「ひいい...やめてくれぇ!」
夕暮れの中、草原に悲鳴が響いた。
馬車の回りに黒い人影が群がっている。十体以上の鬼たち。
緑の皮膚に棍棒で武装した、狡猾なブルブリンたちだ。
馬車を引く馬が怯えたようにいななき、跳ね回る。だが、鬼たちは蛭のように馬車にくっついて放さない。御者は必死で手綱を操っていたが、もはや万事休すと見えた。
「ルリハ...行くよ!」
ルリハは自分に言い聞かせると背中に背負った剣の柄を握り、引き抜いた。
彼女は馬の脇腹を踵で蹴ると、一気に加速させながら突っ込んでいった。
足音を聞きつけた鬼たちがこちらを振り返る。だがルリハは剣を一閃させ、端にいた鬼に肩口から深手を負わせた。
鬼たちが口々に喚き交わし、馬車から手を離してこちらに向き直った。
「逃げて!今のうちに!」
ルリハは速度を落としながら叫んだ。馬の御者は彼女の顔を認めると、驚愕の表情で口を開けた。
「お....お嬢ちゃん...だけど...」
「いいから早く!」
ルリハは手綱を取り、馬の向きを変えるともう一度敵の群れに向き直った。
だがその瞬間だった。
何かがこちらに飛んでくる。
彼女は咄嗟に身を低くし、その勢いで馬から転げ落ちた。頭上を矢がかすめる。怯えた馬が頼りない足どりで傍らから離れていった。
鬼たちが喚き声を上げながら陣形を整えている。顔を上げると、その中に弓兵が二人ほどいるのが見えた。
一人はさっきルリハに射掛けてきたやつだ。二の矢をつがえようとしている。
もう一人は弓を上げてこちらに狙いをつけている。ルリハは咄嗟に身を低くすると横に移動した。デタラメに射られた矢が明後日の方角に飛んでいく。
馬の御者は迷った末、逃げることにしたらしい。手綱を鳴らすと、馬車はまた速度を上げて走り始めた。
それを見た鬼たちが、逃した獲物に悔しがってか、そちらの方角を向いて拳を振り上げた。
ルリハは跳ね起きると、全速力で敵の群れに走り寄った。
先頭の敵が近づいてくる。距離がみるみる縮む。相手はこちらを見ていない。
間合いに入った瞬間、鬼がこちらに気づいた。ルリハは気合いを発しながら跳躍し、頭からジャンプ斬りを叩きつけた。着地しつつ、胴を払う。
力を失った鬼がゆっくりと崩れ落ちる。
だが、弓兵たちがこちらに向き直った。
このままではいいように射られる。ルリハは咄嗟に今斬り捨てたばかりの鬼の身体の影に隠れた。飛んできた矢が立て続けにそいつの身体に刺さった。
彼女は素早く周囲に目を走らせた。
夕暮れが近づくなか、敵は体勢を立て直しつつあった。こちらがたった一人と知って、包囲しようとしている。
弓兵までの間合いはまだ遠い。それに一人を斬っている間にもう一人が射掛けてくるだろう。
左右から棍棒を持った鬼どもが近づいてくる。
―――混戦になれば弓兵も狙いにくい―――
ルリハはもはやぐったりとなった鬼の身体を突き飛ばすと、剣を構え直した。
弓兵が狙いをつけ、矢を放つまでは、たった数秒しかない。
ルリハは右から来る敵に向き直ると、その武器を剣で逸して深く入身し、逆袈裟斬りに胴を払った。
背後からも来る。確信があった。
ルリハは咄嗟に前転した。風を切る音がして、また矢が頭上を飛んでいく。背後の地面を棍棒が叩く音がした。
振り返ると、もう一匹のボコブリンがこちらを睨みつけ棍棒を振り上げようとしている。視界の隅には残りの敵が近づいてきているのが見えた。弓兵どももまた矢をつがえてこちらに狙いをつけている。
あと....七人?八人?いや、もっと?
背後で、愛馬が不安げにいななくのが聞こえた。
もし自分が負けたら。言葉にもできないような残虐な扱いを受けるだけではない。愛馬もまた彼らの所有物にされてしまう。
不安と恐怖が喉元までせり上がってくるのがわかった。
だが止まるわけにはいかない。ルリハは横に走った。弓兵たちが矢を射る。身体のすぐ後ろを矢がかすめる。
射終わった瞬間から、攻撃のターンだ。
ルリハは向きを変えて近くにいた鬼に突進した。
声にならない気合いを発して、ルリハは袈裟斬りを撃ち込んだ。相手は思わぬ機敏さで飛び退いて避けた。その周辺の敵も一斉にこちらに向かってくる。
囲まれる。ルリハは咄嗟に身を沈め、剣を身体の左側に添えた。
時間切れまであと少しだ。だが引きつけなければ。
ギリギリまで呼吸を溜めると、ルリハは渾身の回転斬りを放った。
周囲に群がってきた鬼たちの数匹に刃が当たった。一匹が深手を負ってよろめく。武器を取り落としたその他の鬼たちが罵声を上げる。
また風を切る音がした。矢だ。ルリハは咄嗟に地面に伏せた。外れた矢が頭上を通り過ぎる。
だが回転斬りは時間稼ぎにしかなっていないとわかった。ブルブリンどもは武器を拾い直してこちらを取り囲んできた。
もう、息が上がり始めている。どうする。このままでは。
だが、奇妙なことが起こった。
周囲にいた鬼たちが、急に力が抜けたように立ち尽くし始めたのだ。
同士打ち?弓兵たちが狙いを誤ったか?
ルリハは顔を上げた。風切り音が次々と響く。
ヒュン...!ヒュン...!
鬼たちの後頭部に矢が突き刺さっているのが見えた。
それだけではなかった。少し離れたところにいる弓兵たちも胸や腹に矢を食らってうずくまった。
鬼たちは思わぬ方角からの奇襲に慌てて左右を見た。ルリハもまた驚きに満たされて、武器を構えるのも忘れ周囲を見回した。
赤く染まった平原に、その『援軍』は立っていた。
緑のチュニックを着た少女だった。歳の頃はルリハと同じか、もう少し下だ。
彼女は両手にボウガンを構えると無造作に発射した。放たれた矢が飛んで、ブルブリンの腹に命中する。痛みに悲鳴を上げた鬼が武器を取り落とす。
その少女は慣れた手付きで両手の武器を打ち合わせるように操作すると、また狙いをつけて発射した。別の鬼の胸に矢が突き刺さる。
鬼たちは急激に仲間の数が減ったことに気づき、怖気づき始めた。
ルリハはその機を逃さなかった。立ち上がると近くにいる無傷の鬼に駆け寄って、武器を叩き落し深々と突きを食らわす。
だが、鼻先を矢がかすめ、ルリハは思わず首をすくめた。矢は今しがた止めを刺した鬼の首に突き刺さった。
「ちょっとちょっと!危ないよ!うちが狙ってたのに勝手に動かないでよ!」
少女が叫ぶのが聞こえた。当惑したルリハが振り返ると、鬼たちはすでに全滅していた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「まったくもう....もう少しで当てちゃうところだったじゃん。急に走ったりするからさあ」
少女はこちらに近づいてきながら呟くと、両手のボウガンをロングブーツの両腿に引っ掛けた。
「...どうやら礼を言わなきゃいけないみたいね。あたしはルリハ。トアル村のルリハ」
ルリハは苦笑しながら剣を血払いすると、自己紹介した。
「お姉ちゃん、もしかして剣士?本物?」
弾む声で少女が尋ねる。
「うん。それがどうしたの?」
「うち、女の剣士なんて初めて見た!」
少女は無邪気な笑顔を浮かべると声を上げた。
「数は少ないけどいないわけじゃないよ。ハイラル城の剣術指南役のアッシュだって女の人だしね」
「へえ....でもなあ」
少女は含むところのあり気な表情で続けた。
「なんか.....剣士ってさぁ......」
「何よ?」
ルリハが怪訝に思って尋ねると少女は小声で言った。
「なんかさぁ、効率悪くなぁい?ああやって近づいて一匹。そんでもう一匹。そんでもう一匹。なあんかこう...もっといいやり方ないのかなぁって」
それを聞いたルリハは猛烈に腹が立った。思わず罵声を発しそうになるのを辛うじてこらえると、彼女は言った。
「あんたのボウガンの腕が確かなのは認める。だけど、剣士には剣士のやり方がある。勇者リンクも、あたしのお父さんも、アッシュさんもそうやって戦ってきたんだから」
だが少女は構わず続けた。
「リンクってさ、『勇者の弓』使ってたんでしょ?うち知ってるよ。あ、それからパチンコも。賢いよね。それで魔物倒しちゃうなんてさ。うち、そういうの好きなんよ。汗かかないでヒュッて撃ってバシッて倒す、みたいなぁ?」
ルリハは違和感と腹立ちで黙っていられなくなった。彼女は剣を布で拭って鞘に収めると、静かに切り出した。
「剣士にケチをつけたいならあんたの自由よ。あたしはもう行くから」
彼女は周囲を見渡すと、平原を指さした。
「もうわかってるだろうけど平原は危険な場所よ。天幕も火起こしの道具も持たずに夜を明かせるような甘い場所じゃあない。あんたはどこに行って何しようとしているのか知らないけど、死にたくなかったらさっさと家に帰ることね」
「あ......それなんだけどさあ」
少女はまったく悪びれずに答えた。
「お姉ちゃん、もしテントとかあるんだったら、うちのこと泊めてくれない?うち、なんにも持ってないし....」
そして彼女は続けた。
「なんなら、ご飯ごちそうしてくれるとうれしいんだけど....だめ?」
* * * * * * * * * * * * *
「うちはリンクル。コッコル村から来たんだ!」
そう言うと、彼女はルリハが差し出したパンに齧り付いた。よほど腹が減っていたらしい。嬉しそうにパンを食むその無邪気な顔を見ると、ルリハは心の中に膨れ上がった怒りがしぼんでいってしまうような気がした。
「コッコル村って...たしかフィローネの北東の巨木の森の....」
「そ。木登りだったら任せて」
リンクルは頬張ったパンを飲み込むと、笑顔を向けてきた。
「でも、リンクル....あんたはいまいくつなの?なんで一人旅なんかに?」
自分もパンを食べながらルリハは尋ねた。日は既に暮れ、焚き火の火が二人を照らしている。近くの木に繋がれた馬もゆっくりと草をはんでいた。
「うち今十四。お父さんとおばあちゃんに育てられたんだけどさ....」
彼女は食事の手を休めて呟いた。
「お父さんは小さいとき事故で死んじゃった。それからずっとおばあちゃんと暮らしてた。コッコ飼いながら。コッコ飼いって結構大変なんよ。飛んで逃げるし、気は荒いし。それに時々野犬とかが食べに来るし。そんでボウガンも自然に上達したってわけ」
ルリハは黙って聞いていた。
「でも、おばあちゃんも死んじゃったの。で、死ぬ前にうちに言ったの。うちは勇者リンクにちなんで名付けられたんだから、きっと勇者みたいになれるって。それでね....」
リンクルは懐から何かを取り出した。
「このコンパスをくれたの。形見の品に。勇者リンクが使ってたんだって。それでおばあちゃん、『このコンパスがきっとリンクルの行くべきところを指してくれるよ』って....」
「あのさ...なんていうか、もしかして」
ルリハは心に思い浮かんだことを口にした。
「リンクルの家って...よそからの移住者だったとか?」
「よくわかるね。ルリハお姉ちゃん、カン鋭くない?」
リンクルは驚いて目を丸くした。
「ん.....まあね」
「うちのお父さんとおばあちゃん、昔城下町に住んでたらしいよ。うちの生まれる前だけどね。でもなんか事情があって、あっちの仕事やめて引っ越してきたんだって。お父さん手先が器用だったから、元気なうちは色んな道具作ったりして商売してたんだけど.....」
ルリハは聞きながら目を伏せた。自分がどれほど恵まれていたかを思い知らされた。
両親も健在で、資産もあり、村でも信頼されている剣士一家の出である自分。かたや、全ての身寄りを失い、当てのない旅に出た少女。
ルリハは知っていた。家畜の群れの世話をして手間賃を得る仕事は、大抵の場合、村に地所を持たない者が行うのだ。村の出身者ではない一家の娘であるリンクルは、父の死後にはおそらく祖母以外の誰にも顧みられることなく捨て子のように扱われたはずだ。
村に居場所を無くしたリンクルは、だから一か八かで旅に出たのだろう。リンクルの独白から読み取れてしまったものが、ルリハの心の奥に疼きを与えた。
「.....今まで...大変だったんだね」
彼女は何気なく漏らした。
「え?う...ん、まあね。でも大丈夫。うち強いから!」
リンクルはやや驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべて言った。
「で、コンパスの指す方向ってどっちなの?」
ルリハは重ねて聞いた。すると、リンクルは困惑した顔をして肩をすくめた。
「それがさ...その日その日で違うんよ。さっきは平原のほう指してた。だから行ってみたらお姉ちゃんが鬼どもと戦ってたってわけ」
「その日その日で違う?何それ?そんなのコンパスって言えないじゃん」
「しょうがないじゃん。そういうもんなんだから。おばあちゃんいわく『魔法のコンパス』なんだもん」
「魔法....」
「そう。勇者もこのコンパスに導かれて旅したらしいよ」
そんな頼りないことで大丈夫なのだろうか。ルリハは苦笑いしながら溜め息をついた。だが彼女の心はもう決まっていた。
思わぬ相棒を得た彼女は、決心した。
一緒に行けるところまで一緒に行こう。この無鉄砲で無邪気な年下の少女と。