## 第3話:シュヴェフィルの遺産、父からの手紙
サンフェスの熱狂が冷めやらぬまま迎えた六月。梅雨の走りのような湿った空気が、金管楽器のピッチを微妙に狂わせる。私はチューニングを終え、ふと窓際でスマホをじっと見つめている響くんの姿を見つけた。彼はここ北宇治とは別の舞台にて本番を控えていた。
「……また、これか」
放課後の廊下。楽器ケースを担いだ響くんが、スマホの画面を見つめたまま立ち止まっていた。その横顔は、いつもの中性的な柔らかさが消え失せ、彫刻のように硬く、無機質な影を落としている。
私は隣で、思わず足を止めた。
「響くん、どうしたの? またお父さんから?」
響くんは溜息混じりに、画面を私の方へ向けた。そこには、パリにいる実父・如月弦氏からの、血の通わない文字列が並んでいた。
『シュヴェーベルト・フィルの定期演奏会まで残り一週間。送られてきたリハーサル音源を聴いたが、噴飯ものだ。吹奏楽という「ぬるま湯」に浸かったせいで、お前の音からはエッジが消え、和声への奉仕という名の「妥協」が透けて見える。ソロ・ホルンとしての矜持を忘れたか。シュヴェフィルの椅子は、お前の感傷のために用意されているのではない。』
「(……ひどい)」
私は絶句した。響くんは今も、北宇治での活動と並行して、プロ予備軍が集うオーケストラ『シュヴェーベルト・フィル(シュヴェフィル)』の活動を続けている。けれど、北宇治での時間を優先するために首席の座を降りたことが、お父さんには「堕落」と映っているようだった。
「……『音が丸くなった』って言いたいんだろうね、お父さんは」
響くんは自嘲気味に笑った。
「吹奏楽は、みんなで一つの巨大なオルガンになるような楽しさがある。でも、オケのソロ・ホルンは、オーケストラという猛獣を一人で御する狩人でなきゃいけない。お父さんの目には、今の僕が牙を抜かれた飼い犬に見えてるんだよ」
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### 1. 孤高の「狩人」の目
その日の夜。部活の全体練習が終わった後、響くんは一人、特別棟の離れにある練習室に籠もっていた。
私は、明日の合奏の譜面を忘れたことに気づき、事務室へ鍵を借りに行った帰り道、その「音」を耳にした。
**――パァァァァンッ!!**
空気を切り裂くような、鋭利な金属音。
それは、北宇治の合奏で聴く、あの包容力のある黄金の響きとは似ても似つかないものだった。
シュヴェフィルの定期演奏会で彼が吹くという、難解な現代曲のソロ・パッセージ。
一音一音が独立した刃物のように研ぎ澄まされ、聴く者の鼓膜を容赦なく叩く。
扉の隙間から覗いた響くんの姿に、私は息を呑んだ。
譜面台を凝視する彼の瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、冷たい。
汗が顎を伝い、床に滴り落ちる。けれど、彼は楽器を下ろさない。
父・弦氏が求める「圧倒的な個」という化け物を、自分の中に無理やり飼い慣らそうとしているようだった。
「……久美子ちゃん。見てないで、入ってきなよ」
音が止まった。響くんは楽器を膝に置き、大きく肩で息をついている。
その笑顔は、いつもの困り眉のそれではなく、ひどく疲れ切った、ボロボロの少年のものだった。
「……ごめん。邪魔しちゃった」
「ううん。……今の、聴いた? ひどい音だよね。お父さんの言う通り、僕、自分の音が分からなくなっちゃったみたいだ」
響くんは、震える指先でマウスピースを弄んだ。
「シュヴェフィルの連中はみんな、僕が首席を降りたことを『逃げた』と思ってる。そこに、お父さんからのあのアドバイスだ。……僕が北宇治で選んだ時間は、間違いだったのかな。……こんな中途半端な音で、来週のオケの本番に立てるわけがない」
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### 2. 「響くん」の音を求めて
私は、静かに響くんの隣に座った。
部屋には、使い込まれたホルンのオイルの匂いと、張り詰めた緊張感が充満している。
「……私は、音楽の難しいことは分からないよ」
私は、自分のユーフォニアムのベルに手を置いた。
「でも、響くんが北宇治に来てから、私たちの音は確実に変わったんだよ。それは響くんが『凄い人』だからだけじゃなくて、響くんが私たちの音を聴いて、それに寄り添ってくれたからだと思う」
響くんが、ゆっくりとこちらを向く。
「お父さんは『音が丸くなった』って言うかもしれない。……でも、それは響くんが一人で吹くのをやめて、誰かと一緒に響き合うことを選んだ証拠なんじゃないかな。……私は、尖った刃物みたいな音より、今の響くんの、温かくて、でも芯が通った黄金の音が大好きだよ。……それって、オケでも同じじゃないの?」
「……オケでも、同じ?」
「うん。……オケだって、一人で吹いてるわけじゃないでしょ? 響くんが北宇治で見つけた『仲間と響き合う喜び』を、そのままシュヴェフィルに持っていけばいいんだよ。……お父さんの基準じゃなくて、響くん自身の基準で吹いてほしいな」
私は、あえて明るく笑ってみせた。
響くんはしばらく黙っていたけれど、やがて、憑き物が落ちたようにふっと表情を緩めた。
「……あはは。久美子ちゃんは、本当に不思議な人だね。……僕が一人で勝手に作り上げてた『如月弦の息子』っていう壁を、そんなに簡単に壊しちゃうんだから」
響くんは、机の上に置かれたシュヴェフィルの重苦しいスコアを一度閉じ、それから深呼吸をして、もう一度開き直した。
「……よし。お父さんには、本番の録音を送って復讐してやるよ。『これが僕の、北宇治で見つけた音だ』ってね」
いつもの、悪戯っぽい笑顔。
窓の外、宇治の夜空には冬の名残の星が輝いていたけれど、練習室の中に満ちた空気は、春を呼ぶような柔らかな予感に包まれていた。
「……久美子ちゃん。もう一回、ソロの冒頭だけ聴いてくれる? 今度は、君に届くように吹くから」
「うん。……喜んで」
響くんが楽器を構える。
再び放たれたその一音は、先ほどまでの冷徹な刃ではなかった。
孤独な狩人の目の中に、北宇治の仲間たちと過ごした賑やかな放課後の光が宿っている――そんな、世界で一番贅沢な黄金の音が、夜の校舎に静かに響き渡った。
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【第4話:オーディション、残酷な選別】へ続く