万全の状態で動き出せば、次はもう『新秩序』のような奇跡は起きない。この七日間で、我々は敵の潜伏先を特定し、分断し、各個撃破するプランを完成させなければならない」
相澤は、手元の端末に表示された「真白才子」の資料を、忌々しげに画面の端へ追いやった。
「外部からの精神的・政治的な揺さぶりは、今後さらに激化するだろう。それをどう凌ぐか。」
重苦しい沈黙が、会議室を満たしていた。
壁面モニターには各地の避難区域と支援状況が映し出され、その隅では今日もまた、バロネス・エインズワースの姿が繰り返し流れている。
炊き出しの列。
配られる毛布。
泣き止んだ子どもの胸元に結ばれる色鮮やかなリボン。
善意として切り取られた映像は、あまりに鮮やかで――だからこそ厄介だった。
誰もすぐには口を開かなかった。
その沈黙を破ったのは、小さな椅子の上に立つ 根津だった。
「皆。」
柔らかな声だった。
だが、その一言だけで会議室の視線が揃う。
「私たちは少し――『バロネス・エインズワース』という存在を、大きく見積もりすぎていたのかもしれない」
前足で机上の資料を軽く整えながら、根津は続けた。
「彼女が今、手を差し伸べているのは、法や制度の隙間から零れ落ちてしまった人々だ。行政の速度では届かない場所。私たちの手がどうしても間に合わなかった場所」
モニターへ一瞥。
「……ならば、逆に考えればいい」
その黒い瞳が静かに細まる。
「彼女は今、私たちが届かなかったところへ、先に手を伸ばしてくれている」
「校長!」
ブラドキングが身を乗り出した。
「それは、あの女のプロパガンダを肯定するということですか!?」
声が少し強い。
だが根津は表情を変えない。
「違う」
穏やかに首を振る。
「善意か悪意か――そこは現時点では問題じゃないのさ」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「重要なのは、現実に困窮者が救われ、社会の“穴”が埋められているという事実なのさ」
静かな声だった。
それなのに、誰も口を挟めない。
「ならば、その部分は彼女に任せればいい。私たちは私たちの本来の職務を果たす」
「……職務、ですか」
低く漏らしたのは 相澤消太だった。
根津は深く頷く。
「そうさ」
前足を組み直す。
「彼女の狙いは、おそらく焦りだ」
会議室の空気がわずかに張る。
「ヒーローを苛立たせ、過剰反応を引き出し、日常を崩す。そして“特別で異質な暴力装置”として切り取る」
モニターの光が眼鏡に反射する。
「ならば対策は単純なのさ」
そこで根津は、一同を見渡した。
「全力で、日々の職務にあたること」
誰も動かない。
だが全員が聞いている。
「社会人は仕事をする。学生は学ぶ。警察は捜査する」
淡々と。
一語ずつ置くように。
「当たり前のことを、当たり前に、全力で続ける」
会議室に静けさが落ちる。
「彼女がどれほど鮮やかな“聖女”を演じても、こちらが揺らがなければ演出は根を張れない」
少しだけ笑う。
「“普通”というものは、案外しぶといんだよ」
その言葉に、わずかに空気が緩んだ。
「『普通』を貫くことこそ、扇動者に対する我々の最も強固で――敵への最も残酷な武器になる」
根津は再びモニターへ目を向けた。
子どもへ菓子を差し出す映像。
「彼女が子どもにリボンを配るなら、私たちはその子が明日も学校へ行ける道を守る」
次の映像。
老人に毛布を掛ける姿。
「彼女が老人に菓子を渡すなら、私たちはその老人が安心して眠れる夜を維持する」
そこで初めて、その声に鋭さが混じる。
「対立する必要は無い。並走すればいい」
眼鏡の奥の瞳に、知性の光が宿った。
「彼女がどれほどこちらを貶めようとしても、私たちが“日常を支える一部”であり続ける限り――ヒーローという概念は死にません」
誰も反論しなかった。
否定できなかった。
根津は静かに資料を閉じる。
「死柄木の復活まで、あと一週間」
その一言で空気が引き締まる。
「彼女という雑音に振り回される暇は無いのさ」
小さな身体で、まっすぐ前を見る。
「世界がどれほど騒がしくても、私たちは静かに牙を研ぐ」
声は変わらず穏やかだった。
「そして、日々の義務を果たす」
短い沈黙。
その沈黙の質は、もう先ほどまでとは違っていた。
焦燥ではなく――覚悟だった。
根津校長の言葉は、冷え切っていた会議室に静かな火を灯した。
先ほどまで漂っていた重苦しい空気が、目に見えない膜を一枚剥がしたように薄れていく。
悲壮感は消えた。
代わりに戻ってきたのは、現場に立つ者たち特有の、余計な感情を削ぎ落とした鋭い目だった。
誰も希望を口にしない。
だが、全員が次にやるべきことを考え始めている。
小さな前足で端末を操作しながら、根津は静かに続けた。
「この数ヶ月の序盤と中盤――確かに我々は後れを取ってしまったね」
ホログラムが展開され、日本地図が会議卓の上に青白く浮かぶ。
避難区域、警戒線、支援拠点、巡回経路。
いくつもの光が重なり合う。
「彼女という“正論の暴力”に対して、組織としての脆さを露呈してしまった」
責める響きはない。
ただ事実だけを机上に置く声音。
「感情に飲まれた者。過去の罪に耐えられなかった者。恐怖に屈した者。確かに多くが現場を去ってしまった」
会議室の誰も目を逸らさない。
それぞれに思い当たる顔がある。
辞表を置いた者。
姿を消した者。
限界を迎えた者。
だが根津はそこで声を沈めなかった。
「だけどね皆――勝負はここからさ」
その一言に、空気がさらに引き締まる。
「この数ヶ月、彼女の扇動は結果として“ふるい”にもなった」
ホログラム上の配置図が切り替わる。
残存戦力。
稼働中のヒーロー。
「自制心を失った者は落ちた。しかし、その過酷なふるいに耐え、今なお現場に立ち続けている者たちは――」
眼鏡の奥の瞳が細くなる。
「間違いなく精鋭だ」
相澤消太が静かに頷いた。
脳裏に浮かぶのは、泥にまみれた教え子たちだった。
避難民の罵声を浴びながら瓦礫を運ぶ背中。
疲労で足を引きずりながらも巡回を終えた同僚たち。
「不純物は取り除かれた」
根津の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥に鋭さがある。
「今残っているのは、名声でも報酬でもなく、“守る”という意思だけで動ける者たちなんだ」
ブラドキングが腕を組み直す。
「我々はこの一週間、その精鋭と共に準備を整える」
ホログラムの一点が拡大される。
「そして――必ず勝つ」
短い沈黙。
それは疑念ではなく、受け止めるための静けさだった。
根津はそこで眼鏡の縁を押し上げた。
表情がわずかに変わる。
教育者から軍師へ。
「次に、関係各所へ徹底させるんだ」
声がさらに静かになる。
「バロネス・エインズワースのいかなる挑発にも乗らないこと」
「……無視、ですか」
相澤が低く問う。
「違うよ」
根津は首を振った。
「超越さ」
短い言葉だったが、その場の全員が意味を理解した。
「彼女が何を言おうと、何を演じようと、我々はただ“いつも通り”の職務で応える」
ホログラム上で巡回ルートが点灯する。
「反論しない。弁明しない。淡々と平和を維持する姿だけを見せる」
前足が止まる。
「泥を投げられても拾わない」
静かに続ける。
「我々が汚れなき職務を遂行し続ければ、その泥は投げた本人の手だけを汚してしまうのさ」
誰も言葉を挟まない。
「彼女の“演出”という舞台から、市民の目を“我々の日常”へ引き戻すのです」
会議室の空気は、完全に実務へ戻っていた。
読んでいただきありがとうございます
才子のターンはエンドしましたが、話はもう少し続きます
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誤字の修正ありがとうございました。