季節は巡る。
あの涙と笑いに包まれた祝言から、早一年が過ぎた。
道場の窓から差し込む秋の陽光は、変わらず穏やかだ。
だが、この一年で俺の生活は劇的に変化した。
「静寂」が支配していた黒岩邸は、今や「色彩」と「生活音」に満ちている。
朝は台所から包丁を叩く音が響き、夜は二人で食卓を囲む。
かつては「修行の妨げ」としか思えなかったそれらの雑音が、今では俺の精神を安定させる最も重要な
そして今年もまた、祭りの季節がやってきた。
俺は鏡の前で、真新しい
気合いを入れるようにギュッと締め上げるが、その手つきは以前よりも幾分か慎重だ。
なぜなら、今の俺には、自分の身体一つだけの命ではないからだ。
「……哲治さん、支度はできましたか?」
背後から、柔らかい声がかかる。
振り返れば、そこには大きなお腹を抱え、愛おしそうに撫でている帆乃花の姿があった。
今年は、彼女は祭りの列には加わらない。
当然だ。
彼女の体内には今、二つの新しい命が宿っているのだから。
検査の結果、「双子」だと知らされた時の衝撃は、あの寄り合いでの「
まさかこの歳で、二児の父になるとは。
人生とは、どこまで俺に予想外の試練と、それ以上の喜びを与えれば気が済むのか。
「……ああ、万全だ」
俺は彼女の元へ歩み寄り、その大きく膨らんだ腹部に、そっと手を添えた。
掌を通して、温かい熱と、確かな胎動が伝わってくる。
――ドクン。
力強い蹴りだ。
俺の手の中で、小さな命が「俺たちもいるぞ」と主張している。
「……元気だな。将来は二人とも、黒岩流の門下生か?」
「ふふ、女の子だったらどうするんですか? お三味線のお弟子さんかもしれませんよ」
「……それも悪くない」
俺は微笑み、彼女の瞳を見つめたかつては一人で背負っていた「伝統」や「誇り」。
それらが今、形を変えようとしている。
「帆乃花。やはり、今日は家で休んでいた方がいいのではないか? 人混みは危険だ」
「もう、またその話ですか? 大丈夫ですよ。お父さんとお母さんが付きっきりで見ててくれますし、家の二階から見守るだけですから」
彼女は頑固だ。
「哲治さんの晴れ姿を、この子たちにも見せてあげたいんです」と言われてしまえば、俺に反論の余地はない。
「……わかった。だが、絶対に無理はするなよ」
「はい。行ってらっしゃい、あなた」
「あなた」と呼ばれるその響きに、俺の背筋がスッと伸びる。
俺は
秋晴れの空の下、遠くから祭囃子が聞こえてくる。
笛の音。
太鼓の響き。
かつて、三味線の糸は「
一本では脆く切れやすい糸も、束ね、絡み合い、撚り合わせることで、強靭な弦となり、美しい音色を奏でる。
(……ああ、そうか)
父から私へ。
私から帆乃花へ。
そして、まだ見ぬ子供たちへ。
我々の命もまた、途切れることなく紡がれ、撚り合わされていく一本の糸なのだ。
この町に根付き、伝統を守り、次世代へとバトンを渡す。
それがどれほど尊く、重く、そして幸福なことか。
かつて「痛み」に耐えるために噛み締めていた奥歯に、今は「希望」という名の力が
俺は大きく息を吸い込み、青空を見上げた。
さあ、行こう。
愛する妻と、未来の子供たちが待っている。
俺の
春嵐 ~堅物武道家の受難と雪解け~ 完
黒岩哲治の物語を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は完結済みです。
「挿絵入り縦書きPDF版」を無料配布中です。
活動報告に詳細をお知らせしていますので、ぜひお立ち寄りください。