## 第1話:嵐の予感、黄金の進級
京都の春は、刺せば血が滲むような鋭い日差しと、どこか粘り気のある風が同居している。
私は、宇治川の堤防を歩きながら、自分の胸に去来する不思議な高揚感と、それ以上の不安を噛み締めていた。
「二年生、か。……早いなあ」
隣を歩く麗奈は、制服の襟を正しながら、一点の曇りもない瞳で前を見据えている。
「何言ってるの、久美子。勝負はここからよ。今年こそ、全国で金。……滝先生の理想を、私たちが形にするの」
「……うん。わかってるけどさ」
北宇治高校吹奏楽部。昨年、あと一歩で届かなかった「全国金賞」という頂。その重圧を背負いながら、私たちの新しい一年が幕を開けようとしていた。
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### 新入生勧誘の「狂騒曲」
放課後の校舎は、部活動勧誘の喧騒に包まれていた。体育館から響くバレーボールの音、合唱部の歌声、そして何より、音楽室周辺から漏れ聞こえてくる金管楽器の咆哮。
「ねえ、聞いた? 今年のホルンパート、ヤバい人がいるって」
「一年の女子たちが、みんな音楽室の方に行ってるよ。……イケメンっていうか、すっごく綺麗な人がいるんだって」
廊下ですれ違う生徒たちの噂話に、私は首を傾げた。
「……イケメン? ホルンにそんな子、いたっけ」
「久美子、如月のこと忘れたの?」
麗奈が呆れたように言う。如月響くん。昨年、彗星のごとく北宇治に現れた「劇薬」。シュベールト・フィルの現役団員であり、全日本ソロコンテスト優勝者。そして、何よりその中性的で整った容姿は、女子生徒たちの間で「北宇治の王子」とまで称されていた。
音楽室の重い扉を開けると、そこには案の定、異様な光景が広がっていた。
ホルンパートの練習スペース。そこには、新入生の女子たちが十数人、うっとりとした表情で「ある男の子」を取り囲んでいた。
「――今の音、すごく春らしくていい響きだったよ。君、ブレスの使い方がとても丁寧だね」
柔らかな、けれど芯のある声。
そこにいたのは、二年生になった**響くん**だった。
少し長めの前髪を揺らし、困ったような、けれど拒絶を感じさせない絶妙な距離感の笑顔を浮かべている。彼がホルンを構え、マウスピースを唇に当てるだけで、周囲の空気が一変するのがわかった。
「(……相変わらず、無自覚なんだから、響くんは)」
私は苦笑しながら、自分のユーフォニアムを取り出した。響くんの放つオーラは、もはや「部員」の域を超えている。彼がそこにいるだけで、北宇治の音楽室は一流のコンサートホールのような静謐さを纏ってしまうのだ。
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### 癖の強い「ルーキー」たち
そんな「響くんブーム」に沸く吹奏楽部に、今年も一筋縄ではいかない新入生たちがやってきた。
「黄前先輩、よろしくお願いしますね。……私、先輩の音、嫌いじゃないですよ?」
計算高い笑みを浮かべて私に近づいてきたのは、同じユーフォ担当の**久石奏**ちゃん。その瞳には、先輩を敬う気持ちよりも、相手を「査定」するような鋭い知性が光っていて、私は思わず身構えてしまった。
一方で、コントラバスの陰で周囲を拒絶するように黙々と弦を弾いているのは、**月永求**くん。
「……僕は音楽をやりたいだけです。仲良しごっこをするつもりはありません」
その頑なな態度は、かつての麗奈を彷彿とさせたけれど、彼にはそれ以上に深い「何か」への反発があるようだった。
「あーあ。男子がみんな、如月先輩みたいに優しくて、あんなに綺麗な容姿だったら良かったのになー。ねえ、求くんもそう思わない?」
奏ちゃんがわざとらしく溜息をつき、求くんを挑発する。求くんはぴくりとも動かず、低く冷ややかな声で返した。
「……勝手に比較するな。如月先輩は、最初から立っている場所が違う。……それに、愛嬌で音楽が決まるわけじゃない」
「あら、怒らせちゃったかしら?」
奏ちゃんの毒舌と求くんの氷点下の沈黙。その板挟みになり、私は「……やれやれ」と天を仰ぐしかなかった。
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### 響くんの「無自覚な暴力」
放課後の合奏。滝先生が指揮台に立つと、音楽室の温度が一段階下がったような気がした。
「では、基礎合奏から。……如月くん。ホルンの第一音、あなたが全体の色を決めてください」
滝先生の指名に、響くんは「はい」と短く答え、楽器を構えた。
彼が音を出した瞬間。
**――ゾクッ、と私の背筋が震えた。**
それは、単に正確なピッチというだけじゃない。
実音ベースで完璧に調律されたその一音は、音楽室の壁を透過し、空気を物理的に「重く、深く」書き換えてしまった。シュベールト・フィルで大人たちに混じり、マーラーの深淵を覗いてきた少年の音。
奏ちゃんの嘲笑が消え、求くんの拒絶が驚愕に変わり、隣に座る麗奈の瞳には青白い炎が灯った。
響くん本人はといえば、演奏を終えると「……こんな感じで大丈夫ですか、滝先生?」と、いつもの困り眉で微笑んでいる。
「……ええ。素晴らしい。……皆さん、今のが『本物の音』です。自分の音が、彼の響きの中でどう機能すべきか、頭ではなく耳で考えてください」
滝先生の言葉が、新入生たちのプライドを粉々に砕き、同時に「この部活は、ただの青春ごっこではない」という事実を突きつけた。
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### 嵐の前の静けさ
練習後。夕暮れの音楽室で、響くんは一人、窓の外を見つめていた。
「響くん、お疲れ様」
私が声をかけると、彼は少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。
「……久美子ちゃん。僕、また何か『余計なこと』しちゃったかな。新入生の子たち、僕の音を聴いて、なんだか怖がらせちゃったみたいで」
「……それは、響くんの音が凄すぎるからだよ。……でも、大丈夫。それが北宇治の『強さ』になるんだから」
響くんは「そうかなあ」と首を傾げた。
彼の手元には、パリのお父さんから送られてきたばかりの、難解な現代音楽のスコアが握られていた。
黄金の咆哮を宿した少年と、それぞれの「特別」を抱えた私たち。
北宇治高校吹奏楽部の、長く、熱い二度目の夏が、静かに、けれど確実に動き出そうとしていた。
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【第2話:サンフェス、青空に響く凱歌】へ続く