未明の刻。
黒岩流道場は、針のごとき冷徹な静寂と、歳月が染み込んだ床板の香気に支配されていた。
先代である父が他界して10年。母も後を追うように逝き、広い屋敷には黒岩哲治一人しかいない。
掃除、洗濯、道場の修繕。すべてを独りでこなすこの「静かすぎる生活」にも、ようやく慣れてきたところだ。
その闇の中心に、黒岩哲治は一人、正座していた。
身長185センチ、体重85キロ。
鍛え抜かれた肉体は、道着の上からでも岩塊を削り出した要塞のごとき威圧感を放ち、周囲の空気を圧壊せんばかりに鎮座している。
哲治は、床に据えた三味線の胴に無骨な手を添え、その
三味線とは、獣の皮と木の魂を合わせ持った、一種の呪具である。
皮に余計な湿気を与えぬよう、赤子を撫でるがごとき繊細さで駒を掛け、糸の調子を確かめる。
その所作の一つひとつが、武術の型と同じく無駄を削ぎ落とした、静かな祈りにも似た儀式であった。
伏し目のまま、象牙の
――ベンッ。
鋭く、硬質な単音。
三味線には、管楽器のような優雅な
放たれた音は、空気を切り裂いた瞬間に消え去る。
その刹那の美学。
(……このリズムだ。古式武術の運足、そして一撃。三味線の音色と同じ。長くは続かぬ。一瞬にすべてを込め、残響を断ち切る。それが黒岩流の極意……)
脳裏に「大薩摩」の力強いフレーズを響かせながら、彼は己の精神を研ぎ澄ませていく。
だが、どうしたことか。
情念を司るとされる「二の糸」の響きだけが、今朝は妙に艶かしく、鼓膜に粘りつく。
精神を統一しようとすればするほど、昨日、公民館の窓口で見かけた「須藤」という名の女性の姿が、脳裏のスクリーンに焼き付いて離れないのだ。
(……いかん。捨てろ。雑念を捨てろ、哲治)
事務室のカウンター越しに書類を受け取った際、彼女は深々と頭を下げた。
必要以上の会話こそなかったものの、都会での洗練を感じさせる、澱みのない所作。
しかし、彼女が業務のためにわずかに身を乗り出した際、哲治の視界には、その知的な振る舞いとは裏腹な、豊穣なる肉体的曲線が――まるで幾何学的な暴力として――否応なく侵入してしまった。
(……不潔だ。俺は何を思い出している。彼女はただ、公務に邁進しているだけではないか)
慌てて雑念を消し去ろうとするが、意識すればするほど、彼女の鈴のような声と、自分より一回り以上は若そうな肌の質感が、鮮明な輪郭を持って浮上してくる。
哲治の額に、氷点下の修行中にはありえない脂汗がひと筋、伝い落ちた。
◇
その数時間後。
哲治は、いつものように一分の隙もない着物姿で、町立コミュニティセンターの廊下を歩いていた。
すれ違う住民たちは、彼の放つ凄まじい眼光と、畳の上を滑るような歩法に圧倒され、あたかもモーゼが海を割るがごとく、自然と道を開ける。
「黒岩先生ですね。お疲れ様です」
事務室から、声をかけられて顔を上げる。
「はい。黒岩哲治です。本日はよろしくお願いいたします」
深く頭を下げ、自然と、相手よりも一拍遅く顔を上げた。
そこには、昨日の残像が実体となって立っていた。
女性――須藤帆乃花は、一瞬、目を丸くしてから、慌てて頭を下げ返した。
「あ、いえ、こちらこそ……須藤帆乃花と申します。今日は祭りの件で」
声ははきはきしているが、小動物のような怯えが混じっている。
哲治は、彼女の視線が自分の顔面付近で一瞬凍りつき、すぐに逸れたことに気づいた。
――怖い、か。
仕方のないことだ、と内心で独りごちる。
この町で、自分を初めて見て畏怖せぬ人間など存在しない。
「……あぁ。お世話になります、須藤さん」
哲治は、意識して声を低く、重厚にした。
だが、その内面は未曾有の崩落を起こしていた。
(近い。あまりにも、距離が近い)
「例の祭りの資料、用意できております。こちらへどうぞ」
彼女が資料を差し出すために近づくたび、石鹸のような、清潔感のある香りが鼻腔をくすぐる。
それは、線香と汗の匂いしか知らぬ哲治の鼻腔にとって、猛毒にも等しい甘美な刺激であった。
彼は、彼女の顔を直視することができず、まるで不倶戴天の敵の動きを警戒するように、机の端にあるセロハンテープの台を、殺気すら帯びた眼光で凝視し続けた。
「……黒岩さん? どこか具合、悪いですか? さっきからテープ台を睨んでますけど……」
「……いや。……この接着面の透明度について、少々考察していただけだ。……気になさるな」
嘘である。
40歳。
古流武術家元。
三味線愛好家。
町中の人から「生ける彫像」と畏怖される男は、一人の女性の「無垢なる接近」に対し、完膚なきまでに圧倒されていた。
(……祭りが、始まる。先祖代々の伝統を背負うこの時期に、このような邪念を抱くとは。……俺は、まだまだ修行が足りんようだ)
彼は背筋をさらにピンと伸ばし、己に課した厳格な戒律という名の鎧を、より一層固く締め直した。
しかし、運命という名の「不運の歯車」は、そんな彼の「聖域」を、物理的かつ残酷に狙い澄ましていたのである。
【黒岩哲治の独白】
……不覚だ。
道場主として、門下生の範たるべき俺が、あのような
三味線の音色は、一打に命を込め、残響を残さぬ潔さが肝要。
ならば俺の心も、彼女を見た瞬間に沸き立った邪念を、即座に白刃で断ち切るべきであった。
だというのに、どうだ。
今も
……いかん。
彼女は、都会から持ち込まれた「異物」だ。
悪意なき笑顔で、俺が築き上げてきた堅牢な城壁を、内側から溶解させようとしている。
このままでは、俺の精神が持たん。
……ま、案ずることはない。
俺の肉体は、長年の鍛錬により「鋼」にも等しい。
多少の動揺など、武術で培った自制心でねじ伏せてみせる。
……そう。
この時の俺は、まだ知らなかったのだ。
人の意志や自制心など、無慈悲な「点」の衝撃の前では、あまりにも無力であることを。
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