東の空が白むなか、ルリハたちの陣地では兵士たちが慌ただしく装備を整えていた。
敵の群れとの距離はまだ遠い。その方角を見ながらアッシュはバルド軍曹に言った。
「鬼たちのうちに騎兵はおらぬ。歩兵だけだ。数ばかりで能のない連中だ。だがノクス博士の手下が問題だな」
だが軍曹は臆する様子もなく答える。
「クローナックですな。なぁに、いくら不死身といえども戦棍で叩き潰してやれば立ち上がれますまい」
「油断は禁物だ。戦況次第では撤退も考えろ」
アッシュが言うと軍曹は眉を上げて相手を見た。
「ご冗談を。我が小隊が尻尾を巻いて逃げるなど」
するとアッシュは少し溜め息をついた。
「貴殿は栄誉ある死に憧れているのか?もう少し頭のいい男だと思ったが」
「教官こそ、たったお一人で伝説になろうと目論んでおられるのでは?」
軍曹は悪戯っぽい目つきで相手を見た。アッシュはうんざりしたように笑いながら首を振った。
「悪い部下を持ったものだ。私が継続して監視せねばらなんな」
「ご自由に。ですが撤退命令は聞こえない振りをさせて頂きます」
聞いていたルリハは、迫りくる事態の重大性をヒシヒシと感じるとともに、それにも関わらず冗談を言い合っているアッシュと軍曹に驚いていた。
「クローナックは....腕や上半身をいくら斬っても効かないわ」
ルリハは遠慮がちに口を出した。すると軍曹が片眉を上げて振り向いた。
「...でも、脚を斬れば動けなくなる。もし参考になれば」
「感謝する。ところで、剣士見習いの娘」
軍曹が近づいてきた。ルリハは胸を張って相手を見上げる。
「あたしにはルリハって名前があるけど?」
「ルリハ。悪い事は言わん。お前たちは逃げろ」
「逃げる?」
ルリハは驚いて目を剥いた。軍曹は静かに続けた。
「そうだ。ここから先は地獄になる。残念だがお前たちの出る幕はない」
「ちょっと待ちなさいよ。聞き捨てならないわね」
ルリハは腕を組むと憤然と顔を上げた。
「あたしは剣士よ。剣士がこういう時に逃げ出すと思う?」
「お前の誇りはわかった。だがよく聞け。戦場というものは...」
軍曹の言葉を最後まで聞かず、彼女は背後のハイラル城を指さした。
「いまあたしたちがここを捨てたら魔王は蘇る。そうなったら濠の向こうに閉じこもっていたってなんの意味もないのよ。だとしたらいまこのとき剣を振るわないでいつそうするの?」
「落ち着け。お前は戦場の現実を分かっていない」
「戦いなら知ってるわ。何度も戦った。今回も同じよ」
「死ぬために戦うのか、その歳で?バカなことはやめろ」
「バカって言ったわね。そういうあんたはどうなのよ!」
二人が次第にヒートアップする中、いつの間にか傍らに来ていたリンクルが呟いた。
「ほぉら。うちが思った通りだった。お似合いだね、おふたりさん!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?!」
ルリハと軍曹は愕然とした様子で揃って振り向いた。リンクルは忍び笑いをこらえながら言う。
「ね?喧嘩するほど仲がいいってよく言うじゃん?」
「違う!絶対に違う!」
ふたりの声が完璧にシンクロしてしまい、ルリハと軍曹は互いに顔を見合わせ、次の瞬間凄い勢いでそっぽを向いた。
「ほぉらほら、照れてないでッ」
「もう..あんたは黙っててよ!」
しきりにイジリ続けるリンクルを叱りつけるルリハ。するとアッシュが言った。
「ルリハ嬢。貴女ら三人は私の近くに居られよ」
「護衛つきで戦場か。いいご身分だな」
軍曹が苦笑いしながらこちらを見やる。ルリハは猛然と喰ってかかった。
「なんだって?もう一回言ってみな!」
だが軍曹は戦棍を担ぎ上げると返事もせず歩いていった。ルリハは怒りが収まらず、脚で地面を踏みならした。
「ッたく誰があんな奴。ホント嫌な感じ」
「ほらまさにこれ!恋愛フラグじゃん!」
リンクルが嬉しそうに叫んだ。腹立たしいことに、ルダまでニヤニヤしている。ルリハが妹分の首根っこを捕まえようとしていると、アッシュがもう一度口を開いた。
「ルリハ嬢、リンクル嬢、そしてルダ先生」
その真剣な語調に、三人は思わず止まって聞き耳を立てた。
「ルリハ嬢の言う通り魔王が復活したら籠城も意味をなさん。だから人手はひとりでも多いほうがいい。だがそれでも留保させてもらいたい」
アッシュは三人を見回すと言葉を継いだ。
「私が避難を勧告したら従って頂く。貴女らは民間人だ。命を賭して王国を守る誓約を立てた兵士とは違う」
「わかったわ。でも途中まではあなたの傍にいていいってことね?」
それまで黙っていたルダが言った。するとアッシュはやや驚いた顔をした。
「それはどういう意味だ、ルダ先生?」
「特に意味はないわ。でも、この戦いはきっと世界の命運にかかわる戦いになると思う。だから私は...世界がどういう方向に進もうと、できるだけ長くあなたの傍にいたいと思った」
聞いていたリンクルは、手を口に当て、驚きのあまり飛び出しそうになるほど目を見開いていた。ルリハもどう反応していいかわからず、ふたりを見つめるばかりだった。ルダは目を伏せると静かに続けた。
「城下町に来て初めてできた友達はアッシュ、あなただった。私にとっては一番大事な人だから。ただそれだけよ」
「ねえルリハお姉ちゃん!これってまさかの...ゆ....」
「シッ!おふざけにしないの!」
リンクルが袖を引っ張って囁きかけてくるのを、ルリハは黙らせた。
「教官、誰かが接近してきます!」
その時、バルド軍曹が駆け戻ってきた。アッシュは遠眼鏡を取り上げて目をやると、やや顔をしかめた。
「ノクス博士だ。降伏の勧告でもしに来たらしい」
ルリハたちも真顔に戻り、彼女の指す方向を見た。
はるか遠くに散開する鬼の群れの手前に、黒ずくめの集団がいる。その黒ずくめの男たちが担いだ輿の上に、老人がひとり乗っていた。
「アッシュ少佐..........昨夜は実に見事な腕前だった。素直に賞賛したい」
博士が呼びかける声が聞こえてきた。
「ノクス博士!この距離では聞き取りづらい。もそっと近寄られてはどうか」
アッシュは大きな声で返した。だが博士が答えた。
「そうはいかない。君たちはどうせ陣地の前に爆弾でも仕掛けているんだろう」
「クソッ。読まれていたか...」
バルド軍曹が悔しそうに呟く。
「アッシュ少佐。それはそうと、今貴女が立っている陣地を明け渡してはくれぬか」
また博士が言った。
「この平原はハイラル軍の管理下にある。民間人は無用の立ち入りを避けられよ」
アッシュの返答する声が響き渡る。
「仕方がない。では君たちがどれほど持ちこたえられるか、見物と行こう」
博士は肩をすくめると続けた。
「今日は実に記念すべき日だ。魔王の『血が目覚め』、秩序が変わるのだ」
「役にも立たぬ鬼どもをどれほどけしかけようと、結果は変わらぬぞ」
アッシュが負けずに声を張り上げ、笑いながら人差し指を立てた。
「ノクス博士、貴殿自慢のハイブリッド戦士を投入されれはどうか?」
そして、彼女はゆっくりとその指先を自分の顎の下に当てて左から右に切り裂く仕草をした。
「やばい...あのひと絶対狂ってるって!」
リンクルがまたルリハに囁く。彼女は無言で頷くしかなかった。アッシュはまた呼ばわった。
「戦いとは知恵と技と力の全てをぶつけ合うもの。その点鬼どもは所詮獣と変わらぬ。私にとっては屠殺のようなものだ。少しは手応えのある獲物をお連れ頂きたい」
「ははは....実に勇ましい。だがまあそう焦らずにいたまえ。君たちの実力のほどをまずは見せてもらおうじゃないか」
博士はそう言うと合図を出した。輿が後退していき、博士の姿は鬼の大群の中に混じって見えなくなった。
「どうして鬼に攻撃されないんだろ」
目を凝らしながらルリハは不思議に思って呟いた。ルダが答えた。
「体の大部分が魔物だからよ」
「キモッ。そんなまでしてうち長生きしたくないよ」
リンクルは怖気を振るった顔をして両手で自分の肩を抱いた。
「軍曹、作戦を」
アッシュが軍曹に向き直った。バルド軍曹は周囲の平原一体を指さすと説明を始めた。
「陣地周辺に円形を描くように燃料を散布。その外周には爆弾を設置」
「何発だ」
「ありったけです」
「良いだろう」
「加えて、一か所だけ『炎の壁』に出入口を設けます。燃焼が終わらぬうちから突撃を仕掛け攪乱。できるだけ多くの敵を引き付けます。そこから引火する爆弾の導火線の秒数は三十秒を想定」
「長すぎる。二十秒だ」
ふたりが話し合いを終え、軍曹が作業の指揮を始めると、リンクルがなぜか含みのある顔をしながらアッシュの前にぴょこんと立った。
「ねえアッシュお姉さん。お願いがあるんだぁ」
「何だ、リンクル嬢」
「うちらさぁ...結構任務、頑張ったでしょ?だからぁ...ご褒美とか。くれない?」
「もちろんだ。戦さが終わった暁には女王陛下に...」
「ううん、そんな大したことじゃないの。ただ、うちの頼みひとつだけ聞いてくれる?」
丸めた両手を顎の下につけて意味ありげに上目遣いしてくるリンクルを、アッシュはやや不思議そうに眺めた。
「...私にできることであれば」
「じゃあさ...ルリハお姉ちゃんを弟子にして...あげてくれる?」
「ええッ?」
ルリハはそれを聞いて思わず目を剥いた。同時に、作業の指揮をしていた軍曹も驚いて振り向く。
「お願い。ね?いいでしょ?」
ルリハは言葉を失って妹分を見つめ、軍曹は困惑した顔でアッシュとリンクルを交互に見やっている。
「...わかった。引き受けよう」
「やったぁ!」
アッシュの返事にリンクルは拳を突き上げて飛び上がった。ルリハは喜んでいいのか、リンクルを叱るべきなのか、分からなくなってしまいただ目を白黒させていた。
「教官、しかしそれは規則で.......」
軍曹が信じがたいといった顔をして言うのをアッシュは制止した。
「今はよせ。眼の前の戦いに集中しろ」
アッシュは顔を上げて敵の群れの方を見ながら言葉を継いだ。鬼たちの群れはゆっくりと散開しながら動いている。
「ルダ先生の言ったとおり、世界の命運にかかわる戦いだ。違うか?」
それを聞いたバルド軍曹は何かに気づいたように目を見開いた。
「きょ...教官。まさか.........」
「もうよせと言っている、バルド」
やがて鬼たちの鬨の声が聞こえてきた。距離はまだ離れている。だが、数が多い。右から左まで見渡す限りの数だ。
「軽く食事をしておけ。次食べられるのはだいぶ先だ」
アッシュが言った。軍曹は我に帰ると命令を伝達した。ルリハたちもパンを受け取り、片手に持って齧りながら敵情を観察した。
前回手ひどくやられた連中から話を聞いたのか、敵はなかなか近づいてこない。だが、こちらの陣地を全包囲から取り囲むようにして布陣し始めた。
「四方八方敵だらけだゴロ。とにかく拳を振り回してれば敵に当たるってことだゴロ」
食事を終えたドンゴがのんびりとした口調で言う。すると軍曹が同意した。
「その通り。さすがゴロン戦士だな。あんたとは気が合いそうだ」
‥‥‥‥ウォォォォォッ!
やがて数分もすると、再び鬼たちの鬨の声が聞こえた。空が震えるほどだ。リンクルはふと気づいたようにコンパスを取り出して覗き込み、次の瞬間呆れたような顔をしながらルリハの袖を引いた。
「ほら。こっちも狂っちゃってる」
ルリハが見ると、コンパスの針は激しく震えている。あまり暴れるので、針が中央の軸から吹き飛びそうになってしまっていた。
「来るぞ。矢に気をつけろ」
軍曹が言った。鬼たちはゆっくりとした速度で前進してきた。ルリハはごくりと唾を飲み込んだ。こんな多数の魔物たちをいちどきに見たことなどない。
――世界の命運にかかわる戦いなんだ――
軍曹の前では勇ましいことを言ってみたが、彼女の心に急速に恐れと怯えが湧き上がってきた。
だがその瞬間、リンクルが手を伸ばして彼女の手を握った。
「うちも怖い。でも怖くても戦えるってわかったんだ。だから一緒に頑張ろ?」
「リンクル、あんた...」
ルリハは妹分の手を握り返すと、目に浮かんできた涙に気づかれないよう顔を逸らした。
「あんたが仲間で....良かった。やっぱあたしの妹だ」
「なんでこんな弱虫拾っちゃったんだろって思ってたでしょ?」
「思ってないよ。思ってない」
「いいんだ、思ってても。うちは、ここに居場所があるから」
顔を上げると、鬼たちが武器を天に突き上げて気勢を上げているのが目に入った。少し遅れて、咆哮と雄たけびが聞こえてくる。だが、距離が縮むにつれその時差はなくなっていった。
「犠牲をいとわず数で押してくるつもりね」
ルダがアッシュの傍らで言った。ルリハはなぜ彼女がこんなに落ち着いていられるのかが不思議だった。
「先生、私の後ろにおられよ」
アッシュがゆっくりと剣を抜き放ちながら言う。その周囲では軍曹以下小隊の兵士たちも武器を構えていた。
同士討ちを警戒しているらしく、案に相違して敵から矢は飛んでこない。
「ねえ、矢、飛んでこないわよ」
ルリハは軍曹に言った。すると彼は舌打ちして言った。
「嫌味のつもりか?」
「ごめん。言ってみただけ。傷ついちゃった?」
ルリハがおどけて言うと、軍曹は首を振って苦笑いした。
「小娘が。お前はどうやら死ななそうだな」
「よくわかってんじゃん。見直した?」
だが軍曹が何か言う前に敵群の前進の速度が急速に早まった。
前列の鬼が武器を振り上げて走り始め、その動きに合わせて後列も一斉に動き始めた。
足音が地響きのように近づいてくる。咆哮と騒音もあいまって、空気が震えた。
アッシュも、軍曹も、微動だにしない。
距離が縮んでいく。五十メートル。三十メートル。二十メートル。
十メートル。鬼どもの顔がはっきり見える。喚き声とともに口から跳ね飛ばされる唾まで見えた。
「点火!」
軍曹の声が聞こえた。兵士の一人が手に持っていた燃えさしを投げつける。
ボンッ....!ゴォォォォォッ.....
たちまち炎が上がり、陣地の周囲を円形に包んだ。
接近してきていた鬼たちが火だるまになる。アッシュの銀色の甲冑が炎の光で真っ赤に染まった。
「襲撃!」
軍曹が号令をかけ、炎の壁の一箇所に空いた隙間から飛び出していく。小隊が後に続いた。
「軍曹らに任されよ。貴女らの出番はあとだ」
アッシュが冷静な声で言う。ドンゴも動きたそうな顔をしていたが、アッシュが一瞥するとすぐに大人しくなった。
戦棍で鬼たちが打ち倒される音。断末魔の悲鳴。炎の向こうは阿鼻叫喚の様相だった。
「戻れ!戻れ!」
再び軍曹の声が聞こえる。炎の壁の隙間から兵士たちが次々に飛び込んでいる。軍曹はそれを見届けながらも、押し寄せる鬼どもを近寄せないよう武器を振り回していた。
「軍曹...!」
ルリハは思わず目を見開いた。鬼の一人が弓を構え、直射弾道で軍曹に向けて撃った。矢が胸に突き刺さる。だが軍曹は怯むこともなく戦っている。ルリハは救援に行こうと足を踏み出しかけた。
だが途端にアッシュの手が伸びてきてその肩を押さえた。小隊の最後の一人が戻ってくると、軍曹は踵を返してこちらに飛び込んできた。
「伏せろ!」
陣地内の全員が伏せた。
それと同時に耳を聾するほどの爆発音。
まるで雷神が荒れ狂っているかのような音。陣地の周囲あらゆる方角で爆弾が炸裂していた。
ルリハは両手で頭を抱えてひたすら地面に伏せていた。
一瞬、耳が聞こえなくなった。だが数秒すると、また聞こえてきた。
空に響き渡る爆音の残響。鬼たちの悲鳴と呻き声。だが、顔を上げるといつの間にかルダが軍曹の鎖帷子を脱がし、傷を調べている。血に染まった矢がその足元に落ちていた。
「先生、時間がない。あと十秒で再出撃できるか?」
軍曹が言うと、ルダは彼の傷に荒々しい手付きで消毒薬をふりかけながら忌々しそうに答えた。
「こんな悪運の持ち主見たことないわ。許可します」
軍曹は女医が言い終わる前に顔を上げ、号令をかけた。
「小隊配置につけ!全方位散開!」
「待ちなさいッ!包帯がまだよ!」
ルダが鬼の形相で叫びながら軍曹を押し止める。ルリハは素早く近寄って女医を手伝った。包帯が巻かれると軍曹は鎖帷子を頭から被り、礼も言わずに飛び出していった。
ルリハは改めて周囲を見回した。煙が立ち昇るなか、そこらじゅうに死骸が散らばり、鬼どもの群れは大きく押し返されていた。
「ねえ、なんか...ヘンじゃない?」
そのとき、リンクルが耳を押さえて顔をしかめながら立ち上がった。ルリハは答えた。
「当たり前でしょ、あたしたち全員爆弾で耳やられてるんだから」
「違うの。見て。ほら」
リンクルが地面を指さす。見ると、地面から黒い気体が立ち昇っている。黒い影のような。それでいて形がなく、ゆらゆらと揺れている。
「先生....これなに?」
ルリハが思わず尋ねると、道具を片付けていたルダが振り返り、そして目を見開いて止まった。リンクルは情けない声を出した。
「キモいィ...なんか動いてるし。何なの?」
「いよいよ....ね。じき『目覚める』のよ」
ルダは覚悟を決めたような顔で言った。ルリハもリンクルも、驚いて彼女を見つめた。
「『目覚める』のよ、魔王の.......魂が」