デート当日。
俺は鏡の前で、三十分ほど立ち尽くしていた。
目の前の男は、ベージュ色のくたびれたポロシャツと、サイズ感の合っていない茶色のズボンを身に纏っている。
まるで休日の公民館に集うゲートボール愛好家のようだ。
これが、黒岩哲治の「標準装備」である。
「……やはり、弱いな」
昨日の洋一氏の言葉が蘇る。
『時代錯誤なおっさん』。
このままでは、隣を歩く帆乃花さんに恥をかかせてしまう。
俺は意を決し、駅前のショッピングモールにある若者向け(と俺が思っている)の服屋へと足を踏み入れた。
【監視記録 10:15 アパレルショップ「J-STYLE」前】
対象:黒岩哲治(および妹) 監視者:須藤洋一
ターゲットが店に入った。
おい、嘘だろ。
あいつ、迷わず店の奥の「不良在庫コーナー」に行きやがったぞ。
そこにあるのは、売れ残りのVシネマ風ファッションだけだ。
……あ。手に取った。
背中に金色の昇り龍が刺繍された、光沢のある紫のシャツを手に取りやがった! 正気か? 貴様はこれからカチコミに行くのか?
やめろ! それをレジに持っていくな! 親父が知ったら卒倒するぞ!
「ふむ。これならば威厳もあり、若者にも舐められまい」
俺が手に取った「昇り龍」のシャツは、照明を受けて神々しく輝いていた。
これぞ男の戦闘服だ。
意気揚々と鏡に合わせようとしたその時、横からサッと小さな手が伸び、龍を奪い取った。
「だ、ダメです哲治さん! それは刺激が強すぎます!」
「む? そうか? 龍は縁起が良いと聞くが」
「縁起の問題ではありません! 威圧感が凄すぎて、職務質問されちゃいます!」
帆乃花さんは必死の形相で龍を棚に戻すと、俺の腕を引いて別の棚へと移動した。
彼女が選んだのは、飾り気のない白のシャツと、紺色のジャケット、そして細身のパンツだった。
「哲治さん、和服の半襟はお洒落な柄が良いですけど、洋服は『シンプル』が一番かっこいいんですよ。騙されたと思って着てみてください」
「……ふむ。貴女がそう言うなら」
俺は試着室へと押し込まれた。
数分後。
カーテンを開けると、帆乃花さんが目を丸くして、口元を両手で覆った。
「……わぁ」
「どうだ? やはり地味ではないか? どこかの企業の事務員のようで……」
「いいえ! すごく、すごく素敵です! まるで銀幕のスターみたい……!」
彼女の瞳がキラキラと輝いている。
お世辞には聞こえない。
鏡を見ると、そこには確かに、普段の「枯れた武道家」とは違う、年相応の落ち着いた紳士が映っていた。
洋服とは、魔法のようなものだな。
【監視記録 10:45 試着室前】
……チッ。
悔しいが、悪くない。
というか、ただの渋いイケオジじゃねえか。
素材が良いのが腹立つな。
龍の刺繍を着て自爆してくれればよかったのに。
帆乃花のやつ、見たことないくらいデレデレしてやがる。くそっ。
買い物を終えた我々は、隣町へ移動し、海沿いのイタリアンレストランに入った。
窓からは春の海が一望できる。
パスタランチを平らげ、デザートのアイスクリームが運ばれてきた時だ。
「哲治さん。そのピスタチオのアイス、一口ほしいなぁ」
帆乃花さんが、スプーンを咥えて上目遣いで見つめてくる。
そして、あろうことか目を閉じ、口を小さく開けて「待ち」の姿勢に入った。
これは……いわゆる「あーん」という儀式か?
「お、おぉ……」
周囲の視線が痛い。
だが、断れば彼女が恥をかく。
俺は震える手でスプーンを運び、彼女の口へと運んだ。
「ん……ふふ、おいしいです!」
「そ、そうか。それはよかった」
「じゃあ今度は、私のをあげますね。目を閉じてください」
「お、俺もやるのか? いや、流石にそれは……」
「ダメですか?」
首を傾げる仕草。
……卑怯だ。
断れるはずがない。
俺は覚悟を決めて目を閉じた。 来るか、冷たい甘味が。
――チュッ。
頬に、柔らかく温かい感触が触れた。 アイスではない。これは、唇だ。
「え……。……あ……」
目を開けると、帆乃花さんが悪戯っぽく笑っていた。
「えへへ、びっくりしました?」
俺の顔面温度は、瞬時に沸点を超えた。
【監視記録 12:30 レストラン】
貴様ァァァ!! なに頬を赤らめてるんだ!
そこで「武士道に反する!」とか言って突き飛ばせよ!
なんで満更でもない顔で受け入れてるんだよ!
……はぁ。帆乃花、お前そんな積極的な子だったのか。
兄ちゃん、見てられないよ。料理の味がしねぇ……。
気を取り直して向かったのは、レストラン近くの水族館だ。
ここは最新の施設ではなく、昔ながらのレトロな水族館である。
照明は薄暗く、家族連れで賑わっている。
「見てください哲治さん。このダイオウグソクムシ、なんとなく哲治さんに似てません? ムスッとして動かない感じとか」
「……俺はこんな表情をしているのか?」
「ふふ、怒らないでください。褒め言葉ですよ」
他愛もない会話をしながら、薄暗い通路を歩く。
自然と手が重なり、指が絡む。
その時だった。
「わーーーい!!」
死角から、弾丸のような影が飛び出してきた。
館内を走り回っていた小学生男児だ。
彼は前を見ず、全速力でコーナーを曲がり――俺の下腹部、すなわち「生命の聖域」へと、頭から突っ込んできた。
――ズドンッ!!
鈍く、重い衝撃音が体内を駆け巡る。
回避行動をとる間もなかった。
それは交通事故にも等しい、不可避の破壊であった。
「ぐっ……ッ!!!」
俺は無言で片膝をついた。
激痛という言葉すら生温い。
視界が明滅し、走馬灯のように歴代の徳川将軍の顔が浮かんでくる。
「うぇーん! おじちゃん邪魔だよぉ!」
ぶつかった子供が、あろうことか逆ギレして泣き出した。
いかん。
ここで俺が苦悶の表情を見せれば、子供にトラウマを与えてしまう。
俺は脂汗を流しながら、必死に口角を持ち上げた。
「……だ、大丈夫だ……坊や……」
薄暗い照明の中、下からライトアップされた俺の引きつった笑顔は、おそらく般若をも凌駕する恐怖の仮面となっていたのだろう。
「ぎゃあああああ!! 鬼だああああ!!」
子供はさらに泣き叫び、駆けつけた親御さんが「ひぃっ! す、すみません!」と青ざめて子供を回収していった。
……完全に不審者扱いである。
「あちゃあ……。大丈夫ですか、哲治さん?」
帆乃花さんが心配そうに背中をさすってくれる。
その優しさが、股間の痛み以上に心に沁みた。
「……子供に、怖い思いをさせてしまったな」
「哲治さんは悪くありませんよ。でも、やっぱり顔が怖かったかも」
彼女は笑いながら、俺をペンギンの水槽の前へと導いた。
そこには、エンペラーペンギンの親子が身を寄せ合っていた。
「……かわいいですね、赤ちゃん」
「ああ、そうだな」
「………」
帆乃花さんはしばらくペンギンを見つめていたが、ふと真面目な顔で俺を見上げた。
「哲治さん。将来……子供、ほしいと思いますか?」
唐突な、しかし核心を突く問い。
俺は痛む下腹部を意識の外へ追いやり、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……授かりものだ。俺もいい歳だから、必ずしもうまくいくとは限らない。もちろん、できれば嬉しいが……」
俺は彼女の手を強く握り返した。
「俺が大切にしたいのは、子供がいるかどうかではない。貴女という伴侶と、一日でも長く、笑って過ごせるかどうかだ」
それは、飾らぬ本心だった。
【監視記録 14:15 水族館ペンギンコーナー】
さっきのガキ、ナイスヘッドショットだったな。
ざまぁみろ。
……って、思ってたけど。
今の会話、盗み聞きしちまった。
「大切にしたいのは伴侶だ」……か。
ちくしょう。
俺が帆乃花に言ってやりたかった言葉を、なんでお前が言うんだよ。
悔しいけど……嘘をついてる目じゃなかったな。
夕日が沈みかける頃、我々は駐車場へと戻ってきた。
一日の疲れよりも、充実感が勝っていた。
ふと見ると、前方の歩道を、ゾンビのようにふらふらと歩く男がいた。 洋一氏だ。
「……あ、危ない!」
彼が車道へとはみ出した瞬間、背後から車が迫っていた。 俺はとっさに駆け出し、彼の襟首を掴んで歩道へと引き戻した。
「うおっ!?」
車がクラクションを鳴らして通り過ぎる。
「お兄ちゃん!? どうしたの!?」
「あ……。い、いえ。すみませんでした……」
洋一氏は俺を見て、気まずそうに目を逸らした。
その顔には、覇気がなかった。
妹の幸せそうな姿を一日中見せつけられ、兄としての役割が終わったような喪失感を感じているのだろう。
「須藤さん」
俺は彼の肩に手を置いた。
「先ほど水族館で、帆乃花さんが言っていましたよ。『小さい頃、お兄ちゃんによくここに連れてきてもらって楽しかった』と」
「え……」
「彼女が今日見せてくれた笑顔の土台を作ったのは、間違いなく貴方だ。……私ごときが、その積み重ねに勝てるはずもありませんよ」
洋一氏が顔を上げる。
その目に、涙が浮かんでいた。
彼は鼻をすすり、ボソリと言った。
「……すみません。むしろ、こんなにできた方、妹にはもったいないくらいです」
彼は深々と頭を下げた。
「妹を……よろしくお願い致します」
「はい。必ず」
夕焼けの中、男二人の、不器用な和解が成立した瞬間だった。
横で帆乃花さんが、今日一番の笑顔で笑っていた。