祭りの朝は、天さえもが畏怖するほどの紺碧であった。
町全体を震わせる笛と太鼓の咆哮。
アスファルトから立ち上る陽炎は、人々の熱狂を可視化した龍のごとく揺らめいている。
黒岩哲治は、
一昨日からの「多段衝撃」によるダメージは、未だ癒えてはいない。
一歩踏み出すごとに、下腹部の深淵から脳天へと駆け上がる鋭利な鈍痛。
内臓がせり上がるような苦悶が彼を支配していたが、彼はそれを「
今の彼は、一門の家元であり、この祭りの魂そのものだからだ。
「……さあ、行くぞ。……上げろッ!」
哲治の
「セイヤ、セイヤ!」という野太い掛け声が、熱風に乗って空気を叩く。
哲治は神輿の最前列、花棒の位置で、その数百キロの重みを全身で受け止めた。
肩に食い込む担ぎ棒の激しい摩擦痛さえ、股間の疼きを紛らわせるための「救い」にすら感じられた。
その時だった。
雑踏を誘導するスタッフの中に、いつになく凛々しく、そして清冽な姿を見つけた。
法被を纏い、艶やかな黒髪を高くまとめ上げた須藤帆乃花だ。
祭りの赤く燃える色彩の中で、彼女のうなじの白さだけが、雪原に咲く百合のように鮮烈に際立っている。
(……須藤さん)
見惚れた。
その瞬間、哲治が己に課していた「鋼の自律」に、微かな綻びが生じた。
意識が彼女へと吸い寄せられた刹那、神輿の重心が僅かに揺らぐ。
「テツさん!!」
「……ッ!!」
担ぎ手たちの声に現世へと引き戻され、哲治は咄嗟に足を踏ん張って神輿を立て直した。
踏ん張った反動で、股間の古傷が断末魔の悲鳴を上げたが、彼はもはや視線を外すことができなかった。
人の波の向こう。
帆乃花が、迷子になり泣きじゃくる子供の手を取り、屈み込んで目線を合わせている。
「大丈夫、一緒にお母さんを探しましょう」
その優しくも力強い仕草。
不安に震える幼子を包み込むその背中が、哲治の意識の底泥に沈んでいた古い、あまりにも古い記憶を呼び覚ます。
――あの日。
二十年前の、茜色に染まる神社の境内。
転んで泣きじゃくる幼子に、若き日の自分は何と言ったか。
『泣くのは、弱いことじゃない』
記憶の中の少女と、目の前の帆乃花が、時空を超えて重なり合う。
(まさか……あの時の、娘か……?)
心臓が、早鐘を打った。
それは痛みによる拍動ではない。
かつて自分が不器用な言葉で守った小さな「芽」が、二十年の時を経て、これほどまでに美しく、強き「花」へと咲き誇っていた事実への、震えるような感動であった。
「テツ!! どうした!?」
隣で担ぐ信二が、怪訝そうに声を飛ばす。
「……問題ない。……ただの、……武者震いだ」
嘘だ。
武者震いなどではない。
これは、魂の共鳴だ。
今の哲治には、肉体の痛み以上に激しく、心の琴線がかき鳴らされていた。
◇
宮入が終わり、熱狂が静寂へと移り変わる夕刻。
境内の片隅で、撤去作業の誘導をしていた帆乃花が、夜露に濡れた石畳に足を取られた。
「あ……っ!」
連日の激務による疲労もあったのだろう。
彼女の身体が大きく傾き、中空へと投げ出される。
転倒の衝撃を覚悟し、彼女がギュッと目を閉じたその時。
彼女の身体を、大きな、そして岩のように硬い腕が受け止めた。
「怪我はないか」
低く、重厚で、それでいてこの世で最も信頼できるバリトンの響き。
恐る恐る見上げれば、そこには汗に濡れた髪を乱し、苦悶と慈愛が混ざり合ったような、名状しがたい表情をした哲治がいた。
哲治の内面は、修羅界であった。
前日のダメージを受けた脚を震わせ、彼女を支えるために踏ん張った瞬間、股間に走った激痛で、視界は白く染まりかけている。
だが、彼は決して崩れなかった。
彼女の肩をしっかりと掴み、あの日と同じ言葉を、二十年の歳月を乗せて口にした。
「……泥を払え。……立てるか?」
帆乃花の時が、止まった。
脳裏に、夕暮れの逆光を背負った少年の影が重なる。
『泣くのは、弱いことじゃない。……一人でも立てるか?』
「……あの時の、お兄、さん……?」
帆乃花の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
二十年前。
都会の冷たさに心が折れそうになっても、自分を支え続けてくれたあの強くて不器用な「背中」が、今、目の前にあった。
記憶の中の幻影が、確かな体温と痛みを持った現実として、ここに結実したのだ。
「……よし、立てるなら大丈夫だ」
哲治はそう言うと、震える手で彼女の法被についた泥を払い、フッと短く息を吐いた。
その手の「震え」が、再会の感動ゆえのものか、それとも股間の限界ゆえのものか――帆乃花には、その両方のように感じられた。
「おいおい、あっちの二人はもう……お熱いことだねえ」
遠くで片付けをしていた信二が、ニヤニヤしながら師範代の斉藤に耳打ちした。
「ああ。師範のあんな柔和な……いや、あんなに『必死に耐えている』顔、初めて見ましたよ」
周囲の誰もが気づいていた。
家元の「聖域」に土足で踏み込み、その心を、そして肉体をこれほどまでにかき乱せるのは、世界にたった一人、彼女だけなのだということを。
【黒岩哲治の独白】
……そうだ。あの日も、俺はこうして彼女の前に立っていた。
あの時の俺は、ただ泣いている幼子に「強くあれ」と願ったに過ぎぬ。
それが二十年の時を経て、まさかこのような形で、成長した彼女の前で俺は「弱点」を何度も直撃する運命になろうとは。
神の脚本は、あまりにも数奇で、そして残酷だ。
(……疼く。……だが、……悪くない)
彼女が俺の腕の中で泣いている。
その温もりが、今までのあらゆる痛みを、誇り高き「勲章」へと変えていくようだ。
彼女は、俺にとって避けるべき災厄ではなかった。
守り、育て、そしていつか並んで歩くべき「花」だったのだ。
ああ、源さん。
信二。
斉藤。
笑いたければ笑うがいい。
俺は今、家元としてではなく、ただの一人の男として、彼女を支えている。
(……とはいえ、……もう、……一歩も動けん……。頼む……早く誰か、俺を……この姿勢のまま、……家まで担いでいってくれ……)